水のあやかし
私としてはちょっと異色の作品です。
よろしくお願いします。
序
人の魂を持たぬあやかしが、人に為りたいとの話は、昔からよく聞きます。
この話も、ある女のあやかしが人と契り魂を得て、人として生きたい、と願う物語で御座います。
ですが、あやかしの方では掟があり、人の方でも突如の事情があり、中々上手く行かないものです。
さて、このあやかしは、念願の人の魂を得て、人として幸せに生きたのでしょうか?
それでは一席お付き合い願います。
一
文政の中頃。
江戸は下谷に腕の良い桶職人がいた。
名前は与吉。
与吉の作る桶は十年、いや二十年は使える、と評判の桶。
仕事一筋の与吉は妻帯もせず、朝早くから日が暮れるまで、桶を作ることに精を出し、其れを生き甲斐としていた男であった。
与吉に言い寄る女も居ないことは無かったが、与吉の方で「今は未だ最高のものを目指す身。妻を娶り子を為すことなんて出来ねぇ」と断る。
「なんだい、あの桶のことしかない男は、そんなに桶が好きなら、桶を娶ればいいじゃないか」
周囲から与吉はそんな一種の奇人の様に見られていた。
「俺が桶を作るのは、無論仕事として誇りを持っているからだが、あの時のことが遭って以来、もう最高の桶を作ることだけしか、俺の頭の中にはねぇんだよ」
与吉は修行時代の若き日を思い出す。
二
「与吉ィ! 仕事が終わったら、水辺で道具と出来た桶を洗っとけィ!」
親方が与吉に怒鳴る。
与吉は十代の後半。
未だ修行中の与吉は桶を作ることを許されず、親方が作るのをじっと見て、其の遣り方を覚える段階。
兄弟子である親方の息子の権六が、こっそりと作り方を教えてくれていた。
「与吉、お前さんは才があるぜ。うかうかしてるとお前が跡取りに為るかもな」
そう言って権六は笑顔で与吉に教えていた。
ある夏の夕。
与吉は仕事が終わり、道具と親方が作った桶を近くの水辺で洗っていた。
「すげぇや、この親方の作った桶。まったく水が漏れねぇじゃあねぇか」
桶に水を入れて、両手で上げると底や側面から一滴も水が零れない。
「俺も何時かこの様な桶が作れるようになるぞ!」
すると、水辺の上にふわりと佇んだ者が、与吉の目に入る。
「……!」
仰天する与吉は親方の桶を落として壊しそうになるも、如何にか堪えて下に置き、改めて水辺の上に浮かぶ人物を見入る。
若い女性だ。
白の寝間着姿で真夏だと云うのに雪女を思わせる白い肌。
髪は結わずに長く垂れさがっている。
夕のこともあり、日の光で髪は金色に輝いている様にも見えた。
血の気が引いたような其の顔は、然し驚く程に美しく、与吉は女の湖水の様に光る青緑の瞳を見つめたまま。
「……若しあなたが独り立ちして、立派な職人と為りましたら、この私を嫁として迎えて下さい」
余りの出来事に動揺する与吉であったが、女の完全な美しさに酔いしれた与吉は承諾する。
「分かりました。必ずや江戸で一番の桶職人に為って、あなたを嫁に迎え入れます」
「……そう為った時に、私は再びあなたの元へ現れるでしょう」
すると、女は霧散する様に徐々に薄れ、其の姿は水辺上から完全に消えてしまった。
三
「俺は江戸で一番の桶職人だと自負しているが、未だなのか!」
親方の処から暖簾分けをし、独立してから十年以上。
弟子を取らぬ与吉は修行時代と同じく、仕事終わりには近くの水辺で、道具と出来上がった桶を洗うのが常である。
修業時代と同じく水を満々に入れた桶を翳す。
底からも側面からも水は一滴も零れない。
「親方と、いや、もう亡くなった親方には失礼だが、これはもう親方の桶より見事な出来栄えだ! 何故あの時の女は何時まで経っても俺の元に現れない?」
与吉はもう四十近く。
道具も研ぎ洗い終え、与吉は仕事場兼家へと帰るのであった。
こうして内心では江戸で一番の桶職人との自負を持っていた与吉。
ある夜に与吉は奇妙な寝苦しさを覚えた。
頭の中で「与吉さん、与吉さん」と自分を呼ぶ声がする。
がばっ、と起きた与吉は、家を飛び出し、何かに取り付かれた様に道具や桶を洗うあの水辺を目指す。
夜のことではあるが、闇夜の月は余りにも強く輝き、星々に至っては提灯など要らぬ程に煌めいている。
水辺の上にはあの時の女性が居た。
当時と全く変わらない姿。
女が口を開く。
「与吉さん、私を嫁にしてくれますか?」
「ずっと待っていました! はいっ、如何か私と夫婦に為って下さい!」
女の垂れ下がった長い髪は、月の光の様に金色に輝いていたが、水辺から与吉へ歩く様に近づくに連れ、髪は黒く為り、しっかりと結われていた。
「与吉さん……!」
与吉の胸に女は抱きつく。
与吉はずっと思っていたことを述べる。
「そう云えば、あなたの名は?」
「私の名は『波』です」
「お波さん、いやお波。これからはずっと俺と一緒に暮らそう」
四
二人だけのささやかな祝言を挙げて、与吉はお波と新たな生活をする。
だが、与吉の遣ることは変わらない。
朝から夕まで桶作り。
だが、異なるのは休息時に妻のお波と談笑することであった。
ある日、お波は与吉にこう忠告した。
「若し、あなたが他の女性に目移りしたら、私は元の世界へと戻る掟を課せられています。そしてあなたもこの世界へお連れしますので、もうこの様に桶作りは出来なく為ります」
「馬鹿だなぁ。俺が他の女に手を出すなんてしねぇよ」
それにしても「元の世界」とは何だろう?
お波の故郷だろうか、と思う与吉であった。
与吉の周囲では、桶作りしか興味が無い彼が、何処からか妻を娶っているのに驚く。
何より大層美人だと大いに話題と為る。
与吉の桶は益々完成度が高く為り、評判を聞きつけた遠方からも客が来る状態。
お波が主に売りさばくのを担当するので、美人の女将さんだと、更なる評判を呼ぶ。
そんな忙しくも幸せな日々を送る与吉とお波だが、ある日与吉の仕事場兼家に連絡の遣いが来る。
与吉が修行した桶屋からだ。
「何だって? 権六兄さんが体調不良で跡継ぎが居ないから、店を畳んじまうだと!?」
権六。親方の実の息子。与吉の兄弟子で駆け出しの与吉を色々と面倒見てくれた恩人。
親方は数年前に亡くなっているので跡を継いでいる。
権六には十八・九の娘が一人居るだけ。
無論、弟子はいるが、其の中から桶屋を任せられる者は居ない。
「ちょっくら、兄さんの見舞いに行ってくらぁ」
与吉は神田にある修行先に一旦戻った。
五
「おぅ、与吉か。見ての通りこのざまよ」
布団の中で半身を起こした権六は、ゴホゴホと咳をして与吉に力無く言う。
「与吉、お前さんはそう云えば、ずっと独り身だと聞いていた。如何でぇ、俺の娘を貰ってこの店を継いでくれねぇか?」
「兄さん、済まねぇ。俺はついちょっとばかり前に嫁を貰ったんだ。其れは出来ねぇ」
「……そうか」
其処へ、権六の娘が父の看病に現れた。
お波とはまた違った美人。
与吉も思わず其の美しさと父を看病する健気さに心打たれる。
「与吉、覚えているか? 俺の娘の『お鈴』よ」
「お鈴です。与吉様、お久しぶりで御座います」
お鈴にじっと見つめられる与吉は鼓動が高鳴る。
最後に会ったのは、親方の葬儀の時。
あの時のあどけない娘がこれ程までに美しく育つとは。
お波に会うまで殆ど女人と関わらない生活を長く送っていた与吉。
立て続けに美しく若い女性が目の前に現れたので、免疫の無い彼は一瞬お鈴に心を奪われかけ「いかん!」と心中呟く。
「若し、あなたが他の女性に目移りしたら、私は元の世界へと戻る掟を課せられています」
与吉の頭の中に妻のお波の忠告の言葉が響く。
与吉は唸ると、兄弟子に提案をした。
「兄さん、一旦俺は戻ります。そして、再び遣って来て、此処の職人たちを鍛えまさぁ。一人くらいなら、この桶屋を継げる人物を育て上げます。其の者に跡を継がせると云うのは如何でしょう?」
咳き込む権六は承諾し、「但し半年以内だぞ」と注文を付ける。
六
「すまねぇ、お波。俺を一人前にさせて貰った恩のある処だ。半年ばかり此処を出て行く。金のことなら定期的に送るから我慢してくれねぇか?」
与吉の言葉にお波は静かに頷く。
其の時、お波の瞳が湖水の様な青緑に光ったのを与吉は感じ、ぞくりとする。
早速修行場所の神田の桶屋に再び遣って来た与吉は、権六の二人の弟子たちを鍛える。
其れだけでなく、自身でも桶を作り、権六の妻と娘のお鈴が売りさばく。
お波に送る生活費と、此処の生活費は問題なかったが、肝心の弟子たちの腕が上がらない。
与吉が居なくなれば、忽ち困窮だ。
「まいったな……。考えてみりゃ、俺は弟子を取って教えたことが無かった。其処を失念していたぜ」
職人としての腕と其れを教える才は異なるものらしい。
お鈴が与吉に何か言いたそうであった。
与吉は促す。
「あの、与吉様は正確な動作が早すぎるのです。もう少し遅くして教えて挙げれば、お弟子さんたちも付いて行けると思います」
「成程、そう云うものか。権六兄さんはそう教えてたんだな。ありがとうよ、お鈴さん」
確かにこうして弟子たちの腕は上がって行ったが、二人ともこの神田の桶屋の屋号を継げる程の腕前には為らなかった。
そして、約束の半年。
「兄さん、済まねぇ。俺の不甲斐なさで誰一人兄さんの跡を継げる奴を育て上げられなかった」
この半年で権六の病状はかなり進み、もってあとひと月か。
「与吉、頼む。お鈴を一緒に為ってこの店を継いでくれ……」
まるで遺言の様に言うと、権六は伏して、ぜいぜいと苦しそうな呼吸をするのみ。
お鈴が如何にか父に薬を飲ませる。
「……このまま俺が帰ったら、この薬も買えず、一家は困窮するのみ。お波には悪いが俺は此処を一時期継ぐべきなのだろう。お波には『元の世界』なる帰る場所があるから、其処へ一旦帰ることを勧めよう」
七
「……と云う訳で、お波。すまないが俺はお前と共に暫く暮らせない。故郷へ戻ってくれないか? 俺は世話に為った兄さんの家を一時期継ぐ。どれ位掛かるか分からないが、跡を継げる者を育て上げたら、又共に暮らそう」
「其の話。確かなのですね」
与吉はお波を見て、ぞくりとする。
お波の顔は血の気が完全に引け、まるで魂が抜けた様な青白い顔付き。
処が、息を呑む程に美しく、其れがこの世のものとは思えぬ恐ろしさを与吉に与える。
翌日。
与吉が自分の仕事場兼家で目が覚めると、お波の姿は何処にも見当たらなかった。
こうして与吉は権六の処へと再び赴く。
戻ってから、十日としない内に権六は病で亡くなってしまった。
葬儀を終え、与吉は事実上の後継ぎとして、桶を作り、二人の弟子を指導する。
休息時には、父を亡くしたばかりのお鈴を励ます様に、彼女と会話をすることしばしばである。
お鈴は与吉とのこの会話で、父を亡くした悲しみが和らぐのを感じる。
「与吉様、ずっと此方へ居て大丈夫なんですか? 与吉様のお店の方は? 其れに奥方が居られると聞きましたが」
「いや、俺の仕事場は半ば畳んだよ。妻はそんな俺に愛想を尽かして故郷へと帰った……」
権六の妻。つまりお鈴の母親がこれを近くで聞いていて、言葉を挟む。
「与吉さん、そう云うことなら、お鈴を貰ってくれないかねぇ。誰かが此処を継げる様に為ったら、あんたの元の仕事場へ二人で戻ってもいいですよ」
これを聞いたお鈴は恥ずかしさで顔を下に向け、其のお鈴の様子を見た与吉も思わず慌ててしまう。
「姉さん、権六兄さんが亡くなって、未だそんな経って無いのに、其れは勘弁してくだせぇ」
だが、半年、一年と経つと、ある一人の弟子が如何にかこの桶屋の跡を継げる腕前に為り、お鈴の母親は改めて与吉にお鈴との婚姻を懇請する。
「分かりやした。吉日を選んでお鈴さんと一緒に為ります。お鈴さん、宜しいでしょうか」
「はい、与吉様……」
「夫婦だぜ、与吉でいいぜ」
「はい、与吉……さん」
八
こうして与吉とお鈴の結婚式が行われる。
この桶屋の家の一番広い部屋で仲人を呼び、豪勢なご馳走と酒が並べられる。
出席者はお鈴の母親、二人の弟子、数名の近所の者たち。
お鈴は白無垢、与吉も立派な裃を纏い、三三九度の盃を交わす。
与吉が最後の三度目の盃を手にした時、この部屋に女が現れた。
「お、お波……!」
白の寝間着姿で美しい白磁の顔。
長く垂れさがった髪は金色に輝き、両の瞳は湖水の青緑に光っている。
何より驚くべきは、何処か生気と云うものが感じられず、其の姿は半ば透けており、両の脚に至っては殆ど見えない。
そう、この場で「お波」が見えているのは与吉だけの様であった。
「与吉さん、あなたを私の世界へ連れて行きます。約束を違えたからです」
お波の声も周囲には聞こえていない。
お波は其の白いやや透けた両手を与吉の顔に当てる。
与吉は其の冷たさに驚愕するが、完全に自身の意志で身を動かすことが出来ない。
お波の唇が与吉の唇に当てられると、与吉はどざりと倒れる。
「キャアアアァァァ!」
室内の人々は驚くばかり。
盃を落とし、倒れ伏した与吉は、もうこの世の者では無かった。
末
与吉の急死から数か月。
結局、神田の桶屋は跡取りと為った弟子の一人が、お鈴を娶り、店の存続は守られました。
もう一人の弟子は、独り立ちして与吉が仕事場にしていた下谷に移ります。
この下谷で与吉の桶屋を継いだ者は、仕事終わりには、嘗ての与吉の様に近くの水辺で道具と出来上がった桶を洗うのが常。
そんなある仕事終わりの夕。
この男は水辺で以下の現象を見たそうです。
其れは何とも美しい白の寝間着姿の若い女性と、与吉の親方にそっくりな男が水辺の上に浮き、幸せそうに抱き合っていたが、暫くすると、両者は霧散する様に徐々に薄れ、共に水辺上から完全に消えてしまった、とのことです。
他にも同種の現象をこの水辺上で見た者も居たらしく、後々にこの怪奇は「水のあやかし」と呼ばれる様に為りました。
水のあやかし 了
悲劇的な恋愛もので、かつ幻想的なものにチャレンジしてみました。
ちなみにこの作品の投稿日時のちょうど5年前の作品が、私のなろうにおけるデビュー作となっています。
【読んで下さった方へ】
・レビュー、ブクマされると大変うれしいです。お星さまは一つでも、ないよりかはうれしいです(もちろん「いいね」も)。
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・誤字脱字や表現のおかしなところの指摘も歓迎です。
・下のリンクには今まで書いたものをシリーズとしてまとめていますので、お時間がある方はご一読よろしくお願いいたします。