第1章 マスクを外せない日常
マスクの着用が「個人の判断に任される」という国の方針が出てから、もう数年が経つ。
大学でも同じように、マスクをするかどうかは自由になった。
講義中もキャンパス内でも、マスクを外している学生の方が今では多い。
マスクをしていても、それは“肌荒れ隠し”や“すっぴん隠し”といった、どこか軽い理由になりつつある。
それでも、美咲は、ずっとマスクを外せずにいた。
「そのマスク、ちょっとピンクがかってて可愛いね。どこのやつ?」
講義前、隣の席に座った女子が、何気なく声をかけてくる。
言葉に含みはなく、ただ気になったことを口にしただけのようだった。
「ネットで買ったやつ。形が顔に合ってて……」
答えながら、美咲はマスクの端を少し直す。
頬までしっかり隠れる大きめサイズ。
“血色マスク”と呼ばれる、ほんのりピンクがかった白い立体マスクだ。
「私、最近もうマスク手放せなくてさー。なんかラクだよね、顔隠れるし」
「……うん、わかる」
美咲は短く相づちを返す。
朝、寝坊したときも、肌の調子が悪いときも、メイクをサボりたい日も。
マスクがあると助かるのは、たしかにそう。
“肌荒れ隠し”や“すっぴん隠し”という理由も、もっともらしい言い訳にはなる。
でも本当は、それだけじゃない。
顔そのものに自信がないのだ。
笑い方も、口元も、なにか“変に見える”気がして、誰にも見られたくなかった。
マスクは、隠すための便利な布であり、心の壁でもあった。
講義後、構内のベンチに座ってスマホをいじっていると、
グループで撮った写真がタイムラインに流れてきた。
「このときのカフェ、また行きたいね〜」
そうコメントされた写真の中、美咲だけがマスクをつけたままだった。
「今日、暑いね。マスクしてると余計に熱こもるでしょ?」
通りすがりに友人が声をかけてきた。
何気ない気遣い。それだけのはずなのに、心の奥が少し揺れた。
「うん、大丈夫。慣れてるし」
美咲は笑って返した。
けれど、その笑顔には、どこか曇った心が透けて見えるようだった。