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ーNo titleー  作者: 一ニ三
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深緑(後)

 ようやく自分の仕事にひと段落がつき、溝呂木は美剣の病室を訪ねる。表向きは代わりにやっている仕事の確認だが、今回の事について嫌味の一つでも言ってやるつもりでいた。

 隣の待機部屋からは医官が神妙な顔でコチラを睨んでいる。月歌の伝言なのか溝呂木の事を要注意人物として目を光らせているのだろう。

 美剣の顔色は昨日に比べて幾分か良くなっていた。暇を紛らわせる為に用意されたタブレットからは、今流行りのデスゲーム物のドラマが流れている。

「全部お前の望む通りだ。これで満足か?」

「・・・そんなキレんなよ。収まるところに収まっただけだろ?」

「これ以上、漁火君の仕事を増やしてやるな」

「西宮愛夢に会う事は、漁火にとっても癒しになってるんだよ。出来るならオレが変わってやりたいくらいだ」

「彼女が高校生でいるうちは、お前の接触禁止は解かれないと思え」

「ケチ野郎!てか病人に仕事やらせんじゃねえよ!」

 文句を言いながらも美剣は書類の束に目を通していく。肩が痛むのか表情が時折り歪む。

「お前の汚いサインはいらない。旭夏君がタブレットで指紋押印出来るようにしてくれた。今回はそれで良いと上からの許可も貰っている」

「そりゃあ、どうも」

「ザッと目を通して訂正が必要な書類だけ僕に渡せ」

「おお!楽でいいわ〜!」

 病室に聞こえるのは美剣が紙を捲る音だけだった。

 言いたい事は山程にある筈なのに言葉が出ない。

「最近ずっと追弔が上手くいってたからさ。ちょっと驕ってた、スマン」

「上手くやれなければ日本は終わる。だから全員で必死にやってる。それだけだろ?そんな場所に女の子を放り込もうとしているヤツの気が知れない」

「もしアイツがLETに入っても、オレが生きている限りは前には出さない。これからは、あんなヘマはしない。オレが全力でアイツを守る。お前らの事もだ」

「・・・あの子は此処に入らないんだよ!どんな生き方だって追弔なんかよりずっとマシだ!アスピオンと戦う覚悟があるのなら、他の何でも出来る筈だ!それは追弔なんかよりも、楽で簡単な道だろ?」

「お前・・・それを四年前の自分にも言えるのかよ?」

 美剣の言葉に溝呂木の心臓はビクリと跳ねる。

 その問いの答えは、否だった。

「・・・話をすり替えるな。彼女は僕とは違う」

「当たり前だろ?西宮愛夢は可愛いけど、お前は猫被りエセ紳士だかんな」

「似ているの意味、分かってるか?」

「目が似てるんだよ。何もかも諦めたような顔してた四年前の誰かさんと。だから、アイツの生きにくさはオレよりお前の方が理解してやれるかなって」

 その言葉の意味も理由も、溝呂木には理解が出来なかった。聞こうとしたが、丁度良いタイミングで漁火が病室の扉をノックし話は頓挫した。

 報告をする前に美剣は漁火を問い詰める。そんな美剣を書類の束で殴り溝呂木は今日の報告を聞く。

【良い顔しちゃって。朝とは大違いじゃない】

 大きな憂いが晴れたのか、漁火は笑顔だった。

「大変有意義な時間でした!行って本当に良かったです!お二人のおかげです!ありがとうございます!」

 昨日、散々に騒いだ挙句に職務を投げ出した男が、今は目の前で満面の笑みを浮かべて立っている。

 その顔に苛立ったのは美剣も同じだった。

「お前を楽しませる為に送り出したんじゃねえよ!」

「楽しかった様で何よりだね。で何しに行ったの?」

 本来の目的であった西宮愛夢の説得は再び先延ばしとなってしまった。

 だが悪びれる様子も無い漁火のたるみきった笑顔が腹立だしく、溝呂木も嫌味を言ってしまう。

「つまり何も進展していないって事だね」

 ぐうの音も出ないのだろう。何も言えなくなった漁火を置いてきぼりに二人は仕事へ戻った。

「オレがやるより完璧だ!逆なら絶対に無理だぞ」

「だろうな」

 美剣にも漁火にも言いたい事はあるが、まずは目の前の事を片付けていくのが先であった。

 現状で西宮愛夢の説得の成功率が一番高いのは漁火なのだから、後は彼に任せるしかない。

【手こずってるみたいだけど漁火ならやれるはずよ】

 だが溝呂木の見込みは外れる事となる。

 理由は二つ。

 漁火が西宮愛夢に特段に弱かった事。

 そして西宮愛夢が漁火よりも頑固で諦めが悪かったからだ。

 仕方なくトライアル雇用という形で採用を承諾したが、これは本当の奥の手であった。

 漁火が最後まで粘ってくれた事は分かっていた。だから今度こそ自分の番だと腹を括る。

【三か月のトライアル期間で音を上げるように仕向けるしかないわね。まぁ女の子が耐えられる仕事じゃないから、自然とそうなるだろうけど】

 万が一、西宮愛夢からの辞職が成されなかった場合は、こちらから退職させればいい。

 どれだけ恨まれる事になろうとも、命よりも大切な物など無いのだから。


 そのチャンスは意外にも早く訪れた。

 日付がクリスマスイヴに変わった瞬間、最高のタイミングで漁火からアスピオン出現の連絡が入る。

 その日は外来生物問題に強く警鐘を鳴らす議員の会合に溝呂木は参加していた。だが会合とは名ばかりであり、実際に行われていたのは欲望が渦巻き利権を奪い合うだけの呑みの席であった。

 そこで一人の中年女性にひつこく絡まれた溝呂木は延々と酒を飲まされていた。その女性は溝呂木を潰しイヴにお持ち帰りしようとしたのだろう。

 なまじ権力が有る相手だから無碍にも出来ずに、爛々と度数の強い酒を注ぎ飲みを強要され、うんざりとしていた。その矢先の呼び出しに、心からの感謝をした。


 河川敷に出現したアスピオンはヌートリアだった。

 とにかく厄介だったのは素早い動きと異常に硬い歯で、トドメに持っていくまでには苦戦した。

 日本固有種は比較的大人しい。だが外来種は違う。アスピオン化して困るのは、明らかに後者であった。

【日本の生き物ですら厄介なのに、外来種くらい政府で何とかしてよね!】

 アルコールを摂取した後で急激に動き回った代償なのか、溝呂木の肝臓は悲鳴を上げた。

 世界が幸せに包まれるクリスマスイヴに溝呂木は二日酔いに悩まされる事となる。

 そんな事情があるとは知らない美剣と漁火が心配の眼差しを向けるが、溝呂木に応える余裕は無かった。


 二人を送り出した後、メールチェックを淡々とこなしていくが、吐き気に頭痛、そして倦怠感により集中は出来ていなかった。

「ちょっと休もう」

 そう呟いた溝呂木は誰もいないミーティングルームのソファに沈んでいく。

 旭夏は帰るまでは仕事部屋から出てくる事はない。

 静かすぎる環境は、溝呂木を眠りの世界へ誘う。


 今こうして過ごしている時間は全てが夢で、今も自分は父の元から逃げられていないのでは。そんな不安からなのか、溝呂木にいつも悪夢を見る。

「お前は私の言う事だけを聞いていればいいんだ!」

「この出来損ないの屑が!せめて私の役に立て!」

「何の為に生まれてきたと思っているんだ!」

「溝呂木家の面汚しめ!」

「無能なだけでなく人間ですらなくなった化け物が」

 夢の中ですら溝呂木は父親に罵られている。

 生まれてからずっと心を傷付けてきた言葉の刃は、今も溝呂木を苦しめる。

 流す涙は遠い昔に枯れた。

 愛を期待する事も二度とない。

 それなのに、この苦痛は今も終わってはくれない。


 普段であればアラーム音がこの悪夢を中断させてくれる。

 だが今日は違った。

 聞いた事のない着信音が溝呂木の眠りを妨げ、悪夢から救い上げてくれた。

 身体をソファから起こすと、汗でじっとりと濡れている。

「あれは・・・漁火の?」

 音の発生源は充電中の漁火のスマホであった。

 かなり長い着信に溝呂木は苛立つ。関係者からの連絡であれば出てやっても良かった。だが画面に表示されている着信元は公衆電話だ。

 溝呂木は着信を無視して仕事を再開する。

 少し休んだからか、微かに二日酔いの症状は緩和していた。

【流石に今日は早めに帰ろう】

 電話の主は諦めてくれたのか再びミーティングルームに静寂が訪れる。

 溝呂木は集中を高め、遅れた分の仕事を取り戻す。

 だが残余の成分解析結果を見ている最中に、その静寂は破られた。

 スタンダードな着信音に溝呂木は跳ね上がるほどに驚く。

「またなの?」

 見ると今度は学校からの着信が表示されていた。

 溝呂木の頭に臼井と通話した時の記憶が蘇る。今、この着信を出たとて、また「お話になりません」と跳ね除けられるだけだと、溝呂木は無視を決め込む。

 だが社会人とは着信音を放ってはおけない悲しい生き物なのであった。

 溝呂木はその着信のあまりのしつこさに折れた。


「大変お待たせいたしました」

 臼井だと思って出た通話の相手は、西宮愛夢だった。驚いた溝呂木は以前に漁火が言っていた事を思い出す。

【スマホを持っていないって言ってたわね】

 漁火の不在を伝えた溝呂木は、まだ自分が名を名乗っていない事に気が付く。

「ああ、申し遅れました。僕は溝呂木と申します。美剣と漁火の同僚です。ですから、貴女の状況も事情も把握しています。ご心配されているような誓約違反に関しては問題はありません」

『もしかして、美剣さんと漁火さんが言っていた怖い人ですか?』

 美剣はともかく漁火にまでそのような事を思われ吹聴されていた事に静かな怒りを覚える。

 西宮愛夢は怯えた声で本題を切り出した。

『いいえ。あの・・・もし書類を・・・はっ・・・汚してしまったら、どうすればいいでしょうか?』

 女子高生の言う汚れなど、お菓子の食べカスが付いたとか、飲み物が飛んだ。どうせそのくらいだろうと溝呂木は思っていた。

「汚れ?程度にもよります。文字が読めるくらいのものであれば問題は無いです」

『あっ・・・じゃあ、もし破れた部分があったら?』

「汚して破損させたんですか?どんな状態ですか?穴が空いたとか、破れたとか具体的に言ってもらえませんか?そうじゃないと、こちらも判断できません」

 いつまでも要領を得ない状況に溝呂木の苛立ちは加速していく。

 普段の自分であったなら、こんな些細な事で女性に腹は立てない。だが今は寝不足な上に、体調も優れず、仕事も溜まっている最悪のタイミングであった。

『・・・破れましたっ!ちゃんと綺麗に読めるように全部を繋げます!そうしたら受理をしてもらえますか?』

 突然の現状報告からの質問に溝呂木の頭は真っ白になる。

 普段のゴミですら細心の注意を払い処分している。それだけではない。LETに属する人間は全員が身を削る思いで秘密保持に努めている。

 それは何年も積み重ねてきた弛まぬ努力の賜物であり、こんなつまらない理由で水の泡にして良い積土成山ではなかった。

 苛立ちに焦りが加わり、溝呂木の語気は強くなる。

「そんな事はどうでもいい!その書類に何人分の人生がかかっていると思っているんだ!?万が一、残った欠片から何かが露呈した場合、芋蔓式に組織は瓦解する!そうなったら日本だけじゃなく、世界中が混乱に落ちいるんだぞ!」

 こんな会話は無意味である事は分かっていた。

 怒っても破られた書類が元に戻る訳でもない。

 今しなければならない事は破損した書類の確認だ。

『分かっています・・・!ちゃんと全部を集められたと思います!確認をしてもらう為に、今からこの書類を持ってそっちへ行きます!』

 いくら美剣や漁火が彼女を褒めようと関係は無い。

 溝呂木の中の西宮愛夢の評価は最悪だった。

 こちらの意図を汲んでくれたような提案にも嫌悪感が勝り断りを入れてしまうほどであった。

「行くって・・・?貴女は部外者です。僕たちの現在の所在地は、お教えできませんし、黙秘させていただきますよ」

『私、知っています!霞ヶ関じゃない方ですよね?』

「はぁっ!?ちょっと待て!何で!?」

 西宮愛夢は溝呂木の静止を聞かずに通話を切った。

【何なのよ!?あの女、ふざけんじゃないわよ!】

 漁火のスマホを叩きつける訳にもいかず溝呂木は怒りを内に留めるしか出来なかった。


 連帯保証人の誓約書に関しては露呈しようが何とでも言い訳は出来る。最も困るのが入隊の書類の方であった。

 給与に報酬、そして莫大な弔慰金が記された雇用契約書類は機密の塊であり、誰に見られても最悪の事態を呼ぶ。

 納税者ならば税金の無駄遣いだと怒り狂う。

 非納税者であっても同じであろう。

 そしてどちらにも共通しているのは、必ず周囲に暴露するであろうという事。

 最終的には炎上どころの騒ぎではなくなる。

 心配で痛む胃は二日酔いの溝呂木の体に会心の一撃を加えた。

「・・・っヤバい!吐きそう・・・」

 溝呂木は慌ててトイレに駆け込む。

 朝から何も口に出来ていない為に吐く物は胃液くらいしかない。ここまで耐えたのは、仲間たちに弱った情けない自分を見せたくないという意地であった。

【メテウスで肉体が強化されるって言うなら、肝臓も強くしなさいよね!】

 トイレの床に膝を着き便器に頭を突っ込む今の自分は、最高に情けない姿をしているだろう。

 だが、そんな自分であっても父親の側で頷くだけだったあの日々よりも、ずっとマシだと思えた。

 生きる方が死ぬよりも辛かったあの日々よりも、弱く惨めな今の方が生きていると実感が出来た。


 フラつく身体を気力で動かし、溝呂木は何とか防衛省の門の前まで辿り着く。

 最初に目に入ったのは、この場に似つかわしくない女子高生の姿。そして見知った丸山の姿だった。

「まさか・・・お嬢さんは─」

 そう言いながら手を伸ばす丸山は、警備員の制服を着ていなければ不審者に間違われていたであろう。

「すみません!その子の応対は僕がします!」

 溝呂木は丸山の言葉を遮る。

 丸山も追弔の犠牲者の一人と言っていい。

 優しく真面目な丸山は部下たちの死を嘆き悲み、退職という形でその責任をとった。

 だからもう丸山は関係者ではない。かと言って部外者だとも言えない微妙な立ち位置であった。

「溝呂木君!?この子は、もしかして・・・!」

 元来の物なのか、錬磨によるものなのか。丸山の勘の良さは衰えてはいなかった。

 既に丸山は西宮愛夢の正体に気付いていた。

「今は何も聞かずに、持ち場へ戻ってくださいませんか?どうかお願いします」

 メテウスを持つ新たな人間が見つかった事を知るのは、政府の人間とフロウティス部隊、それに近しい者だけであった。

 欺瞞だらけの組織を守る術は、秘密を知る者を最小限にする事だった。

 丸山を見送った溝呂木は、改めて西宮愛夢を見る。

 長い髪を下ろしている為に顔はあまり良く見えない。だが紺色のセーラー服の上からセーターを着た女子高生は、あまりに細く薄かった。

 その体は、アスピオンの攻撃が掠っただけでも折れて千切れてしまうのではと思えるほどに弱々しい。

 やはり西宮愛夢を巻き込むべきではない。

 溝呂木の決意は固まっていた。

「あまり聞かれたくはない話なので、ここから少し離れますが構いませんか?」

「はい」

 聞き耳を立てている丸山から離れる為に、二人は横断歩道を渡り道路を挟んだ向かい側へと移動する。

「先程の電話でお話していた書類は?」

「・・・これです」

 書類は一瞥しただけで受理は不可能だと分かる程に破損していた。

 溝呂木は深く息を吐く。

 自分が熱血なつもりは無い。

 だが誠実に自分の仕事をこなし、この書類を用意した人間の為に怒れないほど無頓着なつもりも無い。

 これは漁火に対する冒涜行為にも等しかった。

「ここまで酷い状態だとは思っていませんでした。どうしたら、ここまで杜撰ずさんに扱う事ができるのか理解に苦しみます」

「私の管理が行き届かずに、こんなことになってしまいました。本当に申し訳ありません!」

 どれだけ深く頭を下げられようとも溝呂木は愛夢を許す事は出来なかった。

 細かく破られたのは連帯保証人承諾書類の方だった。心配していた入隊の書類は真横から裂かれている。一先ずはその事に胸を撫で下ろすが、最悪の心象は変わらない。

 美剣も漁火も引導を渡せないのなら自分がやる。

 溝呂木はそう決意し、愛夢を睨みつけた。

「いいえ、いい機会です。これで今回の勧誘のお話は白紙にさせてもらいます」

「・・・はく、し?」

 長い前髪の隙間から見える愛夢の瞳が大輪の花のように大きく開いていく。

「こんなことをする人間を信用できる訳がないでしょう。自分と仲間の命を預けることはおろか、共に働くことすらお断りします」

 おそらく愛夢は神にでも愛されているのだろう。四月一日がどんな画策しようとも、最後には最良の道へ行くように仕向けられいる。

 後は誰かが導くだけでいい。

 そう思えば自分でも驚くほどに冷淡でいられた。

「本当にすみませんでした!どうか新しい書類を頂けないでしょうか?そうしたら今度こそ、こんな事にならないように、ちゃんとしますから!」

 愛夢は尚も図々しく食い下がるが、溝呂木はそれを一蹴する。

「簡単に言わないでもらえますか?あの数枚の書類に懸けられた労力や想いを貴女は知らない。だからこんなに最低な事ができるんだ」

「確かに全部は理解しきれないかもしれません。でも美剣さんと漁火さんが私の為に尽力してくれていたことは分かります。だから私は、絶対に二人の想いに応えたいんです」

「その支離滅裂でご立派な想いは僕から美剣に伝えておきます。今日まで貴女に散々振り回され最後にこの仕打ちをされたとなれば二人とも諦めがつくでしょう」

 誰も渡さなかった引導を溝呂木は愛夢に渡す。

「・・・私、二人に直接謝りたいんです!だから会議が終わるまで待たせてください!」

「いい加減にしてくれませんか?美剣も漁火も本来なら貴女に感けている暇なんて無いんです!これでようやく本来の業務に戻してやれる」

「あっ・・・」

 あの漁火が屈した相手は、思っていたよりもずっと呆気なかった。

 溝呂木は別れの挨拶をして防衛省の中へと戻る。

「私、ここで待っています!美剣さんと漁火さんに謝れるまで!」

 愛夢の叫びは無視をする。

 どうせ、書類の管理すらも出来ない女子高生の言う「待つ」などは、10分かそこら程度だ。

 後は政府の圧力に屈しない大きな企業に斡旋してやれば彼女の人生は守られる。

 心配の色を隠せない丸山が離れた場所にいる愛夢と自分を交互に見てくる。

「適当に帰ると思うので放っておいてください」

 何か言いたそうな丸山を無視して溝呂木は再びトイレに駆け込んだ。


 ミーティングルームに戻った溝呂木は、吐き気と戦いながらバラバラになった書類を復元していく。

 破れた欠片はパズルのピースの様にピッタリとはまり一枚の紙の形となった。

「・・・本当に、全部を集めたのね」

 愛夢は連帯保証人を引き受けてくれる人間を見つけていた。

 つまり彼女は、誰かから人生を託しても良いと思われる程の存在という事だ。

「どっかの誰かさんとは大違いじゃない」

 だが彼女の杜撰さは、その人の人生を救った。

 美剣の心配りを無にして、漁火の誠実さを裏切った。けれど、愛夢は幸せな道を生きて行くのだろう。まるで神がそう定めてくれたかのように。


「お疲れ様です」

 頭上から聞こえた旭夏の声に溝呂木は仕事の手を止めた。

 見ると帰り支度を終えた旭夏が階段を降りてくるところだった。

「お疲れ様、旭夏君」

 旭夏は頭を下げた後、周囲を見渡す。

「定例報告会議は相変わらず長引いているようですね」

 まだ美剣と漁火は戻ってきてはいなかった。

「今頃、似たような嫌味を延々と言われているんだろうね」

「・・・あんな無駄の極みの会議なんて無くしてしまえばいいのに」

「あの人たちは、何処でも同じような事をしているよ。仕事をやっています感を出すのが大好きな人間の集まりだからね」

 そんな人間たちを父親の隣で嫌という程に見てきた。そして父親も同じ穴にいた。

 救うべき者を見ない。自分だけが甘い汁を吸えれば良いと思っている人間の集まりに。

 恩人の母娘のような人々を救いたいと夢に見て政治の道を歩んだ溝呂木は、それを静観してしまった。

 そんな人間に付き従い飼われるしか、今も昔も生きる術はない。

 結局は自分の首輪を持つ人間は、父親からお仲間連中に変わっただけであった。

 だが今は自分の力で生きていける。溝呂木は自分自身でその道を選んだ。

「今日の追弔の規制報告書は交通課へ送っておきました。他に何も無ければ私は帰ります」

「助かったよ、ありがとう。後は大丈夫だから」

 帰ろうとしていた旭夏の動きが突如止まり、視線は机の上にあった書類に釘付けになった。

「ソレ、酷いだろ?例の子のだよ」

「その方・・・大柄な方なんですか?」

「え?かなり細身の子だったけど」

「・・・では足が大きい方なんですね」

 先程会った愛夢は、旭夏の想像とは真逆であった。

「どうしてそんな風に思ったの?」

「あぁ、すみません。外見批判の意図は無いです」

 旭夏が指を差したのは真横に裂かれた入隊の書類だった。

「メテウスで肉体が強化されているとはいえ、女性です。製本された書類を真横に真っ二つ裂くなんて力を誇示したい男性みたいだな、と」

 溝呂木の血の気は一気に引いていく。

 この書類は改竄防止の為の製本されている。数十枚の紙が連なり契印が押されていたが、丁度その部分から引き裂かれている。

 この裂き方は、破こうとしない限り出来ない。確実に書類を受理出来なくさせる為のやり方であった。

 それは、あの細身の愛夢には難しい。

 つまり他の人間がやった可能性もあるのだ。

 漏洩に気を取られた溝呂木には、その事を考えもしなかった。

「それから、この足跡のサイズが男性物と変わらない大きさでしたので」

 続く旭夏の洞察によって疑惑は確信に変わる。

 踏みつけてから真横に裂いたであろう書類は、一目見れば怨恨による犯行だと分かる。

 愛夢には書類を破損させる理由が無い。

 破くくらいなら最初から書かなければいいだけの話なのだから。

 ソレをする人間には薄っすらと心当たりはあった。

【多分、向井の息子ね。無法者だって聞くし、LETに入りたがってたもの】

 そんな事にも気付けない程に困憊し狼狽してしまっていた。

 だが愛夢は糾弾されても何も反論する事も無く、ただ己の非を詫びていた。

 自分も同じ立場ならば、そうしたかもしれない。

 あの場で何を言おうと、言い訳にしか聞こえないのだから。

【そもそも重要な公文書を女子高生に一週間も持たせておく方も悪いわね】

 漁火が愛夢の心変わりを願い提出をギリギリまで引き延ばした事も仇となっていた。

 提出期限当日に漁火が学校に赴きサインを貰えば全ては丸く収まった。

 だが、いつ現れるかも分からないアスピオンの事を考慮し先に書類を持たせていたのだろう。

 愛夢への苛立ちは自身への苛立ちに変わる。

「お顔の色が優れないようですが大丈夫ですか?」

 突然に黙り込んだ溝呂木を心配したのか、旭夏が持っていた鞄からカップタイプのインスタント味噌汁を取り出す。

「お昼の余りで申し訳ありませんが、二日酔いには消化しやすい物を食べた方が良いですよ」

「気付いていたんだ?・・・ごめん」

「呼び出された時に溝呂木さんからアルコールの香りがしたので。師走ですから、そういった席も多い。お疲れ様です」

「頂くよ。ありがとう」

「・・・作り方、分かりますか?」

「・・・バカにしてるの?」

「すみません。前に美剣さんから貰ったカップ麺を、初めて食べたと言っていたのを記憶していたもので」

「もしかして去年の暮れの事?蕎麦かうどん、それから拉麺かを選んだよね。確かにあの日が初めてだったけど、作り方くらいは分かるよ」

 昨年の暮れに追弔を終えた四人は、美剣のストックしていたカップ麺で年越し蕎麦を食べた。溝呂木は蕎麦を食べたが、美剣は「オレはお前よりも太く長く生きる!」といってきつねうどんを食べていた。

 インスタントの類は身体に悪いからと母親に禁止され、それまで一度も食べた事は無かった。

 生まれて初めて食べたインスタント食品は背徳的な味であり今でも時々食べたくはなる。

 だが父親と同様に母親からかけられた呪いの言葉は、今も溝呂木の行動を縛っていた。

 甘い物に関しては過去のトラウマからか、今でも口に含んだだけで吐いてしまう程だ。

「ソレ、必要なければ捨ててくださって結構ですから」

 そう言い旭夏は退勤していった。

 完全に放っておく事もしなければ、特に事情を聞く訳でもない。

 付かず離れずの絶妙な旭夏の距離感が、今は有り難たかった。


 人生初の自分で作ったインスタント味噌汁の味は最高だった。

「あ〜!!美味いー!沁みるー!」

 程良い柔らかさの野菜たちが弱った身体へと沁みていく。自身では気付けなかったが、塩分と水分を欲していたのだろう。

 空っぽの胃がもっと寄越せと催促をし、咀嚼と嚥下が止まらなくなる。

 あっという間にカップは空となり、溝呂木は物足りなさを感じてしまう。

「定例報告会議が終わるまでは待とうと思ったけど、何か買いに行こうかしら」

 味噌汁の栄養素は確実に溝呂木を回復させてくれた。そんな即効性があるのかは分からないが、空腹では回る頭も回らなくなる。

 今日は、それを痛感してしまう一日であった。

 ポケットに入れたスマホが震え、溝呂木の足が止まる。画面には先程帰ったはずの旭夏の名が表示されていた。

「どうしたの?何か忘れ物でもした?」

『余計なお世話かと思ったのですが、雨が降ってきたもので。傘はお持ちですか?』

「わざわざありがとう。タクシーで帰るから平気だよ」

『そうですか。ところで・・・先程の書類は、直接ご本人が持って来られたのでしょうか?』

「そうだよ。怒って突き放しておいたから、もうLETに入りたいなんて言わないと思うよ。・・・でも、強く言い過ぎたから、そこはちょっと可哀想な事をしたなって反省してる」

『・・・いつ頃のお話ですか?』

「1時間くらい前だったかな?」

 旭夏は仕事部屋から殆ど出ないので分からなかったのも頷けた。

『その方、まだいらっしゃるらしいです』

「え?旭夏君の勘違いじゃない?」

『だったらいいのですが。丸山さんが溝呂木さんに連絡をしてくれとせがむもので。それでは、伝えましたので失礼します』

 通話が切られた瞬間、溝呂木はミーティングルームを飛び出し通路とエントランスを抜け正門へと走る。


【嘘でしょ!何で帰ってないのよ!?】

 愛夢は溝呂木と別れた場所から殆ど動いてはいなかった。だがその手には傘が握られており彼女の身体を雨から守ってくれていた。

【良かった・・・濡れてないみたいね】

 溝呂木は急ぎアプリでタクシーを呼び出す。

 変わらず正門前にいた丸山は無言で溝呂木にビニール傘と封筒を差し出してくれた。

 おそらく封筒の中身は入省許可証だ。

 丸山は愛夢を中へ入れてやる用意をしてくれていた。そして向けてくる眼差しは「こんな時間まで女の子を外で放っておくな」と言っていた。


「何で、まだここにいるんですか!?」

 溝呂木の問いに答える愛夢は、青い顔をして震えていた。

 黒色の傘は雨を防いでくれても、寒さからは守ってはくれない。

「えっと・・・美剣さんと漁火さんにちゃんと謝りたくって・・・。それから溝呂木さんにも」

「馬鹿なんですか?唇も指先も真っ青じゃないか!」

 溝呂木は自分の着ていたジャケットを脱いで掛けてやる。自分も寒さは苦手であったが、目の前の女の子が震えるよりはマシだった。

 愛夢は今日の事を詫びるだけで、書類に対しての弁明は一言もしない。

 溝呂木は答え合わせをしなければならなかった。

 愛夢という人間を見極める為に。

「今から聞くことに正直に答えてください。返答によっては先程の話は撤回します」

 その一言で愛夢の瞳には生気が宿ったように見えた。

「はい」

「では質問します。あの書類は貴女が破損させたんですか?それとも別の誰かが?」

「私は破損させていません。目を離した隙に破かれてしまいました。秘匿書類の管理が行き届かず、あんな事になってしまって本当に申し訳ありませんでした」

 愛夢の答えは高校生だとは思えぬほどに完璧だった。美剣を絆し、漁火に太鼓判を押させる少女を溝呂木は見誤った。

 愛夢が見た犯人は、予想通りの人物であった。

 苛立ちからか、治りかけた頭痛が再発する。

「あのっ、向井君は皆さんの事情を知っていると思います。クラスメイトには、そちらの事をヤバい企業と言って濁していました!だからもしも彼に書類を見られていたとしても普通の人よりは安心?・・・かと」

「・・・そうですか」

 今は逆にそのフォローが痛い。

 溝呂木と四月一日の忠告も、向井の息子には何一つ効いていなかった。

「今日のことは完全に確認を怠った僕に落ち度があります。そして間違った認識で貴女を糾弾してしまった。本当に申し訳ございません」

 今も昔も自分はずっと頭を下げる人生だった。

 たとえ自分が悪くなくとも、謝まってさえおけば場は収まる。そうやって打算で頭を下げ続け、悔しいと思う気持ちは次第に死んでいった。

 だが今は本気で心から自分に非があると思えるからこそ、誠心誠意の謝罪が出来た。

「あの・・・学校側が捺印した書類に不備は無かったでしょうか?唯一無事だった書類なんですけど」

「あぁ・・・問題はありませんでした。でも、あんなものは貴女の在学の証明と卒業を保証するだけの書類ですので最悪無くても何とでもなります」

「それを聞いて安心しました。担任の先生が記入漏れを確認したい言っていたので、そう伝えておきます」

 愛夢は溝呂木を責めもしない。それどころか自分を嵌めた人間の心配をするような根っからのお人好しであった。

「このタイミングで、あんな押印するだけの書類に確認ですか・・・。どうやら謀られたようですね」

 向井は偶然書類を見つけて破損させた訳ではない。愛夢に命令して書類を持ち出させた協力者がいるはずだとは思ってはいた。

 それが彼女を守るべき立場の担任だというのは驚きだったが、事前に聞いていた漁火からの情報と照らし合わせれば納得もいった。前日のこのタイミングで、そんな事をさせられるのは教師くらいだ。

 必要書類だけを持ち出せば良かった話ではある。

 確かにそれは愛夢の落ち度かもしれない。だが莫大な違約金が発生するかもしれない秘匿書類の出し入れを最小限にしようとした、そう考えれば書類を一式で持ち出した行動も腑に落ちた。

「謀かられた?もしかして溝呂木さんは、先生が向井君に協力したって思っているんですか?」

「はい。この仕事に就き公僕となるのなら覚えておいてください。権力を持つ者と、それに順ずる者は貴女が思っている以上に卑劣だということを」

 かつてフロウティス部隊に好意的だった官僚は秘密裏に消された。感謝を伝え協力を申し出てくれた議員までもが大きな力に負け政界から姿を消した。

 この国を牛耳る人間は、保身の為であれば何でもする。

 彼女は自らそんな人間に飼われようとしてた。

 今のおめでたい考え方では生きていけはしない。

 だから三ヶ月だけの付き合いだと、溝呂木は割り切る事にする。

「・・・今、この仕事に就くならって聞こえた気がするんですけど、もしかして白紙は撤回ですか?」

「貴女がそうしたいのならそうなりますね。まぁ最初から僕の一存で決めて良い事ではなかったのですが」

「ありがとうございます!私、今度こそ書類を守ります!鍵のかかる場所に保管して、漁火さんに渡すまでは鍵を絶対に開けません!」

 その意気込みは空回りだった。

 入隊書類一式の再発行は、LETの統括を任されている四月一日に話を通さねばならない。

 全ての省庁の業務時間は既に終了しており、今日の手続きは不可能であった。

 溝呂木は愛夢にその事を説明したが、反応は思っていたものと違っていた。

「最終的に皆さんと一緒に働けるのであれば、私は構いません。でも今年中に提出できなかった所為で皆さんがお叱りを受けてしまわないでしょうか?」

 愛夢は怖いほどに聞き分けが良すぎた。

 溝呂木は二人が絆された理由が少しだけ分かってしまった。

 確かに彼女は今時の女の子とは違った。

 これまで美剣と漁火が言っていた事は真実だった。

 だから尚の事、溝呂木は「西宮愛夢はあの日のお前なんだよ」という言葉の真相が知りたかった。

 愛夢は大切な宝物を貰ったかのように入庁許可証を抱く。

 自分の呼んだタクシーが見える所まで近付いてきている。

【もしこの子にとっての学校が、アタシにとっての家のような場所だったら?】

 家と追弔。どちらも地獄ならば、よりマシな地獄を選ぶ。溝呂木はそう思ってLETを選んだ。

 愛夢もそうなのかもしれない。

 その疑問を聞くチャンスは今しかなかった。

「貴女は今までの人生で、死んだ方がマシだと思う事はありましたか?」

 こちらに向かうタクシーは、赤信号で停止する。

 溝呂木は愛夢の顔を見られなかった。

 会ったばかりの女の子にしていい質問ではない。

 分かっているが、他の聞き方が無かった。

 初めて会った男がした突拍子も無い質問にも愛夢は真っ直ぐに答えた。

「・・・美剣さんに出会うまでは、毎日のようにそう思っていました」

 愛夢の答えは肯定だった。

 高校生の死にたいなど若気の至りでしかない。まだその考えが捨てきれない溝呂木は質問を続ける。

「退屈な日常が、そう思わせていたんですか?」

 愛夢はその質問に即答する。

「違います。私は俗に言う底辺の負け組の嫌われ者で何にもできないし、皆んなが当たり前に持っているようなものも、何も持っていなかった。毎日馬鹿にされて嗤われて、その度に、ここからいなくなりたい、消えたい、死にたいって思っていたんです」

 その一言一句に胸が痛んだ。

 自分は椚原聖に勝つ為だけに育てられた。

 だが結局は学生時代も社会人になってからも一度として勝てた事は無い。父親にとって息子は「産んでやった価値の無い屑」だった。

 普通の家族が過ごす温かい時間など、過ごした事は一度も無い。【生まれてこなければ良かった】と思わなかった日は一度も無い。

 帰るべき場所である家は地獄で、唯一の救いである弟の幸せだけを願い今日まで生きてきた。

 西宮愛夢は溝呂木翼と同じ様な傷を抱えていた。

「それを、美剣が変えたんですか?」

 溝呂木は分かっていた。

 この傷は一生消える事はないと。

 だから、せめて"あの日"の自分のように、彼女も救われていてほしいと願ってしまう。

「はい!美剣さんは私を探して会いに来てくれました!褒めて必要としてくれた!諦めるしかないって思っていた私に、なりたい自分になっていいって、何にでもなれるって言ってくれました!自分だって信じられなかった私を、誰よりも信じてくれました!」

 彼女にとっての美剣は救いになっていた。

 かつての溝呂木が欲しかった言葉たちを、美剣は愛夢に与えていた。

「貴女も・・・たった一人の言葉で救われたんですね」

「はい。そんな事かって思われるかもしれないけど、私は美剣さんに救われたんです」

 そんな事などと言える訳がなかった。

 たった一度の出会いが、言葉が、どれほどに心を救ってくれるのかを溝呂木は知っている。

 死んだ様に生きる自分を変えたくて、初めて父親に反抗した。

 そして父親と決別し戦う為に、この道を選んだ。

 彼女のなりたい自分が、どんな人間なのかは分からない。美剣への恩返しのつもりでLETへ入ろうとしているのかもしれない。

 だが、変わろうと思い選んだ答えを、溝呂木は否定したくなかった。

 あの日の自分が止まられなかったように、今の愛夢も絶対に止まらないのだろう。

【確かにこの子は、あの日のアタシね】

 溝呂木は開いたドアから、運転手にタクシーチケットと住所が書かれた紙を渡す。

 寮住まいの愛夢を一刻も早く帰してやるのが大人としての務めであった。

 だが愛夢は一向にタクシーに乗ろうとしない。

「ありがとうございます。今日は色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「それはもういいので、早く乗っていただけますか?」

「えっ?そのタクシー、溝呂木さんが乗るんじゃないんですか?」

 とぼけた回答に溝呂木は溜息すら出なかった。

 印象は最悪な自信はあった。今日は、それだけの事をしてしまったのだから。だがこの状態のままで帰す男だと思われていた事だけは心外であった。

「何を言っているんですか?貴女が乗るに決まっているでしょう。僕の所為でこんな事になってしまったというのに、この暗い中を女性一人で歩かせるわけにはいきません」

 乗る乗らないの問答を繰り返すが、あの漁火を折れさせた愛夢は中々に面倒くさい。

 仕方が無く溝呂木は伝家の宝刀の脅しを使う。

「・・・あまり聞き分けが悪いと、美剣の接触禁止命令が長引くことになりますが?」

「お言葉に甘えさせていただきます!」

 そう言い愛夢は最速の動きでタクシーに乗り込み帰って行った。

 その様は少しだけだが見ていて面白かった。

【本当に本気で美剣の事を慕っているのね】

 自らを律し抑え込こむ事が出来ない人間。それが溝呂木が美剣に抱いている印象であった。

 だが粗雑で乱暴な美剣が二ヶ月も接触禁止を守っている。これには皆が驚いていた。

 愛夢と接している美剣は、溝呂木たちの知っている美剣とは全く違う。

 愛夢の為に美剣は変わった。


「あの子は大丈夫だったかい?」

 そう尋ねる丸山は心配そうな表情を浮かべていた。

「彼女、来た時は傘を持っていませんでした。あの傘は丸山さんが?」

「違う。アレは旭夏君の傘だ」

 溝呂木は驚きで自分の耳を疑う。

 その美貌ゆえに、極力として人と関わらないようにしているあの旭夏が、女性に傘を貸した事が信じられなかった。

「旭夏君は、折りたたみ傘を持っていたよ。安心なさい」

「彼女・・・明日の午後に、また来るそうなので応対をお願いできますか?」

「勿論だ!またあの子に会えるのか。嬉しいなぁ!」

 嬉しそうに笑う丸山は、仏のような顔をしていた。

 かつて「鬼の丸山」と呼ばれていた男は、今は見る影も無い。

 美剣と漁火に続き丸山までもが愛夢に絆された。それだけ三人が単純なのかもしれないが、そこに旭夏までも加わりかけていた。

 そうなってくると、これはもう愛夢の人間としての魅力の成せる技なのだろう。

 あの細く薄い身体の猫背の少女も、かつての自分と同じく死んだ方がマシだと思える戦いの日々を送っている。

【アタシは、あの母娘には胸を張って会えない。けど、あの子は違うんでしょうね】

 ミーティングルームに戻った溝呂木は四月一日に端的にだが状況を説明した。

『分かりました。明日の朝一に書類を用意します。私から西宮愛夢さんにお渡しする許可を頂けますか?』

「いいえ、僕が直接取りに行きます。それよりも、向井議員の連絡先を教えてください。僕は事務所の連絡先しか知らないもので」

 溝呂木の要望の答えとして四月一日の不快な笑い声が聞こえてくる。

『いいえ!ここは私にお任せください!これで向井に貸しを作れる!ようやくアチラ方面に強い人間の弱味が握れる!このチャンスを逃す訳にはいきません!』

 上機嫌な四月一日の声に一気に血の気が引いた。

 上司だが味方でもない。だが敵でもない。そんな四月一日と共通の敵が出来てしまったのだ。

「・・・失礼します」

 溝呂木は通話を切った。向井親子の自業自得を笑えば良いのか、同情をすれば良いのか分からない。

 自分に出来る事は四月一日が自分以外のメンバーと鉢合わせしないようにするだけだった。

「鉢合わせ・・・か」

 頭に浮かぶのは嬉しそうに美剣の事を話す愛夢の顔だった。

「確かアイツの予定は午後からだった筈。上手い事やれば・・・」

 美剣の予定をイジリ帰庁を午後にズラせば、愛夢の来庁時間と重なる。

 決して愛夢に絆された訳ではない。

 だが今日の事の贖罪はしてやりたかった。


「あぁー!疲れたー!」

「何で目を開けたまま寝てた人が疲れてるんですか!」

 溝呂木が目論みに応えるように丁度何も知らない二人がボヤきながら戻ってきた。

「無駄に長い会議、お疲れ様」

 漁火の態度と火災報知器が鳴らなかった事から、定例会議は無事に終わったと推察出来た。

 美剣は上層部の嫌味を寝て耐えたらしい。

 先程あった事を伝えるのは気が引けたが、現物が目の前にあるのは有り難かった。

 破られた書類を見た二人は同時に叫ぶ。

「あり得ねえよ!」

「あり得ません!」

 愛夢の事をよく知らない上に体調も優れない。そこに不測の事態が発生し冷静さを欠いた。

 そんな言い訳が出来る筈もなく溝呂木は今日あった事を淡々と説明していく。

 だが美剣は溝呂木の些細な変化を見逃してくれない。一発くらい殴られても仕方が無いと思えた。

「お前、アイツに何した?何を言った?」

「・・・僕はあの子の為人を知らない。だから、こんな事をする人間の雇用は白紙にすると強い言葉で突き放した。反省はしている」

 だが溝呂木の最大の失敗はそこではない。

「あの子は、外で会議が終わるのをずっと待っていたんだ。最後になるかもしれないから絶対に二人に謝りたいって」

 そんな状態の愛夢を雨が降る寒空の下に1時間以上も放置してしまった事だった。

 大人として、男として、一人の人間として、恥ずべき事をしてしまったのだ。

「・・・クソッ!絶対にあのガキの仕業じゃねぇか!」

 犯人が向井である事など、美剣には分かりきっていた。ミーティングルームを出て行こうとする美剣を溝呂木は追う。

「待て!大人しくしてろ。僕から父親の方に厳重注意しておくから。お前が動くとロクな事にならない」

 美剣は一度火がついてしまうと周りが見えなくなる。そうなる前に落ち着かせる必要があった。

 ここで四月一日の名前を出してしまえば火に油を注いでしまう事になりかねない。

 漁火から愛夢の様子を聞いた美剣の怒りは何とか少し収まってはくれた。

「美剣、お前は月歌さんの所へ行け。今日の分の検査にまだ来ないって怒ってたぞ」

 美剣は年上で大和の妻であった月歌には弱い。その為に小走りで医療ルームへ向かって行った。

「・・・まぁ怒ってるっていうのは嘘なんだけど。呼んでるのは事実だから」

「えっ!?そうなんですか?」

 ようやく邪魔者がいなくなり、溝呂木は覚悟を決める。伝えるべき本題はこれからであった。

「漁火君!」

「はい!」

 何故か漁火は追い詰められた小動物の様な表情をしていた。

「・・・明日、ここに来るから!」

「何がですか?書類ですか?」

 普段は察しの良い漁火も、今日は違っていた。おそらく徹夜が効いているのであろう。

「〜っ違う!あの子が!ここに!書類にサインしに来るんだよ!それを僕が事務局に渡すんだ!」

 ここまで言えば分かるだろうと思ったが尚も漁火は察してはくれない。

「だから!明日は学校へ行く必要は無いから!」

「・・・え?」

「それから!美剣の明日の会合は午前中に変更になったから!昼には終わる!」

「・・・はい」

「あの子も昼にはここに来る!エントランスでサインしてもらえばいいから!」

「分かりました」

「・・・それだけ?」

 ここまで言えば答えを言ったも同然だ。だが漁火は了承の返事をするだけで瞼が段々と下へ下りてくる。

「はい。私が不在の間に、お手数をおかけして申し訳ありませんでした。明日の段取りも了承しました」

 そう言い踵を返す漁火の肩を溝呂木は強く掴んだ。

「何で・・・そんなに察しが悪いのかなぁ!?」

「ひいっ・・・!」

 直接的な明言を避けたにも関わらず結局は口に出す羽目になってしまった。漁火の顔色が青白くなっていくが知った事はない。

「美剣が帰ってくる時に、あの子がエントランスいるようにしろって言ってるんだよ!」

「言ってましたか?・・・でも接触禁止令は?」

「あの子の来庁時間と美剣の帰庁時間が偶然重なるだけだ!僕は見ない!君も見ない!そうだろ?」

 全てを理解した漁火は何も知らずに嬉しそうに笑う。この計画の成功は全て漁火の手腕にかかっている事も知らずに。

「美剣さんがそれを知ったらすごく喜びますよ」

「何言ってるの?言うわけないだろ?君が偶然を装って二人を会えるようにするんだよ。失敗したらそれまでだからね?二度目は無いよ」

「えぇーー!!???」

 可哀想ではあるが、これを実行出来るのは漁火を置いて他にいない。円滑な計画完遂の為には仕方の無い事であった。

「僕は何もしない!邪魔もしないし協力もしない!じゃあね!お疲れ様!」

 驚愕する漁火を置いて溝呂木は帰宅した。

 既に予定の変更の連絡は各所にはしてある。

【漁火なら、どうにでもできるでしょう】

 美剣は西宮愛夢と通話した日から、月歌も驚く程の驚異的な回復を見せていた。

 単純な美剣ならば直接会えただけで普段の十倍は仕事にやる気を出すかもしれない。

 だが、この溝呂木の善意は、次の日に大変な波乱を生む事となってしまった。


 聖なる日であるクリスマスの当日、溝呂木は自身の仕事部屋にいた。

 今年中に片付けておきたい仕事は山のようにある。その為、誰かに構っている暇などは無い。

 朝のうちに四月一日から入隊に必要な書類一式を貰い、漁火に渡した。もう自分の出番は無い筈であった。

 部屋の内線が鳴り溝呂木は受話器を取る。

「はい。溝呂木です」

『こちら丸山だ。お嬢さんの様子はどうだ?』

「・・・ここに彼女はいません。応対には漁火君と美剣が当たっていますので、問題無い筈です」

 エントランスには内線電話は設置されていない。

 その理由は、美剣の怒りを爆発させる適任な場所がエントランスで、そんな場所に電話など置いても取り替える回数が増すばかりだという理由からだ。

 女子供に対しては心配症が発動するのか丸山の声は焦っているようだった。

『お嬢さんは君たちの関係者だろう?不審者の処遇をどうするのか聞いておきたかったんだ』

「不審者?何の話ですか?」

 不穏な単語に溝呂木の仕事の手が止まる。

『お嬢さんから何も聞いていないのか?防衛省の前で四人のゴロツキに拉致されそうになったんだぞ。しかも別の男からも襲撃を受けている』

 拉致と襲撃、その言葉で心臓に嫌な痛みが奔る。

 あの弱々しい愛夢がそんなものに耐えられる筈がない。絶句してしまう溝呂木に丸山は話を続けた。

『丁度、旭夏君が通りかかって、お嬢さんを助けてくれたんだ。間一髪だった』

「旭夏君が・・・」

 それを聞き胸の痛みは少し治る。

 ゴロツキと聞いてすぐに向井が連想された。

『尋問は俺にさせてくれないか?自分たちは金で雇われただけだと騒いでいる。すぐに陥としてやろう』

「よろしくお願いします。必ず雇い主の名前を吐かせてください」

『任せなさい』

 丸山の怒りの程は声だけで分かった。屈強な自衛官達をまとめ上げる立場にあった丸山にすれば、ゴロツキの相手など訓練にすらならない。

【今日は二人の月命日だったわね。まるで皇と大和さんが、あの子を守ってくれてたみたいだわ】

 愛夢は本当に神に愛されているのだろう。

 墓参りの為に早帰りした旭夏が愛夢の危機を救ってくれた。

 受話器を置いた溝呂木は、早足でエントランスへと向かう。ミーティングルームにいた漁火は、そんな事が起こっていたとは知らないのだろう。

「もう少しだけ待ってください、溝呂木さん!」

「悪いけど、こっちは緊急事態なんだ」

 ここまで愛夢を案内した漁火の様子からするに、本当に何ともないのかもしれない。

 丸山が大袈裟に言っているだけなのかもしれない。 

 だが溝呂木は自身の目で愛夢の安否を確かめに行かずにはいられなかった。


 愛夢の瞳が溝呂木へ向く。

 昨日よりも少し髪が乱れている愛夢は、膝を少し擦りむいていた。

【女の子に怪我をさせるなんて最低ね!】

 溝呂木自身ですら忘れていた制服の事を愛夢は詫びる。他に言う事がある筈なのに、愛夢という人間はどこまでも他人を気にする人間であった。

「貴女がゴロツキのような連中から拉致されかけ、さらには暴力を振るわれかけたと連絡を受けました。ソイツらは警備が拘束し警察が事情を聞いています」

 それを聞いた瞬間、愛夢の身体がビクリと跳ねた。目は泳ぎ身体は硬直している。

 それは、父に怒鳴られた自分と同じ反応だと、溝呂木には分かってしまう。

「警備員の方が助けてくれてので、こうして無事にここに来られました。だからもういいんです。そうお伝えください」

 自分に言い聞かせる様にそう言う彼女は全て諦めているようだった。

 混乱はしているが場を収めようとする愛夢の姿が、父に嫌われまいと必死だった自分と重なる。

「その擦り傷はどうしたんですか?昨日はそんな怪我はしてなかったですよね?」

 尋問のようで気は引けたが彼女自身に被害を訴えてもらわねば溝呂木たちは動けない。

 求められたのならば断固として向井親子と戦うつもりでいた。

 だが尚も愛夢は自己で完結を試みる。

「この傷は私が勝手に転んで出来たんです」

 もう向井は引き返せない所まで来ていた。

 愛夢にはそれが理解出来ないのだろう。

「その連中は自分たちは金で雇われただけだと言っているそうです。心当たりがありますよね?」

「ごめんなさい・・・。分からないです」

 報復を恐れているのか、愛夢は何が何でも向井の名を出さない。

「雇った人物が私の想像の通りなら、今日の西宮さんの入隊書類提出を阻止しようとしたのだと思います!西宮さんがお名前を言わなくても見当がつきますよ」

「そうだね。一体どこまでゴロツキ連中に僕たちの情報を流したのか・・・。とにかく、これはもう貴女だけの問題ではありません」

 四月一日の最後通告も届かず、結局は最悪の事態となってしまった。

 もしかすると息子の方が勝手に暴走したのかもしれない。どちらにせよ彼らは四月一日の餌食となる。

「どうするのが正解ですか?私は美剣さんたちと一緒に働けるなら何でも我慢できますから!だから・・・このままで大丈夫です!」

 愛夢が美剣の名を出した事で溝呂木は気付く。激情家の美剣がここまでずっと黙っている事に。

【・・・そういえば、珍しく美剣が静かね?】

 そう思った瞬間、肌に刺す様な熱を感じた。

 エントランスを覆った殺気に、溝呂木は漁火と目を合わせ頷き身構える。

【マズいわね・・・。本気の美剣をアタシと漁火で止められるかしら】

「ぶっっ殺す!!向井のクソガキも!そのクズ共も!お前を傷付けたヤツら全員を消炭にしてやる!!」

 紅炎の獅子の憤怒の咆哮が地下に響く。その叫びを皮切りに室内の温度は一気にはね上がった。


 エントランスはサウナへと変貌した。

 このまま向井を殺しに行くのではないかと思えるほどに美剣は怒り狂う。

「美剣さん!危険ですから落ち着いてください!西宮さんが側にいるんですよ!?」

「おいっ!美剣!お前は何度、火災報知器を鳴らつもりなんだ!?」

 二人の制止の声にも美剣は何の反応も示さない。

 美剣の目は血走り瞳孔は開いていた。こんな状態は初めてであり、ここに旭夏がいたとしても止められる気がしなかった。

【最近は大人しかったから完璧に油断してたわ・・・】

 溝呂木は何とかエレベーターの前を陣取り美剣を食い止める。その隙に漁火はカラスでエレベーターのカード読み取り機を覆う。

「漁火ぃ!邪魔するな!カラスをどけろ!!」

「その命令には従えません!我々は貴方まで失うわけにはいかないんです!」

 美剣が止まる気配は全く無い。

 だが溝呂木も漁火も引けなかった。

 このままでは美剣は外にいる自衛隊員に拘束され最悪の場合は射殺される場合も有り得る。

 もう二度と誰も失う訳にはいかない。

 溝呂木は美剣の体を押し返すが、倍の力で押し戻されてしまう。

【この馬鹿力!やっぱりアタシだけじゃ無理よ!】

 後ろに追いやられた溝呂木の背中にエレベーターの扉が当たる。

「ここまでやられて黙ってられるワケねぇだろ!」

 美剣の怒りに呼応し周囲の温度は上昇していく。

 接触している箇所は燃えるように熱くなっていく。

「・・・っ美剣さーん!!!」

 不快感と息苦しさに似つかわしくない可憐な叫びに美剣の動きが一瞬止まる。

 春の風に吹かれ桜の花が舞うように、愛夢の声はエントランスを吹き抜けていった。

「私は殴られていません!助けてくれた人がいたので、平気です!足は滑って転んだだけなんです!」

 だがそれでも美剣の殺意は止まらない。

「・・・っそれでも!お前は怖い思いをしたんだろう!?今からソイツら全員、生まれてきた事を後悔させるほど焼いてきてやる!」

「怖かった!何をされるんだろうって!帰してもらえなくなって、このまま美剣さんたちに2度会えなくなるんじゃないかって!すっごく、すっごく怖かった!」

 愛夢の言葉に美剣の怒りの形相はさらに深まる。

 溝呂木も美剣ほどではないが同じ思いだった。

 向井がした事は許される事ではない。

 手加減するのであれば一発だけ殴る事を許してしまう。その程度には溝呂木も怒りを覚えていた。

 愛夢の恐怖を思えば足りない程だが、制裁は必ず受けさせるつもりだった。

「殺す!お前にそんな思いをさせたヤツを全員殺す!」

 エレベーターの扉をこじ開けようとする美剣に愛夢は叫び続けた。

「私の所為で美剣さんが誰かを傷付けて悪く言われてしまうのは嫌!その所為で美剣さんと一緒にいられなくなってしまったら、私は絶対に自分を許さない!」

 突然、身体を押す力が弱まり、美剣が振り返る。

 愛夢の大粒の涙は今度こそ美剣の怒りを止めた。

「・・・オレは、お前を絶対に守るって・・・約束した!あの日・・・誓った」

「美剣さん・・・お願い!どこにも行かないで!やっと会えたのに!」

 威嚇で逆立った毛が萎むように、美剣を覆っていた殺気は消えていく。

「悪い溝呂木・・・。もう大丈夫だ」

 ゆっくりと体を離した美剣はフラフラと愛夢の方へと歩いて行く。

「あの状態の美剣さんを鎮めるなんて!」

「もしかして猛獣使いが天職なんじゃないか?」

 溝呂木と漁火は安堵のため息を吐く。

 普段ですら怒れば誰の言う事も聞かない。そんな美剣の本気の怒りを愛夢は涙と言葉だけで沈めた。

「どこにも行っちゃ嫌っ!ここにいて!!」

 愛夢は臆する事も無く美剣の腕の中へ飛び込む。

 先の事で美剣の周辺は危険だと認識はしている筈だった。それでも愛夢は美剣のそばを離れない。

「・・・すまん、もうオレはどこにも行かない。今日は、お前が帰るまでここにいるよ」

 先程の咆哮を発した声帯だとは思えぬほどの優しい声で美剣は愛夢に応える。

 愛夢の方も本気で美剣に心酔していた。

【この年上好きの年下キラーがっ!】

 かつて美剣は夜の街で同伴を土壇場で断られ泣いていた年下のキャバ嬢を救ってやった事があった。

 そこから情が湧いたのか、思い立った日に会いに行き、逆に話を聞いて相談にのってやり、高いボトルを入れて売上に貢献していった。

 そうして美剣は知らぬうちに年下女の心を奪うのだった。そんな良客に本気になってしまった嬢は、美剣に振り向いてもらう為に己を磨いた。

 そうして彼女は今や夜の街では知る人がいない程のNo.1の嬢と成り上がったのだった。

 噂によると美剣は、その嬢から何年も逆プロポーズを受けているらしい。

 これが美剣の面倒な魅力であった。

 そして今は、愛夢がその毒牙にかかっている。

【行きつけの姉キャバを出禁にさせてやろうかしら!】

 向井の事でストレスが限界に達していたのだろう。

 美剣は溝呂木の痛いところを突き絡んでくる。

 自身も行き場の無い怒りを発散させる為、その売られた喧嘩を買う。

 先程までの本気の力で来られていたら、向井より前に溝呂木が命を落としていた。

 どうせ美剣は十分の一の力も出してはいない。肩慣らしの運動くらいのつもりなのだろう。


「すーみませーん!溝呂木さーん!ちょっと、こちらへ来てもらっていいですかー?」

 突如エントランスに漁火の声が響く。

 愛夢と目が合った美剣は気合が入ったのか攻撃を躰道技へ変える。その蹴り技をフラッシュキックでいなし溝呂木は美剣から距離を取った。

 美剣は何としててでも格好をつけたいのだろうが、溝呂木としては、さっさと仕事に戻りたいのが本音であった。

 足元に合った椅子を蹴り飛ばすと、美剣は予想通りの動きでソレを破壊してくれる。アスピオンに知能があったのなら、美剣は常に恰好の餌食だっただろう。

「すみません、この書類の事なんですけど・・・」

 そう言い漁火が見せてきたのは、連帯保証人承諾書類だった。

 それは見る度に過去の嫌な記憶が甦り溝呂木を不快にさせる。

 四月一日が書類を2枚寄越したという事は、絶対に必要だという事。これはもう覆らない。

 幸いにも春日という人物がサインしてくれた書類だけは無事であった。

【この人・・・変わった名前ね】

 美剣は保護者への説得と共にサインを貰ってきた。

 だがそれも今からでは難しい。

 出来る事は、代わりにサインしてくれる人間を探す事であった。

「私なんかを信じてくれる人・・・いない・・・」

 愛夢はそう小さく呟いて唇を噛む。

 そんな愛夢が昔の自分と重なってしまい溝呂木は放ってはおけなかった。

【早く仕事に戻りたいのに・・・!】

「臼井教諭はどうでしょうか?これでは、ここまで頑張った西宮さんがあまりに可哀想です」

 漁火の提案も悪くはない。

 だが、ここで言う保証人とは後ろ楯を意味する。

 その人物が有力者であればある程、愛夢の周囲からの扱いは大きく変わる。

 どうしても臼井では愛夢を守る存在としては弱かった。今後、向井元夫婦が何をしてくるのか分からない以上、抑止力となる存在が必要なのだ。

「寄らば大樹の影・・・か」

 溝呂木には心当たりが一人だけいた。

 向井にも引けを取らず、政府の人間からも一目を置かれる人間が。

 溝呂木は書類を手にその人物の下へ向かった。

 誰の心にも諦めるという選択肢は無かった。


 東京都知事の椚原は、昨日欠席した会議の議事録を確認する為に防衛省を訪れていた。彼は上層階に位置する会議室を丸々一つ貸し与えられる程度には各所で幅を利かせている。

【でもアポも取ってないのよねぇ。会ってくれるかしら?】

 エレベーターを降りた先にある会議室の前には、付き添い人の為のソファが用意されていた。

 そこにはスマホを弄る若い女性が座っている。

 適度に落ち着いた色の髪をシニヨンヘアにし、旬顔メイクを施した如何にも秘書風の女。

 自己顕示欲の強いタイプなのだろう。嫌味にならない程度のさり気ないデザインの高級ブランドの靴やアクセサリーを身を付けている。

【椚原さんにしては珍しいタイプの子を連れてきたわね。多分、どっかのお嬢様の職歴に箔をつける為に頼まれたってトコかしら】

 利用出来そうな相手を瞬時に判断して分析する。

 これは父親の秘書を務めていた時分に身につけた洞察力であり、追弔には何の役にも立たない無駄な能力であった。

「突然すみません。こんな素敵な方が防衛省にいらっしゃるなんて驚きました」

 溝呂木は女の目線の高さに跪く。

「えっ!?あっ・・・私、都知事の秘書をしているんです。ここで待っているように言われていて」

 突然話しかけてきた溝呂木に危機感すら無い。そして中にいる重要人物への配慮も無い。何とも口の軽い秘書は溝呂木を見て頬を赤らめた。

 穏やかな声色に最上級の微笑み。これを向けて堕ちなかった女はいない。

 大嫌いな親から受け継いだ顔も声も利用価値があるから使うだけで、好意を寄せられたとしても嬉しくはなかった。

「椚原さんの秘書の方でしたか。僕は溝呂木と申します。急ぎの用件で参ったのですが、お目通りは難しいでしょうか?」

「すみません。知事には集中したいから誰も入室させるなと言われておりまして・・・」

 お飾りの秘書といえども、言いつけは守れるようだった。だが断られる事も想定済みであった。

「溝呂木が来たと言えば分かる筈です。お声掛けだけでいいんです。お願い出来ませんか?」

「でも・・・すみません。お引き取り願います」

「そうですか、残念だな。こんなに美しい方と出逢わせてくれた椚原さんに、是非とも御礼を言いたかったのですが」

 溝呂木は困ったように笑い髪をかき上げる。

 そして、あえて女の方を見ずに、ゆっくりとエレベーターへ向かって歩き出す。

「あっ・・・」

 逃した肴を大きく感じるように、去る者は追いたくなる。

 女は既に溝呂木の術中にはまっていた。

 心理戦などと呼ぶまでもない。

 溝呂木はあえて数秒待って振り返る。

「・・・すみません。やっぱり貴女と別れるのが名残惜しくて。このまま終わらせたくないんです」

 そっと近づいて来る溝呂木を女は熱を帯びた潤んだ瞳で見つめていた。

 敢えて体には触れない。だが触れたがっているかのように振る舞う。

「お礼をする口実があれば、貴女にまた逢える理由が出来ますよね?だから・・・って、こんなのダメですよね?」

 そう言い悲しげに笑った所で勝負はついた。

「あの、お声掛けだけなら・・・」

 秘書の女は会議室をドアをノックし、恐る恐る中へ入っていった。

【アタシが言うのも何だけど、都知事の秘書がこんなにチョロくて大丈夫なの?】

 ここにSPがいたならば今の手は確実に通用しなかった。椚原は防衛省という日本の守備の要であるこの場所に護衛は必要ないと判断したのだろう。

 むしろ椚原であれば秘書すらも必要無い。

「お会いになるそうです。どうぞ」

 女は期待の眼差しを向けて入室を促す。

「ありがとうございます」

 溝呂木は今日一番の笑顔で会釈をし口パクで「後でね」と伝え会議室の扉を閉めた。


「久しぶりだね、翼君」

 椚原は満面の笑みでヒラヒラと手を振る。彼の圧倒的な魅力が茶目っ気たっぷりなそんな行動をイタく感じさせない。むしろ映像として流したなら、世の女性からの好感度が駄々上がりとなる事だろう。

 切れ長の目に通った鼻筋、清潔にカットされ整えられた口髭は微笑む口元をさらにセクシーにさせていた。そして年の割に鍛え上げられた肉体はイケオジ知事の名に全く恥じていない。

 だが椚原の顔だけの男ではなかった。

 知事になる前の椚原は生きる上で世話にならない人間はいないとさえ言われる日本を代表する大企業、椚原HDホールディングスの代表取締役であった。

 息子にその立場を譲った現在は、相談役と知事を兼任するという化け物も驚くような生活をしている。

 世襲制でありながらも、株主や役員、末端社員から取引先に至るまで誰一人として不満の声を生ませない。椚原赫はそれ程に非の打ち所が無い男なのだ。

 そんな男が東京の知事となってからは、都内は目紛しく変わった。不正や利権など何も無い、全ての人の為の本当の行政で今現在も国を置いてきぼりにしている程であった。

 そんな誰しもに愛される椚原を無碍にする男が一人だけいた。それが溝呂木の父親だ。

 椚原ならば政府官僚と渡り合える。

 彼こそ溝呂木が出せる最強の切り札だった。

「ご無沙汰しております。突然にも関わらず、お時間をとってくださり本当にありがとうございます」

「構わないよ。でもコレを読みながらでもいいかな?LETの資料って外部に持ち出し禁止だから、滞在できるうちに読んでしまいたいんだよ」

 会議室のど真ん中を一人で占領し資料を広げた椚原の視線は手元に戻る。

 そこには会議の資料だけでなく追弔の録画映像やアスピオンの研究資料も存在していた。その全てを速読していく椚原の目は、自分たちと同じメテウスで強化された人間かと錯覚する程に早い。

「かねてより追弔に多大な支援を頂いている事、部隊を代表して心より感謝申し上げます」

 溝呂木は一先ず本題は避け頭を下げる。椚原の手を止め機嫌を損ねる事をしたくなかったからだ。

「アスピオンの事は本来であれば官民一体で取り組まなければならない問題だ。御礼を言う必要は無いよ」

 文字を追う椚原の目は止まらない。

「ですが椚原さんが便宜を図ってくださるからこそ、今日まで迅し密かにを遂行する事が出来ているのは確かです」

「僕は、なるべく早くアスピオンの事を世間に公表した方が良いと思っているんだ。最も優先されるのは市民と君たちの安全。その為の尽力ならば惜しむつもりはないよ」

「確かに公表をした際に人的被害が無ければ、市民の心象は多少なりとも変わりますね。事は椚原さんが知事に就任する前に起こってしまっている訳ですから」

 椚原が言うのはあくまでアスピオンの事に関してだけであり、ASPワクチン問題においては舵を切った政府の人間が責任を持つ事なのだ。

「今現在黙認しているという点では反論のしようもないよ。一応、僕たちに向かう中傷を最小限にする方法は考えてあるから、今は下準備と言った所かな?」

 椚原であれば本当に批判の声を消してしまえそうだと溝呂木は心で苦笑いする。

 自身の父親とは全く違う。統率力と人柄に雲泥の差であった。

「椚原さんが政治に携わり国を統べてくれたなら、全てが上手くいきそうだ・・・」

 そう願っているのは溝呂木だけではないのだろう。実際に出馬すらしていない議員選挙に椚原の名前を書く者がいるくらいだ。

「あの場所は数十人の利己主義な古狸が一人の優秀な善人を潰す場所だ。純粋に好きな場所じゃないんだ。でも君が政治の世界から離れて4年が経っている。あの時から少しずつだけど良い方向に変わっている事も知って欲しい」

 その思いを汲み猛獣の駄洒落の事は黙っておく。

 椚原はいつの間にか大量にある資料を読み終え、真っ直ぐに溝呂木を見ていた。

「大変見やすい資料だったよ。・・・ところで僕に何か頼みがあるんだろう?翼君が直々に来てくれるなんてよっぽどの事だ」

 そう言い椚原は溝呂木に手を差し出す。

 持っていたクリアファイルを見て、ここに来た目的は察していたのだろう。

「必ず椚原さんに、ご迷惑をかけないと誓います」

「保証人契約書、懐かしいね。そういえば増員反対派の人間が騒いでいたけど何かあったのかい?」

「新たにメテウスを持つ人間が見つかった事はご存知かと思います。反対派の人間が雇用契約に必要な保証人を二人に増やしました」

「まだ高校生のお嬢さんだと聞いているよ。本来ならば此方が頭を下げて乞い願う立場だというに、そんな方法で妨害しようだなんて。彼等は君たちに無理矢理に戦ってもらっているという事を分かっていない」

「契約を妨害しようとしている者に嵌められました。今日中にこの契約書類を事務局に提出する為に、どうかお力添えをお願いいたします」

 溝呂木は椚原の人柄に賭けた。これは椚原にとっては何のメリットもない契約なのだ。

「いいよ〜。ところで、その子は可愛い子なの?」

 何とも軽い返事の後に椚原は万年筆を取る。

「え?僕が言うのも何ですが、いいんですか?」

「四年前は、君の保証人の座を聖に取られちゃったからね。君にまた恩を売れるなら安いものさ」

「僕は、まだその貸しに対して何のリターンもしていません」

「それ本気で言ってる?翼君らしいな」

「はぁ・・・。ところで、何故そこで彼女の容姿の話が出てきたのでしょうか?」

「わざわざ色仕掛けを使って苦手意識を持っている僕にお願いに来るくらいだ。相当なんだろうなぁって」

 椚原は千里眼でもあるのではと、冷や汗が出た。

 別に溝呂木は愛夢に絆されてこんな事をしているのではない。ただこのまま向井一家の思う通りになる事が不快だっただけの事だ。

 椚原が勘繰るような感情は何一つ抱いていない。

 ペンが紙の上を走る音がしている間、溝呂木は愛夢の顔を思い出す。

 長く伸ばした前髪で隠れているが目鼻立ちは悪くない。磨けば光るとは思えた。

「・・・まぁ、はい」

「楽しみだな。剣となるのか、盾となるのか」

「彼女の雇用トライアル期間のみです。フロウティスと結ぶ事はおろか、前線に立つ事すらありませんよ」

「その子の事じゃない。君の事だよ、翼君」

 溝呂木を見る椚原の笑みは含みを帯びていた。

「すみません。どういった意味でしょうか?」

「いつか分かるよ。この意味が理解できた時、君とは新しい関係になれそうだ」

 もしも愛夢がフロウティスを手に入れメテウスを自在に使いこなせたのなら、それは確実に溝呂木よりも使える能力であろう。

 手渡された書類には流れる様な字体のサインが書かれていた。

「ありがとうございます」

「君と君が信じる仲間たちも彼女を認めているんだろ?それだけで信じるに値する。是非会ってみたいよ」

「必ず椚原さんのお名前を穢す事のないようにします」

 席を立った椚原は溝呂木の肩を優しく叩く。

「それはもういいから。それよりも自分を安売りするのは止めなさい。あんな手段を使っては、本当に愛する人が出来た時に相手を悲しませる事になるからね」

「・・・はい」

 会議室の扉の厚みは声を通さない。だが椚原はまるで見てきたかのように溝呂木が秘書の女にした事を見抜いていた。

 溝呂木は女性を心から愛した事がない。

 必要な人間であれば利用する為に愛したフリをして付き合い抱く。そして円満に別れるように仕組む。

 今までそうして生きてきた。

 これからも必要に迫られればそうする。

 使える物が己の身ならば安い物だとさえ思えた。

「あの秘書の子は、知り合いの方にどうしても頼まれて短期間だけ雇ったんだ。だから君が恩を売っておく必要は無いよ。今日は彼女がいたから本部ではなく此処で資料を読む羽目になってしまったんだ」

「そうでしたか。ですが御礼の約束を彼女にしてしまったので、後日何か送らせていただきます」

 お飾りの秘書でも出来得る限り仕事を見せてやっているのだろう。車に置いたまま放置しないのが椚原らしかった。

「僕の方からも、そう伝えておくよ。でも、こういった事はこれで最後にしなさい」

「肝に銘じておきます」

 椚原の妻はミスユニバースの日本人優勝者であった。出逢った瞬間に稲妻に撃たれたように互いに恋に落ちたのだと取材で惚気ていたのは有名な話であった。その事が人気に拍車をかける要因となり、今日まで椚原は愛妻家の名を欲しいままにしている。

 仮面夫婦である溝呂木の両親とは全く違う。

 最高の女性を妻に持つ椚原にはハニートラップなど効くはずもない。さらに彼は巨万の富と名声すらも既に手に入れている。

 だから椚原は誰に何をされても屈せずに己を貫ける。そんな彼が敵ではなく味方でいてくれる事に溝呂木は深い安堵を覚えた。

 名残惜しい目をする秘書の女に「急用なので」と別れを告げ溝呂木はエントランスへと向かった。

【今着けてるブランドの春の新作でも先行入手させとけば良いわよね】

 溝呂木は椚原の忠告を守ったつもりだった。

 今日のこの色仕掛けは、後に大きな事件の引き金となってしまうのだった。


 後は書類を渡し愛夢に釘を刺して仕事へ戻るだけ。 

 そう思っていたが、愛夢が放った言葉で場の空気が一気に変わる。

「追弔が大変なお仕事だということは分かっています!でも私の体は研究にも使えるんですよね?いくらでも使って役立ててもらって構いません!これでいいですか?認めてもらう為なら、私の血だって、骨髄だって、何だって差し出します!」

 溝呂木の脳裏に大和の死に顔が浮かぶ。

 美剣と漁火もそうだろう。

 愛夢は大和の事を知らないのだから仕方がない。

 これからも何があったのかなど知る事は無い。

 そう頭で割り切っていても感情は追い付いてくれない。

「西宮愛夢っ!そんな事、オレたち以外には絶対に言うな!」

「西宮さん!そんな事は絶対に言ってはいけません!」

 二人に詰め寄られた愛夢は渋々と返事をした。

 その目には見覚えがあった。

 弟のひかるも両親から理不尽な折檻をされた時に同じ目をしていたから分かる。

 愛夢は納得はしていない。その場しのぎで承諾しただけだ。

 美剣も漁火も可愛いさゆえなのか、注意はしても本気で愛夢を叱りはしない。

 だからこれは、昨日会ったばかりの溝呂木にしか出来ない事なのだ。

 どうせ三ヶ月だけの付き合いだと覚悟を決める。

「覚悟は伝わりました。僕が貴女のLET加入を認める条件は一つです」

 溝呂木はテーブルに置いた記入済みの書類の束を手に取り愛夢を睨み叫ぶ。

「二度と、今の様なふざけた事を言わない事です!本気で誓わないのなら・・・今度は僕がっ、この書類を全て破り捨てるぞっ!!」

 女性に、ましてや高校生である女の子に声を荒げるなんて事は初めてだった。

 溝呂木自身が体験し、その恐ろしさは知っている。こんな恐怖で相手を威圧し屈服させるだけの最悪な行いを、最も嫌いな人間にされてきた。

 だが嫌われても憎まれても、愛夢の先の発言を遂行させるわけにはいかない。

 あの大和が耐えられなかった実験に、愛夢を投じる事だけは阻止しなければならなかった。

「二度と言いませんっ!言わないって誓います!」

 その目と伸びた背筋を見れば、この誓いが心からのものである事は分かる。

 溝呂木は一刻も早くこの場から去りたかった。

「漁火君。書類は、これで全部?」

「はい!全て確認も済んでいます!今すぐにでも提出可能です!」

「そう、ありがとう。事務局への提出は僕が行くよ。かなりの無茶を通しちゃったから、謝罪も兼ねてね」

 溝呂木は罪悪感で愛夢の目を見られなかった。


 案の定、書類を提出して戻ってくると愛夢は泣き腫らした目をしていた。

 自分が泣かせた原因だと分かるからこそ胸が痛む。

「先程、貴女の入隊書類は受理されました。これでもう誰であろうとこの決定を覆す事はできません」

「・・・っありがとうございます!」

 まるで長年の夢が叶ったように愛夢は深く頭を下げた。美剣の喜びの声と拍手が広いエントランスに響き溝呂木の苛立ちに拍車をかけていく。

「美剣・・・お前は、まだここにいたのか?さっさと仕事に戻れよ」

「いいだろ!漁火がコレだから、オレが西宮愛夢の相手してんだよ」

 こういう時は必ず止めに入ってくる漁火が静かなままである事に溝呂木はやっと気付いた。

 見ると漁火はスマホの画面を見つめたまま微動だにしない。だが無表情な虚な瞳をしていも画面を追う目は止まらない。

 それはまるで獲物を捉えた鴉の様であった。

 コレはカラスの能力で情報を窃取している状態であり漁火の意識は電子の海の中にある。

 過去に漁火はその能力をコントロールし切れずに意識が溷濁した事があった。その為に部隊の全員で二度と使わないようにと念押しをしていた。

 だがその能力を何故今使っているのか。

 漁火は私利私欲の為に他人の秘密を暴くような人間ではない。

 理由はきっと目の前にいる愛夢の為なのだろう。

 向井親子は一番敵にまわしてはいけない男を怒らせてしまった。

「漁火君!」

「・・・っあれ?溝呂木さん?お疲れ様です。どうかされましたか?」

 こちらの気も知らずに漁火はキョトンとしていた。

「僕が戻ってきた事にも気付いてなかったのか?頼むからこれ以上無茶な事はしないでほしいな。君はフロウティス部隊の要なんだから」

「すみません、ご心配をおかけしました。索敵とデコイへの注力は怠っていませんので、ご安心ください」

 漁火は何をおいても索敵とデコイを止める事はない。そんな男だから信頼もするが心配もしてしまう。

「そういう意味で言った訳じゃないよ。とりあえず僕に出来る事は全てやったから後の事は君に任せたよ」

「承知しました。いつもありがとうございます」

 きっと漁火は向井親子の弱みを見つけたのだろう。そしてその情報を愛夢を守る為に使う筈であった。

 自分が何もしなくとも漁火は愛夢を守れるのだ。

【最初から漁火に任せておけば、全て上手くいったのかもしれないわね】

 仕事に戻ろうとする溝呂木を愛夢は追ってくる。

 貸した本人ですら忘れていた制服の事を詫びる声は少し怯えを含んでいた。

「分かりました。その事に関してはこれ以上、礼も謝罪も必要ありません」

「お〜怖い怖い!西宮愛夢〜そんな男にそれ以上何も言ってやることないぞ〜!」

 美剣は溝呂木を手で追い払う仕草をした。

 不必要な馴れ合いを避けた溝呂木とは対照的に、美剣はまだ愛夢と一緒にいようとしている。

 だがそれは叶わない。

 溝呂木は美剣の首根っこを掴み奥の自動ドアへと引き摺り歩く。

「何すんだよ!?どうせ接触禁止は終わりなんだろ?」

「お前・・・今日の自分の有り様で、何故その考えに至れるんだ?常識的にも状況的にも、お前はあの子に必要以上に近づくべきじゃない!」

 今は苛烈な美剣の性格に愛夢への庇護欲が合わさり爆発寸前の状態だ。もし今日のような事が再び美剣の耳に入れば、今度こそ誰にも手がつけられない状態になる。そうなる前に打てる手は、これ以上愛夢と美剣を接触させない事だった。

 だが美剣が素直に言う事を聞くわけがなかった。

「何だかんだで会わせてくれたじゃねえかよ!だったら別に今日から禁止令解いたっていいだろ?」

「漁火君が偶々席を外した所に、偶然お前が通りかかっただけだ!例外は今日だけなんだよ!」

「この人でなし!冷酷腹黒猫被り暴君!格好つけ暴力ヒステリック男!せめて別れの挨拶だけはさせてくれよ!」

 確かに美剣の言う通り、別れの挨拶くらいはさせてやるべきだと思えた。

 溝呂木は、足を止め美剣を引きずる手を離す。

「これで貴女との労働契約は成立しました。僕たちは業務に戻りますので、お帰りいただいて構いません。それでは、お疲れ様でした」

 愛夢が本当に話したいのは美剣だ。

 自分を変え救ってくれた恩人に対する思いは、ここにいる誰よりも分かってしまう。

「皆様、お忙しい中にも関わらず沢山のお力添えとお気遣いをくださって、本当にありがとうございました。・・・もしも叶うなら、私も美剣さんにお別れの挨拶がしたいです」

「ご勝手にどうぞ。今生の別れでもあるまいに」

 愛夢の丁寧な礼に溝呂木はわざとぶっきらぼうに答える。許しを得た愛夢は美剣の名を呼んだ。

「美剣さん!」

「西宮愛夢!」

 美剣は愛夢の側に駆け寄ろうとするが、それを許すほど溝呂木は優しくはない。

 これ以上の接近は許さないと、再び美剣の首根っこを掴み物理的距離を取らせた。

「今日は、美剣さんに会えて・・・たくさんお話しもできて・・・本当に嬉しかったです!私、美剣さんと一緒に働けるのが、今からすごく楽しみです!」

「オレもだ!接触禁止が解かれたら、必ずお前を迎えに行く!だから待っててくれ!」

「はい!待っています!私・・・美剣さんが迎えに来てくれるまで、もう我儘は言いません!」

 側から聞けばバカップルの別れのような会話に溝呂木は呆れた。

 愛夢の隣にいる漁火でさえも苦笑いであった。

「今日みたいな事がまたあったら、絶対に言え!何を置いても追弔中でも駆けつけてやる!」

「はい!でも私、もう充分なんです!今日のこの約束と思い出だけで、どんな事でも我慢できます!」

「我慢すんなっ!てかお前オレの連絡先知らねぇんじゃねえか!?ちょっと待て!教えてるから!」

 接触禁止とは何なのか美剣は知らないのだろう。

 抵抗を続ける美剣を引き摺り溝呂木は歩き出す。

「はーなーせー!!みたいじゃなくて正真正銘の邪魔者なんだよ!てかいきなり離しやがって!脳細胞が死んだじゃねぇか!」

「死滅する脳細胞が、まだお前にあったのか?今年一番の驚きだよ」

「年末の今日に新しい気付きを得られて良かったな!」

「世界で一番いらなかった気付きだけどな!」

 したくもない言い争いは愛夢が唐突に放った言葉で終いとなる。

「やっぱり、美剣さんと溝呂木さんは仲良しですね!まるで親友みたいです!」

 その言葉に鳥肌が立ったのは美剣も同じだった。言い争うどころではなくなった二人は同時に叫ぶ。

「んなワケあるか!!」


 ようやくミーティングルームに戻ると体にドッと疲れを感じた。

「何なんだよ、あの子・・・」

「おい!可愛いからって惚れんなよ!?これ以上何かして泣かせたら、ぶっ殺すからな!?」

「起きてるのに寝言を言うな!」

 溝呂木はソファに深く座り項垂れ長い溜息を吐く。それが終わると同時に美剣が口を開いた。

「・・・ありがとうよ」

「何だ突然、気持ち悪いっ!」

「会えたのは偶然って事にしとく。今のは、お前がアイツがココで働く為に協力してくれた事への礼だ」

「分かっているよな?三ヶ月だ。あの子がLETにいるのは、その期間だけだ。その間、お前みたいに問題を起こしたら即時解雇するからな!」

「アイツはそんな事しない。三ヶ月と言わずに三年とかでもいいんじゃね?」

「言っておくが僕は何もしない。お前が責任を持って面倒を見ろよ?」

「猫の子みたいに言うんじゃねぇよ!言われんでも、お前とはもう関わらせんわ!後で仲良くしたいですって泣いても遅いからな!」

「そう言えば目を開けたまま寝られるんだったな。今すぐ閉じさせてやる。そこを動くな」

「上等だ!泣かせた分の落とし前は着けてもらうぞ!」

 第二回戦の幕が開け、二人は睨み合い間合いを取る。広くはあるが遮蔽物の多いミーティングルームでは互いが先手を取りたい。その為に二人が地を蹴るのは同時だった。

「おーい!邪魔するぞー!!」

 張り裂けんばかりの快活な大声に美剣と溝呂木の動きが止まる。

「あれ?丸さんじゃねぇか」

「丸山さん?お疲れ様です」

 大声の主は丸山だった。それぞれは拳と脚を引き丸山を出迎える。彼はいつもの警備服ではなく私服に着替えており手には小さな箱を持っていた。

「溝呂木君に内線が繋がらなくてな!仕事も終わったから直接報告に来たぞ」

 ゴロツキの尋問についての報告に来たとは思えない程に丸山の表情は柔かだった。

 その理由は手に持っている箱なのだろう。

「見てくれ!このケーキ、お嬢さんがくれたんだぞ」

「そうですか。良かったですね」

 丸山にソファを勧め、美剣に退室するように顎で促すが、素直に聞く筈もなかった。

「丸さん!西宮愛夢を助けてくれたんだって?本当にありがとう!・・・んで、クズ共はどこだ?」

 美剣は腕のストレッチを始める。溝呂木も丸山も付き合いが長い分、何をしようとしているのか察した。

「美剣、お前は外れろ」

「俺も、その方が良いと思うぞ。あまり気持ちの良い話ではないしな」

「西宮愛夢に止められてる。何もしねぇよ」

 そう言い切った美剣は丸山の向かいに座る。止めようとする溝呂木を丸山が手で制した。

「美剣君も、お嬢さんを守る為に変わらなければならない。だから信じようじゃないか」

 丸山の真剣な瞳に溝呂木は折れた。

「・・・丸山さんに免じて今日だけは許してやる」

 美剣の隣には座りたくはないので、立ったままで話を聞く。

「お嬢さんを襲ったのは全部で五人、半グレの集まりだ。それぞれ個別に尋問を行った」

 身分証のコピーが机の上に置かれ、美剣はそれを食い入るように見つめていた。

「首謀者の名前は吐きましたか?」

「くにやん、と呼ばれる知人だと言っていた。邦彦と言う名前の高校生だそうだ」

 向井は自分の古風な名を嫌い、仲間内ではあだ名で呼ばせていた。ゴロツキたちは向井の名字を知らないらしく、羽振のいい金ヅルとしか思っていない。

 そんな話を丸山は淡々としていく。

 本題は、ここからだった。

 溝呂木は暖房のスイッチを切る。

「丸さん、コイツらは西宮愛夢を拉致って何をしようとしていた?」

「・・・手込めにして、その写真で脅して弄ぶつもりだったそうだ。一度や二度ではなく、仲間内で飽きるまで何度も永遠に」

 その言葉で室温はジワリと上がっていく。

「・・・美剣」

 退室しろと言いかけた時、突然立ち上がった美剣はウォーターサーバーの冷水を頭にかけ始めた。

 熱により冷水は水蒸気となって消えていく。気化熱など気掠めにもならないだろう。だが美剣は何度も頭に冷水を被り続ける。

 呆気に取られる溝呂木とは違い、丸山は頷き話を続けた。

「俺だけじゃなく、それを聞いていたウチの若いのも黙ってられなかった。血の気の多い連中を黙らせる程度に正々堂々と調教し二度としないように念書も書かせておいた」

 言い聞かせような丸山の言葉に美剣は「納得できるかよっ!」と小さく呟く。

「・・・既に何人か被害者がいるそうだが報復を恐れて誰も被害を訴えていない。我々が事を大きくして傷付く者が増える事は避けたい」

 美剣だけではない。溝呂木も向井とゴロツキに抑えきれない怒りを覚える。

「そういう若者を更生させるのに適任の知り合いにゴロツキを渡した。これで手打ちにしてくれないか?」

 目の前にいる正義感の塊のような丸山も然るべき処置を与えたと耐えている。その証拠に強く握られた彼の手は小さく震えていた。

 だからこそ納得せざるを得ない。

「僕たちが対処するよりも、その方が角が立ちません。ありがとうございました」

「分かったよ!次は無いからな!顔は覚えたぞ!」

「お前がこの短時間で人の顔を覚えられる訳ないだろ。刺青にしておいた方が良いんじゃないか?」

「お前の顔に彫ってやろうか?」

「人を人面瘡みたいにするな!」

 豪快に笑った丸山は「君たちは変わらんなぁ」と言いながらケーキを選び始めた。

 ゴロツキの処理に対する話は、これで終わった。愛夢を陥れた向井と担任の処罰は漁火次第であった。

「胸糞が悪くなる話だ。甘い物でもないとやってられんな」

 嬉しそうにケーキを選ぶ丸山に美剣も溝呂木も毒気を抜かれていく。

「コーヒーでいいですか?」

「おう!砂糖とミルクもくれ!」

「甘いもんに甘い飲み物かよ!また姐さんにドヤさられるぞ」

「秘密にしておいてくれよ〜!」

 美剣が言う姐さんとは、丸山の妻の事だった。彼女はLETに所属する自衛官専用の食堂に勤めている。

 大和と月歌のように夫婦で機密を共有すれば、互いの為に裏切りを画策する事は無い。

 LETは、そうやって人の善意や愛を利用している。

 人質によって縛られているのは自分たちだけではなかった。

「コレにしよう!」

 丸山がご機嫌な顔で取り出したのはドーム型のチョコケーキだった。箱の中にはタルトタタンとガトーショコラが残され、それを器用に並べ直していく。

 妻に先に食べた事をバレないようにする為の虚しい工作をしながら「これは〜♪何だろうなぁ〜♪」と丸山は歌い出す。

 溝呂木の心臓が早鐘を打つ。

「メルベイユです。かなり有名なお店の物で、それは予約必須の看板商品ですよ」

 その説明に丸山の目は更に輝いた。

 本来のメルベイユはメレンゲをホイップで包みチョコレートをまぶしたスイーツだ。今、丸山が手にしているメルベイユは、その上からチョコレートをコーティングした見た目が華やかなケーキだった。

 その甘い香りに溝呂木の過去のトラウマが呼び起こされる。


 学生時代の溝呂木は食事と睡眠、風呂以外は全て地下室の勉強部屋で過ごしていた。小学校受験に失敗した息子に失望した父親は、その部屋から出る事を決して許さなかった。

 高校生の時にあてがわれた家庭教師の女は、いつもお茶請けにメルベイユを食べていた。

 その女は事あるごとに溝呂木の身体を弄び嗤った。

 身体中を這う舌の感触と重みと振動。そしてメルベイユの味が溝呂木の心を殺した。

 それ以来、身体は全力で甘い物を拒絶するようになってしまった。


 その記憶が呼び起こされ溝呂木は吐き気に襲われそうになる。

 それを気力で抑え込み何とか平静を装っていると美剣が顔を覗きこんできた。

「お前、甘いもん食わねぇのに詳しいな?」

「・・・誰かさんの所為で菓子折を持って謝罪に行く事が多いんでね。嫌でも話題になっている物は覚えるんだよ」

「オレ、お前から詫びなんて貰った事ないけど?」

「お前が僕に寄越せよっ・・・!」

 そんな軽口を叩いて気を紛らわせている間にメルベイユは丸山の胃の中に収まった。

 部屋に充満していた甘い香りは消えていた。

 代わりに目の前にあるコーヒーの香りが溝呂木を奮い立たせる。

 味は弟の輝の淹れた物には遠く及ばない。だが輝と過ごした優しい時間を思い出させてくれるには十分だった。今はそれが溝呂木の心の支えであった。

「お嬢さんは、LETでやっていけそうなのか?」

 砂糖とミルクがたっぷりと入った、もはやコーヒーとは呼べない代物を飲みながら丸山が尋ねる。

「アイツに追弔はやらせない」

「彼女の雇用は三ヶ月だけです。本人には伝えていませんが、それ以降は別の仕事を薦めます」

「そうか・・・。大和が生きていたら、お嬢さんを大層可愛がっただろうな」

「大和さんなら、泣いて入隊を止めたでしょうね」

「心配すんなよ、丸さん!オレが大和さんよりも西宮愛夢を可愛がってるからな。危ない事もやらせん」

「俺も可愛がるぞ!それだけじゃあない!あんなに良い子に近付く悪い輩は門前払いにしてやる!」

「頼もしいぜ!」

 美剣と丸山は空に向かってパンチを切る。溝呂木はそれを溜息まじりで見つめた。

「丸山さん、昨日初めて彼女に会ったんですよね?」

「それがどうした?最近の若い者は守衛の仕事をバカにして挨拶すらしない!だが、お嬢さんは違う!この仕事を大切な仕事だと言ってくれた。それだけじゃなく自分が危ない目に遭ったというのに周りへの気遣いも忘れない!なんと優しい子だ!」

 熱弁する丸山の目には感動からか薄っすらと涙が浮かんでいた。美剣に至っては高速で頷き続けている。

「昨日の今日ですから過保護になる気持ちも分かりますが、程々でお願いします」

「過保護ついでに聞いて良いか?お嬢さんには、どこまで話すつもりなんだ?」

「アイツにはアスピオンもフロウティスも見せた」

「大和さんの事と皇君の事は話すつもりはありません」

 それだけ言えば丸山には伝わる。

「・・・君たちの力の代償の事も言わないつもりか」

「勿論です」

「コレは、フロウティスと結ばれない限り縁の無い呪いだ。アイツは知らなくて良い」

「そうか。お嬢さんの事を一番に考えて出た結論なら俺からは何も言う事は無い」

 残酷な真実は当事者以外は知る事ではない。ここにいる三人の思いは同じだった。

「でもなぁ、アイツは勉強熱心で頭も良いんだ。これからの為にも何もさせないって訳にもいかないよな」

「どの道、LETに関連する職業に就く事になるのなら組織体制は知っておいた方が良いかもしれんな」

「だが、お前の仕事に連れて歩いて学ばせる訳にもいかないだろう」

 警察、防衛省、厚労省、そこに属する人間の多くはフロウティス部隊を歓迎してはいない。そんな場所へ行き来の多い美剣が愛夢を立ち会わせるのは避けてやりたかった。

「アイツにはなるべく本部にいてもらうようにする。オレがいない間はトレーニングしててもらうさ」

「お嬢さんはゴロツキ相手に大立ち回りをやってのけていた。きっとこれから、もっと伸びるぞー!」

「オレに任せとけ!ゴリゴリに鍛えるぜ!刃向かうヤツを片っ端から瞬殺出来るように育ててやるさ!」

「・・・あの子の脳みそを筋肉にするつもりか?」

 その一言で美剣も丸山も気付いたのだろう。

 このまま美剣に全ての育成を任せれば、愛夢らしさが無くなるという事に。

「美剣君が教育を担当すれば、お嬢さんに美剣君の価値観が刷り込まれてしまうのではないだろうか?」

「その通りです。そしてそれは彼女の為になりません」

 最終的には愛夢は、その刃向かうヤツと共に仕事をする事になるのだから敵を作る行為は得策ではない。

 美剣は絶対的な力と追弔の結果で周囲の者を納得させられる。だが愛夢は違う。

 弱く優しいけれど普通とは違う。そんな化け物が生きていくには、この世界に従順でいるしかないのだ。

「やっぱり、コレ系の適任は漁火だよなぁ・・・」

 美剣はこれ見よがしに肩を落とした。

「そうだ!漁火君がいるじゃあないか!?お嬢さんも漁火君を信頼しているようだった!」

「オレの方が!もぉっ〜と信頼されてますぅ〜!」

 美剣の無駄な対抗意識は無視をして溝呂木は丸山と話を続ける。

「漁火君だけでなく、僕も旭夏君も新人の指導に避ける時間なんかありません」

「ならば分担すればいい。何を担当するかは適材適所だ。新人育成とはそういうものだ!君たちだって、お嬢さんの為に変わらなければならない」

 溝呂木は面倒を見ないと言った手前、何もしたくはない。旭夏も愛夢には関わらろうとはしないだろう。

「漁火なら大丈夫だ!絶対やってくれる!」

 頼まれたならば漁火は絶対に断らない。それが分かっているからなのか美剣は自信満々であった。

「・・・漁火君の仕事をいくつか僕が引き受けるよ。そうすれば時間は作れる」

 この決定に丸山は満面の笑みで頷く。

【丸山さんに導かれちゃったわね・・・】

 大和が亡くなってからは、丸山はこうして度々話を聞いてくれていた。

 そうやってフロウティス部隊が失った穴を埋めようとしてくれているのだろう。

 大きく山のように聳え立ち守り導いてくれる丸山の姿は、今も昔もずっと変わらなかった。


 帰宅する丸山と入れ違いに漁火は愛夢を送り届けて戻ってきた。

「只今戻りました。お二人に報告しなければならない事があります」

 神妙な面持ちの漁火は、まるで悪事に手を染めた事を後悔しているかのような顔をしていた。

 逆襲した向井が大人数を嗾け、それを返り討ちにして騒ぎにしてしまったのではと、溝呂木は身構える。

「向井議員の息子さんを西宮さんから引き離す為に私はカラスの力を私的に使いました。彼の目に余る所業を教育機関の各所に送り、今は処罰を請うている段階です。既に揉み消しは効かないかと・・・」

 拍子抜けする報告に溝呂木は美剣を見た。

 美剣は物足りないという顔をしてネットニュースを調べ始める。向井親子のスキャンダルはまだ公になっていないが、それも時間の問題であろう。

「全て私の一存です。勝手な行いをした事をお詫びします。如何様な罰も受ける所存です」

「・・・いいんじゃね?」

「・・・構わないけど?」

 漁火がやらなければ四月一日によって向井は骨の髄まで搾り尽くされていた。

 おそらく向井は退学になり大学の推薦も取り消される。それどころか、父親共々、週刊誌や世直し系配信者の恰好の餌食となり、今後は外には出る事すら難しくなるだろう。

 可哀想などとは微塵も思わない。

 向井はそれだけの事をした。愚か者の末路には相応しい展開であった。

 愛夢を守る荒ぶる獅子を怒らせ、眠れる鴉を呼び覚ましてしまったのは向井自身なのだ。

「そんな事より、やってもらいたい事があるんだよ!」

 美剣の言う通り重要なのはそんな事ではなかった。

「・・・はい。何でしょうか?」

「ウチの仕事って何かと覚える事が多いだろ?だからお前がアイツに色々教えてやってくれよ」

「それは勿論です」

 足りない説明は溝呂木が補足をする。

「美剣がフィジカルを鍛える。でも隊長の任で側にいられる時間は多くない。だから座学の方を漁火君に担当してもらいたいって話になったんだ」

「でも、どうせトライアルが終われば西宮さんは・・・」

「いなくなるからって、何にも教えねぇのは違うだろ?西宮愛夢はお前に懐いてる!だから、お前がアイツの先生になってやってくれよ〜!」

 先生という単語に漁火は反応した。

「最終的にあの子がLETを見限ったとしても、身の安全の為に何かしらの関連組織には属してもらう事になる。だから、そうなった時に困らないように色々と教えて導いてあげてほしいんだ」

 かつて夢を叶えられなかった漁火に報いる事が出来るのなら、仕事を引き受ける事など安い物だった。

「先生、私が西宮さんの・・・」

 泣きそうな顔の漁火は深くお辞儀をした。

「座学指導の件、謹んで拝命いたします」

 美剣はその答えを分かっていたのか微笑む。

 顔は見えないが漁火も笑っているであろう事は溝呂木にも分かった。

 きっと美剣は愛夢の心だけでなく漁火の心までをも救ったのだろう。

【アタシも頑張んなきゃね・・・】

 美剣は隊長として成長をしていた。だから負けてはいられない。

 あの日のまま止まっている者はいない。皆がそれぞれのスピードで前へと進んでいた。


 二ヶ月後


 漁火から引き継いだのは各建設会社と都と市町村の建築課との連絡業務だった。

 これは追弔現場を確保する為に絶対に必要な業務であった。混乱を避ける為の早めの引き継ぎではあったが、事は思っていた以上に円滑に進んでいた。

【椚原さんが知事になってから都庁の仕事の質が確実に上がってるわね。加えて漁火の資料も分かりやすくて見やすいから仕事がやりやすいのよね】

 パソコンには漁火から送られた各工事のデータが表示されていた。溝呂木はそれに目を通していく。

 追弔によって工事期間は延び、さらには高騰する物価によって入札金額は膨れ上がる一方であった。

【いくら椚原さんでも無い袖は振れないわ】

 財源も無限ではない。そしてLETにだけ費用を割く訳にいかない事も分かってはいた。

 解決策は空き土地を国が買い取り固定の追弔現場を用意するしかない。溝呂木は何度もその要望を厚労省から国に出してもらっていた。

 そしてその全ては父親によって棄却された。

「だったら代替案くらい出しなさいよ・・・!」

 苛立ちにより煮詰まった頭をリセットする為に溝呂木はミーティングルームにあるコーヒーマシンの元へ向かう。

 かつて嫌がらせの為に用意させたエスプレッソマシンは、今もかなり重宝していた。

 香り高いコーヒ豆の濃厚な苦味が冷静さを取り戻させてくれる。そしてカフェインが活力をくれた。

「溝呂木さん、少しよろしいでしょうか?」

 後ろから聞こえる漁火の声に溝呂木は振り返る。

「構わないよ。漁火君も休憩?」

「いいえ、次の入札工事の資料データがが私の方に届いていましたので、メールに添付して送らせていただきました。印刷もしてあります」

 溝呂木は受け取った資料を流し見る。

「ありがとう。厚労省の方の担当者が間違えたんだね」

 この資料データは、都の職員から厚労省の職員へ送られる。そうして厚労省からLETへと送られてくるのだ。いかにも無駄が多い御役所仕事は担当者の変更に追いつけていなかった。

「来月の頭に西宮さんの卒業式があるんです。美剣さんが直接お迎えに行かれるとの事なのですが・・・」

 歯切れの悪い漁火の言葉に嫌な予感がした。

「これは、その際にかかる移動費の見積もりと、その申請書です」

 恐る恐る渡された見積もりは、ヘリコプターのチャーター料金だった。

「・・・意味が分からないんだけど?」

 溝呂木は笑顔を取り繕い側にあったシュレッダーに見積もりと申請を放り込んだ。

「・・・ですよね。一応、お祝いに都内を空から園遊させてあげたいという理由らしいのですが」

「自費でやれ!・・・て、伝えておいてくれる?」

 間に挟まれた漁火の為に何とか笑顔は保つ。

 美剣は休みを取っていて、今日この場にいない。いたならば即座に蹴り飛ばしに行っていたであろう。

 だが一見すると破天荒な美剣のこれまでの行動は、結果として人の為に行っている事であった。

 だから、この見積もりも何か意味があるのだろう。

【美剣が何をしたいのか全然分からないわ。アタシの考えが及んでいないんでしょうね】


 だが後日、美剣は内見の為に再び休みを取り、漁火に見積もりを持たせていた。

「卒業式当日は私も美剣さんにお供する事になりました。見積もりと申請書です。よろしくお願いします」

 深く頭を下げられ渡された書類を見て溝呂木は板挟み状態の漁火を哀れんだ。

「・・・意味が分からなくて、ごめんね?」

 溝呂木はリムジンのレンタル代金の見積りを漁火に突き返す。

 きっと意味がある事なのだろうが、限られた予算の中では受けられない申請であった。

 いくら愛夢の心を救う為のレンタルだとしても、血税を使ってまでする事ではない。

 間違ってはいない筈だと自分に言い聞かせ、溝呂木は笑顔を崩さないように努める。

 そして漁火が重たい口を開いて語ってくれた理由に堪忍袋の緒は切れた。

「えっと・・・、リムジンで移動した方が箔が付くからだ、とおっしゃっていました」

 溝呂木は少しでも美剣の事を信じた自分を恥じた。


 次の日、溝呂木はこれまでの怒りを込めた渾身の蹴りを美剣の顔面にお見舞いしたのだった。

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