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ーNo titleー  作者: 一ニ三
40/46

深緑(前)

 澄み渡った秋晴れの中、タクシーから降りた溝呂木の足取りは重かった。

【何でアタシあんな事しちゃったのかしら?】

 西宮愛夢の勧誘を賭けた麻雀勝負は順調であり、オーラスには自身が最も好きな緑一色を狙える配牌がされていた。

 だが途中、一向聴イーシャンテンしたにも関わらず、その牌を捨てた。

 勝利の女神は確実に溝呂木に微笑んでくれていた。そんな事をしてしまったのは、自らの手で決着を着けたくなかったからだ。

【美剣が、あんな顔するからよ!】

 オーラス、同僚の美剣は見た事の無い表情をしていた。強い怒りと絶望、そして深い悲しみが混じったような美剣の表情には他の二人も気付いていた。

 居心地の悪い空気に、適当な手で終局しろと溝呂木は旭夏と漁火に目配せをしていた。

 既にどう頑張ろうと美剣の勝ちは無い所までは持ってきていた。だが勝てない筈の試合の最後の勝利者は結局は美剣だった。

【旭夏のヤツ!何がゲームは勝つ為にやるよ!?】

 西宮愛夢への勧誘は成されてしまった。

 旭夏の口車に乗ってしまったが、後はもう漁火に任せるしかなかった。

【高校生で!ましてや女の子なのよ!勧誘する方がどうかしてるわ!】

 重たかった足は、怒りで早足に変わっていく。

 溝呂木は、四月一日の属する魔窟、厚労省へと足を踏み入れる。


「本日は、予算に関する会議の筈では?」

 会議室には通された。だが四月一日は居らず、代わりに座っていたのは、狐顔の細身の男と狸顔の太った男であった。

「そんな事よりも、もっと大切なお話をしましょう」

「溝呂木さんにとって、ね」

【四月一日を出し抜こうとしているのかしら?何にせよ嫌な感じがするわね】

「どうぞお座りください」

「立ち話も何ですからね」

 あちらが喋れば、こちらも喋る。狸と狐のコンビは溝呂木をもてなし始めた。

「確か・・・早川さんと久保さん、でしたでしょうか?お話しするのは初めてですよね?」

 その問いに狐の早川と狸の久保は心底驚いた顔をした。溝呂木は、LETの存在を知る人間の名前と顔は全て把握している。

 二人は感染対策部と医薬局の人間であった。

「丁度良い機会ですので、ASPワクチンの対象年齢引き上げに関する申し入れについて、お話しさせてください」

 溝呂木は四月一日に対象年齢の引き上げを要望していた。だが、その度に「お伝えしておきますよ」と、はぐらかされてきた。

「我々の事をご存知とは驚きました!」

「流石は先生の息子さんですねー!」

 先生、そう呼ばれる人種は、教師や医師、弁護士、そして政治家。溝呂木の家に先生と呼ばれる人間は父しかいない。

 ザワリとする悪寒を感じた時には全てが遅かった。

 背後から会議室の扉が開く音がする。

【嵌められたっ!】

 そう思い振り返った瞬間、呼吸を忘れ身体は硬直した。冷や汗が止まらなくなり眩暈で視界が歪む。

 勘当だと家を追い出されてから四年が経った。

 そこからは一度も会ってはいない。

 だが今でも過去の記憶は溝呂木を痛めつけていた。


 現政調会長であり次期官房長官と名高い男。父である溝呂木司が目の前に居た。


「君たちには手間を取らせたね。愚息の為に申し訳なかった」

 父は二人と握手をしながら笑う。

 息子がいなくなった事で常に怒っていたのだろう。眉間の皺は深くなっていた。

 だが何度も溝呂木を怒鳴りつけ罵った声と、鋭い眼光だけは何も変わっていない。

 嫌悪感と恐怖から足が震える。

 どれだけアスピオンと戦い強くなろうとも、心に巣食う恐れは消せはしない。

「いえいえ!とんでもございません!」

「先生の愛は必ず息子さんに伝わりますよ」

 扉には父を守るSPが一人いた。そして外にも一人控えているのが気配で分かる。

 屈強そうなSPではあるが溝呂木の敵ではない。

 会議室に置かれている観葉植物は対策の為なのかイミテーションに変えられていた。

 それでも逃げる事は可能だ。

 だがそれでは、生きているのに死んでいたあの日々と何も変わらない。

 四年前までは衝突を避けて逃げ続けて生きてきた。だが、たった一度だけした小さな反抗が、運命を大きく変えてくれた。

 "本物"のワクチンを打った事を後悔した日は無い。

 溝呂木は自分自身の為に、そして愛する弟の為に、父親と戦い決別する道を選んだ。

「親の心子知らず、とは良く言ったものですね」

「お忙しい中、時間を作ってくださったんだよ?良いお父さんじゃないか」

 こんな言葉を、この世に生まれてから何度言われてきたかは分からない。

 子供の溝呂木が泣こうが、怒ろうが、拗ねようが、周囲の大人は皆が父を褒め称える。

 そして「君は凄い人の息子さんなんだぞ。絶対にお父さんに感謝する日が来るよ」と言われるのだ。

 そうやって心は、ゆっくりと殺されていった。

 だが、だった一度の出会いが、言葉が、そんな溝呂木を救ってくれた。


 中学の時、母の日に偶然出会った理想の母親を具現化したような女性、その人だけが溝呂木の心を否定しなかった。

 迷子の女の子を送り届けた事が縁となり溝呂木はその人と知り合った。

 女の子は、その人の娘であった。お礼をと通された安アパートの一室で過ごした時間は、溝呂木の人生の起点になった。

 初対面だからこそ、もう二度と会う事が無い安心感から、溝呂木は、その人に思いの全てをぶちまけた。

 その人は両親がくれなかった言葉と抱擁をくれた。

 誰もが間違えだと決めつける溝呂木の気持ちを、「実の親子でも分かり合えない事もあるわ」と肯定してくれた。

 だが司法は溝呂木と両親を引き離してはくれない。だから両親が変わらないなら自分が変わるしかないと悲しそうに呟いた。

 その人が変わる方法を教えてくれた。

 だから溝呂木は変われた。

 ただの父親の操り人形から、意思を持った一人の人間になれた。

「アナタが独りぼっちにならないように、神様は弟さんを授けてくれたのね」

 そんな風に思った事など無かった。

 弟は溝呂木が小学校受験に失敗したが為に、この世に生を受けてしまった。

 出来の悪い自分のスペアとして、地獄のような家に生ませてしまった事を、ずっと申し訳なく思い生きてきた。

 だから優しくしてきただけだった。

 そう思って生きていた。

 弟の存在に本当に救われていたのは自分自身だとも気付かずに。

 

 そこからは、心の中にはずっと、その人がいた。辛く苦しい時も、彼女ならばこう励ましてくれると思い努力し続けてきた。

 だからなのか、心の中や一人の時は、女性のような話し方になってしまう。

 これは弟にも言えない。溝呂木が墓場まで持っていく秘密であった。


「翼!」

 恫喝にも近い父の怒号に溝呂木は強張る。

 名を呼ばれるのは、いつだって叱られる時だった。

 だから溝呂木は自分の名前が大嫌いだった。

 この姓も名も捨てられるものなら捨ててしまいたかった。

 化け物のような力を手に入れ、誰よりも強い筈の溝呂木が、会議室の中にいる誰よりも怯えていた。

 だが気力で、それを感じさせないように努める。

 溝呂木は父を睨みつけた。

「何だその目は?品性の欠片も無い髪型をしおって!溝呂木家に名を連ねる者としての自覚が足りん!」

 勘当される前にも「その目障りな髪を切れ」と言われた。肩にかかる長い髪を今でも切らないのは反抗の意味があった。

 反論をしてしまえば父と話す事になってしまう。だから溝呂木は無視を決め込む。

 それにより興奮する父を、早川と久保が抑える。

「浮つくのは輝だけで十分だ!育ててやった恩を忘れ、カフェの店員なんぞという軽薄な仕事をしおって!あの面汚しがっ!」

 父は溝呂木の逆鱗に触れるどころか逆撫でした。

 自分の事が悪く言われるだけなら我慢も出来た。

 だが輝にまで飛び火するのなら黙ってはいられる筈はなかった。

「輝のどこが浮ついている!?カフェの店員のどこが軽薄な仕事だ!?そういう人に支えられて、お前らの仕事が成り立っているんだろうがっ!!」

 溝呂木がLETの仕事をするようになってから最初にしたのは、輝の夢を叶えさせる事だった。

 行きたくもない大学に行かされ、やりたくもない勉強をさせられていた輝が、努力をしてバリスタになるという夢を叶えた。

 その日の輝の眩しい笑顔は忘れられない。

 それを実の父が嘆くなど、あってはならない。やはり目の前の男は、どうあっても分かり合えない存在であった。

 初めて声を荒げた溝呂木に三人は恐れ慄き後ろに下がる。だがSPだけは、溝呂木の殺気に一早く反応し即座に警護から臨戦態勢に入った。

【部下や仲間は無能でも、SPは優秀なのね】

 溝呂木は前に出てきたSPの為に一歩後ろへ退く。

「父親に向かって、その口の利き方は何だ!?せめてお前はマトモになれ!そうすれば、これまでの事は水に流してやる」

「僕は四年前に勘当された筈だ。もう親でもなければ、子でもないんだよ。このクソジジイ!!!」

 28年分の鬱憤を込めた渾身の悪態に、父は血管が浮き出る程に怒る。

 だが気が晴れる事はない。何万回罵ろうとも結果は同じだと思えた。

 もう親子に戻れる日はこない。

 父が出来る最大の謝罪は、二度と目の前に現れない事と、関わってこない事だけであった。

「何だその態度は!?少しは頭が冷えたかと思えば、低俗な連中に毒されたか!口の利き方を改めろ!」

「少しでも親としての心があるのなら、もう二度と僕と輝に関わるな」

 父の中にある恭しかった息子は、もういない。

 反抗され慣れていない父は激昂した。

 だが怒鳴られたのは自分ではなく隣にいたSPだった。

「おい、お前!この大馬鹿を縛って車に連れて行け!」

「それは出来ません。我々の仕事は溝呂木様の護衛であり、御子息の拘束は含まれておりません」

「この役立たずが!お前はクビにしてやるからな!」

 こんな父に雇われる羽目になった優秀すぎるSPに同情してしまう。

 結局は自分より弱い立場の者にしか強く出られない。そんな卑怯で弱い人間に自分はずっと怯えていたのだ。

 緊迫した空気を、突然のアラートが打ち砕く。

 これは溝呂木のスマホのアスピオンの出現を知らせる音であった。

「本日の会議では何も得る物が無く大変残念な時間でした。次こそは実のあるものになる事を期待します」

 さり気ない嫌味で場を締め会議室を出ようとするが、早川と久保が溝呂木の行手を遮った。

 右に避ければ早川が、左に避ければ久保が、扉をガードする。

「お父様は君を心配しているんだよ?」

「もう危険な事はしなくていいんだ!」

【カバディみたいね・・・】

 突破は簡単であった。高速で左右に避け隙間を生めば良い。

 だが悪知恵が働く三人目の男が、その考えを阻止する。

 早川と久保の間に父が仁王立ちになり扉を塞ぐ。

 それは俗に言う、左右の敵を倒さないとダメージが通らないタイプのボスの配置であった。

【何か旭夏のやってるゲームで見たわね。この光景】

 退けようと手を伸ばし気付く。

 これは接触した瞬間に「危害を加えられた」と騒ぎ立てSPに溝呂木を拘束させる作戦なのだろう。

 三人のしたり顔が全てを物語っていた。

 側にいるSPは無表情で父と溝呂木の間に立った。

 クビだと言われても最後で職務を全うする優秀すぎるSPの為に、溝呂木は手を引っ込める。

「・・・狡い事しやがってっ!」

 拘束されたとしても捩じ伏せる事は可能だ。

 だが、自分の力はそんな事をする為の力ではない。

 こうしている間にも無意味に時間は過ぎていく。

 何の役にも立たないとしても溝呂木は行かなければならない。

 それが力を持つ者の責任なのだから。


 突如鳴ったグループ通話の着信音で溝呂木は冷静さを取り戻す。

 画面に表示された同僚の名前は、否が応でも溝呂木司の息子ではなく、フロウティス部隊の溝呂木翼にしてくれた。

 仲間に現状を悟らせないようにと、通話では普段通りを振る舞う。

「僕の方はまだお偉方との話が長引いてる。終わり次第ヘリを飛ばす予定だけど、旭夏君の到着が遅れた場合は二人での追弔になる。大丈夫か・・・?」

 空路ならば、ここからでもギリギリ遅れは取り戻せる。ヘリを動かしてくれるのかは、五分五分の賭けであった。

『こちらは先程本部を出ました。到着の時刻は美剣さん達と大きな差異はないです』

『おー最悪オレ一人でもやるから大丈夫だって!鳥獣タイプだったら詰むかもだけど、そのときゃ漁火と一緒に何とかするからよ!』

 確かに美剣ならば一人で何とかしてしまえる。

 それ程に美剣は強い。

 漁火も自身の力を使い熟し戦闘以外に貢献している。

 旭夏も端末のシステムの設計から運用に至るまでを追弔と兼任してくれている。

 自分だけが何も出来ていない。

 画面上の三人のGPSは動いているのに自分だけが止まったままで動く事はない。

 それが皮肉の様に思えて苛立ちが加速していく。

「時間が無いんだよ!」

 溝呂木の叫びは静かな会議にこだました。

 窓も転落防止の為に人が通れる設計にはなっていない。蹴破り怪我人でも出そうものなら、フロウティス部隊の心象を悪くする事になりかねない。

 残された手は、SPを沈黙させ三人を跳ね退けるしかなかった。

【相手はプロ。軽い脳震盪じゃ沈んでくれないわよね】

 覚悟を決めた瞬間、ポケットの中のスマホが震えた。フロウティス部隊専用トークアプリの画面は旭夏の名を表示していた。

「もしもし」

『高速道路で玉突き事故が発生した為に、現場に向かうのが遅れます。漁火さんが運転中なので美剣さんにも連絡をしているのですが電波状況が悪いようです』

「分かった。そこから公共機関と緊急車両を使って現場に向かってくれる?現場は山頂だから簡易基地局の手配も忘れないで」

『はい。そちらは既に完了しています。どころで、溝呂木さんも先程から現在位置が動いていませんが、何かあったのですか?』

「狸と狐に嵌められちゃって足止めさ。囚われの身の僕に助けのヘリを寄越してくれる?」

『・・・よく分かりませんが、四月一日さんに足止めをされているのですか?』

 旭夏の言葉に溝呂木はハッとした。

【そうか!四月一日に連絡すれば良かったんだわ!】

 全ての統括を任されている四月一日ならば、今のこの状況を快く思わない筈だ。そして彼ならば事態の打開には充分の権限を持っている。

 旭夏との通話を切り四月一日へ連絡を入れようとするが、またもや両サイドから妨害をされた。

「待ってください!四月一日さんには内緒にしておいてください!」

「お願いします!それだけは、ご勘弁を!」

 早川と久保は溝呂木の足に縋りついて懇願する。

 だが突然背後から鳴った扉をノックする音に二人は竦んだ。

 カッカッカッカッカッカッ。

 指で扉を突くノックが不気味に鳴り響き続ける。

 扉を開けるまで永遠に続くのでは、と思えた音に嬉々とした声までもが乗る。

「も・う・お・そ・い・で・す・よ」

 リズムカルに鳴らされるノックの音に早川と久保は溝呂木の後ろに隠れた。

「早川さ〜ん。久保さ〜ん。溝呂木先生〜。開けてくださいますか?開けてくださいよ〜」

 ノックの音はいつまでも止まない。

 癪に障る音に父の我慢が続く訳は無かった。

「煩い!!」

 怒鳴った父は扉を勢い良く開いた。

 その先にいたのは、SPに制止されている四月一日であった。SPに「ね?開けてくれたでしょう?」と笑った四月一日は会議室の中へと入ってくる。

 早川と久保は溝呂木の足元で小刻みに震えていた。

【そんなに四月一日が怖いなら、こんな事しなきゃ良かったのよ。バカね】

「お二人共、酷いです。会議の時間と場所を勝手に変更しただけでなく、私を仲間外れにするだなんて」

 足元で「ひぃっ!」と小さく鳴き震える二人は、まさに怯えた狐と狸の様だった。

「溝呂木先生も、お人が悪い。息子さんに会いたいのなら私を通していただかないと・ね?」

「黙れ!お前に与えられた権限ごときで、私を動かせると思うなよ!」

 不気味に微笑む四月一日と、怒り狂う父に残された者たちは傍観するしかなかった。

「溝呂木さん。あっ!息子さんの方です」

「何でしょうか?」

「合同庁舎2号館に政府専用のヘリをご用意してあります。どうぞお使いください」

 四月一日は扉を指差し頷いた。

 溝呂木は初めて四月一日に感謝した。足元で震える二人を振り解き走る。

「ありがとうございます!」

「いえいえ。お気をつけて」

 後ろから父の叫ぶ声が聞こえたが、溝呂木が振り返る事はなかった。


 今日に限って厚労省のエレベーターは満員御礼の大盛況であった。

 今いる5号館から2号館へ行くには外に出るしか方法は無い。仕方無く溝呂木は階段を駆け降りる。

 だが2号館の屋上へ到着した瞬間、旭夏が作成したLETのアプリ画面にmission completeの文字が表示された。

 溝呂木と旭夏がいない状態でも美剣は一人で追弔を終えた。喜ぶべき事なのに、素直に喜べない。そんな自分がひどく情けなく思えた。

 操縦士に謝罪しヘリを見送る頃には、空は赤く色付き始めていた。

「アタシなんか行っても行かなくても一緒だったわね」

 溝呂木はその場にへたり込んで空を見上げる。

 茜空とヘリコプターが見事な対比となって絶景を織り成すが、沈んだ心を晴らすには至らない。

「今回も無事に迅し私かにを遂行出来たようですね」

 後ろから四月一日の声と足音が聞こえるが、振り返る気にはなれなかった。

「ヘリを用意していただいたにも関わらず、無駄足にしてしまいました。申し訳ありません」

「別に構いませんよ。私は追弔さえ無事に終わればそれで良いので」

 そう言い隣に屈んだ四月一日の唇は、端が少し切れていた。

「─その傷は?」

「怒ったお父様に。でも殴られた瞬間にコレが吹っ飛んだ事で怒りも収まったようです。文字通り怪我の功名だ」

 コレと言いながら四月一日は右目の義眼を撫でた。

 あんな男でも片目が無い相手を殴って平気な人間ではなかったらしい。

「僕とアイツは他人なので謝りませんよ」

 本当は謝るべきなのだろう。だが、そこまでの聖人にはなれなかった。

「そうですか。でも、おかげ様で新年会の一発芸が決まりました」

「それは場が凍るから止めた方が良いですよ。そんな事で笑える人間がいたら異常だ」

「ならば早川さんと久保さんのショートコントにしましょう。愛する家族の為に頑張ってくれそうです」

「そんな事をしていると、いつか痛い目に遭いますよ」

「もう遭っています」

 これも四月一日なりの冗談なのだろうが、上手く言葉を返してやる事が出来なかった。


 再び早川と久保にお灸を据えに戻った四月一日を見送ると、グループ通話の着信音が鳴る。

「ビデオ通話?」

 美剣を除いた三人の通話画面を押すと、慌てた表情の漁火が大きく映し出された。

『あぁっー!もうっ!大変です!大変なんですよー!』

 普段からの漁火の言葉にしては足りないが、緊迫した状況だと伝えるには適切な言葉であった。

「追弔は無事に終わったんだよね?何があったの!?」

『端的に申し上げますと、美剣さんが勧誘の対象者である西宮さんを拉致しました!』

「端的すぎて意味が分からないんだけど?」

『ちょっと待ってください。お二人の現在位置が現場から動いていないのですが?』

「・・・まさかとは思うけど、現場に同行させたとかじゃないよね?」

『私は止めました!止めたんですけどっ!直接見た方が早いと言って抱えて連れて行かれてしまい、今に至っています』

 朝の騒動から、先程の父との衝突、そして今。次から次へと目紛しく起こるトラブルに息をつく間すら無かった。

「・・・四月一日さんが帰った後に、連絡してくれて助かったよ。この話は絶対に口外しないでね」

 想定外の事が連続で起こった事で溝呂木は逆に冷静になれた。

「状況を整理しよう。勧誘の話はどうなったの?」

『はい。アスピオンが出現した為に説明は中断となりましたが、断りのお返事を頂きました』

「命が脅かされる危険な仕事を見たんだ。当然の判断だよ」

『ですが、その返事を聞いた美剣さんが、西宮さんを鉄塔の上に連れて去ってしまったんです』

「ごめん。それだけは何回聞いても意味が分からない」

『では、ご覧ください』

 わざわざビデオ通話にしたのは、これを見せる為だったのだろう。

 画面には誰かを横抱きにして鉄塔をよじ登る美剣の姿が映し出されていた。

「あのバカ・・・ついに猿にまで退化したか!?」

『庇う訳ではありませんが、追弔に関しては録画した物を見せる予定でした。ですから、美剣さんの言う事も一理あるのかもと、西宮さんを連れて行く事だけは譲歩したのですが・・・』

 距離が開けている事もあり画質は粗い。だが美剣が日本の職人の技術を結集である女神を模した鉄塔を登り切った事は確認できた。

 目を凝らすと美剣ともう一人は向かい合い言い争っているように見えた。

『これは流石に看過出来ません!話をしたいと言って、あんな危険な場所に連れて行くだなんて!もう私では手に負えません!』

「今朝から様子が変だとは思っていたが、何をしたいのかが全く分からない。やはり行かせるべきじゃなかった」

 今日の美剣は、無精髭を剃り新品のスーツまで着て勧誘に臨んでいた。西宮愛夢という少女に会える事に浮かれていたのかもしれない。

 それまで静かだった旭夏も、この不足の事態には黙っていられなかったのか、ようやく口を挟んでくる。

『フロウティス部隊の採用人事に関しては私たちに全権があります。ですから処遇に関しても美剣さん以外の人間が決めるしかありません』

「僕は、どんな理由があろうとも一般人をこんな危険に晒す人間を、このままにしておく事は出来ないと思っている。二人はどうだい?」

『溝呂木さんの意見に同意します』

『漁火さんに同じく』

「なら美剣の勧誘及び説得の任を解く。並びに同人のこれ以降の対象者との接触を禁止する。以上を三人の総意として執行しよう」

『・・・美剣さんが私に端末を預けて行ってしまわれたので、その処遇を伝える術が無いのですが?』

「僕と旭夏君は、その場所へは行けない。だから漁火君、君に後を委ねるよ。君が僕たちの代表として美剣に沙汰を下すんだ」

『えっ!?待ってください!そんな事─』

 全てを言い終える前に漁火からの通話が切れた。

「あれ?」

『・・・おそらくですが、最寄りの駐屯地の方々が簡易基地局を現場から撤去させたのでないかと』

「そうか。可哀想だけど、漁火君なら大丈夫だろ」

『先程の漁火さんの話だと、美剣さんの愚行は承諾の返事を得る為に行っていると捉えられるのですが』

「美剣は自分が殺されても女の子の意思を捻じ曲げるなんて事はしない。どうせ顔が怖いとかで泣かれて、宥めようと必死なんだろう」

『私も、そう思います。美剣さんですからね』

 美剣はどれだけ政府の人間や四月一日から圧力をかけられようとも、自分を曲げない。

 暴力的で短気ではあるが女性には優しい。そんな美剣だから今日の勧誘も無理強いをしない事は分かっていた。

 だが、まだ高校生の少女を危険に晒した事への責任は、組織的に問わねばならない。

 どうせもう会う事のない相手との接触禁止など、優しすぎる罰だと思えた。


 LET本部に戻った溝呂木を待っていたのは、美剣が破損させた資材に対する叱責だった。

 各所への謝罪の手配を終えた時には、19時を過ぎていた。

 旭夏は自分の仕事を終えて早々に帰宅して行った。

 事前に漁火からも夕食を食べてから本部に戻ると連絡は受けていた。

 だから今はこの場には溝呂木しかいない。

 正確には、フロウティス部隊専用の棟。さらにその中の自分の仕事部屋で、溝呂木はオフィスチェアから立ち上がり伸びをした。

「・・・今日の事、輝に知らせた方が良いわね。アイツ、乗り込んで行く勢いだったし」

 輝はニ年前にバリスタの資格を取った後に独り立ちをした。

 真っ直ぐに自分の道を歩む輝の邪魔をしないように、溝呂木は自分からは連絡を控えていた。

 こんな最悪な用件は話したくはなかったが、警戒するに越した事は無い。

 ディナータイムの片付けが落ち着く頃合いを見計らい、溝呂木は輝に連絡を入れる。

『もしもし、にぃに?』

「久しぶり、輝」

 輝は誰よりも溝呂木に懐いていた。そんな輝が最初に発した言葉は「にぃに」だった。

 それが気に食わなかった両親は、「恥ずかしい呼び方をするな」と何度も輝を叱責した。

 だから違う呼び方を強要され矯正された輝が「にぃに」と呼ぶのは、二人きりの時だけだった。

 そこからはしばらく他愛も無い話をした。

 いつ父の事を切り出そうかと悩んでいたが、輝は自らで察してくれた。

『ねぇ、にぃに。元気が無いみたいだけど疲れてる?もしかして、あの人が来たの?』

 もう輝も父を親だとは思ってはいない。勿論、母の事もだ。

「・・・うん。だから輝の所にも行くかもしれない。気をつけてって言いたかったんだ」

『ありがとう。でも今の職場は椚原さんの息のかかっているお店だから平気だよ。あの人、口だけの小心者だから、絶対に手は出してこないと思うよ』

 レストランで働く輝は、今では完璧に仕事をこなし役職にも就いている。持ち前の器用さと愛嬌の良さで店の中でも外でも人気者であり、それが嬉しくもあり寂しくもあった。

【もう輝は一人で立派に生きているのね】

 父からの圧力により大手のカフェやレストランは輝の採用を断った。

 だが輝は諦めなかった。

 だから溝呂木も全てのプライドを捨てて、同級生である椚原に土下座をして輝の採用を頼み込んだ。

「そうだったね。ごめん・・・」

『謝らないでよ。それよりも大丈夫?』

「輝の声を聞けたから平気だよ。何があっても僕が輝を絶対に守るから」

『違う!もうにぃには、あの人からも僕からも解放されて良いんだよ。僕は守ってもらわなくても大丈夫だから、にぃにも自分の道を生きてよ』

 自分の道、それが溝呂木には分からなかった。

 輝のような夢も無い。

 父の言う通りに秘書になった後も、恩人の母娘に恥じないように生きるだけで、やり甲斐は何も感じてはいなかった。

 唯一自分の中にあった強い願いが、輝の夢を叶えてやる事であった。

 それが叶い、輝が自分の元を離れてからは、寂しさを紛らわす為にひたすらに仕事を全うしている。

『にぃにが、あの日僕を連れ出してくれたから、今があるんだ。本当に感謝しているよ。でも!だからこそ!にぃにには絶対に幸せになってほしいんだ!』

「輝・・・ありがとう」

『そんな事より、にぃに!また適当な食事してない?そんなんで仕事ばっかりしてると倒れちゃうよ?』

「耳が痛いなぁ」

『にぃにの自分の事を後回しにする癖、良くないよ』

 輝と話していると胸の奥がじんわりと温かくなる。

 輝がいなければ、あの地獄を生きていけなかった。

 輝と話すだけで最悪な気分が、何も無かったかのように浄化されていくのを感じる。

【輝っ!何で良い子なの!?あのクソの両親から生まれたとは思えない天使!アタシの光!!】

『年始には会いに行くけど、その前にランチ食べに来てよ〜!前に言ってたパンが美味しからさ!秋野菜のパスタに合うんだ!絶対に食べてほしい』

「そうなんだ。今度行く。輝の淹れてくれたコーヒーも楽しみにしてるよ」

『あはは!昔にぃにの事を散々、練習台にしたよね。でも失敗しても美味しいしか言わないから全然練習にならなかったけど』

 この笑う声を聞く為に自分は戦っている。

 これが溝呂木翼の戦う理由であった。

 唯一の癒しで楽しみでもある兄弟の会話は、火災報知機の音がかき消した。

「・・・またか」

 音の元凶は美剣である事は分かりきっていた。

「ごめん、切るね。何かあったら絶対に連絡して!」

『分かった。またね、にぃに』

 通話を切り溝呂木はエントランスへ向かう。

 火災報知機を鳴らす状態の美剣は、漁火だけでは手に余っているだろう。

 今日の愚行、加えて資材を破損させ始末書を提出する羽目になった事。そして最大の罪である輝との憩いの時間を邪魔した事。

 これらの制裁を加える為に溝呂木の復讐心は最高潮に達した。


 11月の昼下がり、その日は珍しく全員がLET本部にいた。漁火の招集を合図に四人は、一般車に偽装した特殊車両に乗り込む。

 メテウスにより強化された肉体の能力を最大限に発揮できるバトルスーツに着替え、四人は端末に表示された地図でアスピオンの出現場所を確認する。

「V6のデコイにアスピオンを検知。大田区の海に近い鉄工所の解体工事現場です」

 情報は全て個々に漁火が送ってくれていた。

 アスピオンが掛かったデコイの設置場所に選ばれた鉄工所は、都内としては比較的静かな場所にある。

 活況な都内で迅し私かに遂行するには、既に限界がきていた。追弔場所を確保する為には、国民の血税より補助金を出して無理矢理に工期を延ばすしかない。

 国民の忍耐力は爆発寸前であり、フロウティス部隊の四人も限界だった。

「現場の映像が繋がります」

 デコイの発動と同時に設置された監視カメラの映像に四人は息を呑む。

「よりにもよって鳥獣型かよっ!」

 飛行するアスピオンは近接パワータイプの美剣が最も苦手とするタイプであった。むしろ得意な人間など誰一人としていない。

 以前に追弔した鳩のアスピオンですら危うい場面が何度かあった。

「美剣、銃火器の使用を申請しろ」

「・・・分かってる」

 その会話を最後に車内は静まり返る。

 今日の追弔は苦戦を強いられる事は確定していた。


 鉄工所解体工事現場


 溝呂木たちを乗せた車両以外の三台から解体作業員に扮した自衛隊員が降車してくる。

 目隠しシートで覆われた現場に簡易机を置き、建物の見取り図を広げて隊長同士の作戦会議が始まる。

「本追弔の対象はアニマビースト鳥獣型。作戦は鉄工所の二階から翼を狙撃した後に、オレたちが即時トドメを刺す。この作戦が失敗した場合は、フロウティス部隊以外は建物の外へ避難してくれ」

「周辺には民家や他の企業の工場があります。釈迦に説法でしょうが、くれぐれも注意してください」

 自衛隊員たちは既に迅速に周辺の安全を確保し、二箇所の狙撃ポイントに人員を配置させていた。

 その連絡無線を終えた目の前にいる二人の男は、精鋭小隊の隊長である伊藤2等陸尉と、曹長である村岡1等陸曹だった。

 二人は美剣と溝呂木を睨む。

「誰に言っている?こっちはもう位置に着いているぞ。そっちも早くしろ!」

 隊長としてのプライドなのか、伊藤も村岡もフロウティス部隊には当たりが強い。

 国を守る者として鍛え磨いた肉体と技術はメテウスという越えられない壁の前に無様に敗れた。さらに化け物の分際で自分たちよりも高額な給与を貰っている事も気に食わないのだろう。

 そんな態度には慣れてしまった美剣の目配せに各員は頷き追弔の準備に入る。

 入り口のシャッターは電気が通っていない為に使えない。美剣と溝呂木と旭夏は非常口である扉の前に待機する。

 まだフロウティスは纏わない。

 纏ってしまえばアスピオンが漁火のデコイよりも強いメテウスを感知してしまうからだ。

 アスピオンがデコイに集中している時こそ唯一の無防備の瞬間。メテウスを持たない普通の人間である狙撃手には見向きもしない。このタイミングこそ最初で最後の絶好の機会だった。

「迅し私かに還しこれを匿すことを誓う」

 美剣の宣誓に溝呂木と旭夏、そして後方で控える漁火も続いた。

『作戦開始』

 伊藤の声がイヤホンから聞こえた直後、狙撃手たちが引き金を引く。

 工場内の大型の重機は追弔の為に既に撤去されている。この建物には遮蔽物も無ければ風もない。

 的であるアスピオンは2メートル程の大きさに変異していた。

 建物は横幅30メートル、縦幅100メートル、高さ20メートル。

 二階の狙撃手は全国の自衛隊員の中から選ばれた精鋭であり、失敗する要素は万に一つも無い筈だった。

 階段に置かれていた、たった一つのボルト。

 作業員のポケットにあった物が落ちたのか、不意に置いたまま忘れたのか。

 とにかくソレは、自衛隊員が静かに迅速に二階に上がった振動で狙撃の瞬間に落下した。

 静かな工場内に高い音が響く。

 その突然の音に鷹のアスピオンの注意はデコイから逸れる。

 聴覚の無いアスピオンは、微細な地面の震えを感じ取ってしまった。

 標的は翼であったが、狙撃は羽と趾を掠めただけに終わった。

 アスピオンの研究は全く進んでいない。だが数々の犠牲を生み学んだ事はある。

 アスピオンは己に牙を向ける者を絶対に許さない。それは命を奪うまで続く。

 だがそこにメテウスの反応を感じればアスピオンの注意は、そちらに逸れる。だから漁火のデコイで無人の工事現場に誘い込み叩く事が定石なのだ。

 飛翔力と敏捷性を殺ぐ作戦は叶わなかった。

 代わりに狙撃手である自衛隊員が攻撃対象になるという最悪の状況が生まれる。

 この作戦は失敗した。

 そう溝呂木が認識するよりも早く美剣はアスピオンに向かって走って行く。

 時間にして1秒にも満たない。その刹那の差が標的にされた自衛隊員を救う。


「終焉を告ぐ 瞋恚の炎 昇華し 埋めろ」

 アスピオンの標的が始纏唱を唱えた美剣に移る。

「猛り吼えろ」

 鷹の強固な爪は先程まで自衛隊員がいた二階の足場をグニャリと曲げた。

 普通の人間よりは堅固な隊員は自身を守る術を知っている。羽を撃った隊員は、アスピオンの攻撃に防御体制を取り、かろうじて無事であった。

 隊員から興味を失ったアスピオンは、そのまま大きく旋回する。そして、ただひたすらに美剣に向かって滑空した。

「フロウティス ライオンハート!!」

 紅炎に包まれた獅子と鷹が対峙する。


 美剣が走り出した瞬間、溝呂木と旭夏も始纏唱を唱えた。

御許みもとに咲きし徒花あだばなを喰らい尽くせ」

 左耳に付けたカフスから伸びた植物の蔦が溝呂木の身体を覆う。何の役にも立たない、このメテウスも、フロウティスも、溝呂木は大嫌いだった。

「狂い咲け」

 美剣と旭夏と同じ白色の鎧。溝呂木のフロウティスが他の二人と違うのは、全身を守るデザインにはなっていないという事。

 真っ白な長いコート、申し訳程度のガントレット。アシンメトリーになっているグリーブが唯一、鎧らしい。溝呂木のフロウティスは、それだけだった。

 だから溝呂木は蹴り技を特化した。そうするしかなかった。

 他の二人の支援に回る事でしか価値を証明できない自分と、役に立たないフロウティス。

 その大嫌いなフロウティスの名を溝呂木は仕方なく呼ぶ。呼ばなければ始纏が完了しないからだ。

「フロウティス マリアカラス」

 鷹のアスピオンはフロウティスを纏った溝呂木には見向きもしなかった。


 当初からの打ち合わせ通りに、溝呂木は自衛隊員の退避の支援に行く。

 この鉄工所には植物は無い。あったとしても追弔には何の役にも立たない。

 マリアカラスは同じカラスの名を持つ漁火のフロウティスのように使い勝手が良い訳でもない。

 溝呂木は最低最悪のハズレを引いたと常に心で嘆いていた。だから追弔以外に出来る事は全て全力でやってきた。

 決別した両親から妨害をされようとも、周囲の人間から哀れんだ目で見られようとも、自分の価値はソレしか無いと分かっていた。

「大丈夫ですか?」

 溝呂木の問いかけに隊員は苦悶の表情で答える。絶え絶えな呼吸から聞き取れたのは「アスピオンは?」と言う言葉だけだった。

 彼は未だ銃から手を離さず真っ直ぐに溝呂木を見る。その目には闘志が宿り、諦めは見えない。

「今、美剣と旭夏君が戦闘中です。ここは僕たちに任せて、ご自身の事を一番に考えてください」

 溝呂木は隊員に肩を貸し、窓から侵入してきた他の隊員に彼を託す。

 この建物の二階部分は一階にあった大型の重機を避けて移動する為だけに設置されている通路だった。

 今となっては撤去が済み、ここには何も無い。

 フロウティス部隊が戦い易いようにと用意された空間は、アスピオンにとっての空に成る。

 溝呂木は下で二人と戦うアスピオンの隙を探す。

 中央へ移動する溝呂木の耳が先程の隊員の声を拾ってしまう。

「すみませんっ!後は頼みます・・・」

 溝呂木よりも若い隊員が呟く小さく消えそうな声。この場にいる誰もがアスピオンの追弔を願っている。何の役にも立てない自分だが、彼等にはできない事ができる。だから、やれる事をやるしかない。

 溝呂木の心に静かだが熱い熱が宿る。

「美剣!自衛隊員の退避が完了した。僕が上から支援する」

 鷹のアスピオンはヒットアンドアウェイで美剣だけを標的に絞り狩り続けている。

 地に滑空してくる瞬間を狙い、美剣の拳がアスピオンを狙うがヒラリと躱わされてしまう。

 その隙を狙い、旭夏は氷塊をアスピオン目掛けて飛ばす。だが翼をはためかせた衝撃に負けた氷塊は、地に落ちて砕けた。

【あー!もうっ!図体がデカすぎるのよ!】

 溝呂木は次にアスピオンが飛び上がった瞬間に、その背に飛び乗るつもりだった。

 だがアスピオンと言えど狩りに長ける鷹が、人間の思い通りに動く訳がない。

 嘴を避けた瞬間に美剣は拳でカウンターを狙う。先程まで一撃離脱を繰り返していたアスピオンが、突然に狩りの仕方を変える。

 アスピオンは趾で美剣の拳ごと肩を掴んだ。

 ライオンハートの鎧は、アスピオンの爪如きでは砕けない。だが腕を捻りあげられた美剣の顔は苦痛に歪む。

【あのアスピオン、美剣を落とすつもりなんだわ!】

 美剣が拳で趾を、旭夏は飛び上がり氷柱で頭部を狙う。

 二人の攻撃に続いて溝呂木もアスピオンの翼を目掛けて飛び降りる。自重と蹴りの威力が合わされば骨を折れる筈だった。

 三方向からの同時攻撃。どれが決まっても決定打になる。

 だが空の王者は一度定めた狙いを諦める事はしなかった。

 アスピオンは美剣を捕らえたまま大きく身を捻り回転する。獲物を甚振る為なのか、その動きはワニのデスロールに似ていた。

 そのまま美剣の身体は地面に叩きつけられ擦られる。

 突然のアスピオンの動きに二人の判断は遅れた。

 旭夏は薙ぎ払われ距離を取らされる。

 溝呂木の蹴りも尾羽を掠めただけだった。

 崩れた体勢で繰り出された美剣の拳は爪にヒビを入れたが折るまでにはいかない。

 鷹が弱らせた獲物を捕食する様に、アスピオンは鋭い嘴を美剣の頭部へ突き立てようとする。

 その瞬間、頭部への攻撃を狙っていた旭夏は嘴へ氷柱を突き立てた。

 アスピオンの体躯は強く硬い。ましてや嘴を折る事など氷柱には不可能だった。

 普段であれば氷で動きを止めるだけで美剣がトドメを刺してくれる。だが今日はソレが叶わなかった。

 硬度のある氷の錬成には時間と集中を要する。だから近接戦闘中の今の旭夏の氷は弱く脆い。

 旭夏の氷は無惨に砕けた。

 アスピオンは旭夏と溝呂木には見向きもしない。

 その目は美剣だけを捕らえていた。

 美剣は腕を固定されたままで何とか嘴を避ける。だが避け切れず頬肉には大きな切れ目が入り、血が吹き出した。

 その血に興奮したアスピオンは、大きく翼をはためかせる暴れ出す。

「お触り厳禁だ!いい加減にしろ!!」

 美剣はアスピオンの趾に炎を纏わせた拳をお見舞いする。

 アスピオンには感覚が無い。だから痛覚も当然無い。

 だがまるで己を還す存在を怖れているかのように、アスピオンは大きな鳴き声を上げた。

 鷹の本来の高い鳴き声とは全く違う。重低音の不快な音が工場内に響く。

 鉄工所の古い窓のガラスが震えて割れる。

 アスピオンは美剣を端へ放り投げ、天井へ舞い上がった。

「美剣っー!!」

 飛ばされた場所は運悪く解体した鉄材が置いてあり周囲にはガラスの破片が散乱していた。うつ伏せに倒れた美剣の周りにはジワジワと血が広がっていく。

 その量から太い血管を損傷したのだと分かった。

 旭夏は美剣に駆け寄り身体を起こす。

 足はガラスによって切れたのか深い裂傷があった。肩には鉄材が刺さり、顔の半分に大きな擦過傷が出来ている。美剣は素人目にも分かる重症だった。

 溝呂木は二人を庇うように前に立つ。

 趾を一本失った為、バランスを取りにくいのだろう。アスピオンは何度も天井に体をぶつけていた。

 だが興奮状態は変わらず、尚も美剣を諦めようとはしていない。

「旭夏君!盾を!」

 溝呂木の意図を即座に察した旭夏は床に手をつく。

 三人の前に聳え立った氷の壁は、ご丁寧に棘状に形成されていく。

 一度だけアスピオンを退けられればいい。これが付け焼き刃である事など二人は分かっていた。

「溝呂木さん、美剣さんを頼みます」

「君が美剣を外まで連れて行くんだ」

 美剣は一刻を争う状態であった。

 あの狙撃以外の銃の使用は、上からの許可が下りていない。アスピオンの標的になっている美剣を担いで外まで行く事は普通の人間には難しい。だから自衛隊員は援護をしたくても何も出来ない。

『私が行きます!』

 漁火の声がイヤホンから響く。入り口のシャッターは人力で上げたのか三分の一程開いていた。

 そこから漁火が工場内へと入ってくる。

「君は今の美剣に触れたら駄目だ!」

 メテウスは二種類ある。

 今戦っている三人が持つヘラ因子によって構成されているメテウス。

 そして漁火の持つイザナミ因子によって構成されているメテウス。

 これらは研究の末に交われない事が判明した。

 交わればヘラ因子はイザナミ因子を打ち消す。

 漁火が今の状態の美剣に触れ、メテウスが使えなくなれば、今後の追弔は立ち行かなくなる。そうなれば日本が終わる。

 溝呂木は万が一、億が一に事態に備えていた。

 漁火もそれを察し、その場に止まる。

「単純に旭夏君の方が美剣を担いで早く戻ってこれるからって理由だよ」

 細身の溝呂木が筋肉質な美剣を担いで行くには時間がかかり過ぎる。

【まぁ、一番役立たずのアタシが行った方がいいんだろうけど・・・】

 追弔における価値を溝呂木以外の三人は持っている。命の優先順位の低さは自分が一番分かっていた。

 話をしている間も旭夏は氷を強化し続けてくれていたが、それもアスピオンの体当たりによって砕ける。

「行って!旭夏君!」

 旭夏はフロウティスを解纏げてんし、美剣に肩を貸す。フロウティスは、持ち主以外の人間が触れると激昂する性質を持っている。

 その昔、溝呂木は美剣のライオンハートに触れて指先に火傷を負わされた。

 旭夏は美剣が凍傷にならぬように配慮をしていた。

 美剣も意識が途絶えたのか、既にライオンハートを纏ってはいなかった。

「すぐに戻ります!」

 溝呂木はアスピオンと対峙する。小さく謝る美剣の声が聞こえた気がした。

 溝呂木は床にあった氷塊を上へと蹴り飛ばす。ソレは二人を追い頭上を通過しようとしたアスピオンの羽根を掠めた。

「僕より美剣?いくら鳥目鳥頭だからといっても、見る目が無さ過ぎるよ?」

 アスピオンに挑発など何の意味も無い。分かってはいたが、こうでもしないとやってられなかった。

 震える自分を鼓舞する為、仲間たちと自衛隊員たちに不安を与えぬ為に、溝呂木は余裕を装う。

「悪いけど、勝利の女神には愛されてるんだ。今日も僕にだけ微笑んでくれるはずさ」

 続いて溝呂木は氷塊を二つ蹴り飛ばす。

 一つはアスピオンの頭部を掠め、もう一つは翼の端を掠めた。

【やっぱり、飛んでる相手だと上手くいかないわね】

 溝呂木が狙っていたのは頭部にあるアスピオスではない。真の狙いは次列風切羽と呼ばれる初列風切羽の内側にある風切羽だった。それは鳥類が空中に浮かぶための揚力を得る為の羽根であり、これを失った鳥は二度と飛べなくなる。

 次列風切羽は30枚以上ある。どれかに当たればアスピオンを地に落とす事が出来る筈だった。

 溝呂木は飛行状態の鷹の翼を狙い、様々な角度から氷塊を飛ばし続けた。

 これには美剣を追おうとしていたアスピオンも標的を変えざるを得なくなる。

「さぁ、降りておいで。見下ろされるのは嫌いなんだ」

 アスピオンの硬い肉体には氷は通らない。だが羽であれば話は別であった。

 溝呂木は数多ある氷を蹴り上げ続ける。アスピオンには攻撃に出る隙を一切与えない。

 自身の脚力で氷を粉々に砕いてしまわぬ様に、力の加減は慎重に調整する。

 居ても立っても居られないなかったのだろう。自衛隊員たちも救助の為に、入り口手前ではあるが工場内へ突入してくれていた。

 それを横目で確認すると同時に一つの氷塊が左翼の根元を掠める。幾枚かの羽が舞った瞬間、ガクンとアスピオンの体躯が地に近付く。

 溝呂木は片羽だけで飛び続けようと足掻くアスピオンの右翼側に回った。助走をつけ、地面にのたうち回るアスピオンの上腕骨の根元に全力の蹴りを叩き込む。

 アスピオンの肉が軋み骨が砕ける感覚がした。

 ようやく鷹は完全に地に堕ちた。

 だが腐っても空の王者である鷹は、尚もその趾で地を蹴り溝呂木を狩ろうとする。

 だが趾も爪も嘴も、もう溝呂木に届く事はない。

 飛べない鳥は、跳べる人間には触れられない。

 フロウティスのデザインに合わせ溝呂木は重点的に脚を鍛え上げた。そうして死に物狂いで得た脚力は、部隊の中で抜きん出ていた。

 仲間たちが足場を使い跳ぶ距離を、溝呂木は一度の跳躍で跳べる。

 空の王者は制空権を失い、この場所は溝呂木の空になる。

 嘴を避けた溝呂木は二階の高さまで翔んだ。

 落下のスピードを乗せた蹴りが頸椎を砕く。

 植物を操る能力を持つ自分は、アスピオンを還す事は出来ない。どうやっても頭蓋骨の中のアスピオスまでは届かないからだ。

 他の三人とは比べ物にならない役立たずの能力。

 弱く儚いだけの力しかない自分が出来る唯一の事を、必死に探し、溝呂木は何とかここまで来た。

 四方八方から繰り出される溝呂木の蹴りが、アスピオンの骨を次々に粉砕していく。

【ごめんね・・・】

 これはいたずらに骸を痛めつけるだけの行為であった。

 ここにいるのが無力な自分でなければ、目の前のアスピオンの苦しむ時間は、もっと少なかった。

 美剣なら即座にアスピオスを還した。

 旭夏なら凍らせて動きを制限できた。

 この鷹は誰かのペットだったのかもしれない。

 はたまた何処かの田舎から迷い込んだのかもしれない。

 どちらにせよ、こんな事をされる為に生まれた訳では絶対に無い。

 自分に出来るのは、骨を砕いて動けなくさせる事だけだった。こんな野蛮で残酷な行為しか出来ない自分が嫌で堪らなかった。

「溝呂木さん!」

 旭夏の自分を呼ぶ声で溝呂木は我に返る。

 気が付けば全身の骨だけではなく爪も嘴も全てを砕き終えていた。アスピオンは地を這う事すら難しいのか、ビクビクと身体を震わせている。

 溝呂木は乱れていた呼吸を整える。

「この子を・・・還してあげてくれる?」

「はい」

 自衛隊員たちは、動けなくなったアスピオンをワイヤーロープできつく拘束していく。

 その側で旭夏は三分程かけて天井から延びる氷柱を成形した。

「旭夏君、もう少し大きく出来る?多分ソレだと一撃で終わらせてやれないと思うんだ」

「分かりました」

 アスピオンの硬さは溝呂木が一番良く分かっていた。旭夏は氷柱を10m程度の大きさにしていく。

 あと少し追弔が長引けばアスピオンは、凶暴性が増し体躯も大きくなっていた。そうなるまでは、ギリギリのタイミングだった。

「溝呂木さん、これでどうですか?」

「十分だよ」

 溝呂木は二階の手摺りに跳び乗って氷柱の根本を全力で蹴り上げる。

 氷柱は真っ直ぐ下へ落下しアスピオスを押し潰す。

 黄泉返ってしまった空の王者は、氷の墓標の下で塵となって消えていった。

【ごめんなさい・・・。さようなら】


 勝利を噛み締める間も無く、自衛隊員たちは速やかに残余の回収をしていく。

 迅し密かに追弔を匿す為に全員が全力を尽くす。

 これがLETという組織であり、追弔という仕事だった。

 溝呂木は美剣を様子を確認しに外へと向かう。

 丁度、救命救急の資格を持つ隊員が横たわる美剣に処置を施している所だった。その傍らでは漁火が美剣の口元に耳を寄せている。

「アイツ泣くからっ・・・今日の事はっ・・・言わないでくれっ!」

「・・・っ分かりましたから!喋らないでください!」

 美剣はこんな時まで美剣だった。死にそうな大怪我をしている自分の事よりも、他人の事を案じる。それが美剣であった。

 止血をしている隊員が「間も無く医官と天海女医が特殊緊急車両でいらっしゃいますから!」と励ますと、美剣は力無く笑った。

 後はもう、美剣を緊急車両に乗せ、回収を終えて撤収をするだけだ。

 分かってはいるが焦りは止められない。そんな溝呂木の横で伊藤が突然舌打ちをする。

「なぁ、美剣の血ってメテウスが混じってるんだろ?燃えたりするのか?」

 その問いにフロウティス部隊の三人は固まる。

 理論上は可能だった。伊藤の言う通り、血を燃やす事は、やろうと思えば出来るだろう。美剣がここまでの大怪我を負ったのは初めての事で、その考えは誰も浮かんだ事すら無かった。

 怒りよりも、まず驚きが勝る。

「搭載した消火剤持ってきますかぁ?あの鶏冠みたいな頭が白くなったら、性格もちょっとは潮らしくなるかもしれませんよ?」

「無いな!アイツは絶対に老害になるだろ?その辺燃やして歩くぞ?」

「メテウスミサイルじゃないっすかー!」

 村岡も伊藤も自分の言った言葉に大笑いしていた。その声に周りにいる他の隊員たちの動きが一瞬だけ止まる。その目は自分たちの指揮を取る人間の異常な発言に引いている様だった。

「おいおい!冗談だろ?笑えよ〜!」

 ゲラゲラと笑う伊藤に溝呂木は肩を叩かれる。村岡も手を叩いて笑っていた。

 幼い時から大嫌いだった父親から散々言われてきた言葉は「その辺の馬鹿共のようにゲラゲラ笑うな。品位が無くなる」だった。それを、今この瞬間、自分の目で見て【こういう事か】と納得する。

 生まれて初めて、あの父親でも正しい事を言うのだと思えた。

「すみません。僕はギャグとかには疎くて、今の何が面白いのか、本当に全く分からないのですが・・・」

 溝呂木は、いつもと同じ顔で笑って答えたつもりだった。だが違っていたのだろう。

 旭夏と漁火も拳を握り締め怒りに耐えている。

 その空気を察した伊藤と村岡の表情が焦りに変わった。「お育ちの良い方には難しかったか〜!」、「笑いのツボが違うんでしょうねぇ!」と、二人は互いに顔を見合わせて笑って逃げていく。

 ある日突然現れた化け物のアスピオンと、それを殺せる新たな化け物のフロウティス部隊。

 国を守る為に己を磨き上げてきた人間からすれば、化け物を殺す能力を持った一般人など邪魔でしかないのだろう。

 だから結成当時からフロウティス部隊は邪険にされていた。丸山が指揮を取り、前隊長の天海大和が生きていた時は少しはマシだった。

 だがその抑止力と橋渡しは、もういない。


 四年前、一番酷い扱いを受けたのが当時まだ大学生だった漁火だった。特訓と言う名目で自衛隊員から影で暴力を振るわれいた事に、自分たちの事に必死だった溝呂木たちは気付くのに遅れた。

 だが、漁火は最後までやり返す事をしなかった。 

 全てが明るみになった時、美剣は激昂し漁火を殴っった隊員たちを全員半殺しにした。

 そこから自衛隊とフロウティス部隊は仲を違えた。

 そんな中で自分だけは何時も、"お客様"扱いであり、機嫌を損ねないようにと丁重に扱われ続けていた。

 だから溝呂木は自分にしか出来ない方法で嫌がらせをし続けた。

 我儘のフリをして、漁火にさせていた特訓を最後の一人が倒れるまでやらせた。本部の自販機の水の種類を全て変えさせたり、終了した季節限定商品を買いに行かせたりもした。

 そんな方法でしか報復をしてやれなかった。

 本当は美剣の様に心のままに叫んで怒りたかった。

 だが、感情と本心を表に出す事を禁じられて生きてきた溝呂木は怒れなかった。

 そして、この国で生きていくからこそ上の人間の反感は買うわけにはいかなかった。

 たった一人の家族だった弟を守る為に、溝呂木は様々な物を呑み込んだ。

 結局、大事な場面で我が身可愛さが勝る人間だから、肝心な時に役に立たない能力しかないのだろう。

 今も昔も"溝呂木議員の息子さん"という呪いが、何にもなれなくさせる、何処にも行けなくさせる。

 他のメンバーのような化け物扱いをされる訳でもない。かと言って普通の人間としても扱われない。

 フロウティス部隊が反乱した時の為の自衛隊員も、溝呂木だけは殺すなと命令をされている。

 同じな筈なのに何の役にも立てない。

 同じなのに同じに扱われない。

 だけど父の秘書をしていた時の生活には絶対に戻りたくはなかった。

 戻るくらいならば、追弔で死んだ方がマシだと思える。それ程に以前の生活は辛かった。

 だから溝呂木は決別の為に戦う事を選んだ。


 美剣の搬送を見届け、全員で現場から撤退する。

 行きとは違い漁火だけを別の車両に乗せ、溝呂木は旭夏と同じ車両に乗る。これは美剣の血が服についたままの旭夏から漁火を離す為の措置であった。

 通話しながら三人は車内で今日の反省会を始める。

「念の為しばらくは特殊緊急車両の同行を申請しよう。美剣がいないと危険度は増すからね。それから報告書には、旭夏君がトドメを刺したって記載して」

「・・・私は殆ど何もしていません。全て溝呂木さんの功績です」

 アスピオンにトドメを刺すと給与に報酬が追加される。つまり追弔は、すればする程に懐が潤う。

 四年前に敬意が感じられない人間たちを脅して溝呂木が約束させた対価。昔は今ほどアスピオンも多くはなかった。だが今やアスピオンは週に二回は現れる。

 そうして、今更後に引けないお偉方の顔は日に日に青くなっていった。

【言い出して約束させた人間の追弔数が0なんだから笑えるわ・・・】

 溝呂木は自嘲が顔に出ないように振る舞う。

「違うよ。君の力が無ければ僕は何も出来なかった。だから今日の事は君の功績だ」

「あの時・・・私も翼に攻撃すべきでした。そうすれば美剣さんが負傷する事も無かった」

「僕が君の立場でも同じ事をしたよ。気にするなって言っても無理だろうけど、次に活かそう」

 旭夏は小さく返事をして俯く。

『すみません・・・。私がもっと違う形で皆さんをサポートできていれば・・・』

「漁火君まで、よしてくれよ」

「漁火さんは今のままで充分です」

『私は待機をしていただけだ。皆さんに申し訳が無い』

【あっー!もうっ!面倒くさいわねー!】

 漁火が自分を否定する度に溝呂木は惨めになる。

 漁火は寝ても覚めても常に索敵とデコイの仕掛けを怠らない。そんな男が戦闘に参加しない事を申し訳が無いと詫びる。その度に何も出来ていない自分は、存在価値を否定されている気になってしまう。

 本人に至っては、そんな意図は全く無い。だがそれが余計に溝呂木を惨めにさせていた。

 自分の演技ぶった誠実さではなく、漁火は本物の天然の誠実な男であった。

 落ち込みたいのは自分の方だが、年下で少しだけ後輩である旭夏と漁火のケアも仕事の内だ。

「もしも美剣が、三途の川で大和さんに会ったら、どうなると思う?」

 溝呂木の問いに漁火と旭夏は答える。

『・・・抱きしめられそうになって』

「・・・逃げて帰ってくると思います」

 ようやく旭夏は顔を上げた。大和の過剰なスキンシップから逃げる美剣の姿を想像したのだろう。その顔は少しだけだが笑っていた。

 おそらく漁火も同じ顔をしている筈だ。

「だよね?そういう事だから、絶対に大丈夫だよ」

 他人が聞けば「だからどうした?」と言われるだろう。美剣は危険な状態であり、死者にそんな力があるワケも無い。

 だが可笑しいのは溝呂木も同じだった。

 事態は何も好転していないのに本当に大丈夫に思える。大和と美剣には、それだけの力があった。

 二人には到底敵う気がしない。嫉妬の感情すらも湧かない程に足元にも及ばない。

 だから大和の後任は絶対に美剣しかいない。

 自分は人の上に立つ資格など無いのだから。

【美剣・・・死んだらブッ殺すわよ】


 溝呂木は普段の自分の仕事に加え、美剣の分の仕事をこなす。多忙が極まり、動揺する暇を与えてくれない事だけが救いだった。

 本当に三途の川から逃げてきたのか、年上女性の声が効いたのか。どちらにせよ美剣は死の淵から生還した。

 美剣は定期的に都が回収した動物の死骸をメテウスで火葬している。その死因は自然死からロードキル、虐待からの遺棄等、様々。その中から前回の追弔のような、アスピオン化されると対処が難しい個体を選別し、自らで処理をしに行っていた。

 理由は簡単で、美剣なら火葬場より金がかからないから。だが、しばらくはそれが出来ない。

 溝呂木は都の担当者と連絡を取り死骸のリストにチェックを入れていく。頭部を潰せば話は早い。だが道徳的に難しい。だから今は火葬場で早急に焼いてもらうしかないのだ。

 その事で会議では空費だと嫌味を言われる。

 追弔により破損した工事現場の報道の規制も依頼せねばならない。

 研究員からはアスピオンの検体を取ってこいと催促された。

 極め付けに、上の人間からは「追弔に穴を開けるな」とお叱りを受けた。

 そして今、目の前には新たな頭痛の種がいる。

「美剣さんの容体はいかがですか?私、心配で心配で堪らなくて」

 わざとらしく悲しい表情をする四月一日の本当の目的は別にあった。

 新たなメテウスを保有する人間である西宮愛夢。彼女の勧誘についての是非を問いに来たのだろう。

 過去、四月一日は旭夏と漁火の内定を取り消させてLETに縛り付けた。

 そんな人間に二人が会いたい訳がない。 

 漁火は出かけているが、旭夏は仕事部屋にいる。

 だから溝呂木はエントランスで四月一日を足止めをしていた。

「ご心配をおかけしました。月歌さんから聞いていると思いますが、どうにか持ち越してはいます」

「そうですか!それは良かった。・・・ところで、追弔を三人でこなすのは大変じゃないですか?そろそろ新しい風がいると思うんですけど?」

 おそらく自分たちの目論みは四月一日にバレている。白々しく切り出された話を溝呂木は逸らす。

「分かっているのなら、支援の方を強化してください。そんな事よりも、向井議員に警告はしてくださいましたか?僕の方でも秘書の方に伝言を残しましたが、お返事が無いのですが」

「勿論です。全く上の方々には困り果てます。私がどれだけ厳守と漏洩防止に釘をさしても、コレだ。キチンと厳しくお叱りしておきましたよ」

 四月一日の言う事は尤もであった。

 今日までアスピオンやLETの事が漏れていないのは全て四月一日の力だ。この国を統じる人間は無能でも、下の人間が優秀だから成り立っている。

 そうでなければ、この国は立ち行かない。

 議員秘書をしていた溝呂木は、この国の政治家たちの無能ぶりを知っている。

 だからこそ、目の前の男の恐ろしさが分かる。

 政府の愚かで非人道的な無茶振り。それらを全て叶えてきたのは、目の前の四月一日なのだから。

「美剣さんには彼女は追弔に向いていないから別の道に進ませてやってくれ、と言われてしまいした。それを説き伏せて納得させるのが仕事だというのに。職務怠慢だと思いませんか?」

 今は穏やかに話してはいるが、溝呂木はその時の会話を聞いていた。その時の四月一日は語気も強く、何かを焦っているようだった。

「ですから、その件は漁火君が引き継いで説得に当たってくれています。それよりも、一人欠けたんですよ?今後の追弔に何かしらの援助はないのですか?」

「私も上の方々にお願いはしているのですが、お返事が・・・その・・・都内に猛獣はいないから、もう十分だろう・・・と」

 エントランスには空調が効いている。そのはずなのに急激に温度が下がった気がした。

 これが接待の席ならば溝呂木も賛辞と共に笑うフリをしてやった。だがこれは日本国民の命を脅かす問題だ。それが、事もあろうに、市民より選ばれた国を統べる人間が、ギャグで流した。

 その危機感の無さに溝呂木は目眩を感じた。

【こんなの・・・皆んなに伝えられる訳ないじゃない】

 今日こそは、を何度も繰り返し、その度に期待は裏切られてきた。もう怒りすらも湧かない。

 四月一日も呆れて寒そうに身を摩る。

「つまり、いつも通りなんですね?迅し私かにアスピオンを還して匿せ、と」

「ええ、皆さんは追弔に集中してくださればいいです。勧誘の件、私に一任してくだされば絶対に悪いようにはしませんよ?」

「・・・結構です。昔のような事をされては敵いませんから」

「仰る通りです!昔のような事は勘弁願いますね」

 そう言い四月一日は指で義眼を撫でる。

「早急に武器を製造し、警察や自衛隊だけでも追弔を行えるようにするのが、そちらのお仕事では?」

 製造し完成したとしても、その武器を使いこなしアスピオンと渡り合うのは常人には不可能だった。結局はフロウティス部隊頼みになる事は分かっていた。

 だがソレが完成すれは溝呂木でも追弔が可能になる。後に現れるメテウスを持つ者を解放してやれる。その中には西宮愛夢も含まれていた。

「耳が痛いですね。そうしたいのは山々ですが、何せアスピオンの研究が進まないので難しいんですよ。生体実験でも出来たら話は早いのですが・・・」

 四月一日は溝呂木の神経を逆撫でする。

 過去、LETの研究員は大和の体を実験し尽くした。真っ黒だった彼の髪が真っ白に変わる程の過酷な実験。自分以外の人間が同じ事をされないようにと、優しい大和は実験の全てを受け入れた。

 その事実を知った時には、何もかもが遅かった。

「四月一日さんは何も変わらないんですね」

「溝呂木さんは変わりましたね。もう少し頭の良い立ち回りをしてくれると思ってたんですけど」

「ご期待に添えず申し訳ありません。お前は出来損ないだ、と散々言われました。買いかぶり過ぎです」

「溝呂木さんは、ご自身の使い方を理解していないだけです。どうです?私に育てられてみませんか?」

「僕は毎日が反抗期なので難しいのでは?今度は目だけで済みませんよ?」

「では、私が死んだら献花は溝呂木さんにお願いします。私の葬式会場をお花畑にしてください」

 四月一日が思う溝呂木のメテウスの使い道は、葬式の献花だった。

「・・・考えておきます」

 何を言ってもヒラリハラリと躱されてしまう。溝呂木は時計に目をやり、早く帰れと遠回しに示唆する。

「溝呂木さんから良い返事が得られず残念です。せめて彼女からは良い返事を貰えるように祈っています」

「どうでしょう?今の若い子は、こんな仕事は選ばないと思いますよ。キツイ、汚い、危険、俗に言う3Kですから。僕だって勧めたくない」

 ようやく諦めてくれたのか、四月一日は、ため息を吐きエレベーターに向かって歩いて行く。だが突然振り返り、口の端を吊り上げて笑った。

 その顔にゾワリと嫌悪感が奔る。

「メテウスを持っている人って扱い易いんですよ。何を考えているのかが、すぐに分かる。性格は全く違うのに、行き着く先は同じ。本当に面白い方々だ」

 その言葉に嫌な予感がしたが、これ以上は四月一日を引き止めたくはなかった。

 だが数日後、溝呂木は漁火からの連絡によって四月一日の狡猾さを再確認する事となる。


 四月一日の思惑通り、西宮愛夢はLETへの入隊を希望した。

【あの漁火が説得してダメなら、もう誰が行ってもダメね・・・。そんな子が本当に美剣の言う事なんて聞くのかしら?】

 スマホから聞こえる漁火の声は消沈していた。

 医療ルームのベッドに横たわる美剣の顔色は、相変わらずだった。その隣には月歌もいる。

「月歌さん、少しだけ美剣と話をしても良いですか?」

「良いけど、あんまり無茶させちゃダメよ」

「月歌さんとの時間を邪魔しやがって・・・。お前の顔見たら傷の治りが遅くなるだろうが」

「傷口に種子を植えて発芽させてやろうか?お前のむさ苦しさも、ちょっとはマシになるぞ。相殺は無理だけどな」

「オレが花なんて背負ったら魅力が増し過ぎて、全世界のご婦人方が見惚れちまうな」

「世界規模で目が潰れるの間違いだろ?」

 何かあれば即通話を切れるように、溝呂木は美剣にスマホの画面を向ける。

「例の子が、LETに入りたいと言い出した。お前の言う事なら聞くそうだ。何を言えばいいか分かるよな?」

「あー・・・やっぱ、そうなったかぁ」

 美剣は苦笑いし無機質の真っ白な天井を見上げた。

 もう組織としての体裁は充分に保った。後は西宮愛夢を突き放すだけだった。それは、情が湧いた漁火には難しかったのだろう。

「悪いけど、この通話は僕も聞かせてもらうから」

『はい・・・。では、こちらもスピーカーにします』

 美剣が出来なかった時はその役目は自分がやる。溝呂木はそのつもりでいた。


 通話が始まった瞬間、溝呂木は驚きで目を見開く。それは隣にいる月歌も同じだった。

 美剣が西宮愛夢と話す時の声は、普段と全く違っていたからだ。その声はあまりに優しかった。

 年上の月歌と話す時の猫撫で声とも違う。

 政府官僚のお偉方と話す時の感情を抑えた声とも違う。

 自分にも弟がいるから分かる。

 その声は、歳の離れた妹をあやす兄のようだった。

【コイツ、本当に美剣?頭打って人格変わったの?】

 疑いを払拭する為、溝呂木は何度も会話に割り込む。だがいくら茶々を入れようと、目の前にいるのは溝呂木が知る美剣だった。

 急かす漁火の気持ちを知りながらも、美剣は優しく穏やかに西宮愛夢の話を聞いてやっていた。

 だが声は穏やかでも、顔色は悪くなっていく一方であった。


『私、学校で誰かと一緒に勉強するのが好きじゃないんです。だから進学はしたくない。今は、美剣さんのおかげで学校が楽しいけど・・・。約束通り何とかしてくれて、本当にありがとうございました』

【嫌な事から逃げたいから、こんな所へ来たいの!?追弔を直接見てるのにバカなんじゃないの!?最悪の決断じゃない!】

 どう考えても大学生活が、この仕事よりも辛い訳がなかった。ただの我儘で給与に目が眩んだのか、底抜けのお人好しなのかは、分からない。

 どちらにしても、その願いは聞き入れられる事は無い。美剣が西宮愛夢の入隊は許可しないからだ。


『だって・・・そうなったら、美剣さんも漁火さんも、凄い人気者になって、きっと私になんて構ってくれなくなっちゃう・・・。私なんかに会いにきてくれなくなっちゃう!お話しできなくなっちゃう!!それが寂しくて悲しくて絶対に嫌だったからっ!!!』

 西宮愛夢の叫びに美剣はベッドから転げ落ちた。側にあった椅子が倒れ派手な音が響く。

 美剣を支えてベッドへと戻すが、その顔は痛みで苦しむ男の顔ではなかった。どうやら電話口の漁火も同じ状態らしく西宮愛夢の困惑する声が聞こえる。

 可愛らしい独占欲を向けてもらえた事が嬉しいのか、美剣に至っては「可愛いさが凶器っ!!」と訳の分からない事を叫び出す始末であった。

【コレ、ダメなやつだわ。嫌な予感がするわ】

 溝呂木の嫌な予感は的中する。

 西宮愛夢は美剣を完璧に絆した。

「必ずお前を迎えに行く。うちの部隊に来いよ!」

 美剣は一人で勝手に話を進めていく。

 漁火に至っては先程の西宮愛夢の言葉に完璧に打ちのめされている。

 だが、まだ後戻りは効く段階だった。

 納得しているのは美剣と本人だけで、三人が反対して協力しなければいい。

 弱音を吐く漁火に喝を入れ、溝呂木は通話を切る。

 怪我人である美剣を殴るワケにはいかない。分かってはいたが、胸ぐらを掴む手は止まらなかった。

「お前は、バカだがクズじゃないと思っていた!たった一言だけ!此処へは来るなと言えば終わる話だっただろ!」

 苦痛に歪む美剣の表情で怒りは少し落ち着くが、冷静にはなれなかった。

「ちょっと、溝呂木君!落ち着いて!」

 月歌の制止の声を聞いても美剣の病院着から指は離れない。

 大和と皇は、追弔が無ければ今も生きていられた。その事実を美剣も目の当たりにしている。

 屈強で大らかな大和。最強のフロウティスを得た皇。その二人の犠牲の上で、今の自分たちは在る。

 溝呂木は西宮愛夢に会った事は無い。だが分かる。

 他人と共に学びたくないからという理由で進学をしたくないと言うような脆弱な精神の持ち主だという事が。だが彼女は、まだ若い。無限の可能性がある。

 そんな人間には追弔は不可能で、他に良い未来が山ほど有ると確信していた。

「何でだ!?何でわざわざ追弔の犠牲者を増やそうとするんだ!?あの日の事を忘れたのか?」

 旭夏と漁火のように、政府の人間に未来の芽を摘み取られぬようにする為に。

 大和と皇のように、悲しき別れをしなくても良いようにする為に。

 その為に、ここまでやってきた。

 あの日の皆の涙を流す姿は、忘れたくても忘れられない。絶対に忘れてはいけない記憶だった。

「溝呂木君!お願いだから無茶させないで!」

 月歌も最愛の人を失った追弔の犠牲者だった。

 こんな仕事に就いて良い人間がいる筈が無い。

 それなのに美剣は西宮愛夢をこの世界に巻き込もうとしている。

「お前は、あの二人が今っ・・・どんな気持ちで仕事をしているのか、誰よりも分かってるだろうが!」

 自ら望んでLETに入ったのは溝呂木と美剣だけで、後の二人は違った。自分がもっと使えるメテウスを持っていれば、旭夏と漁火を解放してやれる。もう一度、夢を叶えさせてやれる筈だった。

 その悔しさが、溝呂木の怒りを増大させていく。

 美剣を締め上げる手に、誰かの手が優しく触れる。

「溝呂木さん、その辺りで止めてください。美剣さんの傷口が開いています」

 いつの間にか旭夏が、溝呂木と美剣の間にいた。

 旭夏の冷静な声に溝呂木は我に返る。見ると美剣の病院着には血が滲んでいた。

「私が旭夏君を呼んだのよ!いい加減にしなさい!」

 ベッドへ美剣を戻すと月歌は慌てて傷の処置を始める。その姿を見て、ようやく自分のしてしまった事に気付いた。

「すみません。取り乱しました」

「もしかして、今から四人で言い争うつもり?患者に無理を強いる行為は医師として許可出来ません」

 そう言い月歌は溝呂木の前で仁王立ちする。

「一体何があったんですか?」

 突然、月歌に呼ばれただけの旭夏にしたら、今は訳の分からない状況であろう。説明をしようとする溝呂木を月歌が「冷静じゃない人は黙ってて」と制した。

「先程、美剣君が例の女子高生ちゃん本人の希望を聞いて、入隊の許可を出しました」

 これには流石の旭夏の無表情も崩れた。長いまつ毛が更に際立つ程に瞳を大きく開いて驚いている。

「話は漁火君が戻ってからにして!本当は、このまま美剣君を休ませてあげたいんだけど、納得しないでしょう?だから最小限最短で話合いを終わらせて!」

「これは僕たちの問題で、美剣には隊長としての説明責任が─」

 そう言いかけるが、月歌はピンヒールを床に打ちつけて溝呂木を黙らせた。

「確か揉めたら麻雀で解決するのよね?私と打つ?全員、真っ裸にして角質まで毟り取ってあげるけど?」

 月歌の言葉に溝呂木と旭夏は縮み上がり震えた。

 表皮の全てを、と言わなかったあたりは月歌の優しさなのだろう。

 かつて溝呂木は美剣との小競り合いが絶えなかった為に、大和に同じ様な事を言われていた。彼の場合は裸でプロレスを提案してきた。しかもローションまで持ち出してくるという徹底ぶりで、これには当時の美剣と二人で即座に和解したフリをしたのだった。

 脱衣麻雀を提案してくる月歌は、やはり大和の妻に相応しい。彼の亡き今でも、フロウティス部隊の良き相談役を務めてくれているのだから。


 ノックの音が鳴るが返事を待たずに漁火が病室へと入ってくる。礼儀を重じる漁火には珍しい行動に溝呂木は驚く。その表情は、怒りと悲しみが混じった複雑な顔をしており、その理由にも納得はできていた。

 ずっと西宮愛夢を案じていた漁火には、美剣に怒りをぶつける権利が有る。

【これは、漁火に譲った方が良さそうね】

 溝呂木は旭夏と顔を見合わせ黙る。

「何故、西宮さんにあんな事を言ったんですか?追弔なんて出来る人じゃない事は、美剣さんが誰よりも分かってるはずです!」

「本人が強く望んでたからだ。アイツが自分で考えて決めた事を尊重してやりたい。誰かに無理矢理言わされたんじゃないんだろ?」

「だとしても美剣さんは承諾すべきではなかった!西宮さんは、こんな手紙で心変わりした!まだ若いから、お金なんか揺らいでしまっただけで!アレは一瞬の気の迷いなんですよ!今ある幸せが、どれだけ大切で貴重なのか分かってないだけだ!」

 旭夏は漁火が放った手紙を手に取り開く。覗き見ると高卒就職者の平均給与を大きく上回る額が提示されていた。

「確かに、他所とは比べ物にならない給与だ。魅力的には見えるかもしれないけど、命をかけられる値段ではないのも確かだね」

 これには溝呂木も心が痛んだ。

 フロウティス部隊に高額な給与を出すようにふっかけたのは溝呂木自身なのだから。

 四年前、政府の人間が最初に提示してきた給与は自衛隊の尉官と同額だった。それを「ご冗談を」と笑い飛ばし、希望額に至るまでは追弔をしないと脅した。そうして荒ぶり暴れるアスピオンに泣き喚く政府の代表者に、将官と同額の給与で働く事を誓約をさせたのだった。

 それが生命に見合う報酬なのかは分からないが、少なくとも働きには相応しいと妥協はできた。

「金なんか、今ある幸せ、か。此処にいるのはオレ以外は全員お金持ち様だもんな。アイツの気持ちなんて分かる訳ねぇか」

 その言葉に溝呂木の心臓部にチクリと痛みが奔る。

「お前らは何不自由なく育って親の金で私立通って、四年制大学出してもらった人間だ。学費の心配した事もなけりゃ、奨学金も借りてない。金に不安感じた事ないヤツが、金持ちじゃないってんなら悪かったな」

 確実に自分は美剣が言う側の人間であった。金に関してだけは、心配した事など一度も無い。

 だが両親に勘当されてからは違った。

 自由は手に入れたが、圧力によって衣食住すらも危ぶまれた。共に家を出た弟を守る為に、当時の溝呂木は必死に知人に助けを求めた。

 だが自分の交友関係は、父の影響力によって結ばれていた打算だらけの物だったのだと痛感した。

 "溝呂木翼"を助けてくれる人間はいなかった。その事実をまざまざと見せつけられた。

 

「一度しか会っていない美剣さんの方が、私なんかよりもずっと西宮さんの事を分かっていますね。・・・私は、もうこの任を降ります。構いませんよね?どなたか、引継ぎをお願いします」

 漁火はもう限界なのだろう。旭夏が引き継がない事は分かりきっていた。

 だから必然的に後任は自分が引き受けるしかない。

「分かったよ。その子の事は僕が引継ぐ。担当者の連絡先を教えて」

 漁火は鞄を開く。その一瞬、動きが止まったのを溝呂木は見逃さなかった。

「勝手に決めんな。オレは許可しねぇぞ」

 美剣の声に病室内の空気が重くヒリつく。

 だが漁火も一歩も引かない。

「それは命令でしょうか?でしたら聞きません」

 病室を出ようとする漁火に、美剣は続けて言う。

「お前が自分から憎まれ役買って出てアイツを止めようとした事は分かってる。だが逆効果だ。今頃アイツは、お前じゃなく自分を責めて泣いているはずだ」

 まるで弱い所を突かれた様に漁火の動きが止まる。

「アイツをまた泣かせた代償だ。この任を降りる事は許さない。担当の人選は絶対に変えない」

 美剣の迫力に漁火は何も言えないのか、無言で病室の扉を開いて部屋を出た。旭夏と共にそれに続く。

「おい、美剣。お前一人がその子の加入に賛成していても、僕たち三人はそれを許さない。そしてお前の接触禁止令も解かない。だから、この話は終わりだ」

「私も溝呂木さんと同じ意見です。漁火さんの説得が断られたのなら、次の適任者に任せるのが一番良いと思います」

 美剣は金や権力に屈しない。だからこの決断は、何かの意味があるのだろう。だが猫の手も借りたいフロウティス部隊ではあるが、18歳の少女に追弔をやらせて良いとは誰も思っていない。

「漁火!お前ならやれるって思ったから、オレはお前を選んだ。お前は傷付いた人間の心に寄り添ってくれるはずだって確信している。だから西宮愛夢の事は、お前に・・・任せたっ!」

 まるで勧誘ではなく西宮愛夢の心を救う為に漁火を派遣させた、そんな言い方を美剣はした。そして、青い顔のままベッドへ沈んでいく。

「ごめん、漁火君。君は気にせずに通常業務に戻ってくれて構わないから」

 溝呂木のフォローにも漁火は空返事を返す。

【あー・・・これは完璧にヘソ曲げてるわね。どっちも譲らないタイプだから、ぶつかると面倒だわ】

 長く仕事を共にしているが、ここまで負の感情を表に出した漁火を見るのは初めてだった。最後に漁火のこんな表情を見たのは、大和と皇が亡くなった時だ。

 溝呂木は漁火に渡された名刺に目を通す。

「臼井琴美、教頭か。女性なら穏便に済みそうだ」

 溝呂木の呟きに横にいた旭夏が答える。

「溝呂木さんが直接会ってお話ししたならば、男性でも魅了されない方はいないと思いますが?」

「そんな事ないよ。もしそうなら、今頃はこんな所にいない筈だろ?」

「・・・確かに」

 四月一日や旭夏からは、どうにも買いかぶられていた。


 漁火も旭夏も早々に仕事部屋に籠ってしまう。

 愚痴り合う事も励まし合う事も無い、ただの同僚。同い年の二人の関係は、そんな風だった。

【アタシが言うのも何だけど、もうちょっと仲良くすればいいのに。まぁチームワークに問題は無いから無理強いはしないけど】

 追弔が無ければ出会う事はなかった四人は、本当に必要最低限の関わりしかない。自分と美剣が仲良くする未来は絶対に無い。だが旭夏と漁火は違う。

 同じ傷を持つ者同士、仲を深められる筈なのだ。

「失礼します!清掃及びゴミの回収に参りました!」

 自衛隊員の溌剌な声がミーティングルームに響く。見ると鷹のアスピオンの追弔の際に、溝呂木が救出した隊員がそこにいた。

「お疲れ様です。いつもありがとうございます。お怪我の方は大丈夫ですか?」

 溝呂木は他所行きの顔で隊員に礼を言い、ミーティングルームのゴミ箱を隊員の前に置く。

「はい!問題ありません!その節は、本当にありがとうございました!」

 隊員の大きな返事に溝呂木はたじろぐ。何故か助けた彼の顔は少し赤くなっている。

 国家機密の塊であるフロウティス部隊は、ゴミ一つにおいても細心の注意を払わねばならない。その為、清掃においては、自衛隊員である彼らの手を借りていた。元々、自分たちで清掃をする習慣が出来ている彼らにとっては、大した手間ではないのだろう。目の前の彼らも嫌な顔一つせずに清掃とゴミ集めをしてくれていた。

 各員の仕事部屋のゴミを集めていた隊員に目が止まる。その手に持っていた茶封筒には中身が入ったままになっていた。

【ちょっと誰よ!中身を入れたまま捨てるなんて!どんな書類もシュレッダーにかけて機密用の溶解ボックスに入れろって、いつも言ってるのに!】

 そんな事をする人間に心当たりは一人しかいなかった。だが美剣は今は病室にいる筈であり、ゴミを出せる筈がなかった。となると犯人は旭夏か漁火という事になる。

【まぁ最近忙しかったし、初犯だから許してあげるわ】

 ゴミを集めてくれていた隊員に謝罪し、溝呂木は茶封筒をゴミ袋から出す。

「すみません。コレは僕の方で中身を確認して処分しておきます」

 仕事部屋へ戻って茶封筒の中身を確認すると、目立つ色の付箋に書かれた見慣れた文字は漁火のものだった。そして見慣れない独特なタッチのイラストに、思わず吹き出してしまいそうになる。

 溝呂木は父に大声で笑う事を禁じられて生きてきた。だから、物心ついた時から声を出して心から笑った事は無い。いつも、貼り付けた様な微笑みで世を渡って生きていた。

 幸いにも、腹を抱える程に面白いと思える出来事に出会えた事が無い為に然程も苦労は無い。

 だが、そんな自分が笑いを堪える出来事が、今、この瞬間、生まれて初めて起こった。

「・・・っん、くっ!」

 この量の企業のパンフレットや会社概要を追弔と普段の仕事の合間に集めた漁火の苦労を思うと、笑いはスッと収まる。

 溝呂木は書類を茶封筒に戻す。

「アタシは、その子の為にここまでしてやれないわ」


 次の日の朝、最初に本部に着いた溝呂木を迎えたのは、けたたましい内線の音だった。

 受話器を持ち上げると『おはよう、溝呂木君。早くて助かるわぁ〜』と言う眠そうな月歌の声がした。

「おはようございます。月歌さんから連絡なんて珍しいですね。何かありましたか?」

『夜勤明けで帰ろうと思ったらね、美剣君が急に溝呂木君に連絡しろって煩いから〜』

「あのバカが、すみません」

 これ以上の無理をさせない為、美剣はスマホを取り上げられていた。それが災いし月歌は被害を被った。

『今から言うのは美剣君からの言伝でーす!』

 月歌の秋の夜空の様な涼やかな声が、突然凛々しく変わる。すぐに美剣の声真似だと気付ける程度には寄せてきていた。

『もし漁火から何かを渡されても、返してやれよ。アイツは絶対に西宮愛夢を救う事を諦めないからな。お前なんかには、まだ会わせてやらねぇよ〜。だって』

 月歌の欠伸をする声を聞きながら溝呂木は苛立ちを抑え一考してみる。

【渡されたっていうか拾った?会わせてやらねぇよって、別にこっちだって会いたくないわよ!誰の所為でこんな事になってると思ってんのよ!?】

 完治したなら必ずや蹴りをお見舞いしてやる事を決意し、溝呂木は月歌に詫びる。

 フロウティス部隊の専門医師で医系技官でもある月歌は、上司である厚労省からメテウスを持つ者を絶対に死なせるなと命令されている。その為に最近は防衛省の医官と共に美剣にかかりきりであった。

 今は月歌が食い止めてくれてはいるが、あと少しすれば美剣は追弔に同行を強要される。そして満身創痍のまま戦いに駆り出されてしまうだろう。

『えっと、後は・・・』

「まだあるんですか?」

『西宮愛夢はあの日のお前なんだよ。だって〜!』

「え?それって・・・?」

『確かに伝えたからね。じゃあねー!』

 その意味を月歌に聞こうとするが通話は切れた。

 美剣の容体が安定し、ようやく肩の荷が降りたのだろう。月歌の声は一刻も早く帰りたいと言っていた。

 溝呂木は昨日捨てられた茶封筒を見つめる。

「・・・どうしろって言うのよ」

 漁火の仕事量は既に常識の範疇を超えていた。そこに更に西宮愛夢の進路の相談に乗る事など、本当は許すべきではなかったのだ。

 漁火は24時間365日メテウスを使い続けている。

誰が、いくら止めようとも、漁火はやめなかった。

 自分も限界に近かったが、その献身には応えてやりたいと常日頃から思ってはいた。

 西宮愛夢を説得する。メテウスを有している事以外は普通の女の子である彼女を説き伏せる。それは簡単な事の筈だ。

 だが、あの漁火が今日までそれを成し得ていない。

 溝呂木が知り得る中でも最も意志の固い男、それが漁火星雪であった。その漁火が説得できなかった相手。つまり西宮愛夢は漁火と同等か、それ以上に強固な意志の持ち主という事になる。

「これを見ても、何も思わなかったの?」

 茶封筒の中身は、漁火が西宮愛夢の為に調べ上げた斡旋先だった。丁寧に付箋に書かれた説明と前向きなアドバイスに、どれだけ思慮を重ねていたのかが窺い知れる。

「どう考えても、追弔よりも他の仕事の方が良いに決まってるじゃない」

 心変わりの原因は安定した収入を望んでの事なのだろう。その金は余暇があって初めて使える。だがそれを享受できる時間がフロウティス部隊には無い。西宮愛夢は、その事を分かっていなかった。

 ずっと昨日の事を考えていたからだろう。西宮愛夢の声が頭の中で響いて消えない。

 そして先程の月歌伝手で聞いた美剣の言葉が胸をざわつかせていく。

「何が・・・二度と笑わないよ。アタシなんて心から笑えた事なんて・・・無いわよ」

 たとえ、心から笑えなくとも生きてはいける。自分がそうだったから分かる。

「何が国民栄誉賞よ。国民を騙し続けている人間が、アタシたちを讃えるわけがない。そんな人間に飼われるよりも、何も知らないフリをして普通に生きる方が幸せに決まってるわ」

 LETに入り追弔に明け暮れるよりも、普通の生活をして生きていく。その方がずっと幸せな筈であった。皆がそれを渇望して今も戦っている。この重圧を背負う人間をこれ以上増やすわけにはいかない。

「あの子が、あの日のアタシ・・・?」

 美剣が言うあの日とは、LETに入る為に必死に連帯保証人を探していた時の事だろう。

 両親の傀儡には戻りたくないと足掻き、誰でも良いからと保証人を探し、もがいた日々。

 漁火も旭夏も、あの美剣でさえ、早々に連帯保証人を引き受けてくれる人間を見つけた。

 だが自分だけは違った。

 最後の頼みの綱である両親以外の親族のサインすらも無効とされ、溝呂木は期限ギリギリまで連帯保証人を見つけられなかった。

 唯一、手を差し伸べてくれたのは、父が一方的に敵対視している人物と、その息子だった。

 現東京都知事の椚原赫は溝呂木の父の同級生だった。溝呂木の父は学生の時代から勉強もスポーツも何一つとして一度も彼に勝てた事がなかったらしい。

 一度で良いから勝ちたい。そんな、くだらないコンプレックスが父にはあった。

 その解消の為に、自分はこの世に産み落とされたのだ。

 椚原の息子より自分の息子は優れている。そんな優越感を得る為に、父は我が子に教育虐待を繰り返し、母もそれに倣った。

 だが、その願いは最後まで叶わなかった。

 天才に凡人が敵う訳がない。蛙の子は蛙なのだ。

 溝呂木自身も同級生である椚原聖くぬぎはらひじりには一度も勝てた事が無い。

 それどころか向こうからは友人として扱われ勝負すらもしてもらえていない。だからなのか、その彼が溝呂木の保証人を引き受けてくれた。そうして溝呂木は今ここにいられる。

 だから溝呂木には椚原親子に返せない恩があった。

 もし逆の立場であれば絶対に引き受けない。

 勝負など、するまでもない。

 これが溝呂木と椚原の人間としての差で、溝呂木の血が椚原の血に勝てない理由なのだろう。

「家族や友達、仲間にだって本当の自分を見せられない。そんなアタシなんかと・・・同じな筈ないわ」


 突然、仕事部屋の扉を誰かが優しくノックした。その音で頭の中に響く声は途切れる。

「溝呂木さん、おはようございます。漁火です」

 その声は昨日の事など引きずっていないように思えた。溝呂木は扉を開き朝の挨拶をする。

 時計はもう始業時刻を示していた。

「おはよう。今日はデコイの設置場所の視察に行くんだよね?」

「はい。帰りに緊急車両申請書類も出しに行ってきます。他に私でお力になれる事はありますか?」

 溝呂木は自分のデスクにある緊急車両申請の書類を手に取り漁火に渡す。

 その書類は漁火が捨てた資料と同じ茶封筒に入っていた。そして図らずも、それはデスクの上で重なり合って置かれてしまっていた。

 漁火は溝呂木から受け取った茶封筒をブリーフケースに入れる。

 美剣が負傷してからは漁火と旭夏が溝呂木の仕事をいくつか分担してくれていた。

「ありがとう、もう充分だよ。昨日も言ったけど、これからは自分の職務に専念してくれていいから」

「・・・伝え忘れていたのですが、臼井教諭に連絡するのは10時以降にしてください。朝は会議で忙しいので」

「分かったよ。後で連絡しておくから」

「・・・それから、西宮さんの担任教諭は協力的ではないので話を通す必要はありません」

「そうなんだ。教えてくれてありがとう」

「・・・もし溝呂木さんご自身が学校へ行かれるのであれば、覚悟をしておいてください」

「覚悟?何の?」

「おそらくですが、あだ名をつけられと思うので。その覚悟です」

「高校生の言う事なんて気にしないよ。ましてや、あだ名なんて可愛いものさ」

 漁火は溝呂木の顔をジッと見つめてくる。

「溝呂木さんなら・・・イケメンヤクザ、かな?」

「は?」

 唐突に反社会勢力に属する人間にされ、さすがの溝呂木も素が出てしまう。

「お伝えし忘れていましたが、西宮さんの高校では我々はヤクザという事になっています。美剣さんは若頭、私はインテリヤクザと呼ばれているんです」

 漁火の発言に脳の処理が追いついていかない。何故そんな事になっているのか、とポカンとする溝呂木を漁火は置いてきぼりにする。

「言い出したのは西宮さんではありません。そんな事をする方ではないので。他の生徒達が勝手に噂をしているんです。そこは誤解をしないあげてください」

 まだ何か言い足りないのか漁火は「それから」と話を続けようとする。

【しつこいわね!未練タラタラじゃない!】

 止めようとする溝呂木の声を、旭夏の「おはようございます」と言う声が遮った。

 挨拶を返された旭夏は、何を聞くでもなく溝呂木と漁火の間を素通りして仕事部屋へと入っていく。

「とにかく・・・後の事は僕が上手くやっておくから」

「・・・はい。よろしくお願いします」


 穏便に済むと思っていた引き継ぎは、予想に反して苦戦を強いられる。

「確かに此方から西宮愛夢さんを勧誘はしましたが、採用するのかは別の問題です」

『ですから、此方はその採用を見送った理由を聞いておりますの。漁火さんからは西宮さんに非は無かったと窺っておりますが?』

「おっしゃる通りで大変心苦しいです。理由に関しては守秘義務が発生している為にお答え出来ません。お詫びとなるかは分かりませんが、西宮愛夢さんが活躍出来る斡旋先を此方から紹介させていただきます」

 溝呂木は漁火が捨てた茶封筒の中から斡旋先の候補を探す。

 だが中身は、昨日自分が作成した今週分の緊急車両申請書類であった。

【しまった!同じ封筒だから間違えたのね・・・】

 突然何も言わなくなった溝呂木に痺れを切らしたのか、臼井がため息混じりの質問する。

『・・・溝呂木さんは、西宮さんとお会いした事がないのでは?違っていたのなら、お詫びいたします』

「確かに、彼女に直接会った事はありません」

『やはりそうですか』

 質問の意図は分からなかったが、臼井が溝呂木の引き継ぎを歓迎していない事だけは伝わった。

「急な引き継ぎでしたので、其方にお伺いする時間を作れなかった事は大変申し訳無く思っています。既に信頼関係が構築されている漁火の方が、彼女の事を良く理解している事も分かっているつもりです。ですが今は西宮愛夢さんの輝かしい未来の為に、どうか溜飲を下げていただけないでしょうか?」

 数多の接待で得た人心掌握の術。まず必要なのは同調。そこから共感を得て最終的に手なづけていく。出来る事なら目を見て話し合えば効果的なのだが、今はそれが難しい。

 だが電話応対であってもやる事は変わらなかった。

『失礼を承知で言わせていただきます。溝呂木さんでは、お話になりません。最もらしい言葉で私を丸め込もうとしている事は分かっております』

「漁火から臼井先生は聡明な方だと窺っております。ですから共に手を取り合いませんか?西宮愛夢さんが望む企業に就職出来れば、学校としての実績と企業との縁が出来る。悪い話ではないはずです」

 人心掌握の常套手段、肯定により自己顕示欲を高めた後にメリットを提示する。大抵の人間は、ここで気を良くして妥協点を探す筈であった。

 だが臼井はその枠に当てはまろうとはしなかった。

『ええ、そうですね。ですが、本人がそれを望んでいません。心が振り出しに戻ってしまったのです。溝呂木さんが西宮さんの事を理解くれていたならば、こんな説明をする必要は無かったのですが。ようやく心を開いてくれた西宮さんを、漁火さんから引き離してはいけなかった。本当に残念でなりませんわ』

 その言葉で臼井からの遠回しの拒絶を感じた。要は臼井は漁火にそのまま担当者でいてほしいのだろう。

「お言葉を返すようですが、この件は漁火本人の希望でもあります。ですから今回は目を瞑っていただけないでしょうか?」

『ここで私が目を瞑ってしまえば、西宮さんは再び真っ暗な道を行く事になってしまいます。真っ暗だと分かっても灯りを探す事もしない。そして自らが傷付いても歩みを絶対に止めない。彼女は、そんな子です』

 西宮愛夢の人生はLETに入れなかったくらいで真っ暗になってしまう。今も未来も永劫に夢も希望も無く、今生きている場所よりもアスピオンを還す事の方がマシだ。

 臼井にそう言われた気がした溝呂木は、かつての自分を思い出してしまう。

 だが西宮愛夢が自分と同じ様な人生を送っている人間だとは到底思えなかった。

 本人も臼井も大袈裟に言っているだけなのだと、溝呂木は自分に言い聞かせる。

「それは彼女自身が向き合わねばならない問題です。出来得る限りの希望に添った職種を紹介させていただきますので、どうか御容赦ください」

『このままでは埒があきませんね』

【この人は漁火と同じタイプの人間ね。やりにくいわ】

 今、取り得る最善手は一時撤退であった。

「分かりました。この話は、また後日にしましょう。一先ずは、ご満足頂けるような斡旋先を郵送で─」

『いいえ、お互いに時間は惜しいでしょう?ですから、私が漁火さんを説得いたします』

「・・・それは難しいかと思います。漁火は一度決めた事は絶対に曲げません。第一、漁火も僕と同じ意見です。なので説得は無意味かと」

『でしたら、こうしましょう。私が漁火さんの説得に失敗したならば、その時は溝呂木さんの提案を呑みます。ですが成功したならば、西宮さんの採用を前向きに考えてください』

「分かりました」

 本来であれば受ける提案ではない。だがそれは、こちら側の勝ちが確定している提案であった。

 漁火は要求を絶対に呑まない。それが分かっていたからこそ溝呂木は臼井からの挑戦を受けた。

『それでは、このお電話を今すぐに漁火さんに繋いでくださる?溝呂木さんも立ち会っていただいても構いませんが、絶対に口は挟まないでください』

「すみません、あいにく漁火は今は外に出ています。ですから後ほど、こちらから折り返して─」

『いいえ。間を与えて漁火さんに下手な事を吹き込まれては困ります。ですから、このまま彼に繋いでください。お忙しい身の上である事は承知しておりますから、説得の時間は五分で構いませんわ』

【ふーん?言ってくれるわね。それなら、お手並み拝見といこうじゃないの】

 溝呂木は臼井が無惨に敗北する想像をしながらスマホと固定電話を向かい合わせる。

『漁火です、お疲れ様です。どうかなさいましたか?』

「向こうが君と話をさせろって聞いてくれなくてね。頑張ったんだけど、僕には荷が重かったみたいだ。先に謝っておくね。ごめん!」

 溝呂木はスマホを受話器の側に置く。

「僕は暫くの間、席を外すのでごゆっくりどうぞ」

『えっ!?ちょっと溝呂木さーん!?』

 困惑する漁火には心の中でも謝っておいた。そして溝呂木は電話から少し離れ二人の通話を聞く。

 説得の内容は臼井が一方的に漁火を叱責するだけ。漁火が折れる気配は一向に無い。

【ほらね?漁火の説得なんてアタシにだって無理なんだから】

 だが美剣の名前が出た後から、風向きは徐々に変わっていく。

 漁火のかつての夢。それを出されたならば、本人でなくとも折れるしかなかった。

【やられた・・・!】

 美剣は漁火の何気無い四年前の話を今日まで覚えていた。

 美剣は西宮愛夢の事だけではなく、漁火の事まで考えて行動していた。

 これが人を先導していく人間に相応しい能力であり才能。

 それは美剣にはあって自分には無い。永遠に得る事は出来ない。

 だからこそ溝呂木は、それを持つ美剣を隊長に推した。

 そこから旗色は完全に臼井の色になる。

 臼井は成否も聞かずに通話を切った。

 結果を聞くまでもないのだろう。

 何故なら漁火と溝呂木の完敗なのだから。

 臼井と美剣の二人に説き伏せられた漁火の声は、先程までとは違い活力が感じられた。

『溝呂木さん、事情が変わりました。美剣さんの言う通り、私が引き続き西宮さんの説得に当たります』

 自分が最善だと思っていた行動は最良ではなかった。

『美剣さんの考えが少しだけ分かった気がするんです。多分ですけど・・・』

 西宮愛夢は、自分ほど不自由な生き方はしていない。だが漁火の手を必要とする子なのだろう。

 結局は加入に反対する事には変わりは無い。

 それを一番上手く伝えられるのが漁火星雪なだけ。

 美剣の思惑通りではあるが、この任務の適任は確かに漁火であった。

 そして図らずも、自分までもがそれに協力してしまっていた。

「今朝いきなり美剣が言ったんだ。君の忘れ物を鞄に入れといてやれってしつこくて、言う事聞いたんだ。ごめんね?」

 美剣はそんな事は言っていない。そして溝呂木が書類を間違えたのも故意ではない。

 だが、これで良かったのだと思える。

 これは、そんな後味の良い結果であった。

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