濡羽(後)
アポ無しで学校へ訪れた漁火は来客用玄関で臼井に出迎えられる。怒りのオーラをまとった臼井に、漁火は腰を低くして立ち向かう。
「本日は 突然の訪問にも関わらず、お時間をいただきありがとうございます!」
側から見れば完全降伏の体勢で、父から教わった攻略法を活かし漁火は臼井に頼み込む。
元より漁火家でのヒエラルキーにより女性に頭を下げる事に抵抗は無かった。
「西宮さんにコレを渡して頂けないでしょうか!?どうかお願いします!その際、後日私が謝罪に来るとお伝えください。何卒お願いします!」
「今は部外者の前担当者さんではございませんか?どうなさいました?そんな物、受け取れませんわ!」
大先輩である臼井に頭を下げる今の漁火の様は大将軍と兵卒。白々しい臼井の棘にも漁火は耐える。
「溝呂木さんが後任を辞退されましたので再び私が参りました。ご不便をおかけして申し訳ございません」
「そんなにコロコロと担当者を変えられては困ります。もう二度と、このような事の無いようにしてください!・・・どうぞ、お入りください」
「本当にすみません!今度こそ私が西宮さんとキチンとお話を・・・え?入っていいんですか?」
「どうせ来ると思っていましたから。西宮さんには何も伝えていませんけど」
漁火は慌てて来客用のスリッパに履き替える。
「ありがとうございます!あのコレは臼井教諭に!焼きたての塩パンです!」
「・・・本来ならば受け取らないのですが、片手で食べられる物は助かるので頂きます。コレは私から漁火さんへのお守りです」
パンを受け取った臼井は、代わりに漁火へ二つ折りの紙を渡す。
「西宮さんの健康の為の緊急事態ですからね。応接室はとれなかったので、あの部屋で食べながらお話しなさい。多分、渋ると思うから一筆認めました」
「臼井教諭〜!ありがとうございます!」
「美剣さんが校長に私の言う事に絶対服従を誓わせてくれたから許されてるのよ?今度こそ、西宮さんを任せても本当に大丈夫ね?」
「はい!」
臼井は階段下で漁火を見送った。下から聞こえた「まったく・・・頑固者の似た者同士なんだから」という声には心の中で謝罪した。
「はい、どうぞ」
ノックの音に返ってくるのは力無い返事だった。
何と声をかけようか決めていなかった漁火は咄嗟に躊躇ってしまう。
「・・・先生?」
もう二度と誰かに先生と呼ばれる事はないと思っていた。臼井と勘違いしたといえども、愛夢の声が漁火の胸を熱くしていく。
いつもよりも更に覇気が無い愛夢が扉を開いた。
「あっ・・・あの、西宮さん・・・こんにちは!」
「えっ・・・漁火さん?」
驚く愛夢はピシャリと即座に扉を閉めた。
あの愛夢に全力で拒絶された事が衝撃で、漁火は必死に謝るしかできない。
「・・・昨日は西宮さんを傷つけるような失礼な態度をとってしまい、本当に申し訳ありませんでした!」
扉の向こうの愛夢からは何の反応も得られない。
「私のせいで昨日から食事も喉を通らないほどに悩まれていると、臼井教諭からお聞きして!居ても立っても居られずここにきた次第です!」
必死の謝罪が効いたのか、ようやく愛夢は扉を開いてくれた。
泣きそうな顔の愛夢につられそうになるが、漁火は愛夢に正直な思いを伝える事を決めていた。
傷付けて突き放す事は、愛夢のような子には絶対にしてはならない事だった。
食事を抜くというセルフネグレクトは、典型的な精神に問題を抱えた人間がする事。邪魔をされて食事が困難だとはいえ、抜いていては正常な判断は難しくなっていく。そして、そのダメージは身体に蓄積し未来の自分へ向いてしまう。
だから絶対に止めさせねばならなかった。
臼井も同じ考えを持ってくれているから漁火の訪問を許してくれたのだ。
ぐうううぅぅ、という可愛いらしい腹の虫が鳴り「ああぁぁ!!」と絶叫が室内に響く。
出会った時と変わらない愛夢の可愛らしさに漁火は笑いを堪えた。
「すみません!このお腹がーっ!!」
愛夢はあの手この手で音を止めようとする。
「いいえ・・・っ!私は、このために今日ここにきたんです!」
「えっ?」
「私と、お昼をご一緒してください!」
今日の漁火の目標は愛夢に昼食を食べさせる事、そしてセルフネグレクトをやめさせる事。
そして最終目標はLETへの加入を諦めてもらい、普通のやりたい事を探してもらう事。
タイムリミットは愛夢が卒業するまで。
似た者同士の戦いは続く。
臼井の予想通り渋る愛夢にお守りを渡す。覗き見ると美しい字で、この場所で食事をする事を許す文が書かれていた。
【大丈夫だ!まだまだ時間はある!まずは西宮さんに心を開いてもらって一緒に夢中になれる事を探すぞ!】
漁火はパンを取り、机の上に並べる。10種類もあるパンに愛夢は戸惑っていた。
正直な思いを伝えた事が効いたのか、愛夢は美剣にも教えなかった苦手な物を漁火に教えてくれた。
クラスメイトのSNSをチェックしていく上で、愛夢が飲み物にイタズラをされた事は既に知っていた。
泣き顔を見せない愛夢を誰が泣かせられるか。そんな幼稚でくだらない賭けに巻き込まれた愛夢は、警戒をして学校内で飲食をしなくなった。
だから昼は寮でも食事をしない。
出会った時も無意識に警戒されていたのだろう。愛夢は三種類ある飲み物の中で水を選んでいた。それすらも最後まで口をつけなかった。
そうやって、ずっと一対大勢で戦ってきた人間が夢の事なんて考えている余裕があるわけがない。
一番人気のクロワッサンサンドは愛夢の口に合ったようで、一口含んだ瞬間にパッと顔が華やいでいく。
「今まで食べたクロワッサンの中で一番美味しいです」
それが心から出た本心である事は一目で分かる。
【本当に美味しそうに食べてくれる人だ。見ているこっちも嬉しくなる】
漁火も愛夢に続きカレーパンを齧る。
コーンフレークを衣にしたカレーパンは、ほんのりと温かい。ザクザクとした食感の後に感じるのは半熟卵とチーズのとろみ。中辛のカレーが合わさる事で重たさを全く感じさせない至高の逸品だった。
これならば愛夢でも食べられそうだと、漁火はカレーパンの特徴を伝える。
「ウフフ、それは・・・おいしそうですね」
漁火の熱弁に愛夢は笑う。食べている時の表情よりも、ずっと柔らかく屈託も曇りも無い本物の笑顔。追弔の疲れどころか痴呆もメタボも老眼も吹っ飛ばして寿命がグーンと延びる、美剣にそう言われていた愛夢の笑顔を、漁火はやっと見る事ができた。
【かっ・・・かわいいっ〜!!】
顔に全身の熱と血液が集まる感覚がする。
「漁火さん、顔が赤くなってます。やっぱりそのカレーパン、辛いんですか?」
「えっ!?あー・・・はい!後に引く辛さでした!」
「・・・私が食べていたら大変なことになっていました。ありがとうございます、漁火さん」
【すみません!パン屋の店員の皆さん!カレーパンが辛いという濡れ衣を着せてしまいました!もちろん後で口コミに星5で評価をしておきます!】
優しい勘違いをしてくれた愛夢に漁火は本題を切り出す。
愛夢のような子は追い詰められると活力を無くし好きなモノすら思い出せなくなる。
だからまずは一緒にソレを思い出し、夢に繋がる好きを見つける。それを積み重ねていき、共に探す。
それが漁火が出した、愛夢を導く方法だった。
もうハンバーガーを選んでいた時とは違う。愛夢は自らメロンパンを選び食す。食べ終える頃には考えをまとめ終えていた。
「・・・美剣さんと過ごす時間は楽しくて好きです!でも漁火さんと過ごす時間も、あっという間に感じるくらい、もっと続けばいいのにって思えるくらい好きです!」
「きょっ・・・恐縮ですっ!!」
身体がおかしくなったのではと思えるほどに、今日の漁火は赤くなったり戻ったりを繰り返していた。
美味しい物を食べた事で趣味が生まれるかもしれない。それを仕事にしたいと思う人間もいる。
愛夢には些細な切っ掛けが足りていないだけなのだ。夢を見つめる為、卒業までに今まで奪われていた小さな幸せや喜びを感じさせよう。そう心に誓った。
だが逆に愛夢は漁火にとって最上の喜びを感じる返答を返す。
「・・・辛子明太フランスも、辛かったですか?」
「・・・ジワジワとっ・・・効いてきました!」
今食べている辛子明太フランスは、まろやかな自家製マヨネーズが塩味と辛味を中和してくれている極上の逸品だった。だが漁火は再びパン屋に濡れ衣を着せてしまった。星5の評価だけでは足りないので常連になる事を心に決める。
少食の愛夢は二つのパンで満腹になってしまったようで、礼儀正しく漁火へご馳走してくれた礼を言う。
【西宮さんは礼儀も完璧だし頭も良い。消極的で可愛らしさが隠されてしまっているのが本当に勿体無い】
愛夢はいつも過ぎた自虐的なマイナス思考で自分を責める。昨日の事がそれに更に拍車をかけていた。
「お忙しいのに、また私なんかのためにお手間をとらせてしまいました。本当にごめんなさい・・・」
自分を卑下してしまう気持ちは理解できた。それは漁火だけでなく大抵の人間も患っている。
誰しもが持つ感情ではあるが、愛夢は過剰なほどに自分に自信を無くしていた。
いきなり全てを変えられるとは思ってはいない。だが漁火も優秀な人間に囲まれ毎日のように己を卑下していた。だからこそ愛夢の心のケアにおいては、自分が適任なのだと今ならば思える。
「・・・私なんか、か。分かりますよ、そう言ってしまう気持ち。毎日思っています、私なんかが西宮さんの担当にならなければ、きっと今とは結果が違っていたのにって」
「えっ!?それは違います!私は漁火さんが一緒じゃなければ、追弔に着いて行くどころか、お話すらもきっと聞かなかった!」
「・・・そうなって欲しかったんですよ、私たちは。だから私は適任ではなかったのでしょう」
勧誘においての適任は自分ではなかったのだろう。だが美剣は愛夢と"話す"事のできる人間を選んだ。
漁火と愛夢は正直な想いをぶつけ合っていく。
【国民栄誉賞を選抜する人間が私たちに戦う事を強要している事を、西宮さんは知らなくて良い】
そうしてようやく愛夢は漁火の導きに応え、本当に伝えたい事を理解してくれた。
「私が心配をかけたら・・・追弔に影響しますか?」
愛夢を大切に思うのは、美剣だけではなくなってしまった。漁火も愛夢を放ってはおけない。
「ええ、それはもう大いに影響します!ですが、食事をちゃんと摂るとお約束してくれるなら、私も美剣さんも、従来通りに追弔に集中できます!」
「・・・寮だと、他の人たちが同じ時間に一斉に集まるからどうしても嫌なんです。だから・・・お昼は無理ですけど、朝と夜は自分の部屋で絶対食べます!」
漁火は今日の目標を達成した。
最終目標の達成に向けての進路相談をどうするか、頭の中で考えを巡らす。次回は臼井を交えた方がいいのか、美剣と話をさせてあげた方がいいのか、スクールカウンセラーに相談した方がいいのか、そんな色々な考えを愛夢は突然吹き飛ばす。
「約束します!だから・・・時々でいいんです。また今日みたいに、ここに来てくれますか?」
「えっ?」
「私、LETに入ることは諦められないけど、他のことはちゃんと漁火さんの言った通りにします!だから、漁火さんが嫌じゃないなら・・・また、お話がしたいです!」
嫌どころか叶うのならば漁火も愛夢と思う存分に話をしたかった。LETに帰ったところで、どうせ気難しい人間しかいない。ならばここで愛夢と話をして癒しを貰いたい。そんな心の声は全て口に出た。
「何故ここは私の職場じゃないんだぁ!戻りたくなぁい!ずっと!ここに!いたい!」
素直で健気で可愛い、そんな愛夢に求められた漁火は、次回も一人でここに来る事を即決する。
呼吸を整えやるべき事を思い出し、何とか冷静さを取り戻す。
「もう少しでお昼休みが終わってしまいますね。名残惜しくはありますが、とりあえずこれをお渡ししておきます!」
漁火は茶封筒を愛夢に渡す。一度は捨てた物を渡すのは気が引けたが、これからの為にはコレは絶対に必要な資料だった。
「あっ・・・漁火さん、私・・・」
愛夢は言葉に迷っていた。口に出せば昨日と同じ事が起こると恐れているのだろう。
「思っていることを正直に言ってもらって構いません。私が西宮さんにとって最良だと思えた道は、貴女にとっては違うのでしょうから・・・」
「ごめんなさい・・・。やっぱり私は、美剣さんと漁火さんと同じ場所で一緒に働きたいです」
ダメだと頭では理解しているのに、その言葉に嬉しさを感じてしまう。
「分かりました。ですが、その資料に目だけでも通していただけないでしょうか?その中に西宮さんの心を動かすお仕事があるかもしれませんから」
「心を動かす?」
「はい、それは西宮さんの可能性の選択肢だと思ってください。好きな物、苦手な物、やりたい事、したくない事を考えて探すための資料です」
「可能性・・・?私なんかの・・・」
この資料は、愛夢の事を知る為に、理解する為の物だった。
「そうして悩み抜いて西宮さんが出した結論がLETに入るということならば・・・その時には入隊の書類をお渡しします」
漁火も納得はしていないが、一先ずは折れたフリをする。せっかく開いてもらった心を再び閉じさせるわけにはいかない。
卒業までに愛夢の心を変えられなければ、もう一度ぶつかる事になる。
それでも漁火は、愛夢に普通の幸せを生きて欲しかった。それが人として、そして先達としての使命であるのだから。
「食事なんか無くてもいいからっ・・・漁火さんに会いたい!漁火さんが、私の先生だったら良いのに!」
次の約束をする漁火に愛夢はまた心臓に強烈な連撃を食らわせた。これは漁火だけが喜ぶ専用の言葉。相性が良いのか悪いのか、特効攻撃でも持っているかのように愛夢は常に漁火の心臓を強烈に打つ。
女性経験が無いとはいえ、25歳の漁火は18歳の愛夢に翻弄されていた。
「うぐっ・・・ぃっ」
漁火は痛む心臓に苦悶の声を上げる。
「ウグイ?あっ・・・!お魚縛りのしりとりですね!?イワナ!」
愛夢は唐突にしりとりをしようとする。それは可愛い勘違いの所為だと知ってはいる。だがその可愛さ故に漁火は訂正ができずにいた。
今回は川魚縛りなのだろう。昼休みは残り10分、しりとりをしている時間は無い。
漁火は断りを入れて帰り支度をする。
「・・・私、早く大人になりたい。何にも縛られないで、漁火さんや美剣さんと沢山お話がしたい・・・」
「なっ・・・!まっ・・・ぐうぅ!!」
帰り支度は再び襲う心臓の痛みに邪魔をされた。漁火は胸を押さえ、椅子に座ったままよろけてしまう。
「ナマズ?えーと・・・スネークヘッドで!和名ではライギョです」
「詳しいですね!続きの魚が浮かばないので、私の負けです」
王道のドジョウが頭に浮かぶが、漁火は勝ちを譲り今度こそ席を立ち帰り支度をする。
予鈴が鳴り漁火は退室しようとする。だが頭の中にはどうしても訂正しておきたい事があり、昨日の嫌な記憶を呼び起こすのでは、と口に出すのをずっと迷っていた。
咳払いを一つして漁火は愛夢に振り返る。
「昨日、宣言した通りに私は、もう二度と応接室には訪れません。次回よりこのお部屋を使わせてもらえるように臼井教諭にお願いしておきます」
昨日言った、二度とここにはこない、という強い言葉。愛夢の心を深く傷付けた。屁理屈だとは分かっていたが何としてでも取り消さねばならなかった。
「ふふっ、もう応接室は使えなくなってしまいましたね!あっははは!!」
【まさか・・・二度も笑った顔がみられるなんて!】
美剣ですら一度しか見る事が叶わなかった笑顔。
春の桜の様な可愛らい声で、夏の向日葵の様に大きく口を開けて愛夢は笑う。
その花より目を奪われる笑顔に、世界すら平和にしてしまえるのでは、と馬鹿げた事を考えしまう。
愛夢の笑顔に漁火もつられる。
最高のご褒美を貰った漁火は上機嫌でLETへ戻る。
防衛省 LET 医療ルーム
続投と帰還の報告をしようと病室へ顔を出すと、そこには既に先約がいた。
溝呂木の若い樹木の様な鮮やかな茶色の瞳が漁火に向けられる。
美剣のベッドに備え付けてある床頭台にはタブレットが置かれていた。
美剣が気を失っていた間に溜まった仕事を共に片付けてあげているのだろう。ベッドには大量の書類が散りばめられている。
「やっと戻ってきたか!西宮愛夢はどうだった!?元気か!?また泣かしたんじゃねぇだろうなぁ!?」
美剣は襲いかかる勢いで漁火を質問責めした。だが溝呂木が持っていた書類の束で美剣を殴り、それを止める。
少し起こしたベッドのおかげで絶妙に殴りやすい位置に美剣の頭があった。
「お帰り漁火君。結局は君に任せる事になってしまって心苦しいよ。・・・で、どうなったの?」
漁火の頭に様々な表情の愛夢が思い浮かぶ。悲しい顔、困った顔、美味しそうにクロワッサンを食べている顔、そしてあの笑顔が。
思い出しただけで幸せを感じられ、漁火もまた笑顔になっていく。
「大変有意義な時間でした!行って本当に良かったです!お二人のおかげです!ありがとうございます!」
愛夢が笑ってくれた事を報告しようとするが、二人から返ってきたのは殺気に近い怒りだった。
「お前を楽しませる為に送り出したんじゃねえよ!」
「楽しかった様で何よりだね。で何しに行ったの?」
臼井とは違う怒りのオーラが病室を覆う。
「すみません!一先ずは提案した職業に目を通してもらい惹かれる仕事を探していくという事で落ち着きました。答えを聞く為に再度お約束を取付けましたので、来週また学校へ行くつもりです」
聞いた当人たちは望んでいた答えではなかったのか、そっけない返答を返すだけだった。
「最初からそう言えよな。後で詳しく聞くからな!」
「つまり何も進展していないって事だね」
美剣と溝呂木は、漁火をそっちのけで仕事を再開する。漁火は別れたばかりだというのに愛夢との時間が恋しくなった。
【西宮さんが声を出して笑った事は、絶対に美剣さんには教えてやらない!】
師走の始まり、漁火は三度目の進路相談の準備を終え仕事部屋を出る。今日の昼食は美剣が予約した弁当を取りに行く事になっていた。
共に過ごし言葉を交わす度に愛夢の表情は豊かになり口数も増えた。今は学校でも寮でも快適らしく、顔色も以前とは比べ物にならないほど良くなっていた。
だが志望する職種は決めあぐねている。だから漁火は臼井に大学校の資料を用意してもらった。
「進学は嫌だと言っていたけど、一応見てもらおう」
美剣に叱咤された事を踏まえて臼井と相談をし慎重に事を進めていく。
地下の施設であるLETの一角にフロウティス部隊は集められている。吹き抜けになっている中二階には各員の仕事部屋あり、下にあるミーティングルームが見渡せる仕様になっていた。
階段を降りようとする漁火の見下ろす先には、雀卓に足を乗せて座る男がいた。
男の顔を見た瞬間、漁火の背中に悪寒が奔る。
「お久しぶりですね。い・さ・り・び・さ・ん」
四月一日蒼。厚労省の官僚で漁火たちの上司にあたる男。
常に高級スーツを身にまとい、黒い髪を後ろでキッチリと固めている風貌は、すれ違えばすぐに忘れてしまう平々凡々。だが中身の方は30代後半でありながら政府からLETを統括する事を命ぜられた超やり手であった。冷酷で非道な男だが、遠くから見れば見た目だけはthe霞ヶ関の官僚であろう。
だが四月一日の右の目には、かつて皇によって潰された眼球の代わりに義眼が入っている。
左の目だけがギョロリと動き漁火を睨む。
不快感に漁火の胸は詰まった。声を聞くだけで腹の奥はムカムカし、吐き気がする。それほどに漁火は四月一日が嫌いだった。
愛夢といる時とは真逆の感覚に、早くこの場を去りたいと願う。だが旭夏と四月一日を合わせるわけにはいかず、仕方なく漁火は四月一日の側へ行く。
「わざわざ美剣さんと溝呂木さんの留守を狙って、何のご用でしょうか?私も今から諸用あるので、お引き取り願います」
旭夏は常に仕事部屋に籠り出てくる事はほぼ無い。だが用心の為にカラスで旭夏の部屋の扉を開かないように細工をする。
「相変わらず、上司に対する礼儀のなっていない集団ですね。さらには小娘の勧誘すらも満足にできていない無能だ」
四月一日は口の端を吊り上げて笑う。口の中から蛇のような長い舌が出てくるのではと思える下卑た笑いが不気味さに拍車をかけた。
「礼儀がなっていないのは、そちらも同じです。足を退けてください。それは美剣さんの大切な私物です」
「何と!?こんな物で遊んでいるなんて!国民の血税を塵紙か何かだと思っているのかな!?ひどいなぁ!」
四月一日は靴の踵でグリグリと雀卓を擦る。
フロウティス部隊において麻雀は遊びではない。意見が割れた時に決着をつける為の物。だが何を言っても難癖をつけてくる四月一日に、これ以上は何も言う気にはなれなかった。
「足を下ろしてください」
「おぉ怖い!退けますよ。残った目が大切ですからね」
強めに言い放った事が効いたのか、四月一日は億劫そうに足を下ろす。
「我々との取り決めを破り手紙を出した事、許すつもりはありません。先に礼を欠いたのはそちらです」
「手紙?何の事でしょう?意味がわかりませんね」
四月一日は、わざとらしい大袈裟なジェスチャーでとぼけてみせた。手紙は溝呂木に預けてあったが、現物があったとしても同じ事を言うのだろう。
「シラを切るつもりなら構いません。用が無いのならば、お引き取りください」
「そんなに暇ではありませんよ。説得に手間取っていると聞きました。いくら高卒のバカな小娘だとて、雇用条件も分からない仕事なんて信用できないでしょう?ですから、書面にしてさしあげたんですよ」
白々しく四月一日は雀卓にクリアファイルを放る。
「訂正してください。西宮さんへの侮辱は、私が許しません」
「それは失礼いたしました。随分とお熱な様ですが漁火さんの業務に差し障っては事だと思い、私なりに気持ち程度のお手伝いをさせていただきました」
誠意の欠片も無い謝罪に嫌な予感がし、漁火はクリアファイルの書類を確認する。
「これ!最初に提示していた雇用条件より改悪されているじゃないですか!?」
書類の内容は、愛夢に出された手紙の内容とは大きく違う。唯一の魅力である給与面が大幅に改悪されていた。
「今年中に良い返事を頂けるのならば、その条件の三倍出すとお伝えください。何の取り柄も無い小娘を起用してやるんです。飴と鞭は使いようですよ?」
今年中にLETへ入ると言えば前の雇用条件に戻すだけ。言わなければ一般人と同じ普通の給与で雇用するだけ。どちらに転んでも上は痛くも痒くもない。
四月一日にとって愛夢は、どうあっても首を縦に振らない生意気な小娘なのだろう。
愛夢の性格は追弔に向いていない。LETに入る事に乗り気でない。そう上には伝え、進路相談に費やす時間を稼いできた。
だが今日までしてきた嘘の報告が仇となった。
漁火は愛夢を守る為、四月一日と対峙する。
「・・・こんな事をしても、無駄に終わるんじゃないですか?そもそもワクチンに反応があったのも体調が悪かっただけで、本当に彼女にメテウスが有るのかも、あやしいくらいです」
愛夢が説得を受け入れ別の道を見つけたとしても、四月一日は搦手で全ての希望を潰してくる。
そうさせない為の嘘なら、どれだけでもつくと漁火は決めていた。
四月一日は依然として漁火と旭夏の夢を潰したあの日と同じ顔をして笑う。
「それならご心配には及びません。すでに血液センターにご協力いただいて血液を調査済みですから。それから、まだ確定ではないのですが・・・」
「血液センター?そんな話は聞いていません!接触しただけでなく勝手に西宮さんのサンプルを取ったんですか!?」
詰め寄る漁火を無視し四月一日は続ける。
「彼女は漁火さんと同じイザナミ因子のメテウスを保有している確率が高いそうです。良かったですね?お仲間が増えて」
愛夢を侮辱するだけでは飽き足らず、脅迫めいた条件を提示してLETへ縛りつけようとしている。さらには本人の承諾も無しにメテウスの保有までをも調べた。そんな昔と何一つ変わっていない卑劣な四月一日に漁火も我慢の限界だった。
四月一日に掴みかかろうとしたその時、激しい衝撃音と共に頭上から何かが降ってくる。
それは一枚の扉だった。
落下のけたたましい音が、冷静さを欠いた頭を一気に冷ます。
「来ていたのなら声くらいかけてくださいよ。水くさいじゃないですか。わ・た・ぬ・き・さ・ん」
二階からゆっくりと階段を下りてきたのは旭夏だった。旭夏はカラスごと仕事部屋の扉を蹴破った。
「おや、お久しぶりですねぇ・・・旭夏さん。乱暴なご登場だ。そんなに私に会いたかったのですか?」
「そうです。漁火さんばかりに構っていないで、私ともお話してください。今までしていた様な、はらわたが煮えくり返る話を、ね?」
「嬉しいですね!旭夏さんは、いつも蝸牛の様に仕事部屋から出てこないから、私はてっきり嫌われているのだと思っていましたよ!」
「四月一日さんの方こそ私を嫌っているのでは?蝙蝠のように私を避けて、他の方にちょっかいばかりかけていると聞いていますよ?」
旭夏と四月一日の間に冷たい沈黙が流れていく。耐えかねた漁火は二人の間に立つ。
「お二人共、それまでにしてください」
「ようやく念願叶って旭夏さんに会えたのに邪魔をするなんて無粋ですよ?」
「漁火さん、今からお出かけの予定だったのでは?四月一日さんのお相手は私がしておきます」
旭夏も今は落ち着いているが、いつ爆発するとも知れない。四月一日は人を煽る天才なのだから。
「嬉しいのですが、これでも忙しい身の上でしてね。私も旭夏さんと、ゆっくりとお話したいですけど」
四月一日は本当に忙しいのか、臆したからなのかは分からないが、帰り支度を始める。
「そうなんですか?悲しみで四月一日さんに凍傷を負わせてしまいそうです・・・」
このまま黙って見送ればいいものを旭夏は喧嘩を売りにいく。その表情と言動は全く噛み合っていない。
「足や腕の一本くらいなら構いませんよ?旭夏さんを道連れにできるのなら、ね?」
穏やかでない会話は、いつ衝突に発展してもおかしくなかった。
漁火はカラスの能力でモノリスの様な壁を作り二人の間を遮る。
「・・・二度は言いません」
波紋の様に静かに漁火は言い放つ。
二人が引き下がらないのなら残された手段は拘束しかない。普通の人間である四月一日だけならば何の問題もない。だが旭夏は違う。
カラスは他のメテウスとは違い、弱く脆い。
アスピオスを破壊するどころか、旭夏を部屋に閉じ込める事すら叶わないのだから。
だが漁火の不安は徒労に終わる。
「残念ですが、漁火さんに分たれてしまいましたので今日はこれで帰ります。お見送りは結構ですよ」
「ええ、さようなら四月一日さん。いずれまた・・・」
今度こそ部屋を出て行く四月一日を見て漁火は魂が抜け出そうになる程に盛大な溜息を吐く。
「すみません、漁火さん。ソレが異常を検知すると私の端末に連絡が来る仕様になっているんです。何かあったのではと心配で」
ソレと言われた視線の先にあったのは漁火の腕時計型デバイスだった。怒りによる心拍の乱れが異常として旭夏の下へ届いてしまった。
「そうでしたね。ご心配をおかけしました。それに閉じ込めてしまった事も、申し訳ありませんでした」
漁火は旭夏に深く頭を下げる。止めに入ってもらわなければどうなっていたかは分からない。
旭夏の「ところで」と言う声が聞こえ漁火は頭を上げる。
「今日の事・・・扉の建付けが悪かったという事になりませんかね?」
破損は美剣の専売特許であり旭夏がこういった事をするのは初めてだった。平静を装ってはいるが、怒れる溝呂木を常に見てきた者として恐れを感じるのは無理も無い事だ。
「お二人への報告は私がしておきます。きっと情状を考慮してくれるでしょう」
漁火は落ちている扉を壁に立て掛ける。旭夏が自分の為にしてくれた事だからこそ、報いたいと素直に思えた。
「今日も件の人に会いに行かれるんですよね?さっきの四月一日さんの話、どうされるおつもりですか?」
「・・・旭夏さんなら、どうしますか?」
質問に質問で返すのは無礼だとは分かっていても聞かずにはいられない。これは自分のしようとしている事を正当化する為の質問だった。
旭夏は扉を抱え階段を上っていく。
「雇用条件の変更を黙ったままでいます。そうして失意から断りの方向へ行くように誘導する。という感じでしょうかね?」
「やはり・・・そうですよね」
追弔の凄惨さを知っているからこそ、漁火は愛夢を諦めさせるべきなのだ。その為の嘘で、あの笑顔を二度と向けてくれなくなっても、そうするべきだ。
「大丈夫ですよ。漁火さんは間違えません」
その言葉の意味を聞こうと顔を上げた時には、旭夏は仕事部屋の中へ戻ってしまっていた。外れた扉は丁寧に元の位置へ嵌め込まれている。
「もう少し助言をくれてもいいじゃないですか」
相変わらずの同僚の励ましの言葉でも漁火の心は晴れる事はなかった。
学校に着いた漁火は臼井と共に愛夢のいる空き部屋へと向かう。何度も訪れているからか、すれ違う他の教員も快く迎えてくれていた。
「漁火さんは、分かりやすいですね」
「すみません!顔に出てしまっていましたか?少々仕事が立て込んでおりまして・・・」
「大変な事情がお有りなのでしょうが、西宮さんは人の感情に敏感です。心の機微に関しては難しいとは思いますが、なるべく悟られぬようにしてください」
「・・・はい」
三階で授業が終わるまでを待つ間、漁火は何をするでもなくただ外を眺めていた。
どうせ愛夢はLETに入る事は無い。
別の素晴らしい夢を見つける。
だから、このまま卒業まで進路相談を続ければいい。
そう自分に言い聞かせてると、いつの間にか廊下に愛夢が出てきていた。
「西宮さん・・・授業は?」
「もう終わっています」
「えっ?あぁ・・・本当だ!すみません!」
約束の時間を5分以上過ぎ、心配してくれたのだろう。心配する愛夢に漁火は普段通りを装う。
美剣の予約してくれた弁当を食べる愛夢は幸せに満ちた顔をしていた。
小さな口でステーキを頬張り、一口を大切に味わう愛夢とは対照に漁火の手は止まる。
「漁火さん・・・お肉は嫌いですか?」
「えっ!?あぁ・・・普段はここまでガッツリしたものを食べないので、胃がビックリしてるんですよ」
愛夢は漁火の些細な変化をその優しさ故に悟ってしまう。
「漁火さんはいつも私を守る為に隠し事をします。でも私・・・漁火さんに、ご飯を食べられなくなるくらい悩んでほしくなんてないです」
「・・・何も隠し事なんて無いですよ?」
「・・・私も漁火さんに嘘をつかれたくないし、ご飯をちゃんと食べてほしいです。私の気持ち漁火さんなら分かってくれるはずです」
「これは・・・一本取られてしまいました」
かつて愛夢を説得した自分の言葉をそのまま使われた。漁火は敵に塩を送ってしまった。言葉が出ないとは、この事だった。
漁火はステーキを黙々と口へ放り込み弁当を空にしていく。
だが今度は愛夢の食事の手が止まっていた。顔を上げると、その目には大粒の涙が溜まっている。
その顔を見ているだけで胸が潰れる様に痛んだ。
「えっ・・・?─って、ええーっ!?西宮さん!?どうしたんですか!?何があったんですか!?」
「・・・っ漁火さんの心を悩ませている事を、私なんかに相談しても解決策は見つからないだろうし、結果的には無意味になるって分かっているんです」
涙がポロポロと落ちる度に漁火は寿命が縮む感覚がした。愛夢の笑顔によって延ばされた寿命が今度は涙によって削られていく。
「えっ!?どういうことですか?どっ、どうしたらいいですか!?あぁ〜泣かないでくださーい!!」
この涙が止まるのであれば、漁火は愛夢の為に何でも買う。何処へでも好きな場所へ連れていく。
そう思える程には焦っていた。
だが実際にできるのは手拭きを渡す事だけだった。
臼井の言う通り、人の感情に敏感な愛夢は漁火の不安を感じ取ってしまった。そして何一つ悪くないのに自分の非を探し責める。
「でも、パンやおにぎりを食べていた時みたいに、笑顔になってほしい!漁火さんの笑顔は凄く素敵で、大好きな私の目標なんです!でも今日はそれが見られなくて、悲しい・・・」
泣いていようとも愛夢の漁火への特効攻撃は健在であった。
「おぅふっ!!」
ライフルの弾が被弾したような衝撃に漁火は椅子に座ったまま胸を押さえ仰け反る。
「・・・お麩?─麩菓子!」
愛夢はいつも漁火の呻きを、勝手にしりとりだと勘違いして始める。
「しりとりじゃありませーん!!」
「んがついてる・・・。しりとりで続けますか?」
「いいえ、私の負けでいいです・・・」
愛夢は何が何でもしりとりを続けようとした。そのいじらしさが堪らなく可笑しく思え漁火は吹き出す。
「ふふっ・・・あはは!本当に西宮さんはすごいな。こんな状態の私を笑わせてくれるのだから」
その一瞬、全てを忘れて漁火は笑う。
LETの事も、アスピオンの事も、四月一日の事も、今だけは考えずに楽しむ。
二人は食事を再開し、雑談に花を咲かせた。
こんな自分にも直向きでいてくれる愛夢に、漁火はこれ以上の嘘はつけなかった。
四月一日の暴挙を知った愛夢は今度こそ怒って失望してくれるだろうと思い真実を打ち明ける。
だが漁火が思っているよりずっと愛夢の決意は固かった。
「どうして?美剣さんはいいよって言ってくれたのに、漁火さんはそんなに悲しそうなんですか?」
愛夢の言葉で初めて自分が悲しそうな顔をしているのだと知る。その理由は分かっていた。
「西宮さんに普通の人生を歩んでほしいからですよ!」
何度このやり取りをしても絶対に譲れない思いがあった。勝手な願いだとは分かっていた。だが人として、大人として、愛夢には普通に生きてほしい。
皇は、卑劣な大人に絶望し暴走した。そうして高校を卒業する事なく命を落とした。
だから彼の分まで愛夢には幸せになってほしかった。
「西宮さんは普通の女の子です!誰かと楽しくお喋りして、穏やかな時間を過ごす!そんな時間が西宮さんには相応しいんですよ!」
漁火は愛夢と過ごす時間が好きだった。こんな風に心穏やかに過ごした事は、この四年間殆ど無かった。
もう充分に貰った。これ以上を望んではいけない。そう思っていた。
だが愛夢はまだ食い下がる。
「前もそう言っていましたね。それは美剣さんと漁火さんと過ごす時間じゃダメなんですか?漁火さんは私と働けたら毎日が楽しいって言ってくれたのに!私だって一緒です!」
「えっ!?」
生きてさえいれば楽しい事も嬉しい事も、これ先に待っていてくれる。だが愛夢はそれを自分たちと共に感じたいと望んでくれた。
漁火の心臓の辺りが、嬉しさでじんわりと暖かくなっていく。
【西宮さんは皇さんとは違う。なのに、二人はどこか似ている】
かつて皇も学校で孤立し心を閉ざしていた。だが夏休みの間、同じメテウスを持つ自分たちとの交流を得て次第に変わっていった。
笑いながら「この場所にいると楽しいよ」と笑ってくれた時の嬉しさは今でも忘れられない。
「私・・・学校でこんなに誰かとお話したり、楽しく食事をしたのは初めてでした。その時間は二人がくれたものです」
ランチタイムのお喋りも放課後のお出掛けも漁火は学生時代に当たり前にしていた。それを愛夢は初めてだっただと言う。
それはあまりに悲しい。
愛夢もまた皇と同じ様に同世代の人間と過ごす事に苦痛を感じていた。今は少しマシになってはいるが、心が疲れてしまったのだろう。
だが人間関係を諦めるには、愛夢はまだ若過た。
「西宮さんはまだ若い!何も知らないだけで、これから何処にでも行けて、好きなものを見つけて、何でもできます!それこそ私たちなんかとは比べものにならない程の素敵な出会いだってあります!」
互いに負けじと声は段々と大きくなっていった。
「そんなもの無いですよ。私にとって人生で最高の最後のこの出会いを大切にしたいんです!」
まるで、近い死を悟っているかの様な発言に漁火は衝撃を受ける。
「何でそうやって簡単に諦めてしまうんですか!?」
「簡単なんかじゃないです!今まで生きてきた中で優しくしてくれた人は何人かいたけどっ・・・皆んなすぐに離れていった・・・。ずっとそうだった!」
出会った時とは比べ物にならない程に愛夢は強く大きな声で漁火の言う事を否定する。目の端に涙を浮かべる愛夢に漁火はたじろぎそうになった。
「今の西宮さんならきっと大丈夫ですよ。きっと慕ってくれる方が沢山いるはずです」
これは本心だった。これまでの愛夢の人生がどんなものだったのかは分からない。漁火は愛夢の生い立ちを詳しく調べてはいなかった。それは本人の許可もなく知っていい事ではないからだ。
知っているのは隊長である美剣だけだった。
自分に見せてくれた笑顔や可愛らしさを出せば、愛夢はどんな人間とも上手くやっていけるはずなのだ。
「・・・分かりました」
漁火の願いは、ようやく愛夢に届いた。
「分かってくださったんですか!?給与だけが全てじゃありませんよ!やりがいがある仕事なんていくらでもありますから一緒に探していきましょう!」
漁火の喜ぶ声に愛夢は何故か俯く。震える肩に連動して声も微かに震えていた。
自分がどれ程の綺麗事を言っているのかなど、十分に分かっている。それでも愛夢には綺麗事の中だけで生きていてほしかった。
「・・・漁火さんが絶対に私と一緒に働きたくないんだって、よく分かりました」
「えっ?違います!・・・いや、違わないのかな?」
確かに漁火が言いたい事に関しては当たってはいる。だが愛夢の受け取り方が間違ってた。
「LETのお仕事は美剣さんの近くにいられて、漁火さんの助けになれて、結果的にも誰かの大切な人たちを守れるやりがいのある仕事だと思ったんです」
「それはっ・・・」
「漁火さんが言っていた私の可能性の選択肢なんて何にも無かった!どんな仕事でも学校でも全然興味が持てなかった!私なりに一生懸命に考えて、誰にでも胸を張れる結論を出しました!」
「西宮さん・・・」
説得に応じるどころか、愛夢の願いは強くなっていた。美剣の言う通り、夢と呼んで良いほどにその思いは成長した。
「こんな私なんかでも誰かの役に立てるって!だから頑張ろうって思えた!漁火さんも認めてくれたって思っていたのに!」
確かに漁火は一旦は愛夢の入隊を了承した。それは愛夢の自棄を止めさせる為のしのぎの方便であった。
だがそれが愛夢の心を深く傷つけてしまった。
「答えを出すのが性急すぎませんか?今から求人を出す企業に西宮さんが心惹かれるかもしれませんよ?だからギリギリまで一緒に探してみましょう?」
「そうやって言いくるめて、結局最後は違う仕事を薦めようとするなら最初からお前となんか働きたくない、お前なんていらないって言ってほしかった!」
それができたならば、どんなに良かったか。結局は突き放す事も、受け入れる事もできない。
その中途半端さが今に繋がっている。
「それは違います!そんなことは思っていません!」
「私・・・美剣さんと漁火さんと一緒にいられるようになるのを楽しみにしていた!こんな風に週に一度だけじゃなくて、これからは毎日会えるんだって!」
「へっ!?それは・・・嬉しいですが・・・」
愛夢の漁火への特効攻撃は遅効性の猛毒の様にジワジワと効き始める。
「漁火さんが優しくなければよかったのに・・・。優しくしてくれるたびに、もっと一緒にいたいって気持ちになってしまう!」
愛夢の漁火特効が心臓部へとクリティカルヒットする。腕時計は先程から異常を検知して震え続けている。その回数に旭夏も驚いているだろう。
「ぐっ・・・え」
「クエ、お魚の?─って私もうしりとりはしません!」
「えっ!?もうしてくれないんですか!?何故?」
愛夢の突然の宣告に二度目の魚縛りしりとりになってしまった事を悔いる暇も無かった。
「どんなに頑張っても漁火さんに認めてもらえなきゃ意味がないから・・・。今認めてもらえないのに、しりとりなんてしてても意味が無いからです!」
「いや、確かにしりとりは今のこの話とは何の関係もないですが、そう言われると寂しいのですが」
愛夢の言っている事は尤もであった。
覚悟を決めていたはずだった。だが、いざこれを最後にされてしまうと、名残惜しさと後悔が残る。
「漁火さんが入隊の書類をくれないのなら、美剣さんが私を迎えにきてくれるのを待ち続けるだけです!」
「美剣さんを、ですか?」
「はい!美剣さんは私に必ず迎えに行くって言ってくれました!それを信じて待ち続けます!」
「・・・っそうなると私はお役御免ですかね」
突然出た美剣の名に漁火は何も言えなくなる。
自分がいなくとも結局、愛夢には美剣さえいればいい。慕っている美剣に望みを叶えてもらう方が嬉しいに決まっている。
きっと美剣は全員を納得させるまで諦めない。そして愛夢も絶対にその日まで美剣を待ち続ける。
もう世界は愛夢がフロウティス部隊に入る事が決まっているかのように動いていた。
「本当は、ちゃんと漁火さんに認めてほしい。そうして一緒にいられる未来を諦めたくないです!」
胸を打つ言葉とはこの事なのだろう。
漁火の心臓は激しい痛みと振動に襲われる。そうして力無く項垂れ机に頭をぶつけた。
何度突き放し断っても健気に実直に喰らい付いてくる愛夢に漁火は勝てない。勝つ事ができない。
【この可愛さに勝てる人間なんて存在するはずがない!いたとするなら、それは人の心を持たない鬼と呼んで良い!溝呂木さんだって旭夏さんだって絶対に西宮さんに勝てない!】
痛みは動揺を誤魔化してくれない。
漁火の良心は限界に達した。
「何でこんな事になってしまったんだぁ!私だってこんな事言いたくないのに!やりたくてこんな事してるんじゃないのにぃっ!」
「ごめんなさい。もう漁火さんとお話しない方がいいですよね?これからは知らない人のフリをします」
「えっ!?何でそうなるんですか!?何でいきなりそんな悲しい事言うんですか!?」
大の大人の唐突の絶叫に引いたのだろう。
愛夢の突然の絶縁とも取れる発言に漁火の頭はひどく混乱する。
「・・・だって漁火さんは麻雀で負けて無理矢理ここで私の勧誘をさせられている。LETにきてほしくなくてあの手この手で頑張ってるのに、私が言うことを聞かないから今も怒ってる。口では違うって言ってくれるけど本当は私、嫌われてるんですよね?」
「違います!西宮さんには全く怒っていません!だからそんな悲しいことを言わないでください!」
愛夢の悲痛な表情が先程までとは違う悲しい痛みを誘う。そして漁火の心臓を虐める。
また愛夢が自虐的な勘違いによりセルフネグレクトを引き起こしてしまうのではと不安がよぎった。
「私もっとしっかりしますから!二人の邪魔にならないようにします!何でも頑張ります!だから漁火さんの側にいさせてください!」
まるで告白のような懇願に漁火はついに陥落した。
【け!な!げ!】
常に愛夢の可愛さは最高値を更新して突き抜ける。
先程の痛みが、また胸にぶり返してくる。
漁火は仰け反り、勢いのまま椅子ごと後ろに倒れた。ガターンッという先程とは比べ物にならない大きな激突音に、愛夢が悲鳴をあげる。
漁火は残された最後の手を使うしかなかった。
「・・・でお願いします」
「えっ!?救急車を呼びますか?漁火さんのスマホをお借りしてもいいですか?」
慌てる愛夢が側へ駆け寄ってくる。
「ひとまずは・・・トライアルでお願いしますぅ」
口を覆う指からこぼれたのは、何とも情けない声であった。
「トライアルって、お試しのことですよね?」
「はい。三ヶ月のトライアル雇用期間を設け、そこで西宮さんの適性を判断します」
これは正真正銘の奥の手であった。これより後の手はもう無い。
トライアル期間中に愛夢が音を上げれば他の仕事先を紹介する。
上げなければ、こちら側から本採用を見送ると見切りをつける。
こうなった場合の事は既に話し合っていた。
フロウティスが無い愛夢は追弔には参加しない。見学のみという事で満場一致している。
最初から愛夢が戦う未来は用意されてはいない。
「じゃあ今度こそ本当に認めてくれたんですね!?」
「・・・来週、必要書類をお持ちします」
愛夢の諦めの悪さに漁火は観念するしかなかった。
「今度こそ?絶対にですか?」
「疑う気持ちは尤もです。心配でしたら指切りをして誓約書を書いても構いませんよ?」
「いいえ!漁火さんを信じていますから大丈夫です」
「仕事納めの25日に、押印して頂いた書類をここに取りにきます。それまでは私も粘りますから」
起き上がる気力は無かった。漁火は臼井に用意してもらった大学校の資料を愛夢に渡す
「職業訓練がある大学校の資料です。私的な理由で防衛大は薦めたくないので国交省の教育機関のみとなってしまいました」
きっとこれらは愛夢の心を動かす事はできない。そんな事は分かりきっていても足掻かずにはいられなかった。そんな漁火を気遣って愛夢は言葉を濁す。
「・・・なんて言うか、漁火さんってすごく・・・」
「諦めが悪くてしつこい男ですか?すみません、自分でもそう思いますよ。でも最後まで自分ができることをやり切りたいんです」
きっと愛夢がLETに入ったとて同じ様に違う職場を勧める。入隊から三ヶ月までに次の仕事先を見つけ、そこへ斡旋する。それが次なる最善手だった。
「すごく立派だと思います!私も見習います!」
「私が言うのも何ですが、西宮さんも諦めの悪さも中々のものだと思いますよ?」
我慢比べで負けたのは人生で初めてだった。
諦めの悪さ、我の強さは、自他共に認める漁火の長所でもあり短所でもあった。
喧嘩をした際に自分は間違っていないと確信した時には、相手である妹とは二年間口を効かなかったほどだ。
「私なんて漁火さんに比べたらまだまだです!」
「ひどいなぁ〜西宮さん!」
絶対に自分が折れなければいい。そう思って愛夢の説得に当たっていた漁火であったが、結果は見事なまでの惨敗であった。
愛夢は漁火が思っていたよりも勝気で説得には失敗した。
だが不思議と後悔は無い。
いっそ清々しいほどだった。
もし皇と天海隊長が生きていたのなら、今日の事を笑い飛ばしてくれたであろうと、そう思えた。
防衛省 LET本部 エントランス
「・・・という感じで説得には失敗してしまいました」
「まさか、逆にお前が説得されちまうなんてな!とりあえず諸々ご苦労さん。引き続き頼むわ」
漁火はリハビリを終えた美剣とミーティングルームにいた。
「はい。・・・四月一日さんが言っていた西宮さんの血液の件ですが、性格的に考えて自発的に提供したとは思えません」
過去の愛夢はメテウスの事など何も知らない。自らを呪うように責める愛夢が、血液を他者に輸血する為の献血に協力した。その事が、ずっと引っかかっていた。
「時期は高二の学祭らしいんだ。強引に頼まれて個室に一人で、だからアイツは余計に断れなかったんだろう。オレもソレを知ったのは最近になってだ」
あの美剣がよく怒りを我慢したものだと、漁火は心の中で関心する。おそらく血液センターの人間は採血をしただけで、LETの事など知らない末端の職員だ。
真に向ける怒りの矛先は、今ものらりくらりと逃げ回り続けている。
「手紙を出すよりも、ずっと前から接触されていた。結局、口約束なんて何の意味も無いんですね」
「雇ってから違ってましたが通じねぇ世界だ。やり方はマジで気に食わないが、言いたい事は分かる。オレも許してはいない」
「この事を西宮さんに伝えたとしても、決意は絶対に揺らがないと判断しました。ですから本人には引き続き伝えずにいようと思います」
「そうしてやってくれ」
愛夢はたとえ真実を知ったとしても、自分の血液が他者の体に入らなくて良かったと安心するだけだ。漁火には、それが容易に想像できた。
「アイツの保護者にはオレから話を通しておくよ」
諦めの悪い漁火は、愛夢の保護者が反対してくれる事を願ってしまう。
愛夢に入隊の書類を渡した日から6日が経ち、ついに明日が受け取り日であった。
今日の追弔は深夜から朝方まで続いており、ようやくアスピオンを還せた時には始業時間だった。フラつきながらも、本部へ帰還した四人は仮眠する間もなく後処理に追われる。
「美剣さん、体調は大丈夫ですか?この後は定例の報告会議ですけど」
漁火はタブレットと資料を手に取り美剣を振り返る。この会議は月に一度行われる報告会であり、追弔の成果や反省点を発表する。有識者だけでなく各庁の責任者が集結し意見を出し合う。
と、いう名目で開かれるLETに文句を言い袋叩きにする為の集まり。平たく言えば、罵られに行く為の会議であった。
「大丈夫だ!オレくらいになると会議で問答しながら目を開けて寝られる!」
仁王立ちでキッパリと言い切る美剣の目は赤くなっていた。未だ怪我の治療中の為、眠気覚ましのコーヒーも月歌に控えるよう言われて飲めていない。
漁火は美剣の掌にミントタブレットを数個落とす。
美剣はソレを一気に口に入れボリボリと噛み砕いた。小気味の良い音が静かにミーティングルームに響く。
「ありがとな!・・・何か冴えてきた!」
漁火が時刻を確認しようと腕時計を見ると、スマホのBluetoothとの接続が切れている。
そこでようやく自分のスマホの電池が切れていた事に気付く。会議中に充電しようにも、今日に限ってモバイルバッテリーすらも充電が切れている。
各所の重鎮は会議室でのスマホの充電を良く思わない古い石頭ばかりであった。
「お前のスマホ、さっきまでずっとフル稼働だったからなぁ。アスピオンが出たらオレのスマホから連絡すればいいから、そこで充電しろよ」
「はい。ありがとうございます」
側にあるコンセントでスマホの充電をしていると、着替えを終えた溝呂木がミーティングルームへと入ってきた。
「お疲れ様・・・」
フラつく溝呂木の顔面は青白くなっていた。
「おい!怪我人のオレより顔色悪いじゃねぇのか!?」
「大丈夫ですか?ソファで仮眠なさってください!」
「それより帰って寝た方がいいだろ?それが嫌なら月歌さんの所行けよ」
「平気だよ。それよりも美剣、会議中は絶対にお偉方にキレるなよ?」
「分かってるつーの!」
ソファに深く腰を下ろした溝呂木はタブレットを操作しメールを作成し出す。
体調不良でありながらも仕事を続ける溝呂木に美剣は引いていた。
「溝呂木さん、すみません。スマホの充電が切れてしまいまして、コンセントを使わせてもらっています」
「構わないよ。放っておいてもいいんだろ?」
溝呂木の視線は研究施設から送られてきた資料に釘付けだった。スラリと長い指先がタブレットを撫で続ける。
「・・・無いとは思うのですが、もし学校からの連絡だった場合は出ていただいて構いません。他方面からでしたら急ぎではないので留守電で大丈夫です」
「分かったよ・・・」
話す度に口元を押さえる溝呂木に会釈をし、漁火は美剣と共に地下を出て防衛省の会議室へ向かった。
防衛省 会議室
美剣と漁火は用意されているプラスチック製のミーティングチェアに座る。
周囲にはコの字型に置かれた長机、広い等間隔に置かれた高級レザーチェアには各所の重鎮が座っていた。一席だけある空席の席札には「東京都知事」の名が記されている。
【ご挨拶をしたかったけど、やはりお忙しいんだな】
漁火はタブレットを操作しプロジェクターを投影させた。そして静かな会議室に声を響かせていく。
「それでは只今より定例報告会議を始めさせていただきます」
上座にいる重鎮たちは真剣に話を聞く者もいれば、欠伸をする者も、スマホを弄る者もいた。
「お手元の資料には報告は11件と記載されていますが、本日の朝方に終えた追弔の報告を新たに加えて12件とさせていただきます」
出来得る限り叩かれるミスや粗を作らない。それが化け物と呼ばれる自分たちが、この臆病で利己的な人間の下で穏便に生かしてもらえる方法であった。
資料を切り替えようとする漁火を「待て」と言う声が遮る。
「その前に、先日デコイの場所を突然変えた件について先に報告しろ。変更先には外務大臣の娘さんの嫁ぎ先があるんだぞ!分かっていてやったのか!?」
会議室に怒号が響く。
声の主は国交省の重鎮だった。
横に座っている美剣が漁火を手で制し代わりに回答する。
「その件につきましては、オレが許可を出しました。当初の設置場所付近に向井議員の息子さんが通われている高校がありましたので」
毒を上手く使い薬にする様に、美剣は向井をダシに使う。愛夢を守る為にした事であったが、結果的には嘘はついてはいない。
愛夢が向井と同じ高校に通っている事を知る人間は、この重鎮たちの中にはいなかった。
まだ何か言おうとする重鎮に美剣は言葉を続けた。
「これまでアスピオンはデコイを無視して一般人を襲った事はありません。ですが、ご命令とあらば漁火は3分で元の位置へデコイを戻せます。どちらの命を優先すべきなのか、バカなオレに教えてもらえますか?」
美剣は凄みをいつもよりも大分抑えている。おそらくは眠気が勝っているのだろう。それが却ってしおらしい態度に見えていた。
「もういい!さっさと会議を進めろ!私もそんなに暇じゃないんだ!」
この決定は迂闊な事を言えば責任問題になる。それを避けたい国交省の重鎮は顔を真っ赤にして美剣に怒鳴った。
バレないような失笑が会議室を覆う。この空気が漁火は好きではなかった。
共に日本を護り支えるべき人間が、互いの足を引っ張り合い揚げ足を取りに夢中になる様は、見ていて気持ちの良いものではない。
「・・・漁火、続けてくれ」
「はい」
建設工事における資材の破損、美剣の負傷に対する現在の措置、交通規制で被った損害。
どうあっても追弔には付き物である被害報告に、重鎮たちは水を得た魚の様に活き活きとしていく。
「お前たちは何度同じ事をすれば気が済むんだ!」
「私が今より三十年若ければ、お前たちよりも上手くやれたぞ〜」
「何かあったら責任は誰が取るんだ!?」
この瞬間だけは重鎮たちは一丸となる。
【始まった・・・。コレ、長いんだよなぁ】
この時間は驚くほどに何も得る物が無い。
ため息を吐く漁火の隣りからは規則正しい寝息が聞こえてくる。見ると美剣は本当に目を開けたまま寝ていた。時々、船を漕ぐ姿は謝罪で頭を下げているようにも見える。
もはや見事としか言い様が無かった。
そんな高等なテクニックを持ち合わせていない漁火は、ただ黙って罵詈雑言に耐え続ける。
そうして12件の報告を終える頃には19時を過ぎていた。
ストレスを発散しスッキリとした顔の重鎮たちは、クリスマスイブを楽しむ為に夜の街へ繰り出す。
その車を全て見送り、ようやく長かった二人の定例報告会議が終わった。
「あぁー!疲れたー!」
「何で目を開けたまま寝てた人が疲れてるんですか!」
そんな会話をしながらミーティングルームへ戻ると、会議に行く前と同じ場所に座る溝呂木が居た。
「無駄に長い会議、お疲れ様」
そう言う溝呂木の顔色は幾分か良くなっている。
「お疲れ様です。体調の方はもうよろしいのですか?」
漁火はスマホを充電器から抜く。
「大分良くなったよ。それから会議中に学校から連絡があったから、対応しておいたから」
漁火は慌てて履歴を確認する。公衆電話と学校からの着信履歴に嫌な想像が頭をよぎる。
美剣も愛夢に何かがあったのだと感じ取ったのだろう。怪我人とは思えぬ動きで溝呂木へ詰め寄った。
「アイツからか!?何かあったのか?」
溝呂木は溜息を吐きながらクリアファイルを机に放る。中身は破かれた入隊書類だった。
「書類を破損させてしまったって連絡だった」
バラバラに破かれた書類と、真っ二つに裂かれ踏みつけられた書類。それは見ているだけで同じ様に心が引き裂かれそうになる程に酷い有り様だった。
「あり得ねえよ!」
「あり得ません!」
二人の溝呂木へ叫ぶ声が揃う。
西宮愛夢という人物を知っている人間だからこそ、美剣と漁火にはすぐに分かった。
この所業は愛夢の手によるものではない事が。
だが同時に、愛夢の手にあるはずの書類が今この場にある事に疑問が浮かぶ。
「・・・ちょっと待ってください。そういえば、何でこの書類が今ここにあるんですか?」
「あの子が自分でここまで持って来たんだよ。二人に謝りたい、新しい書類を貰いたいってさ」
溝呂木のどこかバツが悪そうな態度を美剣は見逃さない。
「お前、アイツに何した?何を言った?」
「・・・僕はあの子の為人を知らない。だから、こんな事をする人間の雇用は白紙にすると強い言葉で突き放した。反省はしている」
破かれた書類の事で愛夢は自分を責めたに違いなかった。ここまで至るまでの過程をずっと見てきた漁火には、愛夢の気持ちが痛いほどに理解できた。
「あの子は、外で会議が終わるのをずっと待っていたんだ。最後になるかもしれないから絶対に二人に謝りたいって」
学校が終わる時刻に始まった会議は、ただ無駄の極みで三時間あった。その分、愛夢の不安は長引いた。
「・・・西宮さんは、どのくらい待っていたんですか?その後はどうしたんですか?」
「1時間くらいかな。僕が事務局に新しい書類を貰っておくからって言ってタクシーに乗せて帰らせたよ」
学校が終わる時間から逆算すると寮の門限は確実に過ぎている。スマホの充電が切れていなければ、もっと早くに会議が終われば、と頭の中で後悔が渦巻く。
「・・・クソッ!絶対にあのガキの仕業じゃねぇか!」
漁火も美剣と同じ想像をしていた。
あの日、愛夢に殺意に近い視線を向けていた向井が書類を破り捨てたのだと。
ミーティングルームを出て行こうとする美剣を溝呂木が追う。
居ても立っても居られないのは漁火も同じだった。
「待て!大人しくしてろ。僕から父親の方に厳重注意しておくから。お前が動くとロクな事にならない」
漁火は臼井へ連絡を入れる。
その間、後ろでは溝呂木と美剣の言い争う声が絶えなかった。
愛夢は無断で外出し門限を破った。そして今は無事に寮へと戻り自室にて反省中だと電話口で告げられる。日頃の愛夢の行い、漁火の説得、臼井と寮母の温情、そして一部始終を目撃した生徒からの報告があり、愛夢は寛大な処置を下された。
その事を美剣に報告すると少しだけではあるが怒りは収まる。
「美剣、お前は月歌さんの所へ行け。今日の分の検査にまだ来ないって怒ってたぞ」
美剣はそれを聞き血相を変えて即座に部屋を出た。そして月歌のいる医療ルームへと早足で向かう。
月歌はその美貌とキツ過ぎる性格の為からLET内では「女帝」と呼ばれていた。共に仕事をしている研究員と医療スタッフには、絶対零度の冷たい侮蔑の視線がご褒美だ、と喜ぶ者すらいる。
今も昔も月歌の愛を勝ち取れるのは、亡くなった夫の天海隊長だけであった。
そんな月歌に怒られまいと美剣はケガを押して駆けて行く。
「・・・まぁ怒ってるっていうのは嘘なんだけど。呼んでるのは事実だから」
「えっ!?そうなんですか?」
暫しの無言の後、溝呂木はジリジリと漁火に近付いて来る。その顔には鬼気迫るものがあった。
「漁火君!」
「はい!」
溝呂木は苦虫を噛み潰したよう様な顔で話を切り出す。
「・・・明日、ここに来るから!」
「何がですか?書類ですか?」
「〜っ違う!あの子が!ここに!書類にサインしに来るんだよ!それを僕が事務局に渡すんだ!」
予想だにしなかった溝呂木の返答に漁火は固まる。
「だから!明日は学校へ行く必要は無いから!」
「・・・え?」
「それから!美剣の明日の会合は午前中に変更になったから!昼には終わる!」
「・・・はい」
突然始まった情報共有に漁火は頷く。だが溝呂木の顔はさらに険しくなる。
「あの子も昼にはここに来る!エントランスでサインしてもらえばいいから!」
「分かりました」
「・・・それだけ?」
愛夢は溝呂木を説得してのけた。もう何の問題も無い。充分すぎる対応に漁火は頷く。
「はい。私が不在の間に、お手数をおかけして申し訳ありませんでした。明日の段取りも了承しました」
もう漁火は眠気が限界だった。
今日の事は溝呂木が片付けてくれた。もう自分にできる事は何も無い。だから今は帰って一刻も早く眠りたかった。
だが帰ろうとする漁火の肩を溝呂木は強く掴む。
「何で・・・そんなに察しが悪いのかなぁ!?」
「ひいっ・・・!」
凄む溝呂木の表情で漁火の脳裏には二ヶ月前の壁ドンの恐怖が甦る。
今度は漁火の顔色が青白くなっていく。
「美剣が帰ってくる時に、あの子がエントランスいるようにしろって言ってるんだよ!」
「言ってましたか?・・・でも接触禁止令は?」
「あの子の来庁時間と美剣の帰庁時間が偶然重なるだけだ!僕は見ない!君も見ない!そうだろ?」
眠気に抗い何とか溝呂木の言いたい事を頭で整理する。つまりは愛夢と美剣を会わせて良いと言っているのだとようやく理解できた。
愛夢に直接会った事で心境に変化があったのだろう。これは溝呂木なりの不器用な優しさだった。
「美剣さんがそれを知ったらすごく喜びますよ」
「何言ってるの?言うわけないだろ?君が偶然を装って二人を会えるようにするんだよ。失敗したらそれまでだからね?二度目は無いよ」
「えぇーー!!???」
驚き、呆れ、不安、様々な感情から漁火は目を開けたままで気絶しそうになる。
【今なら・・・美剣さんみたいに目を開けたまま眠れる!むしろ絶対、立ったままで寝られる!】
「僕は何もしない!邪魔もしないし協力もしない!じゃあね!お疲れ様!」
溝呂木は自分の言いたい事だけを言って去った。
ミーティングルームに一人残された漁火は床に頽れる。
「今日はクリスマスイヴなのに・・・なんて日だ!」
美剣は美人で年上の月歌にデレデレしている頃だろう。旭夏は言うまでもなく、とっくの昔に帰宅した。
そして自分はというと虚しく一人で眠りに帰る。
それぞれの個性が強力すぎるこの職場には、壊滅的に癒しが足りていなかった。
むしろ全くと言って良い程に無い。
「癒しが・・・癒しが欲しい!」
冷たい床に項垂れる漁火の頭に浮かんだ癒しは、楽しそうに笑う愛夢の笑顔だった。
明日になれば会える。そう思えば鉛のように重たくなった体を何とか動かす事ができた。
クリスマス当日、急遽予定が変更になった美剣からは電話口で文句を言われ、溝呂木からは無言の圧力を向けらる。
だが漁火には、そんな事に構っている余裕は無かった。クリスマスケーキに関しては元々予約してある物を遅出をして取りに行くだけでいい。だが加えて美剣の帰庁のタイミングで愛夢と鉢合わせさせるというミッションが発生した。
既に各所への連絡は溝呂木が終えている。
協力はしないと言いつつも、自分のやるべき事はやってくれていた。
「後はタイミングを合わせるだけって、これが一番難しいんだよなぁ・・・」
美剣の会合終了の連絡は思ったよりも早かった。「紙皿を買ってきてください」と遣いを頼むメッセージを送り、なんとか帰庁を遅らせてみる。
「こうなったら正直に計画を話して美剣さんにはエントランスで待っていてもらうか・・・」
漁火は愛夢を迎えに行く為に駅へと向かう。
一度手前まで訪れたとはいえ、入るには勇気がいる。少しでも不安を拭ってやりたかった。
外へ出ると、正門に続く長い階段の下に不安そうに小さくなって怯えている女性がいた。
「西宮さん?」
厳正なこの場所には似合わないか弱い可憐な少女は、愛夢だった。
漁火は愛夢はまだ防衛省へ向かってきている最中だと思っていた。心配を他所に愛夢は一人で入省を果たしていた。
【かなり着くのが早いな・・・。もしかして走ってきたのかな?】
愛夢は漁火と目が合うや否やポロポロと泣き出してしまう。
「私、漁火さんにずっと謝りたかったんです!」
漁火の嫌な想像は的中した。愛夢は書類の破損の事で自分を責めて苦しんでいた。いくら励まそうとも愛夢は悔やむ事を止めてくれない。
「・・・私、美剣さんにも謝りたい!こんなことになって、ごめんなさいって言いたいんです!」
「そうですか。とりあえず私から言えるのは、昨日の美剣さんは学校に乗り込もうとするくらいに心配して怒っていたという事でしょうかね」
「そんな・・・美剣さん・・・」
数分後には、この曇った表情は確実に笑顔へと変わる。美剣と会えたなら愛夢の憂いはきっと無くなるのだから。
漁火は美剣に「すぐに戻ってきてください」とメッセージを送った。
「わぁ・・・広くて綺麗!」
エントランスを見た愛夢は驚きの声を上げた。
「奥にまだまだ施設は続くのですが、本日はここで書類を書いていただくことになっています」
「はい。まだ部外者である私を、ここまで連れてきてくださって本当にありがとうございます!」
「ついに・・・ここまで来てしまいましたね」
もうすぐ愛夢は部外者ではなくなってしまう。それが悲しくも嬉しくもあり複雑であった。
漁火のスマホに美剣からの「着いたぞ」というメッセージが入る。
「私は15分ほどここを離れます。西宮さんは、そこで座って待っていてくださいね」
「・・・わかりました」
椅子に腰掛ける愛夢に漁火はクリスマスプレゼントを送る。何とも甘い接触禁止命令の解禁は、聖なる日だけの奇跡であった。
「今日はクリスマスですからね。特別ですよ?」
漁火の笑顔に愛夢は首を傾げていた。
ミーティングルームでのんびりと愛夢と美剣の話が終わるのを待っていると、溝呂木が仕事部屋から飛び出してくる。
入隊書類は今朝渡された。後は知らないフリを決め込むだけだった溝呂木が、突然血相を変えて漁火へ詰め寄ってくる。
「えっ!?何ですか?デジャヴ!?」
昨日の今日で漁火は後退り壁際へ追い詰められた。
「あの子は!?来てる?」
「はい。今はエントランスで美剣さんとお話ししているはずですが・・・」
「何か言ってなかった?変わった様子は?」
「えっと・・・少し元気が無い様には思えましたが」
愛夢が元気が無いのは平常運転だとは分かってはいたが、今日は少しだけ疲れている様にも見えた。
「事情が変わった。様子だけ見させてもらうよ」
そう言って溝呂木は大股でエントランスへ向かう。
漁火も支度をすませ訳も分からずに後を追った。
エントランスに続く自動ドアが開き、愛夢と美剣がこちらへ視線を向ける。
「もう少しだけ待ってください、溝呂木さん!」
まだ約束の15分は経っていなかった。今日まで接触する事を禁じられ耐えてきた二人に、もう少しだけ時間を与えてやりたかった。
「悪いけど、こっちは緊急事態なんだ」
冷たく言い放つ溝呂木は愛夢に向かって一直線に歩いて行く。何かを言い掛ける愛夢に溝呂木は食い気味に尋ねた。
「そんな物はどうでもいいです!それよりも警備から連絡をもらいました。大丈夫ですか?」
「警備?なぜ警備の方が?」
警備と愛夢に何の関係があるのか分からず漁火は首を傾げる。
「貴女がゴロツキのような連中から拉致されかけ、さらには暴力を振るわれかけたと連絡を受けました。ソイツらは警備が拘束し警察が事情を聞いています」
その言葉を聞いた瞬間、愛夢の身体がビクリと跳ねた。その様子で三人は全てを察する。
「警備員の方が助けてくれてので、こうして無事にここに来られました。だからもういいんです。そうお伝えください」
諦め自分に言い聞かせる様な愛夢を見た溝呂木は、尚も追及を止めない。
「その擦り傷はどうしたんですか?昨日はそんな怪我はしてなかったですよね?」
そう言われて愛夢の足を見ると微かな擦傷が出来ている事に気付く。三人の中で誰よりも愛夢と接してきた筈の自分が、その傷に全く気付けなかった。
そんな事があったのだから、元気が無いのも、疲れた顔をするのも、当たり前であった。
漁火は自身の不甲斐無さに何も言えずにいた。愛夢と溝呂木の会話をただ黙って聞く。美剣も同じなのか握られた拳は小刻み震えている。
「この傷は私が勝手に転んで出来たんです」
「その連中は自分たちは金で雇われただけだと言っているそうです。心当たりがありますよね?」
「ごめんなさい・・・。分からないです」
溝呂木の尋問に愛夢は何故だか口を割らなかった。
口を噤むのは向井からの報復を恐れているからなのだろう。だが、ここにいる全員が犯人を知っていた。
「雇った人物が私の想像の通りなら、今日の西宮さんの入隊書類提出を阻止しようとしたのだと思います!西宮さんがお名前を言わなくても見当がつきますよ」
「そうだね。一体どこまでゴロツキ連中に僕たちの情報を流したのか・・・。とにかく、これはもう貴女だけの問題ではありません」
溝呂木の言う通り、これは愛夢だけの問題ではない。向井はやり過ぎたのだ。
向井が周囲に国の重要組織からの勧誘をにおわせる発言をした事も調べはついていた。それが巨大な嘘を綻ばせる穴になるかもしれない。
そして彼は愛夢を三度も傷付けた。
もうこれ以上は看過できない状況であり、国家機密を漏洩させた父親も同罪だった。
「どうするのが正解ですか?私は美剣さんたちと一緒に働けるなら何でも我慢できますから!だから・・・このままで大丈夫です!」
その望みは聞けなかった。
溝呂木が向井親子を粛清できないのであれば、漁火はカラスの力を行使するつもりだった。
だが肌に感じる熱波と怒号が、それを口に出す事をさせない。突如エントランスを覆った殺気に、漁火と溝呂木は目を合わせ頷き身構える。
「ぶっっ殺す!!向井のクソガキも!そのクズ共も!お前を傷付けたヤツら全員を消炭にしてやる!!」
紅炎の獅子の憤怒の咆哮が地下に響く。その叫びを皮切りに室内の温度は一気にはね上がった。
エントランスはサウナに変貌した。
向井と対峙した時の美剣の怒りなど比にならない。
このままでは美剣は向井を殺しに行く。漁火は防衛省から一番近いデコイを解除して自分の側へと戻す。
「美剣さん!危険ですから落ち着いてください!西宮さんが側にいるんですよ!?」
「おいっ!美剣!お前は何度、火災報知器を鳴らつもりなんだ!?」
二人の制止の声に美剣は何の反応も示さなかった。
「お前を苦しめたヤツ、全員を燃やし尽くしてやりに、今から行ってやるっ!!」
脇目も振らずに血走った目でエレベーターへと向かう美剣を溝呂木が止めに走る。
溝呂木が美剣を押さえ言い争う間にカラスは漁火の周囲へと舞い戻った。
漁火は即座に「全てを覆え」と念じる。カラスは忠実にエレベーターを深く黒く染め上げた。
「漁火ぃ!邪魔するな!カラスをどけろ!!」
「その命令には従えません!我々は貴方まで失うわけにはいかないんです!」
怒りの矛先が自分に向こうとも、漁火は美剣を止めなければならなかった。
溝呂木も同じ思いで美剣と対峙している。
美剣を皇の二の舞にさせる訳にはいかなかった。
「ここまでやられて黙ってられるワケねぇだろ!」
美剣の怒りに呼応し温度は上昇の一途を辿る。冬だというのに全身の毛穴が開き、汗が背中をじっとりと濡らす。
「・・・っ美剣さーん!!!」
愛夢の可憐な声が美剣の咆哮に続く。その叫びは春の突風に舞う桜の花の様にエントランスを吹き抜けていく。
「私は殴られていません!助けてくれた人がいたので、平気です!足は滑って転んだだけなんです!」
だが紅炎の獅子は止まらない。剥き出しの殺気が陽炎を生み全身を覆っていた。
「・・・っそれでも!お前は怖い思いをしたんだろう!?今からソイツら全員、生まれてきた事を後悔させるほど焼いてきてやる!」
「怖かった!何をされるんだろうって!帰してもらえなくなって、このまま美剣さんたちに2度会えなくなるんじゃないかって!すっごく、すっごく怖かった!」
愛夢の言葉に美剣の怒りの形相はさらに深まる。
漁火も向井の事は絶対に許せなかった。だが、この状況下だからこそ逆に冷静でいられた。
「殺す!お前にそんな思いをさせたヤツを全員殺す!」
美剣は溝呂木に押さえつけられたまま、カラスごとエレベーターの扉をこじ開けようとする。そんな美剣に愛夢は叫び続けた。
「私の所為で美剣さんが誰かを傷付けて悪く言われてしまうのは嫌!その所為で美剣さんと一緒にいられなくなってしまったら、私は絶対に自分を許さない!」
愛夢は大粒の涙を流す。その姿は雨に濡れる桜の花の様だった。それを見た美剣は面を食らい固まった。
「・・・オレは、お前を絶対に守るって・・・約束した!あの日・・・誓った」
「美剣さん・・・お願い!どこにも行かないで!やっと会えたのに!」
愛夢の懇願により美剣の殺気は髪と共に萎んでいく。室温も徐々に正常な温度へと下がっていった。
「悪い溝呂木・・・。もう大丈夫だ」
溝呂木からゆっくりと体を離した美剣はフラフラと愛夢の方へと戻ってくる。
「あの状態の美剣さんを鎮めるなんて!」
溝呂木と漁火は安堵のため息を吐く。
これまで、どんな人間でも怒る美剣を鎮める事はできなかった。せいぜい押さえ付けるが関の山で、自らで落ち着いてくれるのを待つしかない。
そんな美剣を愛夢は言葉と涙だけで落ち着かせた。
「どこにも行っちゃ嫌っ!ここにいて!!」
愛夢は臆する事も無く美剣の腕の中へ飛び込む。
先の事で美剣の周辺は危険だと認識はしている筈だった。それでも愛夢は美剣のそばを離れない。
「・・・すまん、もうオレはどこにも行かない。今日は、お前が帰るまでここにいるよ」
先程の咆哮を発した声帯だとは思えぬほどの優しい声で美剣は愛夢に応える。
美剣は愛夢には絶対に危害を加えない。悲しむ事をしない。約束を違える事もしない。
だから漁火はカラスに元のデコイの位置へ戻るように念じる。
こうしてゴロツキと向井は愛夢のおかげで命拾いをした。
いつまで経っても離れない二人に漁火は苦言を呈する。
「水を刺すようでなんですが、いくらなんでも抱きしめるのはどうかと思うのですが?」
「こうすればオレは絶対にキレられない。だから許せ」
愛夢にも激しく首を振られ漁火は呆れながら諦める。だが何故だか微笑ましくその様子を見守れた。
いつも通りの小競り合いを無視して漁火は愛夢との雇用契約に移った。飛び交う罵詈雑言も、吹っ飛ぶ書類も、いつもの事であった。
「やっぱり皆さんは仲間同士だから、心が通じ合っているんですね!」
「斬新な感想ですね。美剣さんと溝呂木さんのアレは日常茶飯事なので、あまり気にしないでくださいね」
愛夢の可愛らしい見当違いを流しながら漁火は万年筆を愛夢に渡す。
二十歳のお祝いにと祖父母がプレゼントしてくれたこの万年筆は使い勝手が良くシックな色合いが気に入っていた。
漁火は愛夢にLETに入る上での最大の注意事項を説明する。
「美剣さんと溝呂木さんの名字の響きが似てることは、胸に留めるだけにしておいてください。口に出してしまうと怒って手がつけられなってしまうので」
「はい」
過去、二人の名字の事を揶揄って無事だった人間はいない。双方共に自身の名に不満があり揶揄おうものなら半殺しに遭う。その為、美剣と溝呂木のコンビは半殺しコンビを略して半分殺と言う物騒なあだ名を付けられていた。
愛夢はそんな人間ではない事は分かってはいたが、念には念を入れた。
「それから、何かお困り事があるのなら遠慮なく私に言ってくださいね?特に今日のようなことは!」
昨日の事も今日の事も、愛夢は自分で解決しようとして苦しんだ。もう二度と絶対に愛夢にはそんな思いをしてほしくはなかった。
「あっ・・・すみませんでした。困っているわけではないのですが、相談をしてもいいでしょうか?」
ようやく愛夢に頼られた漁火は張り切る。
「何なりとどうぞ!」
「お名前は分からないんですけど、昨日、私に傘を貸してくださった方がいるんです。それからガードマンさんも、私をとても心配してくれました。実は今日も、その方たちに助けてもらったんです」
「そうでしたか!もしかして相談とは、その方たちにお礼が言いたいということでしょうか?」
「はい!ガードマンさんは皆さんのことをご存知の方でした。今度こそ、ちゃんとお礼をしたいです!」
漁火の頭にLET結成当初のJGSD指揮官であった丸山の顔が浮かぶ。先程の溝呂木が言っていた"あの人"で既に大方の予想はついていた。
丸山ならばゴロツキなどにおくれは取らない。
部下の天海と、まだ高校生だった皇を死なせてしまった事に責任を感じた丸山は退役した。
そして現在は防衛省の門を守る者として、その職務を全うしている。
そんな丸山が愛夢を守ってくれるのは必然だった。
「その方は私たちとは結成当初からの仲です。今日の帰りにお礼に伺いましょう。その際には私もご一緒しますよ」
漁火も丸山に心からの礼を言いたかった。
今こうして愛夢と話していられるのは、丸山と、もう一人の人物のおかげなのだから。
「ありがとうございます。でも実は色々あって傘を持ってこられなかったんです。立派な傘だったので、本当はすぐにでもお返ししたかったのですが・・・」
「では傘は私がお預かりしてお返ししておきますよ。その方の特徴は分かりますか?」
愛夢の話から傘の人物が特定できなければ丸山に聞くつもりであった。そして最悪の場合はカラスの能力を使って防犯カメラの映像を遡ればいい。
だが愛夢の口から出た特徴に当て嵌まる人物は漁火の知る中では一人しかいなかった。
「えっと・・・すごく綺麗な男の人で、丁寧な話し方をされる方でした。ガードマンさんは名前は教えられない、彼はシャイなんだよ、って」
「・・・もしかして、その方は灰色のコートを着てはいませんでしたか?借りた傘は黒色ですか?」
「着ていました!傘の色も当たっています!漁火さんのお知り合いの方でしょうか?」
「おそらくその方は、私の同僚の旭夏さんです。もうお会いしていたのですね」
愛夢を救ってくれたもう一人の正体は旭夏だった。
「あさか、さん・・・」
旭夏の名を口にした愛夢の頬は、ほんのりと赤く染まった。
普段の旭夏は女性と極力関わらないようにしていた。理由は、魔性の美貌の持ち主ゆえに苦労が絶えないから。知らない女性と目が合うだけで一目惚れされて付き纏われる。挙げ句の果てには、隠し撮りされ、持ち物を奪われ、酷い時には心中させようとまでする被害にあっていた。
そんな旭夏が愛夢を救う為に自ら動いてくれた。
【旭夏さん、本当にありがとうございます】
答え合わせをしていく中で漁火は心の中で旭夏に礼を言う。
愛夢もすっかり旭夏に魅了されたようで、説明会の時のように興味津々の表情をしていた。
たが、それに応えてやる事はできなかった。
「あれ?これって」
漁火は手元にある書類を凝視して唸る。
【何で二枚もあるんだ?私たちの時は一枚だったのに】
愛夢の連帯保証人引受承諾の書類はニ枚あった。そのうち一枚は無惨に粉々に破かれ、もう一枚は切れ目が入ってはいるが、かろうじて形を保っている。
無事であった学校側からの書類と、この一枚のみに受理可能の付箋が貼られていた。
「う〜ん・・・これは・・・」
愛夢を宥めた漁火は美剣の猛攻を華麗に躱す溝呂木に向かって叫んだ。
「すーみませーん!溝呂木さーん!ちょっと、こちらへ来てもらっていいですかー?」
溝呂木は競合いを締めにかかる美剣を軽くいなす。
今からする話は愛夢には聞かせたくはなかった。
だから漁火は、落ち込む美剣を励ます名目で愛夢を遠ざける。
「すみません、西宮さん。私と溝呂木さんの話が終わるまで美剣さんにかまってあげてください」
愛夢は素直に床に座って椅子に頭を預ける美剣の元へと走っていく。後ろ髪を引かれる愛夢に漁火は不安を与えぬように微笑んだ。
「すみません、この書類の事なんですけど・・・」
書類を受け取った溝呂木の表情は一気に曇る。
「・・・よりにもよってコレか、厄介だね。代筆が認められない。向井息子はこの書類の重要性を分かっていたんだろうね」
これこそがフロウティス部隊の最大の枷。連帯保証人という名の人質は、メテウスを持つ者を飼い殺す為の鎖であった。
LETに入る以外の道を閉ざされ、コレがある限りLETから逃げる事も出来ない。
そして、これから愛夢もその檻に囚われる。
愛夢のLETへの加入を阻止する為に、向井は最も重要性の高い書類を重点的に狙ったのだ。
「私たちの時は、この書類は一枚でしたよね?連帯保証人なんて一人見つけるだけで困難なのに・・・」
「コレ、知ってると思うけど僕への嫌がらせで出来たんだ。だから家族のサインは認められないだよね」
両親から勘当された溝呂木はLETに入る事を妨害され、それは今も別の形で続いていた。
溝呂木はそんな圧力とも戦いながらも、フロウティス部隊を今日まで守ってくれていた。
「そうでしたね。ですが過去そうであっても今のLETが西宮さんを妨害する理由がありません。連帯保証人を二人に増やすなんて!」
「向井議員の元妻も現職の議員だ。おそらく彼女が息子に頼まれて妨害をねじ込んだんだろう。コレばかりは、どうする事もできないよ」
消沈で身体から力が抜けていく。連帯保証人は一人だけでは認められない。溝呂木が無理だと言うのなら漁火にも打つ手は何も無かった。
離れた場所から書類ついて愛夢に説明する美剣の声が聞こえる。戸惑う愛夢を美剣は優しく説いていく。
この問題の解決は愛夢の人間関係に掛かっていた。
「コレを理由に加入を妨害できたとしてもメリットなんて何も無いじゃないですか!」
「漁火君も、あの子の加入に反対してたじゃないか?」
「溝呂木さんだって反対していたのに今は協力してくれています。それに、西宮さんが襲われた時には、旭夏さんも助力をしてくださいました。西宮さんは認められたから、此処に来られたんです!」
「丸山さんから聞いてるよ。耳を疑った。あの旭夏君が?って」
「西宮さんには、そうさせてしまう魅力があるんです。努力家で常に自分より他人を優先してしまうから放ってはおけない。そんな方だからLETに入る事も許されたんです」
今はもう溝呂木も旭夏も加入を反対してはいない。
愛夢は自身の力でフロウティス部隊全員を納得させてみせた。
「そうだね。おそらくだけど母親の方はフロウティス部隊の現状維持を望んでいるんだろう。連帯保証人の件は独断だと思うよ」
妨害が成功しようが、しまいが、自分たちは何ら困る事は無い。現状維持を望む者を連ね、一時の感情を優先した。あの向井の親らしいと納得できた。
「これ以上化け物は要らない、という事ですか」
「そんな化け物になりたがっている息子を先にどうにかしてほしいんだけどね」
「同感です」
溝呂木との話が終わると同時に愛夢たちも話を終えていた。二人の表情から納得のいく結論は出なかったのだと分かる。
「私なんかを信じてくれる人・・・いない・・・」
愛夢はそう小さく呟いて唇を噛む。
「臼井教諭はどうでしょうか?これでは、ここまで頑張った西宮さんがあまりに可哀想です」
愛夢は困難を打ち破り、強い願いを持ってここまで来た。認めたくはないが、本当にLETに入る事が夢だったのだろう。だからこそ、こんな悲痛な終わり方をさせたくはなかった。
「そうだな。今出せる書類だけ事務局に提出しといてくれ。タイミングが最悪なんだよ、あのクソガキ!」
今から学校へ行き臼井を説得してサインを貰ったとしても今日の提出には間に合わない。
四月一日の望む今年中の雇用契約は不可能だった。
やっと会えた二人を引き離す事はしたくはない。
説得の任の名乗りを上げようとする漁火の横で溝呂木が静かに呟く。
「寄らば大樹の影・・・か」
溝呂木は誰の名前も書かれていない連帯保証人の書類を持って奥の自動ドアへと向かう。
戸惑う三人に溝呂木は振り返り言った。
「こんな書類が出来たのは僕の所為だからね。まぁ、何とかしてみるよ」
溝呂木はやると言った事は、これまで全て必ず実行してくれた。そんな溝呂木が何とかすると言った。
これは確定で、全て上手くいくという事だった。
「そこで三人でお茶でも飲んで待っていればいいよ」
ヒラヒラと手を振りながら奥へ消えていく溝呂木を残された三人は見送る。
どうするつもりなのかは、皆目見当もつかない。
だが悪態を吐く美剣も安心しきっている。安堵の空気を愛夢も感じ取ったのだろう。その顔には、ようやく綻びが見えた。
三人だけのクリスマスパーティーという憩いの時間はあっという間だった。
自動ドアが開く音に三人の視線は一斉に注がれる。
「・・・随分と楽しそうなお茶会ですね。僕のことは気にせず続けてくださって構いませんよ?」
溝呂木は三人が座るテーブル席の側で歩みを止める。漁火はケーキの箱を持ち上げ溝呂木に見せた。
「よかったら溝呂木さんも召し上がりませんか?」
「ごめんね。僕、甘い物は食べないんだ。気持ちだけもらっておくよ。ありがとう」
言われてみればこれまでの付き合いの中で溝呂木が甘い物を口にしているのを見た事はなかった。
愛夢のように他人の好みを把握する事に努めておけば良かったと心で小さく後悔する。
書類の事を聞きたいのか愛夢の視線は溝呂木の手元に釘付けになっていた。
結局、バレンタインチョコ事件の犯人は分からぬままであったが、溝呂木は愛夢に書類を渡す。
書類を受け取った愛夢の手は震えていた。
「んで?結局、誰にサインもらってきたんだよ?」
「・・・椚原さんだ」
「マジ☆ダリかよ!?」
溝呂木の答えに漁火は愛夢と同じような表情をして驚いてしまう。
マジ☆ダリこと椚原はイケオジ都知事として都民に愛される人物であった。脅威の公約達成率と老若男女に手厚い制度の創設により、東京に住む人間たちに椚原は自分の夫であるという存在しない記憶を与えた。
都民の夫と呼ばれたこの現象こそ、イマジナリー☆ダーリンの愛称の由来であった。
「今日、偶然にも、昨日の会議の議事録を確認する為にLETに来てくれていた」
神に愛されているのだろう。愛夢は運が良かった。渡りに船とは、この事であった。
「どうしてですか?私・・・都知事とは会ったこともないのに・・・」
「・・・皆が認めたのなら、それだけで信用に値する人間だと椚原さんは快くサインしてくれたんです。嫌なら返してくれますか?僕の恩人に失礼は許さない」
「違います!嫌なんじゃなくて・・・驚いてしまって。私なんかの為に都知事が連帯保証人になってくれるなんてって」
美剣は席を立ち守る様に愛夢の側へと駆け寄った。
「おい溝呂木!西宮愛夢をイジめるな!」
「イジめていない。覚悟を問うだけだ」
漁火は美剣と溝呂木の間に割って入る。何も分からず戸惑う愛夢には説明が必要であった。
ここにいる誰もが愛夢に危険な事をさせるつもりは無い。ただ大人しく守られると誓ってくれれば、それで良かった。だが聡い愛夢は一瞬で覚悟を決めた。
「あります!でも・・・もしも、私が道を踏み外して椚原さんのお名前を穢そうとしたのなら」
愛夢は前に立っている溝呂木に真っ直ぐ向かう。
「その時は、私を殺してください!」
愛夢の本気に三人は絶句する。
「・・・覚悟、足りないですか?これじゃダメですか?どうしたらいいですか?」
それは、まだ高校生の女の子が口に出していい覚悟ではなかった。時代錯誤の愛夢の覚悟に最初に応えたのは美剣だった。
「そんな事、二度と言うなっ!お前の覚悟はオレがちゃんと分かっているから・・・!」
美剣は愛夢の頭を片手で抱く。その様子に漁火も我に帰る。
「西宮さんが道を踏み外すような人ではない事は、誰よりも知っているつもりです。最後に試す様な事をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「漁火君が謝る必要は無いよ。その子を最初に試したのは僕なんだから」
そう言う溝呂木は素っ気なくはあったが、一瞬だけ驚いた表情をしていたのを漁火は見逃さなかった。
「溝呂木!もういいだろ!?どうせコイツが何言っても、お前は絶対に納得しないだろが!」
「そうだな・・・だが追弔は常に命懸けだ。だからその位の覚悟は最低ラインなんだよ!」
品行方正な溝呂木が愛夢には当たりがキツイ。これはトライアル期間で愛夢がLETから心が離れるようにしているのだろう。
溝呂木は汚れ役を自ら買って出てくれた。
「追弔が大変なお仕事だということは分かっています!でも私の体は研究にも使えるんですよね?いくらでも使って役立ててもらって構いません!これでいいですか?認めてもらう為なら、私の血だって、骨髄だって、何だって差し出します!」
愛夢の言葉で場の空気が一気に変わる。
「西宮愛夢っ!そんな事、オレたち以外には絶対に言うな!」
「西宮さん!そんな事は絶対に言ってはいけません!」
漁火は美剣と共に愛夢に詰め寄る。
かつて自衛隊員でもありフロウティス部隊隊長でもあった天海は、その身を実験体にされた。
日々繰り返される過酷な実験、その検体を国を守る自衛官として全て受け負った。美剣と溝呂木、当時は大学生だった漁火と旭夏、高校生の皇。全員を守る為に五人分の実験の全てをその身に受け入れた。
そうして明るく屈強な天海の心は最後には壊れた。
そんな天海を間近で見ていたからこそ、三人は愛夢を止めなければならなかった。
「・・・はい」
渋々ではあるが愛夢は納得してくれた。
「覚悟は伝わりました。僕が貴女のLET加入を認める条件は一つです」
溝呂木はテーブルに置いた記入済みの書類の束を手に取り愛夢を睨んだ。
「・・・条件って、何ですか?」
愛夢は恐る恐る質問した。両手で書類を摘んだ溝呂木は愛夢に叫ぶ。
「二度と、今の様なふざけた事を言わない事です!本気で誓わないのなら・・・今度は僕がっ、この書類を全て破り捨てるぞっ!!」
溝呂木は愛夢を叱りつけた。それは美剣と漁火にはできない事だった。
真実は話せない。自分たちの事を思ってした発言だという可愛さゆえに、強くは出られない。
だが溝呂木は、そんな事は全くお構い無しだった。
「二度と言いませんっ!言わないって誓います!」
そう叫んで溝呂木に誓う愛夢は、心から反省した子供の様だった。
溝呂木を乗せたエレベーターが閉まった瞬間、愛夢の膝がガタガタと震え出す。
体制を崩した愛夢を二人は両脇から支えた。
「こっ・・・怖かったぁでしゅ〜」
愛夢がこうなるのも無理はなかった。大の大人で男である漁火も本気で怒る溝呂木は怖いのだから。
「だろうな!だがアレは、お前も悪かったぞ?」
「確かに怖かったですねー!でも西宮さん!もうあんな事は言ってはいけませんよ?」
愛夢のフォローは勿論の事、溝呂木の発言にもフォローを入れておきたかった。
愛夢の瞳から滝の様に溢れる涙が、漁火の胸を締め付けた。
「あー!泣かんでくれぇ!とりあえず落ち着けー!」
「そんなに怖かったですか!?一旦座りましょう!」
椅子に座った愛夢の周りで、美剣と漁火はひたすらに慌てる。アスピオンですら二人をこんな風に慌てふためかせる事は無い。
「実験の検体とかは全部オレがやるから!お前は何もしなくていいんだ!ごめんな!オレが悪かった〜!頼むから、もう泣かないでくれよぉ〜!」
「溝呂木さんが怒ったのは、西宮さんを心配したからですよ?断じて疎まれた訳でありませんからね?書類も必ず事務局に提出してくださいますから、安心してください!」
美剣も漁火は愛夢の周りをグルグルと回り宥める。だが涙は一向に止まってはくれない。
真面目で大人しく礼儀正しい。そんな愛夢は大人に強く怒られた経験が少ないのだろう。
漁火には愛夢が怒られている姿が全く想像がつかなかった。
だから愛夢の話が、どうしても信じられなかった。
「・・・私、昨日と今日で担任の先生に怒鳴られた時も、向井君に怒鳴られた時も、こんな風にはならなかったんです」
普段の愛夢の生活は自分たちの及ばない所であり、臼井の目も四六時中光らせられる訳ではない。
だから何があったのかは誰も分からない。
だが向井はともかく、愛夢が教師に怒られる理由が全く見当がつかなかった。唯一あるとするならば二度も門限を破らせてしまった事だけだった。
「怒鳴られた?担任の先生に?西宮さんが?もしかして昨日、門限を破ってしまった事に関してですか?」
「いいえ、その前にです。私がその先生に生意気な口を利いてしまったから、怒らせてしまったんです」
愛夢は誰に対しても敬語で話す。時折り感情が爆発すると砕けてはしまうが、それであっても年相応の女の子の反応だ。咎められる要素は何一つ無い。
以前から漁火は愛夢の担任へ不信感を抱いていた。
それは次第に確信へと変わっていく。
「・・・先生?臼井先生に怒られた時と似ているかも?怖かったけど言葉がスッと入ってきて、私の為に怒ってくれたって分かったから?でも担任の先生は、これは愛のある教育だって言っていたのに・・・どうしてこんなに違うんだろう?」
愛夢が答えを口に出す。
叱ると怒鳴るを履き違え、あまつさえ愛ある教育だと自身の行いを正当化する。
そんな男が愛夢の担任だったのだ。
臼井と話していく上で、漁火の恩師は彼女の教え子である事が判明した。
漁火が感銘を受けた言葉は臼井の受け売りだったらしく、在りし日の事を話すと「生意気ねー」と笑っていた。師の師である臼井もまた、漁火を叱責し導いてくれた。
それこそが愛のある教育と呼ぶに相応しかった。
「すみません・・・。理由は全然分からないんですけど、本当に大丈夫です!私は皆さんと一緒に働きたいんです!」
臼井と溝呂木の話を擦り合わせて、愛夢が担任と向井に嵌められた事は分かっていた。
だが愛夢は戦わずに全てを受け入れてしまった。
漁火はスマホを取り出し美剣に目配せする。
目が合った美剣は黙って頷いてくれた。その目は「好きにやれ」と言っていた。
カラスの力を使う事の許しを得た漁火は、電子の海へと潜る。
漁火は愛夢の担任である男の情報を集める為に再び生徒達のSNSをチェックしていく。
これまでの態度からは考えられない事ではあるが、万が一にも担任が人格者だった場合には、見方や対応を改めねばならなかった。
だが調べるまでもなく、思った通りの横暴な人間だった担任は生徒達を威圧的な態度で支配していた。
暴言や恫喝は当たり前の事ながら、男子生徒には体罰、女子生徒には過度な身体的接触を繰り返す。
最低最悪の教師であった。
そんな男であるから言わずもがな皆から嫌われている。漁火が知りたかったのは向井との接点であった。
何故、向井と協力して愛夢を嵌めたのか。
だが一般生徒達のやり取りからは、何の情報も得られない。
漁火が望んでいる情報だけを抜き取れる程、カラスの能力は便利ではない。
垣間見える生徒間のイザコザ、流行り廃り、油断をすると様々な情報の渦に意識を持っていかれそうになる。最悪の場合は電子の世界から戻れなくなるのだ。
一瞬の油断が命取りになる行為を、漁火は愛夢の為に躊躇無く行う。
「漁火君!」
「・・・っあれ?溝呂木さん?お疲れ様です。どうかされましたか?」
溝呂木に肩を揺すられて漁火は電子の世界から意識を返す。
「僕が戻ってきた事にも気付いてなかったのか?頼むからこれ以上無茶な事はしないでほしいな。君はフロウティス部隊の要なんだから」
気付くと全ては終わっていた。
愛夢がカボチャのケーキを食べ終わる程度には時間は経過していたらしい。
書類は受理され、後は愛夢を学校へ送り届けるだけ。だが漁火にはまだやる事があった。
溝呂木は別れを惜しむ美剣を愛夢から引き離し仕事へと戻って行く。
こうして波乱のクリスマスパーティーは終わった。
愛夢を送る車内で漁火は他愛の無い話を楽しんだ。愛夢が担任を快く思っているのであれば、温情をかけても良かった。だが担任は他の生徒だけではなく愛夢への対応も最悪であった。
寮の前に車をまわすと、漁火の目は離れた場所にいる向井を視認した。
愛夢も気付いたのか不安から体を強張らせる。
向井がこちらへ一歩近付く度に愛夢の体の震えは強くなっていった。
愛夢がこれまでされた事を思えば無理も無い反応であった。漁火の腹の奥に憎悪に近い感情が沸く。
「彼の事は、私に任せてくれませんか?」
これが、漁火がやらねばならない事であった。
愛夢の"これから"を守る為に向井を遠ざける。
それは、美剣でも溝呂木でもなく、漁火にしかできない戦いであった。
「でも・・・」
漁火は戸惑う愛夢を説得し送り出す。
愛夢に信じていると言ってもらえたからだろう。
漁火の中にあるメテウスが強く揺らめく。
愛夢は振り返らなかった。
それは互いの信頼の証であった。
「待てよ!淫乱ゴミカス女がっ!ブッ殺す!」
向井の怒号が生徒も教師も殆どいない寮の敷地に大きく響く。
「同じ高校生でありながら、こうも西宮さんとは違いますか。聞くに耐えませんね」
「どけよ!クソ眼鏡が!ヤラせてもらえたからってペコペコ言う事聞いてんじゃねぇぞ!」
愛夢が寮母へケーキを渡して傘と上着を持って此処へと戻ってくるのには時間はかからない。
お喋りな寮母の長話に捕まる時間は、長く見積もっても10分弱も無かった。
「低俗な考えですね。一応聞いておきます。なぜ、西宮さんを目の敵にするのでしょうか?」
向井の行動心理は、正義感、もしくは愛夢への好意の裏返しの可能性も無くはなかった。
だが向井には、そんな感情は微塵も無い。
「あん?んなもんゴミ掃除に決まってんだろ?」
「全くもって意味が分からないのですが」
「犯罪者なんてゴミカス同然じゃねぇか!そのガキもゴミなんだよ!あんな嫌われ者のゴミは、いるだけで空気が悪くなる!いない方が良いに決まってんだろ!」
確かに愛夢の父親は罪を犯した。だが愛夢自身には何の罪も無い。
むしろ自身の犯罪行為とそれを隠蔽する父親の罪を棚に上げる向井こそ忌むべく者であった。
「なぜ今になって自己紹介をなさるんですか?」
「はぁっ!?どういう意味だよ!?」
普段の漁火であれば他人を煽る言葉など自分から言う事はしない。今からする事は自身が嫌う過剰な制裁なのだろう。だが何もしなければ、愛夢はまた危険な目に遭う。愛夢を守れるのならば漁火は自身の矜持すら曲げる覚悟を決めていた。
美剣だけではない。向井は漁火の内に眠る獣を起こしてしまったのだ。
「おや、聞こえませんでしたか?そんなに大きな声で話すから耳が悪くなるんですよ」
「クソが!口の利き方教えてやるよ!痛い目みて身体で覚えろぉ!オレに逆らうんじゃねぇよ!」
漁火は話している途中で向井の両足をカラスで結んであった。
勢いよく漁火に殴りかかろうとする向井は、前にのめり込む。だが辛うじて転ばず、その場で何とかバランスを取ろうと四苦八苦していた。
【若さと反射神経の賜物だな。もう少し心根がマシになればLETの末端には入れてもらえただろうに・・・】
「何だコレ!?おい!眼鏡!お前の仕業かよ!?」
自身の足元の違和感にようやく気付いた向井は悪態を吐く。
その隙に漁火は自身のやるべき事を果たす。
「闇雲に探さずとも待っていれば必ず来るとは思っていました。しかし・・・まぁ、何とも酷い」
漁火は向井のスマホにカラスを潜り込ませる為に彼を此処まで誘き寄せた。今はまだ向井の悪事を叩ける決定的な証拠が不足していた。
その所為で先程は愛夢には恐怖を与えてしまった。
だがそれも今日で最後になる。
「向井邦彦君、5月17日生まれ、身長175cm、体重62.5kg、血液型はO型Rhプラス。部活には入っていない。才華大学に推薦合格内定。一人っ子。生まれも育ちも東京。両親は中学の時に離婚。双方の家を定期的に転々としている。年末年始は毎年三人で海外で過ごす。今年はハワイ」
大して知りたくもない情報がスマホを通して漁火の頭へと流れ込んでくる。
「よく知ってるじゃねぇかよ!俺はお前が跪くべき上級国民様だぞ!分かってて西宮の味方やってんのか?どうなるか分かってんのかよ!?」
「知りたくもなかったのですが今知りました。ずっと疑問に思っていたんですよ。どうして、この高校なんだろうって・・・」
「は?」
向井のスマホは饒舌に過去の罪を語ってくれた。
強請り、暴行、詐欺紛いの売春の斡旋、飲酒に喫煙、小さな罪から大きな罪まで罪禍の宝庫であった。
そして、その中には愛夢を泣かせる為に向井がした非道の数々も残されていた。
「貴方のような方は名門と呼ばれる学校に通うはずです。ですが過去の度を越した行いの為に門前払いを食らった。そして、お父様が多額の寄付金を出したこの高校を受験させられたのですね」
向井は溝呂木の母校である超名門高校を受験すらさせてもらえなかった。それどころか他の名門私立すら全て彼を拒否した。
名門中学で悪名を轟かせ過ぎたのだ。
そして不幸にも向井の学歴コンプレックスの捌け口になってしまったのが愛夢だったのだろう。
「うるせぇよ!黙れ!俺は未成年で親父が揉み消したから罪になってねぇんだよ!どいつもこいつも!しつけえんだよ!」
「改悛の情は見られませんか・・・。それでは貴方たち親子は犯罪者だという事になりませんか?先程、自分の言った言葉を覚えておられますか?」
「誰に向かって言ってんだ!死にてえのか!?俺は何やっても許されるんだよ!俺が"力"を手にしたら真っ先にお前を殺して、赤毛と西宮も殺してやる!」
「・・・殺す?貴方が?美剣さんと西宮さんを?」
戯言だと流せるほど今の漁火に余裕は無かった。
漁火の向井への嫌悪感は四月一日に並ぶ勢いで上がっていた。
向井の罪は同級生の女子を脅迫し暴行の末、自殺未遂に追い込んだ事。そして高校でも愛夢に同じ事をしようとして失敗した。
そんな人間にはメテウスは絶対に宿らない。それは仲間たちを見れば分かる事だった。
LETに入る資格がある者とはメテウスを持つ者、すなわち力に見合う魂を持つ人間にその資格がある。
何故その中に自分がいるのかは分からない。
だが漁火も愛夢や仲間に恥じない自分であろうと心に固く誓う。
「ハッキリ言いましょう。貴方は西宮さんの足元にも及ばない。素養も無ければ素質も無い人間を雇い入れるくらいなら、一生人員不足で構いません」
手段が目的になっている向井が欲しいのは賞賛と優越感だけ。愛夢とは人間性が比べ物にならなかった。
そんな人間が力を手にすればLETどころか日本が終わる。だから美剣は向井に引導を渡したのだ。
「テメェふざけんな!この俺が!あんなクズ女に劣る訳ねぇだろ!ゴミはゴミらしくしてればいいんだよ!」
「比べる事すら失礼です。西宮さんは貴方よりも遥かに優秀なので。貴方の成績は他人を蔑められる程ではありません。大学の推薦を貰えた事が不思議です」
向井の成績は下の下であった。所詮はこの世は金と権力が物を言う。
真実を突きつけられた向井は激昂する。
突如、足元に落ちていた石を鷲掴んで漁火の顔面へ全力で投げつけた。
「キャッチボールは得意ではないのですが・・・」
そう言いながら漁火は顔面に当たる直前の石を手の中に収める。向井の投石などカラスの力を使うまでもない、素手で十分だった。避けなかったのは寮に石が当たってほしくないだけの理由だった。
「デッドボールの才能だけはお有りのようですね。野球で汗を流されたなら、その心根も少しはマシになるのでは?・・・失礼、嫌われているので一緒にしてくれるお友達がいないんでしたね」
漁火は道の端へ石を放る。その瞬間、投げつけられると思ったのか向井の体は恐怖で跳ね上がった。
「友達っ!?あのカス女ならそうだろうがなー!俺は違う!学校にいる全員が俺の言うことを聞くんだよぉ!冬休みの間にクラスの奴らで使いモンにならなくなるくらいにガバガバにして─」
心臓が凍り付くような怒りを漁火は押さえつける。全てを言い終える前に、向井の口をカラスで塞いだ。
そろそろ寮母の長話が終わる頃合いであった。
【私も、まだまだだな。怒りで咄嗟の判断が遅れた。此処に美剣さんがいなくて本当に良かった」
向井に手を出そうものなら後々が面倒になる。
だが、この腐れ縁も今日で終わりだった。
「分かりませんか?皆、貴方に仕方なく付き合っているんですよ。それはもう友達ではありません。お金で雇った人間しか協力してくれないんですよね?同級生に距離を置かれて孤立しているから、今こうして一人なのでしょ?」
普通の男子高校生であれば今頃は遊びや勉強の予定で忙しなくしている言葉だろう。だが向井は一人で愛夢に奇襲をかけに来た。
もう向井に出せるカードは己しかない。
足も動かせない上に、口を開けない。そんな無様な向井は呻きながら漁火を睨みつけた。
「サブ機のパスコードが高校三年間の出席番号とは・・・。案外と年相応なところもあるんですね」
ようやく向井は自分が敵に回した化け物の力の片鱗を見た。ここにきて初めて向井の顔色が変わる。
漁火が欲しかったのは向井の制服のポケットに入れたサブ機にあるデータだった。
向井と担任の二人はSNSではなく秘匿性の高いトークアプリを使ってメッセージのやり取りしていた。
その内容は目を疑うものであった。
担任は更衣室や部活の最中の女子生徒の隠し撮り写真を向井へ流していた。そしてソレを向井が足が付きにくい第三者であるゴロツキに売らせる。
向井は撮った者と売る者の仲介役だけをしていればいい。そうして黙っていれば懐は潤う。
担任が向井と結託しているのは、甘い汁を吸わせてもらっているからなのだろう。
神聖な学舎は悪の温床になっていた。
教育者としての担任のあるまじき行いに、漁火は静かに怒る。
【必ず正当な報いを受けさせる!】
この情報は臼井の手には余ってしまうだろう。
そして被害に遭った生徒も癒えない傷を負う。
それでも、新たな被害を生まない為に、必ず真実を明るみにしなければならない。
それは誰かではなく、力を授けられた人間がやらなければならない事なのだ。
向井の悪行を第三者機関やPTAの役員、そして教育委員会と臼井に送り、後は沙汰を待つだけであった。
「肌身離さずに持っているので苦労しましたが、これで私の用は終わりました。この後のご家族からの連絡には素直に応じた方がよろしいですよ」
そう言い終わるのと同時に向井のスマホの着信音が鳴る。漁火は拘束を解いて「どうぞ」と向井に出るように促した。
「親父!今すぐに例の組織にいる眼鏡をぶっ潰して・・・は?何?手を出すなって何でだよ!?」
『このバカが!これで終わりにしろと散々言っただろう!もう二度と、その小娘に手を出すな!!お前が破った書類の所為で私も無事では済まないんだぞ!』
向井親子の通話は、聞こえたくはないが勝手に漁火の耳に入ってくる。
【思ったよりも連絡が早かったな。溝呂木さんの警告が効いたのか?】
探られて痛い腹だらけの親子は、共倒れするよりも降伏を選んだのだろう。父親の方の汚職の情報も掴んではいたが、使うのは出方次第だと保留にしていた。
「ビビってんのか!?親父が無理なら『あの男が小娘の連帯保証人になったのなら話は別だっ!!直ぐに帰ってこい!お前は家にいろ!絶対一歩も外に出るな!』
向井の言葉は言い終わる前に遮られた。
父親は漁火がリークした情報の炎上を危惧していた訳ではなかった。
【弱味でも握られているのか?椚原さんのお名前に、ここまでの力があるとは】
『人を寄越して引きずってでも連れて帰るぞ!嫌なら自分で帰ってこい!・・・さすがの私でも、もうこれ以上お前を庇い切れない!やり過ぎだっ!!』
怒りで真っ赤だった向井の顔は、みるみる青くなっていく。信号機のように顔色が変化する向井に漁火はトドメを刺す。
「おそらく貴方は年明けには退学になるので、もう二度とお会いする機会は無いでしょう。新たな年は反省と更生に努めてください。それでは、さようなら」
刑事罰が望めないのであれば、物理的に愛夢から離すしかない。向井の父は、ほとぼりが冷めるまでは息子を何処かへ留学でもさせるだろう。
自分では妥当な罰だと思う。だがきっと他人からは甘過ぎると言われる。
最後に殴りかかるくらいの気概は見せると思ったが、向井はフラつきながら駅の方へと歩いて行った。
愛夢と今年最後の挨拶をして別れた漁火を、ミーティングルームで待っていたのは美剣と溝呂木だった。
「丸さん、すっかり西宮愛夢を気に入ったみたいだな」
「心配にもなるだろ?こんな男だらけの職場に入ろうとしているんだから」
先程まで丸山を応対していたのか机には三人分の飲み物が用意されていた。
漁火は二人に向井を私的に制裁した事を報告する。
「全て私の一存です。勝手な行いをした事をお詫びします。如何様な罰も受ける所存です」
「・・・いいんじゃね?」
「・・・構わないけど?」
頭を下げた漁火に返ってきたのは手間が省けたと言わんばかりの反応だった。
「そんな事より、やってもらいたい事があるんだよ!」
「・・・はい。何でしょうか?」
「ウチの仕事って何かと覚える事が多いだろ?だからお前がアイツに色々教えてやってくれよ」
どんな無理難題を押しつけられのかと身構えたが、何て事はない美剣の頼みに漁火は拍子抜けする。
「それは勿論です」
足りない説明を溝呂木が補足する。
「美剣がフィジカルを鍛える。でも隊長の任で側にいられる時間は多くない。だから座学の方を漁火君に担当してもらいたいって話になったんだ」
メテウスの事、フロウティスの事、アスピオンの事、LETという組織の事、そして各所との連携。愛夢に説明する事は山のようにあった。それらを学ぶ時間を設ける計らいを二人はしてくれていた。
「でも、どうせトライアルが終われば西宮さんは・・・」
「いなくなるからって、何にも教えねぇのは違うだろ?西宮愛夢はお前に懐いてる!だから、お前がアイツの先生になってやってくれよ〜!」
「最終的にあの子がLETを見限ったとしても、身の安全の為に何かしらの関連組織には属してもらう事になる。だから、そうなった時に困らないように色々と教えて導いてあげてほしいんだ」
「先生、私が西宮さんの・・・」
美剣も溝呂木も漁火の破れた夢を忘れていなかった。そして、その夢を愛夢の座学を担当するという形で叶えてくれた。
熱くなる胸と目頭にグッと力を入れ、漁火は二人に深くお辞儀をする。
「座学指導の件、謹んで拝命いたします」
頭を下げているので美剣と溝呂木の表情は分からない。だが二人は微笑んでくれているような気がした。
【真面目で勤勉、生徒の鑑のような西宮さんの先生になれる。こんなに幸せな事はない】
この時の漁火は、卒業式で執事風のヤクザの真似事をする事になるなどとは夢にも思っていなかった。




