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ーNo titleー  作者: 一ニ三
38/39

濡羽(前)

 防衛省の地下にあるLET本部。その主力であるフロウティス部隊のメンバーには個室の仕事部屋が与えられている。

 業務の効率化を高める為、電子機器においては常に最新のモデルを、周辺のガジェットなどは各個の好きなブランドの物を支給されていた。だからなのか、漁火星雪がいる部屋の殆どは、自身の好みの色である黒で統一されている。

 そんな優遇ともとれる待遇は、全ては溝呂木の功績であった。雇い主が防衛省から厚労省へ変わる際に、溝呂木は冷遇されていたフロウティス部隊の立場を逆転させた。当時の溝呂木の脅迫まがいの交渉に折れた厚労省の人間の顔は、今思い出しただけでも申し訳無くなるほどに慌てふためいていた。


 自身が叩くキーボードの音だけが仕事部屋に響く。漁火はLETに出入りする業者や関係企業についての資料をまとめていた。

 西宮愛夢の勧誘は、途中までは大成功だった。だがそれは美剣が乱入してくるまでで、嵐のような妨害が愛夢の心をかき乱し心変わりをさせた。

「何としてでも西宮さんには普通の生活をしてもらう!その為に私達は今ここにいるんだ」

 決意を口に出したからなのか、漁火のキーボードを叩く指には次第に力が入っていく。全神経を集中させて愛夢が就くべき普通の仕事たちを調べ上げる。中には無理矢理にLETに関係があるとこじつけた仕事もあった。

 少しでも他の仕事が魅力的に見えるようにと漁火は付箋にイラストを描き、その仕事が如何に人々の生活にとって重要なのかを説く。

 上手く描けたかは分からないが、愛夢の心をほぐす為に無いよりはマシだと思えた。

 寝不足で頭痛がしても、追弔の凄惨さを知っているからこそ漁火は必死だった。

 集中力を高める為に常備しているブドウ糖タブレットを口に入れ噛み砕く。

 美剣が何を考えて愛夢を勧誘したのかは最初は分からなかった。体裁を保つ為だったとしても、歓迎できる職場でない事はその身を持って知っているはずなのに、と漁火は疑問を抱く。

 だが愛夢に会い、美剣の考えに少しだけ共感した。LETの調査により愛夢のおかれた状況を知った美剣は彼女を放ってはおけなかったのだろう。そのまま放置したならば、愛夢は確実にイジメによって身体と心に今以上の深い傷を負う。そして上の人間は、そんな愛夢の弱みを握り戦う道を強要する。

 かつて自分がそうされたように。だからこそ美剣は付人に自分を選んだ。

 強めの清涼感のブドウ糖で頭が冴えてくる。

 絶対に愛夢の人生を守り抜く。そう漁火は心に強く誓った。

 美剣が彼女の事を思って空回りながらも行動していた事が分かったからこそ、技をかけられ濡れ衣を着せられようとも最後には許せた。

 漁火も今となっては、愛夢をこのまま放っておくなど出来はしない。本人の了承を得ずに愛夢の置かれた過酷な環境を知ってしまった事が、漁火に罪悪感を抱かせる。複雑な生い立ちの為なのか、苛烈なイジメの所為なのか、必要以上に自分を卑下する愛夢の事が今も気になって仕方がなかった。

【過剰な気もするけど、美剣さんがそうなるのも仕方がない。警察や学校だけでは解決も難しいし・・・】

 パソコンの左側にはアームスタンドにタブレットを設置していた。その画面には愛夢の同級生のSNS上の書き込みが表示されている。

 指で操作せずとも悪質な書き込みたちは勝手にスクロールされ次々と削除されていく。

「西宮さんは、優越感に浸る為の道具じゃない!」

 自分より下だと認識し、叩いていい誰かを見つけてしまった学生達は、ストレスの捌け口や自己肯定感を高める為だけに愛夢を傷付る。

 消しては書かれる誹謗中傷は、追弔に似ていた。終わりの無い戦いに漁火は深い溜息を吐く。


 4回鳴ったノックの音が漁火の集中を途切れさせた。返事をすると同僚の旭夏が入室してくる。

「お疲れ様です、漁火さん」

「お疲れ様です。旭夏さんが仕事部屋から出てくるなんて珍しいですね。どうかされましたか?」

「報告書の件でメッセージを送ったのですが、既読が付かなかったもので。直接確認にきました」

 漁火は慌ててスマホを確認する。旭夏からのメッセージは1時間ほど前に届いていた。

「すみませんでした!作成はしてあるのですが、確認がまだでして・・・。終わり次第送らせていただきますので、ご容赦ください」

 漁火は座ったままで旭夏に頭を下げる。

 旭夏の仕事は追弔のデータをまとめる事だった。それは効率化を図るだけではなく、アスピオンとの戦闘シュミレーターの作成にも使われている。

 いつか来るフロウティス部隊が全滅する日に備えての練習用擬似戦闘シュミレーター。それは旭夏以外に触る者は誰もいなかった。

 昨日早朝に出現したフェレットのアスピオンの追弔、旭夏の用件はその報告書の事だった。

 普段であれば旭夏の仕事を滞らせないようにと報告書は早めの提出を心掛けている。だが愛夢の進路相談という予期せぬ雑務が、それを崩してしまっていた。

「・・・いえ、またカラスの力を使い過ぎているのではと思っただけです。余計な心配でした。報告書に関しては然程心配はしていません。では失礼します」

 言いたい事だけを言い終えた旭夏は隣にある自分の仕事部屋へと戻って行く。

【本気で心配してくれているのか、いないのか、よく分からないな・・・。愚痴すらも聞いてくれないし】

 旭夏の人間離れしている美しい顔立ちが、無表情に拍車をかけ、本音を読めなくさせている。

 同じ境遇の同い年の同僚は、四年経とうと変わらずに一向に掴みどころがない人間だった。


 漁火のメテウスのカラスは索敵やデコイだけに使えるわけではない。離れた端末の操作、システムへの潜り込み、情報の改ざん、窃取、俗に言うハッキング行為までもが可能であった。

 だが、この力を使うのは容易ではない。代償なのか度々意識が戻らなくなる。旭夏はそれを危惧して、ここに顔を見せたのだろう。

 仲間たちには使い過ぎないようにと再三注意されていた力を、漁火は今も愛夢の為に使っていた。

 何故意識を失わずに、今それができているのか。心当たりは一つしかなかった。


 今は亡き、前のフロウティス部隊の隊長であった天海は「メテウスは想いの力で強くなる」と言った。

 愛夢を助けたいという想いが自分を強くしている。核心は無いが確信はしていた。

 漁火が愛夢に抱いた第一印象は、勿体無いだった。

 可愛らしい顔立ちと綺麗な瞳、それらを長い髪で隠した愛夢は終始何かに怯えていた。そんな彼女は漁火が想像していた女子高生像とは程遠く、素直な上に純粋で、真面目過ぎるが故に逆に心配になる、そんな女の子だった。

 絶対に邪険にされると思って挑んでいたからか、その落差に漁火は簡単に絆された。

 要は女性経験の無い単純な漁火は、可愛らしい女子高生の愛夢の為に気合いが入ったのだ。だからメテウスは研ぎ澄まされ、カラスの力を最大に引き出せた。

「力の私物化と言われようと、コレは私にしかできない事だ」

 報告書の確認を終えた漁火は旭夏のフォルダにそれを送った。


 最初こそデコイを短時間だけ置く事しかできなかったカラスの力を、漁火は四年前に死にものぐるいで磨いた。それこそ何度も倒れ気を失い、起き上がれぬほどに疲弊しても、肉体が悲鳴をあげようとも、止める事は絶対にしなかった。仲間たちは全力でそれを止めようとしたが、頑として聞かずに気力だけで己を貫き通した。

 そうしてカラスは索敵にまで応用が利くようになる。その甲斐あって追弔までにかかる時間は格段に短くなった。それだけでなく、今現在の漁火は恒常的に力を使用して24時間365日何処にいても何をしていてもアスピオンの察知を可能した。

 そんな漁火が最も苦手としていた電子の海に潜るハッキング行為。肉体的にも精神的にも負担の大きいこの行為を、今現在ながら動作でこなしている。

 デコイを設置したままでも索敵を怠らない。そしてマルチタスクのようにして、現在進行形で愛夢のデジタルタトゥーを消す。

 目に余るアカウントは内容を保存する。そして乗っ取り削除か凍結させた。そのアカウントが思い出に溢れる写真を載せていたとしても、構う事はない。

【こんなの、西宮さんにやろうとした事を思えば、優しすぎる仕打ちじゃないか】

 付け焼き刃の処置でしかない事は分かっていた。だが少しではあるが成果も生まれていた。

 生徒達の中にはイジメや誹謗中傷を止める者が出てきていた。受験を期に自身の行いを見直したのだと漁火は思い安心する。それに自身が大きく関与しているなどとは、夢にも思っていなかった。

 後は大元を叩けば解決へと大きく前進する。

 だがイジメの元凶である向井は、漁火が勝手に手を出していい相手ではなかった。

 下手をすれば、ただでさえ微妙な立ち位置のフロウティス部隊は各所から更に爪弾きにされる。

 ここまでやってこられたのも、今こうしていられるのも、美剣と溝呂木、そして旭夏の三人が前線で戦い続け自分を支えてくれたからなのだ。

 自分だけの犠牲で済むのならまだしも、仲間達にも火の粉がかかる事だけは避けたい。

 漁火は向井のアカウントに潜る。高校生とは思えない悪行の数々が、目眩と吐き気を起こさせた。

「彼の両親、議員って言っていたな。学校にかなりの額の寄付金を積んでいる。・・・そういう事か」

 ずっと気になっていた小さな疑問に合点がいく。

 向井の目に余る行為は、どれも公にはなっていない。これは誰か権力の有る者が手助けしない限りは絶対に不可能な事で、警察と学校に協力者がいる事は明白だった。

 何かがあれば金で揉み消し、身代わりを立てる。向井の両親はそうやって息子を庇っていた。

 危険の多い仕事に息子を関わらせる事を躊躇していない。追弔を甘くみているのか、目に入れても痛くない息子の頼みだからなのか。上の人間も面倒に思ったのだろう、最終的な判断は美剣に丸投げされた。

 漁火は、毛嫌いする類の人間に育てられ傍若無人に育った向井の事が好きになれそうにはなかった。

【どうにかしたいけど、リスクが大きすぎる。それに母親の方は都議会議員。椚原さんや皆の足を引っ張る事はしたくはない】

 都知事である椚原は追弔が円滑に進むようにとLETへ数々の配慮をしてくれていた。そんな椚原にも敵がいない訳はない。下手に刺激をしない事、それが漁火が出した結論だった。

「・・・不正や隠蔽を黙認する私も同罪だ」

 高校の恩師の言葉で、そんな大人には絶対にならないと誓った。だが漁火はかつての自分に顔向けできないような大人になってしまっていた。

 カラスの力は戦闘には不向きで、アスピオスを破壊する事は出来ない。だから漁火は追弔は三人に任せ、それ以外のサポート面に貢献する為にメテウスのコントロールを磨いてきた。

【もっと早くに今みたいにできていたら二人は・・・】

 漁火はデスクにある写真立てを手に取る。

 そこに写る自分と仲間達の姿は、今よりも幾分か若かった。漁火は部隊が結成された日の写真を撫でる。

 最初は六人いた部隊も、今はもう四人しかいない。フロウティス部隊は自衛隊員であった天海以外は全員が一般人であった。

 慣れない戦闘と強力なアスピオン、未知の力への情報不足、そして非道な命令によって、二人の仲間の命は失われてしまった。

【西宮さんをこんな世界に巻き込んではいけないんだ】

 写真の隣にある時計を見ると15時を過ぎていた。今日は愛夢との最初の説明会兼進路相談の日だった。

 結局資料を用意できなかった漁火は、荷物をまとめ仕事部屋を後にする。


「漁火!今から西宮愛夢のところに行くんだよな?」

 エントランスに向かう漁火を呼び止めたのは現隊長である美剣だった。

「はい」

「あのよ・・・何か困ってる事がありそうだったら力になってやってほしいんだ。アイツ、甘え下手だから察してやってほしい。本当はオレも行きたいんだが」

 何故か美剣はソワソワとしており、愛夢を心配する様子は、まるで兄のようだった。自身にも妹がいるからこそ分かる。美剣はやっと現れたメテウスを持つ愛夢が、妹のように可愛くて仕方が無いのだ。

「分かりました。それから溝呂木さんにはお伝えしてあるのですが、デコイの設置場所を一つ変更しました。西宮さんの高校の近くにある物です。事後報告となり申し訳ありません」

 デコイの設置場所変更はアスピオンが愛夢のメテウスに惹かれる可能性を憂慮しての事だった。

 まだフロウティスと結ばれていない愛夢がメテウスを使える事は絶対に無い。だが体液にもメテウスは含まれる為に今更ではあるが万が一に備える事にした。

 美剣に頭を下げた漁火は再びエントランスへ向かう。その後を美剣は追ってくる。漁火が身体能力で勝る美剣を撒く事など出来るわけもなく、足取りは次第に速くなっていく。

「おう!ソレ系は、お前に任せてるからいいんだけどよ。そんな事よりアイツに何かあったらオレにすぐに言ってくれよ!ていうかオレと通話しながら説明会するとかどうよ!?」

「お断りします。このやりとり、何回目ですか?もういい加減に諦めてください」

 愛夢の前では聞き分けの良かった美剣は、既に喉元を過ぎて熱さを忘れていた。反省はしてはいるが、後悔は無い様子で、あの手この手で今日一日漁火に同行しようと躍起だった。

 広いエントランスに出ると、漁火の足が止まる。

 中央には薄ら笑みを浮かべた溝呂木が立っていた。

 その存在感から、ここが溝呂木の為に用意されたステージのようで漁火は緊張から息を呑む。

「今日だっけ?説明会?進路相談?まぁ、どっちでもいいんだけどね」

「はい」

 横にいる美剣の口からは盛大な舌打ちが聞こえた。

「漁火君は僕の言いたい事は全部分かっている思うから何も言わないよ。僕はそのバカが、君について行かないように見張ってるだけだから」

 そう言った溝呂木の口元は微笑んではいるが、目は全く笑っていなかった。そうであっても麗しい溝呂木に漁火はたじろぐ。

 ハンサムな顔立ちに爽やかな声、高い身長に長い脚、由緒ある家柄と周囲からの篤い信頼。自分には人間としても男性としても溝呂木に勝てる所が何一つ見当たらなかった。何処の誰もが溝呂木には清々しいほどに完敗する。

 唯一、対抗できるのは顔だけでなら旭夏であろう。

 溝呂木が何を持ち得ないのかは分からない。だが、昔から両親との折り合いが悪い事だけは知っていた。

 そんな完璧な溝呂木に本気で怒りを向けられたあの日から、漁火はなるべく彼を避けるようにしてきた。

 そんな漁火に溝呂木は今日まで何も言わないでいてくれた。

 早々にこの場を去ろうと、二人に軽く会釈をしてエレベーターへ向かう。だが後ろから呟やかれた声に、再び漁火の足は止まりそうなる。

「頼んだよ漁火君」

「漁火・・・頼む」

 同じ言葉なのに、込められた意味が全く違うセリフに漁火は胸が詰まる気がした。

「西宮さんに最良の選択をしていただけるように全力で努めてまいります」

 その決意の言葉に、二人は胸ぐらを掴み合っている手を離して頷いた。


 漁火は今から、勧誘しなければならない相手に、その勧誘元が如何に非道なのかをぶちまけに行く。

 愛夢に全てを暴露する事は叶わないが、知ったならばきっとLETという組織に必ず失望する。

 そんな残酷な真実に愛夢がどんな反応を示すのか。考えただけで胃がキリキリと痛んだ。

【西宮さんには悲しんでほしくない】

 メテウスを持つ者が新たに発見された時、勧誘と育成はフロウティス部隊に全て一任する。それが上司である厚労省、そして政府の人間と交わした契約だった。だが、その契約は絶対に守られない。

 そんな事は最初から分かっていた。彼らは自分たちにしたように、愛夢の未来の芽を摘み取る。そしてLETと言う檻に囚えるだろう。

 だから絶対に愛夢と接触させてはならなかった。

 勧誘を失敗させる為に、漁火は愛夢の通う高校へと向かう。

【これはフロウティス部隊全員の願いなんだ】

 失敗の責苦は自分だけが受ければいい。

 追弔とは別の戦い。それはずっと昔から水面下で続いていた。


 二度目に訪れた高校の校舎は、以前来た時とは違い静かで落ち着いていた。今日の最後の授業に真剣に取り組む者もいれば、心ここに在らずという者もいる。

 此処に在る全員はアスピオンの事など知らずに日々を過ごす。自分たちが失敗さえしなければ、この平和はずっとそこに在る事ができる。

【あっ・・・あの子は西宮さんの隠し撮りで出会い系に登録して子だ。あっちの子はペットボトルを上から落とした動画を撮っていたな】

 その女子生徒達を見て、漁火の胸はチクリと痛んだ。愛夢は初めて会った自分達に首を垂れる程に追い詰められていた。その一端を担った者達は、こうして普通に生きているというのに。

 その理不尽に漁火は耐えられなかった。

「漁火さん、どうかされましたか?」

 突然に足の止まった漁火を気にして、前を歩く臼井が振り返る。

「・・・臼井教諭、メールで送らせていただいた西宮さんへの侮辱行為や暴力行為に、学校側はどんな処罰を下されたのですか?」

 漁火は最初の説明会が終わった次の日、イジメの証拠となり得る情報を全て保存し臼井に託した。だが加害者である生徒は、今も普通に授業を受けていた。

「その事なのですか・・・当の被害者である西宮さんが誰の処罰も望まない、と言っておりまして。ですから私共も個別指導にて反省を促し、改善が見られなければ出席停止にするという処置を取りました」

「やった事に対しては甘すぎる対応に思えます。お渡しした情報の詳細は、西宮さんには知らせていないんですよね?」

 知れば考えも変わるかもしれないが、それは愛夢にとってはあまりに残酷すぎる真実だった。

「ええ、知らぬが仏です。私も美剣さんも、その方が良いと判断しました」

 臼井は相談も判断も担任とではなく美剣とした。

 理由は概ね推察できてはいたが、漁火は敢えて臼井に尋ねる。

「ずっと気になっていたのですが、西宮さんの担任教諭は何をされているのですか?これほどの問題に一度も顔を見せないのは、如何なものかと思うのですが」

 漁火は愛夢との面談の日程を合わせる為に、何度か学校に連絡を入れていた。その度に電話口で億劫そうに話す担任教諭に漁火は不信感があった。

 怒りをぶつける相手が違う事は承知していた。だが漁火は愛夢の担任の顔すら拝んだ事が無い。

「申し訳ありません。彼は少し西宮さんの問題には無頓着な所がございまして、全てを私に一任しました」

 漁火はその言葉に、「は?」とだけ短い返事をする。取り繕う事すら忘れた怒りの声に臼井は頭を下げた。小さな後悔は、すぐに怒りで消し飛ぶ。

「お恥ずかしい限りです。部活動において優秀な顧問である事を笠に着て、利己主義な所がございまして」

「そして結果を残したい学校側も強く出られない。西宮さんは汚い大人の打算の被害者というわけだ」

 都立であるこの高校が有名になれるチャンスを握る人物、それが愛夢の担任だった。機嫌を損ねないように生徒よりも気を使われているのだろう。

 この学校は、そんなくだらない事の為に今日まで問題を放置してきた。やるせない怒りを清算する為、漁火は大きく息を吐く。

「あの日から西宮さんは少し変わりましたの。もちろん良い方向にですわ!美剣さんと漁火さんのおかげで校長も問題解決に前向きになってくれています」

「私は何もしていません。全ては美剣さんの説得によるものです」

 漁火が出し惜しみしていた校長の弱みを、美剣は最良のタイミングで使った。そして自分は愛夢に対して誠実な対応をしても心を開いてもらえなかった。対して美剣は、破天荒な行いで無理矢理に心を開かせて愛夢に慕われている。

 少しだけ感じる虚しさに気付かないフリをして、漁火は臼井の後ろを歩く。

「そうですか。勝手を言っているのは重々に承知しておりますが、どうか西宮さんを宜しくお願いします。今日を楽しみにしていたようですから」

「西宮さんの得意分野は何でしょうか?仕事を斡旋するに当たって適性を知っておきたいのですが」

「お恥ずかしながら、得意な事も好きな事も分からない、というが本当のところです。彼女、全てのテストを平均より少し上になるように調整していますから」

 漁火の足は再び止まる。臼井の言葉に思考が追いつかなかった。

「・・・今、何とおっしゃいましたか?調整している?全てですか!?点数配分も難易度も、それぞれに違うテストで毎回そんな事を!?」

 それが本当だとすると愛夢は点数を計算して問題を解いている事になる。一点でも多く点数を取る為ではない。自分が集団から抜きん出ない為だけに。

 本当にそんな事が可能だとするのならば、愛夢は偏差値を思いのままにできるという事になる。

「漁火さんは気付かれましたか。やはり異常ですよね?西宮さんのテスト中には不審な行動は見られませんでした。彼女はテスト問題と周りの空気で、正解率を感じ取っているのではないかと思うんです」

「カンニングならば、わざわざ毎回同じような順位になる必要はないですからね。というか、それはやろうと思ってやれる事じゃないですよ」

 LETがそうする前に、愛夢は自分自身の手で可能性を根こそぎ刈り取っていた。

「本当に、あの子が進学をしない事が悔やまれます。勧誘も断ったと聞いた時は、どうなるかと思いました。何かやりたい事を見つけて、その為に本当の力で頑張ってくれる事を祈るばかりですわ」

「西宮さんが教員の中で一番信頼しているのは臼井教諭のはずです。面談を行って、学校側からも進路相談を持ちかけてください。そうやって共に西宮さんの最良を探していきましょう!」

「〜っそのやる気!気配り!漁火さんには、是非ともうちの学校で働いてほしいわ!」

 共に働くのが、あのやる気のない担任とコンカフェ通いの校長なのだ。臼井がそう言う気持ちも分からなくはなかった。

「あはは、実は過去に教員を志しておりました。一応、教育学部を出て教員免許は取ってあります。夢は小学校の教師になる事だったんです・・・」

「まぁ、教職は大変な仕事ですからね。また教鞭を取りたくなったら、いつでも連絡してください」

 臼井は漁火が教員の仕事の過酷さを苦に自ら辞めたのだと納得したようだった。漁火は、それを否定もせずに黙って躱す。

 追弔と教師の両立など、できるはずがなかった。

 四年前、政府と文部科学省はグルとなり全国の学校へ圧力をかけた。漁火星雪を採用するな、と。そうして大学卒業を間近に漁火の夢は静かに潰された。

 そんな自分が何の因果か再び学校にいる、愛夢の人生の守る立場として。

「学校という場所が久しぶりすぎて・・・。何だか身が引き締まる思いです」

「漁火さんにそれ以上に引き締まられては、うちの職員共の立つ背がありませんわ」

 クスクスと笑う臼井につられ漁火も笑顔になる。

 渇望していた穏やかな時間、忘れかけていた普通に担任と政府の人間への再熱した怒りが少しずつ崩れていく。

「・・・っ漁火さん!」

 階段の上から聞こえる声に、漁火の心は花が咲いたように一気に晴れる。

「西宮さん、お元気そうでよかった。お出迎えしてくださって嬉しいです」

「漁火さん、私っ・・・!」

 愛夢は相変わらず泣くのを我慢しているような表情をしていた。可愛らしい顔が曇るのを見ると、漁火も心も影っていく。


 漁火は愛夢と共に臼井を見送り、応接室1で面談を初めた。ソファに向かい合って座り、同時に「本日はよろしくお願いいたします」とお辞儀をし合う。

 そして互いに同じタイミングで顔を上げ、驚き顔を見合わせた。

「あははっ!凄い!同時でしたね!?」

「あっ、すみません」

 美剣が言っていた愛夢の笑顔を、漁火は未だ見る事が叶わなかった。

 嫌な話を早々に終わらせる為に、早く笑顔になってもらう為に、漁火はLETに関する説明を始める。

「前回はLETの成り立ちとアスピオンとメテウスのことについてお話しさせて頂きましたね」

「はい、あの私、フロウティスのことが気になっていて・・・」

 最初に会った時とは違い、愛夢は少しだけではあるが自分の気持ちを口に出せるようになっていた。モジモジと下を向く愛夢に漁火は謝る。

「あぁ、すみません西宮さん。フロウティスは我々LETにおいて最も重要で最上級の機密です。ですので詳細に関してはお答えできません」

 フロウティスの存在は絶対に他国にはおろか、市民にも知られてはならなかった。アスピオンを還す為だけに使われるとはいえ、部外者から見れば兵器だと誤解されてもおかしくない。未知の兵器の所有、それは戦争を誘発する起爆剤になり得る。だからこそフロウティスは、最大の機密なのだ。

「そう・・・なんですね・・・」

 しょんぼりとする愛夢に漁火もつられる。LETの非道さを知れば愛夢の表情は、これからさらに曇っていく。漁火は美剣のように愛夢を笑わせる事ができない自分の不甲斐無さに嫌気がさしていた。

 優しい愛夢は、ついには美剣の始末書の心配までをしだす。漁火は愛夢に安心して笑ってもらいたかった。だから普段の美剣の楽観性を伝えてみる。

「美剣さんは始末書を書きすぎて様式が頭に入っているんです!ですから、オレは目を瞑っていても署名も捺印も出来るぜと毎日高笑いしていますよ」

 愛夢からは、今度こそ見られると思っていた安堵の笑顔は無い。代わりに、出会ってからずっとしている悲しそうな表情をしていた。

「・・・どうしてですか?」

「えっ?」

 漁火は何を聞かれているのかが分からずに首を傾げる。愛夢の握られた拳は震えていた。

「美剣さんも漁火さんも一生懸命に追弔を頑張っているのにっ・・・!始末書どころか表彰されたっておかしくないのに!」

 その言葉に漁火の心臓は一瞬だけ高鳴る。最初の頃こそ大臣や省庁のトップが感謝の言葉を述べに来た。だがそれも次第に減り、今では何も無くなった。

「4年も追弔を続けていると、有り難みなんてあって無いようなものです。ましてや我々にとっては追弔は仕事なので、責任や義務は伴っても感謝や賛辞が得られることなんてありません」

「・・・そんなっ!」

 愛夢の困惑は自分の為ではない。フロウティス部隊の為に戸惑ってくれていているのが分かった。

【あっ、いい感じだ。このまま心が離れてくれれば】

 目的の完遂は漁火が想像していたよりも早かった。

「嫌な仕事でしょ?お話を聞きたいと申し出てくれた西宮さんには申し訳ないですが、LETってそんな場所なんですよ」

 だが漁火の追い討ちにも愛夢はまだ折れない。

「それでも・・・もっとLETのことを知って私の進むべき道を探したいんです!」

【ぐっ・・・なんていい子なんだぁー!!】

 健気な愛夢に漁火の心臓は高鳴る。それを気付かれぬように漁火は話を切り上げた。

「実のところ、我々の仕事である追弔を直接見て頂いたので、もうあまりお話しすることがないんです。百聞は一見にしかずの言葉の通りですね」

「漁火さん、あの後も追弔って・・・?」

「・・・ちょうど昨日、フェレットのアスピオンを追弔しました。早朝にデコイにかかり美剣さんの機嫌の悪さが最高潮でしたよ!」

「フェレット!?それって野生じゃなくてペットですよね?どうしてアスピオンに!?」

「ペットは家族、そう思っている人達ばかりではないということです。ペットの死体をゴミ袋に入れて捨てたり、適当な場所に遺棄したりする人がいるんですよ」

「ひどい・・・!」

 ビースト型のアスピオン、その発生原因の一つを知った愛夢は顔を青くした。しかしこれでも愛夢の心をLETから離すには至らなかった。

「最初のアスピオンは犬でしたよね?私が見たアスピオンは猫・・・。後は漁火さんのお話に出てきたドブネズミとフェレット・・・」

 愛夢は漁火の話を覚えていた。話に出たのは全てビースト型で、その事で誤解を生まれぬように漁火は説明を続ける。

「実は虫もアスピオン化するんですよ。そういえばフェレットの追弔は初めてでしたね」

 他にも両生類や爬虫類のアスピオン化が確認されているが、これ以上は愛夢に不安を与えたくはない。漁火は困惑する愛夢に和んでもらいたかった。

 だがイタチ科であるフェレットとイタチごっこをかけた冗談で愛夢の笑顔を誘う試みは大失敗する。

 それどころか何の反応すらも得られず漁火は戸惑う。

「な・・・なんちゃって・・・」

 愛夢は思考に夢中で漁火の冗談を聞いてすらいなかった。「えっ?」と、本当に何も分からない様子で聞き返してくれるが、それが一層に漁火の羞恥を誘った。

「すみません!!今の忘れてくださーい!」

 人はある程度の年齢になると冗談が寒くなる。漁火は今、その域に達した。

「あっ!イタチごっこ!フェレットはイタチ科だからですか!?」

【しっかり聞いていてくれたかぁ〜!そこは聞いててほしくなかったなぁ〜!】

 何故こんなつまらない冗談で笑ってもらえると思ったのか。逆に愛夢に謝られた上に気を使わせてしまい漁火は顔から火が出そうなほどに恥ずかしかった。

 溝呂木や旭夏のような華やかな顔面があれば、歯の浮くような台詞でも、寒い冗談でも、愛夢はきっと笑ってくれたはずだと漁火は肩を落とす。

「あの漁火さん、質問してもいいですか?」

 花のような可愛らしい声が応接室の静寂を破る。

 漁火は愛夢の質問を歓迎した。話が変わるのなら何でもよかった。

 だが、その質問は予想だにしないものだった。

 追弔に自衛隊の助力だけではなく、他に協力を要請しないのか。猟友会は?警察は?と次々投げかけられる質問の真意が分かるからこそ漁火は真実を伏せた。

【自衛隊は私たちを殺す為に同行しているだなんて、言えるわけがない】

 今ですら勉学とバイトの合間に打開策を探そうとしているのだから、この真実を知れば嘆き悲しむどころではない。一般人である愛夢には、知らない方がいい事もあるのだから。

【優しすぎるからこそ、LETにも追弔にも関わらせたくない】

 落ち込み自分を卑下して謝る愛夢に、漁火は浮かんだ疑問をぶつけた。

「随分と自衛隊のことについて詳しくお調べになったようですが、ひょっとしてご興味がお有りなのでしょうか?」

 もし愛夢が候補生を目指すのであれば、その道は普通よりも困難になる事は目に見えていた。

 愛夢にはこれ以上の傷はいらない。身体はガラスのよりも脆そうで、心も透明な様に清らか。そんな愛夢が、過酷な訓練と迫害という差別に耐えられる筈がない。過去に自衛隊員からの暴行に耐えかねLETを辞めようとしたから分かる。

 愛夢には絶対に自衛隊を選ばせるわけにはいかなかった。

「えっ!?違います!そんな滅相もないです!」

 愛夢は大きく首を振る。懸念が払拭され、漁火は胸を撫で下ろした。

「そうですか、それを聞いて安心しました。私は西宮さんには、そのお人柄のような優しいあたたかい場所にいてほしいと思っているので」

 心から思っている事を口に出す。自分がどれほどに甘い言葉を囁いたのか、漁火は気付いてはいない。

 愛夢の赤くなった顔は一瞬でいつもの表情に戻ってしまったから。


 アスピオン侵略生物兵器説を聞いた愛夢は次々と自分の考えを口にした。兵器としての欠陥を饒舌に語る目は、少しだけ輝いていた。

 漁火はその受け答えに愛夢が高校生だという事を一瞬忘れる。

 おそらく愛夢は理解しているのだろう。日本という美しい国は、日本人が日本人たり得る事で成り立っている。それを生物兵器で侵略をしたところで日本が築いてきた成果も信頼も得られはしない。それどころか、この小さな島国の文化を愛する者達は、侵略した者達を絶対に許しはしない。アスピオンという恐ろしい化け物を使い、世界を敵に回してまで手に入れる対価が日本には無いということを。

【驚いたな。自分の事をバカだと卑下しているが、ちゃんと自分で考えられているじゃないか】

 愛夢との応答が楽しくなり夢中になった漁火は、地球外生命体侵略説で再び盛大にスベッた。


 消沈する漁火を愛夢の声が引き戻す。

「漁火さん、もう一つだけ質問してもいいですか?」

「はい!一つと言わずに、いくらでもどうぞ!!!」

 愛夢の持っているルーズリーフにはコピーした新聞記事が切り貼りされていた。蛍光マーカーで引かれた線、端には可愛らしい字で要点や疑問がまとめられている。一目見ただけで普段からノートを綺麗にとっている事が窺い見えた。

「四年前の新聞記事には犬を媒介とした新型のウイルスが発見され拡まった書いてあります。漁火さんは先日、これは嘘だとおっしゃいましたよね?」

「はい。アスピオン化した犬はウイルスになど感染していませんでした。その正体は先日お話しした通りアスピオスという正体不明の物質です」

 愛夢は漁火の話を聞き考え抜いた。そうして自らでは答えに辿り着けない疑問をぶつけてくる。

「でもこのウイルスの感染者は日本中に沢山いましたよね?新聞もニュースも毎日ASPウイルスの感染者の報道をしていました。これって・・・」

 首を傾げた愛夢は机に置いた資料を指差す。

「あぁ、それは簡単なことですよ」

「えっ?えっと・・・もしかして皆んな俳優さん?でも外国の研究者たちも、このASPウイルスにコメントや論文を発表してたって」

 愛夢の可愛らしい発想に漁火は笑みが溢れる。そうであればどんなに良かっただろう、と。

「・・・造ったんですよ。既存のウイルスを元に新型のウイルスを」

「つくった・・・?」

 追弔に向かう車の中では暴露できなかった真実。これも国の最重要機密であった。愛夢が心変わりをしたのなら、この真実を打ち明けはしなかった。

 脅威の伝播性を誇り、死者をも出したASPウイルスは、人為的造られた。この真実こそ、愛夢の心変わりを促す漁火の最大の切り札だった。

「ええ、アスピオンのことを匿し、ワクチンをより多くの人に接種させる。それだけの為に、恐ろしく感染力が強い風邪のウイルスをばら撒いたんです」

 愛夢は死者数のグラフをジッと見つめていた。

「えっでもっ・・・重症化して亡くなった人とか、今も後遺症に苦しんでいる人が・・・」

 ASPウイルスなど、ばら撒かれなければ死ぬ事はなかった尊い命。その命の数を漁火は忘れた事はない。

 同じ想いの官僚や政治家もいた。だがこの国の権力のある人間は違う。心清らかな優しき者達を邪魔者として、静かに排除したのだ。

 ばら撒いたウイルスのワクチン、アスピオンの体組織入りの生理食塩水、それらの製造は全て政治家の天下り先である大手の製薬会社が請け負った。

 政府は自分たちだけではなく、一般人にすら非人道的な所業を秘密裏に行った。汚物のような扱いを受ける罹患者と医療従事者、恐怖心を煽る為に発令した外出禁止令は人々の生活に大きな支障をきたし、生活が困窮する者もいた。

 そうして疲弊した国民の姿を見ても、己の利益の事しか考えない人間がこの国を牛耳っている。

 巨額な金は巡り、結局は大物と呼ばれる者達に還元されるように出来ている。

 この真実が露呈すれば愛夢だけではない。全ての国が日本政府を最悪の統率者として見限る。

 秘密保持誓約書の存在が無理矢理に真実に蓋をさせていた。莫大な違約金、そして連帯保証人の存在が鎖となって身を縛り、今日までこの秘密は守られてきた。

 予想だにしなかった真実に愛夢は口は閉ざす。

【もう一押し、というところかな?】

 愛夢に見限ってもらう為に、漁火は政府とLETへの糾弾を続ける。

「本当にひどい人たちですよね。真実を公表して被る損害よりも、国民を幾人か犠牲にした方が損害は少ない。そんな倫理にそむく論理を振りかざす人間たちが統轄する組織なんです」

 不安そうな愛夢の顔に心は痛むが漁火は話続ける。

 この国の人々に選ばれたはずの信じるべき人間が、如何に外道で卑劣なのかを。

「LETの上層部である閣僚と官僚の方々は、ASPワクチンを打っていないんですよ。アスピオンの体組織なんて得体の知れない物質を、自分の体に入れるなんて冗談じゃないと跳ね除けたそうです」

 愛夢に恐怖を与えぬように、漁火は必死で怒りを押さえこんだ。何とか表情だけでもと笑顔を取り繕う。

「それだけではなく自分たちの家族や縁者、そして権力のある人物にはワクチンと偽り生理食塩水を注射しているんです。接種率を上げるパフォーマンスですよ」

「そんなっ!?もしも、その人たちの中にメテウスを持っている人がいたらっ・・・!?」

「だからです。アスピオンと戦いたくないし、戦わせたくないから、打たないし、打たせない」

 そんな腐った人間の中でも溝呂木だけは違っていた。父親の命令に逆らい"本物"のASPワクチンをその身に流し込んだのだ。だから溝呂木はメテウスに目覚めた。その事で両親から勘当され、今に至っている。

 それが幸せか不幸なのかは、当の本人にしか分からない。だが溝呂木がいなければ、確実に自分たちの今は無い。化け物と呼ばれるフロウティス部隊を、ここまで押し上げてくれたのは、彼なのだから。

「アスピオンは朝も昼も夜も関係無く現れる。死骸との戦いなんて終わりは見えないし、追弔してしまえば塵になる為に研究も全く進まない・・・」

 漁火は自分のやるべき事をやり終えた。

 愛夢の顔を見れば、それが分かった。

「西宮さん、これでお分かり頂けましたよね?こちら側に来てはいけません。こんな嘘と秘密に塗りたくられた組織はいつか瓦解します」

 そうなれば信用を失った日本は、国内からだけでない。海外からも強く批判され多岐にわたる制裁を科される。そうなれば、この国は終わる。

 致死率こそ高くはないとしても、ウイルスを作り国民に罹患させた。そして化け物と戦わせる為だけに虚偽のワクチンを接種させ続けている。

 それが生物兵器を使い侵略を企てる事と、どちらが非道なのか。漁火は答えを出す事はできなかった。

「・・・でもっ・・・」

 優しい愛夢は、どこまでも自分たちを案じてくれていた。だからこそ、つけ入る隙を与えてはならなかった。

「もし私以外の誰かが貴女に接触してきても、LETに入るよう唆しても、絶対に耳を貸さないでください」

「・・・わかりました」

 愛夢の返事に、体中を支配していた重圧が解けていく。おそらく今日、自分は愛夢以上に緊張していただろう。ようやく肩の荷が降りた漁火は、愛夢に斡旋の話を持ちかける。

 だが時計を見ると時刻はもう17:30だった。

 愛夢と過ごす時間はとても早く、漁火は少しの名残惜しさを感じていた。

「門限も近いので今日はここまでにしましょう。進路相談はまた後日に。私は職員室にいる臼井教諭にご挨拶をしてから帰ります」

 後は一、二回の面談で愛夢との時間は終わるだろう。漁火ができるのは斡旋先の資料を渡す事くらいであり、相談を受けるのは臼井で事足りる。

 寂しさは感じるが、愛夢の幸せに繋がると思えば大した事はなかった。

 職員室へ寄ろうとする漁火に、愛夢もタブレットを返却する目的で同行を申し出る。

 立ち上がり応接室を出る愛夢を見た漁火は、疑問の声を隠せなかった。

 この学校は一階には三学年と職員、二階は特別教室、そして三階が来賓室や倉庫になっているのだと臼井から聞いていた。他の学年の教室は別棟にあり、この校舎では静かに勉学や仕事に勤しむ事ができる。

 愛夢の鞄が置いてある部屋は物置だった。

 そこにポツンと置かれた二つの机がなければ、疑問は浮かばなかったであろう。

「西宮さんは此処に何かの御用を申しつけられていたのですか?3年生の教室は1階ですよね?」

 自分を待たせないように臼井が気を利かせて愛夢を三階によこしたのだと、漁火はそう思いたかった。

「いいえ、ここが私の教室なんです」

 だが愛夢は当たり前のようにここが自分の教室だと言う。こんな物置に机と椅子を置いただけの部屋を。

「先日から、ここで一人でオンライン授業を受けているんです」

 愛夢は孤独な物置部屋へ追いやられていた。そして淡々と説明をしながら来た道とは違う道へ漁火を誘う。

「どうしてそんな事に!?何か困っていることがあるんですか?」

 愛夢がこんな事になっているなどと臼井は一言も言わなかった。だが当の愛夢は漁火の質問の意図が全く分かっていない様子だった。

 あの物置部屋で一人でいる事こそが自分の望みなのだと愛夢は言い切る。

「そんなのって・・・そんな事のためにっ・・・!」

 漁火は階段の途中で立ち止まり、手すりに置いた手を強く握りしめた。

 こんな風に愛夢だけを排斥すると分かっていたならば、イジメの情報を学校には渡しはしなかった。

「私は西宮さんに学校を楽しんで、いい思い出を作って卒業してほしいと思っています。おそらく美剣さんも同じ思いでしょう」

 学校でのイベントは、ほとんどが終わってしまっている。けれども今からでも楽しい思い出を作るには遅くはない。漁火はそう信じて疑わなかった。

「私にとって学校生活は辛くて苦しいだけのものでした。でも今は、これまでとは比べ物にならないくらい幸せで楽しいです」

【何で?一人でここにいる方が楽しいって、どういう意味なんだ?】

 愛夢が望むそれは衝突も和解も何も無い、青春とは程遠い、孤独の道だった。

 両親に恵まれ、一貫して私立に通わせてもらえていた漁火には、善良な友人も多い。そんな恵まれ満たされた学校生活を送った人間には、愛夢の心を理解する事は難しかった。


 愛夢は一人の生徒ともすれ違うことのない道を選び歩いていく。それは彼女の選ぼうとしている人生そのもののように思えた。

 職員室でタブレットを返却する愛夢と離れ、漁火は臼井に声をかける。

「何故、西宮さんをあんな場所へ?」

 書き物をしていた臼井は立ち上がり軽く頭を下げた。そして小さな声で漁火の質問に答える。

「本人たっての強い希望を叶えました。残り少ない学校生活を満喫してもらう為です。どうか、ご理解とご容赦をください」

「だからって、あんまりじゃないですか?」

「加害者が多すぎるんです。今回の事で逆恨みする生徒がいるかもしれません。西宮さんの安全の為でもあるんです」

 イジメ問題は加害者に全て非があるにも関わらず、被害者が痛み分けの結果になる事が殆どだった。傷付いた心を癒す事は難しく、普通の生活に戻れる事はまずない。どうあっても気持ちの悪い終わり方になる事が決まっている漁火が大嫌いな最低の行いであった。

 どのみち、漁火は臼井に強く言える立場ではない。

「分かりました。後日また伺わせていただきます」

 最低限の挨拶をして漁火は愛夢と共に職員室を後にする。


 愛夢は漁火を来客用玄関まで送ってくれた。

「・・・では西宮さん、今度こそは進路相談でお邪魔致しますので!」

 怒りや悲しみを悟らせぬように漁火はいつも通りの笑顔で愛夢に接する。哀れみや心配で愛夢にいらぬ罪悪感を与える事だけは嫌だった。

 礼儀正しくお辞儀をした愛夢は、誰かの廊下を走る足音に突然身を強張らせた。

 漁火が罪悪感を抱かせぬように努めようとも、愛夢は既にそれに苦しんでいた。外で部活をしているサッカー部員の話し声に被せるように、愛夢にしては大きな声で話し始める。

【噂?そういえば、そんな書き込みがあったような気がする】

「あのっ・・・!美剣さんはお元気でしょうか!?」

 慣れない声量に愛夢の声は上ずっていた。

 男子生徒の「マジ!?両方いる?」という声で、漁火は噂が愛夢だけのものでない事に気付く。

 愛夢はサッカー部員だけに気を取られていた。

 漁火も美剣ほどではないが聴力は常人より優れている。だが視力はフロウティス部隊では漁火が抜きん出ていた。

 その目が捉えたのは、先程までいた校舎から自分たちを睨む向井の姿であった。

 その目には殺意と言っても過言ではないほどの憎しみが宿っている。

 漁火は向井を無視し愛夢との会話を続けた。

 目の前の愛夢が泣き出してしまうのではと心配で、向井などは正直どうでもよかった。

「はい、いつもと変わらず元気すぎるくらいです。今日も自分も連れて行けと、ゴネて暴れて大変でした」

 会話の合間に聞こえる男子部員の「眼鏡だけだった!マジで黒スーツ!あれはマジもんだな!!」笑う声。漁火は噂には自分も関わっているだと察する。

 だからなのだろう。愛夢は必死に男子部員の声をかき消そうした。

【ヤクザ!?今ヤクザって言ったよな?復讐?】

「えっと・・・漁火さんに頂いたパイ!!凄く美味しかったです!ごちそうさまでした!」

 泣きそうな顔で必死に雑音を誤魔化そうとする愛夢がいじらしく、漁火はできる限り普段通りに振る舞う。

 雑音など放っておけばいいものを愛夢は必要以上に悩んでしまうのだろう。必死に謝る愛夢の姿は逆にこちらが謝りたくなるほどに悲痛だった。

「西宮さんにそんな顔をさせるくらいなら、私はもうここには来ない方がいいのかもしれませんね・・・」

「それだけは嫌です!絶対にっ・・・!」

 愛夢は漁火の提案に強い拒絶を示す。その強い口調が自分を必要としているように思えた。体の内側がこそばゆくなる。だが全く不快ではなかった。

【今度こそ、西宮さんを救うんだ!】

 漁火は今度こそ愛夢を救う為に、噂がどんなものなのかを聞き出す。

「・・・あのっ、二人はヤクザで・・・私が美剣さんの愛人だって噂が・・・」

 いかがわしい関係に誤解されているくらいだと予想はしていた。だが高校生の発想力は漁火の予想の斜め上を行っていた。

「本当ごめんなさい!私の所為で、黒い高級車で送迎させてるとか、気に食わない人を秘密裏に始末してるとかっ!そんな低俗な噂の的にさせてしまって!!」

 漁火と美剣が乗ってきた黒の公用車は、黒塗りの高級車にグレードを上げられた。そして加害者達のSNSのアカウントを削除した事も効いているのか、彼らは勝手に大きな力が動いているのだと勘違いした。

 間違えた選択で愛夢を不幸にしてしまったと思っていたが、やり様によっては状況を好転させられるチャンスであった。

「ふふっ・・・すみっ、ません!ヤクザ!!まさか自分がヤクザと間違われる日がこようとは!!あはは!」

 愛夢には悪いが漁火は思わず笑ってしまう。真面目すぎると言われ生きてきた自分が、ヤクザに間違われる。それは愛夢がいないと体験する事はない出来事であった。つまり、この笑いをくれたのは愛夢という事になる。

 必死に笑いを堪えようとする漁火に愛夢がトドメの燃料を投下した。

「あっ・・・実は、噂を流した子が美剣さんと目が合ったらしくって。全然意味が分からないんですけど、美剣さんの顔があまりに怖すぎるから、アレは名のある組の若頭に違いないって噂を・・・」

「美剣さんが若頭!!!!!!?」

 その時、漁火の脳裏に背中に彫り物が入った美剣の姿が浮かぶ。ドスに盃に拳銃、何を持たせても様になるのだから、噂を流した人物はかなりの慧眼の持ち主なのだろう。

【美剣さん似合いすぎるだろ!】

 漁火は膝を叩いて爆笑する。

 こんなに笑ったのは、何年振りなのかは思い出せない。戸惑う愛夢に何か言わねばと、何とか落ち着こうとする。だが全ては逆効果だった。

「ふふふっ、となると、私は舎弟ですかね?どうですか!?当たりですか!?」

 地味で平凡な自分は、子分Aとかその辺りで呼ばれているのだろう。漁火はそう思い自信ありげに微笑み愛夢の返事を待つ。

「・・・漁火さんはインテリヤクザって言われてます」

 愛夢の可愛らしい声が発した事により、インテリヤクザという不吉なワードは、恐ろしさが全く無くなった。だが腹への破壊力は最強だった。

 愛夢が引いてるのが分かったが、漁火は笑うのを止めらない。ようやく落ち着きを取り戻し、愛夢と別れた後、グラウンドにいる先程の男子部員に会釈をして笑いかける。

 愛夢は思い詰めてしまっていたが、漁火にとっては楽しい時間だった。それをくれた礼を言う事は叶わないので、せめて。そう思ってした善意の行為は、学生達の間で新たな恐怖の噂を生んだのだった。

 LET本部へ戻る電車の中で漁火は何度も吹き出しそうになる自分と戦い、負けた。


 漁火は仕事の合間に捨て垢を作り、今だに嫌がらせの投稿を止めない生徒にSNSでメッセージを送る。

 このまま止めないのであれば、然るべき機関からの罰を受けてもらう。進学や就職を控えた身でありながら破滅の道を選ぶような事はするな。そんな旨の注意喚起が学生達には最後の警告に思えたのだろう。

 その日を境に愛夢への嫌がらせは、波が引く様に減っていった。

 漁火が直接学校に赴き笑顔を向けた生徒は「アレは活きの良い獲物を探す目だった」と震えて他の生徒に語ったらしい。移り気で利己的な現代の高校生達が非現実的なこの噂を信じるのには、幾重に重なった偶然と勘違い、そして愛夢があの部屋を使わせてもらえている事が大きく影響している。

 消せば増える書き込みは、新たな噂に上書きされた。何を勘違いしたのか物置部屋はVIPルームに誇張されていた。愛夢が校長を脅し跪かせ、学校を陰で牛耳っている。これまで大人しかったのは、虎視眈々と標的を見定めていたからで、"狩り"は今から始まる。

 それが今、学校で囁かれる噂であった。

 真実は美剣にコンカフェ通いと制服フェチを暴露されるのを恐れた校長よる贔屓なのだから、学生達の噂もあながち間違いではないのかもしれない。

 つまり、探られて痛い腹が罪悪感になり疑心暗鬼を生んだ。自業自得の末が今の噂になっている。

 そんな出鱈目で非常識な噂でも愛夢を守ってくれるのなら、と漁火は美剣と共に静観を貫く事を決めた。


 今現在はテスト期間中である為に進路相談は延期となっていた。その間に漁火は愛夢の斡旋先となる職場の資料をまとめ当日に備える。

「この資料の中に西宮さんがなりたい職業があるといいんだけど」

 愛夢の未来を思えば激務の中の雑務も耐えられた。漁火は次に愛夢に会える日を楽しみに励む。

 そうして浮かれていた代償を、最も最悪な形で払う事になるとも知らずに。


 鷹のアスピオンの追弔中に大怪我を負った美剣は、意識不明に陥った。所々に飛んだ鮮血、咽せ返る鉄の香り、青ざめ冷たくなっていく身体に、残された三人は絶望する。

 何とかアスピオンは還す事はできた。だが美剣は未だ危険な状態であり、フロウティス部隊専門の医師からは、このまま意識が戻らない可能性もある事を宣告されていた。

 美剣はLET本部にある病室の治療室で、自己血によりギリギリ生命を繋ぎ止めている状態だった。酸素マスクを付けられ、ベッドで横たわる美剣に、漁火は声をかける。

「美剣さん、漁火です。西宮さんは、今日もテストを頑張っているそうですよ」

 無駄と言われても何もせずにはいられない。おそらく溝呂木と旭夏も、時間を見つけて同じ事をしているだろう。再び仲間を失う事は耐えられなかった。

 愛夢の名を出した瞬間、美剣の指先が動いた気がした。そう思いたいだけだったのかもしれない。だが漁火は藁にもすがる思いで美剣に語りかけ続ける。

「西宮さんは私には笑顔を見せてくれません。やっぱり美剣さんじゃないとダメなんです。このまま死んでしまったら、西宮さんに会えなってしまいますよ?」

 美剣の瞼が微かに動く。今度は気のせいではなかった。

「起きてください!美剣さん!」

 漁火は美剣の耳元で大きく叫ぶ。美剣は掠れた声で小さく呻いた。

 漁火は病室を飛び出す。そして医師と看護師に確認を取り、最後の頼みの綱である臼井へ連絡した。

 臼井には美剣は事故に遭ったと伝えていた。

『美剣さんの容体は如何ですか?』

「芳しくありません。ですから臼井教諭に御協力頂きたいのです」

『勿論ですわ。私にできる事でしたら』

 漁火は臼井に早口で説明をし懇願した。今だに意識が戻らない美剣が愛夢の話にだけは反応を示す事を。だから愛夢の学校での様子を話してやってほしいと。

 漁火はスマホを美剣の耳元に置き、スピーカーに切り替える。

「臼井教諭、お願いします」

『こんにちは、美剣さん。西宮さんは先日、統一テストを受けたんですよ』

 少しだけ美剣の呼吸に緩急がつく。

『でも自己採点の結果が、あまり良くなかったらしく悔しくて泣いておりました。あの、テストをわざと間違えていた西宮さんが、ですよ?』

 処置を施そうとした女医を漁火は小声で制す。

「もう少しだけ話を続けさせてください」

 その女医は前隊長である天海の妻であった。純日本人でありながらフランス人形のように美しい造形の顔立ちが漁火を見つめる。

 四年前、漁火は彼女を前にすると緊張で話す事すらもままならなかった。だが人間とは慣れる生き物であり、今となっては数少ない理解者であり良き相談役でもあった。

「分かったわ。通話の邪魔はしないから処置だけさせて」

 天海月歌あまみるかは優しく静かに返事を返す。

 美剣の目が薄らと開く。

『ですから、このままじゃ美剣さんに合わせる顔がないって、この間まで猛勉強していたんです。放課後に私の所に質問に来る程に熱心にね』

 苦しそうに美剣は「ぁっ・・・む」と呟いた。

『今受けている学校の学期テストは手応えを感じているようですわ。採点待ちもあって確かではありませんが、学年上位は堅いと思います』

 月歌はテキパキと看護師に小声で指示を出し美剣に処置を施していく。されるがままの美剣の表情は、漁火が見た事がない優しい笑顔だった。

『どうして西宮さんが、こんなに頑張っているのか分かりますか?テストを頑張れば美剣さんが喜んでくれると思っているからです。まぁ、そう言ったのは私なのですが。つまり西宮さんは美剣さんの為に頑張っているんですよ』

 漁火は泣きそうになるのを堪える。

 美剣の愛夢への想いの深さが、愛夢の直向きさが、この奇跡を起こしてくれた。

 月歌は漁火を見て笑顔で頷く。それは美剣の容体が快方に向かっている事を伝えてくれた。

 安堵から漁火はその場にへたり込む。

『このまま死んだりして、私を嘘つきにしたら許しませんよ?そんな事になったら、西宮さんがどんなに傷付いてしまうか分かっているんですか?』

 返事をしたいのか、美剣は小さく呻き身動ぐ。だが医療に順ずる者がそれを許すはずがなかった。

「医師の天海です。おかげ様で患者の意識が戻りました。本当にありがとうございます」

『そうですか・・・。お役に立てたようで何よりでございます。』

 漁火には臼井の声が少しだけ涙ぐんでいるように感じられた。今、臼井が美剣に伝えた事は、本来の教師であれば絶対に部外者には教えないはずの、生徒の大切な個人情報であった。美剣の生命を救う為に臼井は規則を破ってくれた。

 スマホを持って病室を出た漁火は、見えないと分かっていても何度も臼井に頭を下げる。

「臼井教諭!本当にありがとうございました!危険な状態は脱したそうです!この感謝の思いは言葉では言い表せません!」

『そんなに大きな声を出さなくても聞こえておりますよ。それよりも、この事は西宮さんに絶対に勘付かれないように努めてください。私もそうしますから』

「勿論です!それは美剣さんの願いでもありますから」

 美剣は意識を手放す前に、漁火に怪我の事を愛夢に伝えるなと言い残していた。だが数日前の愛夢との通話で漁火は動揺を隠しきれなかった。

 テストを終えたばかりの愛夢に休養を提案して、何とか進路相談の日程を延ばして凌いでいる。

 臼井と共に日程を決めた漁火は通話を切った。そしてトークアプリを開いて溝呂木と旭夏にメッセージを送る。


漁火:美剣さんの意識が戻りました。危険な状態は脱したそうです。


 既読は付いたが誰からの返信も無い。仕事部屋に戻ろうとした漁火の前に最初に現れたのは旭夏だった。

「美剣さん今は処置中ですので面会は難しいかと思います。メッセージに付け足すべきでした。すみません」

「いいえ。近くに寄る用事があったついでに少し様子を見ようと思っただけです。どうせ、私なんていたところで何もできませんけれど・・・」

 メッセージを送った後から時間はそう経ってはいない。殆ど仕事部屋から出てくる事のない旭夏は小走りでここまで来たのだろう。素直でない斜に構えた旭夏の反応に、漁火は苦笑いを返す。

【旭夏さんって西宮さんみたいなところが時々あるんだよなぁ。西宮さんは、ここまで捻くれていないだろうけど】

「あれ?二人共、ここにいたんだ?」

 次に現れたのは溝呂木だった。颯爽と響く足音には少しの焦りや動揺も見られない。いつも通りの完璧な溝呂木がそこにいた。

 漁火は溝呂木に旭夏にした説明をもう一度する。

「ふーん、弱って静かなアイツなんて滅多に見られないから拝んでやろうと思ったのになぁ。せっかく来てやったのに無駄足だったみたいだね」

 美剣が負傷した瞬間、漁火も旭夏も動揺するだけだった。自衛隊員ですら震えて竦んでいた鷹のアスピオンを溝呂木は蹴り技だけで沈めてみせた。

 そんな溝呂木も冷静を装っているだけで、その実は各所へ走り回り美剣の代わりを務めてくれている。つまりは忙しすぎて慌てている暇など無いだけなのだ。

「今回の事で上の方々は何と?助力は得られないのですか?今の状況では、私たちも美剣さんの二の舞になってもおかしくないのに」

 旭夏は淡々と溝呂木に尋ねる。怒りの感情は、とうに呆れに変わり、既に諦めにも近くなっていた。そんな不信感を抱こうとも、これ以上の犠牲を出したくない思いから質問せずにはいられなかったのだろう。

「相変わらず、迅し密かにを遂行しろ、とだけさ。鷹なんてそうそう現れるモノじゃないんだから、次は残りのメンバーでも何とでもなるだろうって」

「・・・漁火さん、各大臣のご自宅にデコイを設置していただけませんか?考えも変わるかもしれません」

「旭夏君!」

「旭夏さん!」

「・・・すみません、冗談です」

【嘘だ!明らかに本気だった!】

 漁火は心の中で旭夏にツッコむ。

「不安になる気持ちは分かるよ。でも、僕が必ず旭夏君がトドメを射せる状況を作るから信じてほしい。美剣が戻るまでは、この戦術でいこう」

「私は溝呂木さんほど肉体による戦闘能力が高いわけでもない。そしてメテウスも美剣さんのように殺傷能力が強いわけでもない。結果、常にどちらかばかりに負担を強いる事になってしまい心苦しいです」

「僕のメテウスなんて追弔では何の役にも立たない。それに僕と君の戦闘能力はそんなに変わらないと思うけど?だから持ちつ持たれつだよ」

 二人の会話に漁火は堪らなくなる。一番無力なのは追弔で何の役にも立てていない自分なのだから。

「いいえ!私がもっと攻撃や防御にメテウスを使えていれば、こんな事にはならなかった!お二人の負担を軽くする事ができたんです!」

「漁火君?君はこれ以上メテウスを使ったら過労死するから本当に絶対に止めてくれる?」

「・・・漁火さんは今のままでもう十分です。お願いですから、これ以上をご自身に求めないでください」

 何故か凄む溝呂木と旭夏の迫力に、漁火は小さく二つ返事を返す事しかできなかった。

 三人で横並びに仕事部屋へと戻る途中、「そういえば」と溝呂木は何かを思い出した。そして漁火の前に立ちはだかり念を押す。

「例の子の斡旋先は決まってる?美剣が寝てるから僕の所に四月一日わたぬきさんが来た。用件は分かるよね?」

 四月一日は厚労省の官僚であり、政府高官の命を受けてLETを指揮権を委ねられている人物だった。

 フロウティス部隊と四月一日には結成当初からの因縁があり、誰一人として彼を好いている者はいない。

 そんな四月一日の用件は一つ、愛夢の事であった。

「西宮さんの事ですよね?来週にはまとめた資料をお渡しして、いくつか斡旋先の候補を絞ってもらう予定です。LETに入る事は絶対にあり得ません」

 四月一日は特に旭夏を目の敵にしており、絶対に接触させないようにするのが残りの三人の暗黙の了解だった。だから漁火は、旭夏の為にも四月一日の話題を早く終わらせたかった。

 愛夢を守る為にも、早く就職先を決めて四月一日の魔の手が及ばないように守りを固めていく必要がある。だが漁火は愛夢の将来の為の大切な選択を急かしたくはなかった。そうして焦りだけが募っていく。

「美剣は、その子の性格が追弔には向いていないから別の道を進ませてやりたいって、四月一日さんに頼んでいたそうだ」

 美剣だけではない。漁火も愛夢が追弔に向いているとは思ってはいなかった。どんなメテウス持とうと、愛夢が嬉々としてアスピオンを追弔する事などあり得ない。会って話したのは、まだ二度だけ。だが漁火にはその思いに絶対の自信があった。

 愛夢の誠実と優しさは、今までの関わりだけで分かるほどに愛夢自身を行き難くさせていたのだから。

「・・・それを何とかするのが、お前の役割であり仕事だ。四月一日さんは美剣さんに、そう怒鳴ったのではないですか?」

 旭夏は静かな声で溝呂木に尋ねる。

 四月一日が自分を嫌っていようとも、旭夏にはどうでもいい事なのだろう。自分の仕事部屋の扉に手をかけ、何の感情も浮かべずにジッと溝呂木の返事を待つ姿は氷の彫像のように美しかった。

「当たりだよ。美剣が適当に流したから僕の所に来たんだろう。取り決めがある以上、お小言くらいでしか催促できないから焦ってきてるんじゃないかな?」

「四月一日さんは、追い詰められたら何をするか分かりません。動向には気をつけた方がよろしいかと」

 そう言い旭夏は漁火の方を見つめる。

 旭夏も四月一日により内定を取り消され、夢を潰されていた。だから愛夢に同じ思いをさせたくはないのは、漁火だけではない。フロウティス部隊の全員が愛夢に夢を叶えて普通に生きてほしいと願っていた。

「警戒は怠っておりません。美剣さんの負傷による混乱の隙を突かれないように、細心の注意を払います」

 漁火は言葉の通りに、通話や通信記録、学校に出入りする人間など全てに経験を怠らないようにしていた。だが四月一日は手紙というアナログな接触手段を既に用意していた。

 周到な四月一日は愛夢を諦めてはくれなかった。


 その事を漁火が知ったのは、進路相談の日だった。愛夢の将来について共に考え、その決断に立ち会える事が嬉しく漁火は浮き足立っていた。

【西宮さんは、何になりたいんだろう?どんな仕事に就くのかな?素晴らしい人だから、私の想像なんて軽く超えてくれるはずだ】

 その期待通りに愛夢は漁火の想像を超えた。悪手だと断言できる最も最悪な答えで。

 美剣の負傷以外は全てが上手くいっている。そう思っていたのは漁火だけだった。

「私は漁火さんたちがいるLETに、フロウティス部隊に入って美剣さんの隣で戦いたいと思っています!」

 愛夢のその言葉で頭の中は真っ白になった。働かない頭で何とか話をはぐらかそうとするが、通じるはずもなく愛夢は尚も食い下がる。

 愛夢の心変わりは一通の手紙の所為だった。

 佐藤太郎と言うふざけた偽名の差出人は、愛夢の優しさに付け込んだ。愛夢の性格や置かれている状況を知り、付け入って搾取する卑怯な人間の心当たりは一人しかいない。

 四月一日はフロウティス部隊との取り決めを破り愛夢と接触した。

 だが四月一日に出し抜かれた怒りよりも、つまらない条件で未来を棒に振ろうとしている愛夢への幻滅の思いよりも、迂闊な自分が一番許せなかった。

【カラスの能力を警戒するなら手紙を使う事なんて気付けたはずなのに!】

 鞄の中にある封筒には今日まで調べ上げた数々の職業についての資料が入っている。この雑務によって睡眠時間を削らなければ、漁火は四月一日の策略に気づけていたであろう。

 だが漁火は自身の失態よりも、無駄になった労力よりも、愛夢の未来を憂う。

 愛夢の無限にある可能性と未来、普通の女の子として生きて欲しいという願い、それらを一通の手紙が全て壊そうとしていた。

 愛夢と話す漁火の語気は段々と強くなっていく。

 幼気な直向きさに胸が締め付けられようとも、漁火は負けるわけにはいかなかった。

【大丈夫・・・西宮さんは、きっと分かってくれる。自分から今ある幸せを壊してしまう事なんて、絶対にするわけがない!】

 漁火は愛夢に特殊緊急車両同行申請書を見せる。

 だが愛夢はその優しさから更に意固地になっていく。互いを思い合うからこそ譲れない戦いは続く。

 漁火が見せ告げた追弔の真実に、愛夢の顔は絶望に染まった。

 傷の状態を細かに写した写真、負傷の状況。LETに入りたいなどと馬鹿げた事を言わなければ、愛夢はこの事を一生知らずにいられた。この心の傷を負わずに普通の幸せを生きていられたのだ。

 愛夢の心に消えない傷を負わせた。その事が漁火の心にも傷を負わせる。

【これで・・・いいんだ!】

 愛夢の憎悪の対象となってでも、LETに入れる訳にはいかない。死ぬよりも辛い事など無いのだから。

「私はもう二度と、ここには来ません。さようなら、西宮さん・・・どうかお元気で」

 自分にできる事は調べ上げた斡旋先の資料を臼井に託し、影ながら愛夢を支援していく事だけ。そして関係を断ち愛夢の人生から消える事、それが考え得る最善の選択であった。

【こんな終わり方はしたくなかった・・・!西宮さんが夢を叶える姿を見てみたかった!そうすれば私は、これから死ぬまで西宮さんの幸せを守る為に頑張れた】

 愛夢の悲痛な叫びが、扉を開こうとする漁火を止める。だが凄惨な追弔の現実は、愛夢の足を震えさせ歩けなくさせていた。

 その場で転んだ愛夢を漁火は振り返る。手を貸して起き上がらせてやりたい衝動を必死に抑え歯を食いしばる。

【この口で!手で!直接傷付けた!西宮さんに手を貸す資格なんか自分にあると思うな!】

 床に倒れ込んだままの愛夢は漁火に謝り続ける。

「ごめんなさいっ!ごめんなさいっ!漁火さんの言う通りに!思う通りに出来なくって・・・!ごめんなさいっ!」

 漁火は扉を開く事もできずにその場に立ち尽くす。

【何で西宮さんが謝るんだ!?怒って嫌って罵ってくれたらいいのに!その方がずっと楽なのに・・・】

 愛夢は這って漁火の元に近づこうとする。その姿を見ていられずに漁火は目を逸らす。

「漁火さんは凄い人なのに!私なんかの為に痛い思いも嫌な思いもしたのに!それなのに、たくさん優しくしてくれたのにっ・・・!何にも返せなくて、ごめんなさい!!」

 漁火の視界は涙で滲み手が震えた。

 見当違いな愛夢の言葉が目頭を熱くさせていく。

【私なんか、そんな風に思ってもらえる人間なんかじゃないのに!こんな事になるなら、誰かに変わってもらえばよかった!そうすれば全部上手くいったのに!】

 自分以外の誰かであれば、愛夢をもっと良い道へ導けたはずだと、漁火の自己嫌悪は加速していく。

 今度こそ扉を開こうとするが、体は動こうとしてくれない。

「話したくないことを話させて!言わせたくないことを言わせて!漁火さんに嫌な思いばかりをさせて、本当にごめんなさいっ!!!」

 愛夢はまるで全ての因は自分にあるばかりに謝り続ける。それが甘い毒ような安心感を心に生んでいく。

 それは自分は悪くない、正しいと思わせてくれる。

 仲間が命を懸けて戦う中、自分はいつも安全な後方から見ているだけ。それに負い目を感じていた。

 愛夢はそんな自分を許してくれる。欲しかった言葉をくれる。否定も何も無い、優しい毒に目眩がした。

 愛夢が今日まで虐げられてきたのは、相手に引け目と劣等感を感じ勝手に肯定し追従してくれるから。その簡単に心を満たせる正当化という甘い毒に、耐えられる人間が彼女の周りにはいなかったからだ。

 そんな人間と同じには絶対になりたくなかった。

 漁火の頭に仲間の顔が浮かぶ。

 三人は、自分を信じて愛夢の未来を託してくれた。それなのにその責務を全うできなかった。そればかりか、愛夢を他の人間に押し付けて楽になりたいとさえ思ってしまっている。

 仲間達に恥じない自分でいたい。その思いが漁火を奮い立たせる。

【何で私はこうなんだ!?動けよ!いつまでこうしているつもりだ!】

 流れる涙を拭う漁火の背中に愛夢は叫ぶ。

「このままアスピオンの事を知らないフリをして、戦いを皆さんに押し付けて、自分だけ普通に生きたなら・・・私はもっと自分を嫌いになって、もっと許せなくなる・・・!」

 決して強くもない、棘もない。そんな言葉が漁火の心を深く抉る。

 それが過去に自分が決意し口に出した言葉と全く同じだったからだ。

 夢を奪われ、逃げ場を失い、途方にくれる自分と旭夏に、美剣と溝呂木は「普通の生活に戻ればいい」と言って背中を押してくれた。だが漁火は今の愛夢と全く同じ事を言い、その申し出を断った。

 そんな漁火には愛夢を説得する術が見つけられなかった。それは自分と愛夢が似ているからこそで、どんな言葉でも絶対に信念が揺らがないと分かるからだ。

 そうして、なす術を無しくした漁火は逃げるように部屋から出る。

「お願いします!せめて最後に遠くから一目だけでもいいんです!美剣さんに会わせてくださいっ!!」

 泣きじゃくる愛夢に漁火は扉を強く閉めて応えた。

 早足で階段へと向かうが校舎の廊下が遠く長く感じられる。

「せめて、美剣さんの声がっ・・・聞きたい!美剣さんにダメだって言われたなら、ちゃんと諦めますからっ・・・!」

 懇願する愛夢の声が、漁火の足取りを重くさせた。そして終には進む足を止めさせる。

【・・・やっぱり私なんかじゃダメなんだな】

 美剣は途切れ途切れではあるが会話ができる程度には回復していた。自分好みの年上の女性である臼井に愛夢の話をしてもらう。それが励みとなったのだろう。「重篤な状態から重症くらいにはなったわね」と月歌を呆れながらに笑っていた。

【そもそも、こんな事になっているのは美剣さんの所為でもあるのに!西宮さんの心を滅茶苦茶に掻き乱して中途半端に放り出すからこんな事になったんだ!】

 漁火は呼吸を整え覚悟を決める。今の状態では通話どころか臼井にも挨拶に行けはしない。

 心を落ち着けた漁火はポケットからスマホを取り出し、溝呂木へ連絡を入れた。

【溝呂木さんと天海女医からの了承が得られなければ、そのままLET本部へ戻ればいいだけだ・・・】

 何故か心臓は不快に高鳴る。

 愛夢は美剣の言葉であれば諦めると言った。

 完膚なきまでに突き放して諦めさせてほしいとは思う。だが同時に、愛夢にはこれ以上は傷付いてほしくはないという矛盾した葛藤に苦しむ。

『もしもし?漁火君?何かあった?大丈夫?』

 自分を心配してくれる溝呂木の声で我に帰る。

 漁火は端的に状況を説明した。

 心変わりをした愛夢が、美剣の説得ならば受け入れると言っている。溝呂木にはそう伝えた。

「私を信じて送り出してくれたにも関わらず、こんな事になってしまい弁明の余地もございません。どうか美剣さんに繋いでいただけないでしょうか?」

『気にするな、と言っても無理だろうね。とりあえず月歌さんからの許可は貰えたよ。少し待ってて』

 病室の扉を開く音がした矢先、美剣と溝呂木の小競り合いの声が聞こえた。

 漁火は静かに応接室の前へ戻る。強く閉めすぎた反動により扉は少しだけ空いていた。その向こうからは愛夢の啜り泣く声が聞こえる。

【私が・・・泣かせてしまった】

『悪いけど、この通話は僕も聞かせてもらうから』

「はい・・・。では、こちらもスピーカーにします」

 漁火は愛夢に美剣の声が届き易いようにイヤースピーカー側を応接室に差し込む。


「えっ!?美剣さん?美剣さんなんですか!?」

 驚く愛夢の声には、先程まで感じられなかった嬉しさや感動が込められていた。

 美剣は小粋な冗談を交えて愛夢の悲しみや緊張を解かしていく。顔は見えないが、愛夢が安堵を感じているのが分かる。

【こんな事、私には絶対できない。西宮さんを楽しませる事も、笑顔にする事もできやしない・・・】

 早く美剣に愛夢を突き放して諦めさせてほしかった。だが二人は離れていた時間を埋めようとする。

 そんな二人に苛立ってしまう自分が嫌だった。だから漁火の声には怒りが込められてしまう。

「漁火さん!美剣さんとお話しをさせてくれて、本当にありがとうございます!」

 自分の心を傷付けた人間にも愛夢は心からの感謝の言葉を述べる。たとえそれが断絶の最後の連絡であろうとも。愛夢は美剣をそれほどに慕っていた。

「・・・先程の言葉通り、本当にこれが最後です」

 漁火は冷たく言い放つ。まるで温情で美剣と話をさせてやっているかのように振る舞う。

 美剣が愛夢にかけた言葉たちは、漁火も今日かけてやりたいと思っていた。

 だが愛夢がここまで頑張れたのは全ては美剣の為だった。美剣に褒めてもらいたくて、喜んでもらう為だけに愛夢はテストの学年順位を一桁にまで上げた。

 都立と言えども、文武両道を謳い、それなりに学力も高い、有名大学にも合格者を出す、この高校で。

 塾にも通わない愛夢が、今日まで真剣に勉学のみに力を入れてきた生徒よりも上に入った。

 それがいかに難しい事なのかは、教師を目指した漁火には誰よりも理解できていた。

 あの日の鉄塔の上での時間は、愛夢にとってそれ程までの転機だったのだろう。

 愛夢は何度か会った自分よりも、一度会っただけの美剣を大切に思い、今もこうして望んでいる。

【早く・・・!LETなんかに来るな。普通に生きろって言って、こんな時間を終わらせてください】

 美剣も愛夢を拒絶して、自分と痛み分けになれたなら、この胸を刺すような靄も少しはマシになるはずだった。だが美剣は聞いた事もない優しい穏やか声で愛夢を説き伏せていく。

 漁火が知っている些細な事で怒り怒鳴る美剣はそこにはいなかった。

 普段の美剣を敵を燃やし尽くす業火に例えるならば、今の美剣は暖かく包み込む焚き火。その優しさによって愛夢も次第に本音を引き出されていく。


「だって・・・そうなったら、美剣さんも漁火さんも、凄い人気者になって、きっと私になんて構ってくれなくなっちゃう・・・。私なんかに会いにきてくれなくなっちゃう!お話しできなくなっちゃう!!それが寂しくて悲しくて絶対に嫌だったからっ!!!」

 愛夢は有り得もしない空想で不安を感じていた。そのヤキモチのような可愛い感情の対象には、美剣だけではなく自分も含まれいる。その事が嬉しく漁火の心臓は煩いほどに高鳴った。

【かっ!わっ!いっ!いっ〜〜〜!!!】

 何度も愛夢を可愛らしいと思う瞬間はあった。その度に漁火の心臓はチョンと小突かれたように疼いた。

 だが今は疼くどころか、鈍器で何度も殴られたように強い衝撃が絶え間なく襲っている。

 今まで追弔してきたアスピオンよりも強烈な一撃を愛夢は二人に喰らわせた。

「漁火さん!?やっぱり漁火さんも怪我してるんですか!?大丈夫ですか!?」

 電話口で倒れた美剣を気遣う余裕も、愛夢に返事をする余裕も漁火には無かった。

【ダメだ!落ち着け!デコイと索敵を乱すな!】

 倒れて打った体と頭よりも心臓が強く痛む。

『必ずお前を迎えに行く。うちの部隊に来いよ!』

 背中から聞こえるこれまでの努力を全て無駄にする美剣の言葉に漁火は全てを放棄したくなる。

【私だけ悪者じゃないか!苦しい!もう嫌だ!全部、溝呂木さんがやってくれればいい!】

 吐いた弱音は一喝される。

『しっかりしろ!!あの日のことを思い出せ!!!』

 あの日、四年前、二人の仲間の天海大和あまみやまと皇銀河すめらぎぎんがが命を落とした。

 その日の光景と、死に顔を思い出さない日は無かった。辛く惨い記憶は、自分のやるべき事を否が応でも突き付けてくる。

 漁火は勢いよく飛び起き、スマホが隙間から引き抜く。人の気配が無い事をカラスで探り、全力で廊下を駆けた。

 前線に出ている者ほどに速くはない。だが漁火も身体能力は常人よりも、そして愛夢よりも優れていた。

 愛夢が廊下まで追って来た時には100メートル弱の距離が開いていた。

「漁火さん!私・・・どうしたらいいですか!?」

 消音にしてある腕時計型のデバイス、その画面は漁火の動揺に警告を出し、ずっと震え続けていた。

 アラートを止めると時刻は17:45分、漁火は愛夢に向かって簡潔に叫ぶ。

「門限!!」

 真面目な愛夢に規則を破らせる訳にはいかない。

 カラスの索敵能力で下には誰もいない事は分かっていた。

 漁火は階段の手摺りを越えて、吹き抜けを飛び降りる。

 人間が落ちる空間のある階段。三階に応接室や倉庫などの生徒が近寄れない部屋を密集させたのは、この吹き抜けに対処したからなのだろう。

 ふざけた生徒は何をするか分からず、愛夢のような生徒が危険に晒される可能性を潰した。その配慮のおかげで愛夢との距離は一気に開く。

【これで西宮さんは私に追いつけない!】

 淑やかな愛夢が今と同じ事をするとは考えられない。漁火は着地音が他の生徒に聞かれぬようにカラスで衝撃を和らげる。

 そして早足で職員室に向かい、臼井に手早く挨拶をした。

「お世話になりました。私にできる事は終わりましたので、後の事は引継ぎの者に連絡させます」

 ここまでの流れは完璧だった。だが愛夢が一緒にいない事を不審に思った臼井は漁火を引き止める。

「あの、お待ちください。引継ぎとはどういう事ですか?お西宮さんは?話は一体どうなったのでしょうか?自分の思いを、ちゃんと漁火さんにお伝えできたのでしょうか?」

 姿勢に視線、言葉遣いに討論、今日が面接であれば愛夢は完璧だった。自信の無さが玉に瑕ではある。だが漁火自身が面接官であれば、それも謙虚さの現れなのだと百点としていたであろう。

「えっと・・・それが、中々難しくてですねぇ〜。こちらの都合で申し訳ないのですが・・・」

 漁火の泳ぐ視線に臼井は全てを察したようだった。

「何故でしょうか?西宮さんに何か至らない所がありましたでしょうか?確かに、其方様に大変失礼な事をしてしまいましたが、本人も深く反省しております!彼女が優秀である事は、ご存知ですよね?何とかならないのでしょうか?」

 畳み掛けてくる臼井の猛攻に漁火は後退る。

「えーと・・・一旦持ち帰って検討させてください!とにかく!私はこれで失礼いたします!」

「漁火さん!ちょっとお待ちなさい!ちゃんとした説明をしてください!」

 臼井は生徒を叱るかのように漁火に向かって叫んだ。同じ職を志した者として、大先輩である臼井に非礼な態度をとり、さらには廊下を走り、人気の無い場所のフェンスを飛び越え学校を去った。

 最低最悪の行いを心で猛省しながら漁火はLETへと戻った。


 防衛省の地下にあるLET本部、その一番奥にある治療ルームにはフロウティス部隊全員が集まった。

 旭夏に宥められている溝呂木、ベッドの上で胡座をかく美剣、その前には仁王立ちの月歌がいた。

 おそらく怒れる溝呂木を抑える為に、旭夏は月歌に呼ばれたのだろう。

 漁火は真っ直ぐに美剣の元へ向かう。

「お〜!やっと戻ってきたか〜!」

 明るく振る舞ってはいるが顔色はいつもより悪い。先程は無理を押して愛夢と通話をしていたのだと一目で分かる。

 だが漁火には、今の美剣を気遣う余裕は無い。

「何故、西宮さんにあんな事を言ったんですか?追弔なんて出来る人じゃない事は、美剣さんが誰よりも分かってるはずです!」

「本人が強く望んでたからだ。アイツが自分で考えて決めた事を尊重してやりたい。誰かに無理矢理言わされたんじゃないんだろ?」

「だとしても美剣さんは承諾すべきではなかった!西宮さんは、こんな手紙で心変わりした!まだ若いから、お金なんか揺らいでしまっただけで!アレは一瞬の気の迷いなんですよ!今ある幸せが、どれだけ大切で貴重なのか分かってないだけだ!」

 漁火は四月一日の手紙をベッドの上に放った。

 美剣は見ようともせず、漁火から目を逸らさない。手紙は旭夏が開き溝呂木も覗き見る。既に落ち着きを取り戻していた溝呂木はため息を吐く。

「確かに、他所とは比べ物にならない給与だ。魅力的には見えるかもしれないけど、命をかけられる値段ではないのも確かだね」

 これまで静観を貫いていた月歌が声を発する。その助け舟は漁火に出されたものではなかった。

「でも、その子は聞いてる感じだと、美剣君が心配で側にいたいからLETに入りたいんでしょ?お金の為じゃなくって感情で動いちゃう時もあるわ。女の子だもん。分かる」

 厚労省の医系技官である月歌は、一人でも多くメテウスを持つ者が増える事を願っている。厚労省の職員として、医師として、そしてフロウティス部隊前隊長の妻として、月歌は四人の前に立っていた。

「金なんか、今ある幸せ、か。此処にいるのはオレ以外は全員お金持ち様だもんな。アイツの気持ちなんて分かる訳ねぇか」

 美剣の軽いため息が、痛む身体を堪える為のものだと分かっていても漁火は苛立ちを止められない。

「話を逸らさないでください!私は一般庶民です」

「・・・私も、家はごく普通の一般家庭かと」

 漁火と旭夏の反応に、正真正銘のお金持ち様である溝呂木と蚊帳の外の月歌は再び黙るだけだった。

「お前らは何不自由なく育って親の金で私立通って、四年制大学出してもらった人間だ。学費の心配した事もなけりゃ、奨学金も借りてない。金に不安感じた事ないヤツが、金持ちじゃないってんなら悪かったな」

 漁火は反論の言葉を失う。

 美剣は高校を中退して通信に通い直している。家は家族経営の小さな町工場であり、過去に起こした傷害事件によって経営は傾いていた。その事で美剣は上の人間に低学歴の低下層とずっと馬鹿にされている。

 そんな美剣に、此処にいる誰も何も言えない。

「西宮さんは進学を望んでいません。もし本当は望んでいたとしても、都知事の補助も返済不要の奨学金だってある!言ってくれたなら、いくらでも協力しました!」

「アイツはそれを絶対に言わないし使わない。オレが進学の金出してやるって言っても断ったんだ。卒業したら自分で稼いで生きていくって決めてんだよ」

「普通に就職したって生きる分のお金は得られるのに、わざわざLETを望む必要なんて無いはずだ!」

「オレらの為ってのもあるんだろうが、自分に適性がある方を選んでくれんだ。せめて多く金を望んだっていいだろ?持ってるヤツが持ってないヤツの生き方を否定すんな」

「適性って・・・!西宮さんなら、どんな仕事だって就けます!LET以外に笑顔になれる仕事はある!絶対にその方がいいに決まってるじゃないですか!」

「アイツは自分の本心を言えないヤツだった。それがLETがいいって、働きたいって強く言ってるんだ。それってもう、夢って呼んでいいんじゃないか?オレはそれを叶えてやりたいって思ってる」

「夢!?LETが?追弔が?そんなモノが夢であっていい訳がない!西宮さんに相応しくない!」

「キラキラしたモンだけが夢なのか?アイツはずっと不自由に生きてきて、そんなモン無縁で、お前みたいに、良い友達にも優しい教師にも恵まれてない。だから今までは夢なんて考えてる場合じゃなかったんだ」

「一度しか会っていない美剣さんの方が、私なんかよりもずっと西宮さんの事を分かっていますね。・・・私は、もうこの任を降ります。構いませんよね?どなたか、引継ぎをお願いします」

 愛夢と舌戦を繰り広げた後に、連戦して美剣の相手。漁火は、うんざりしていた。

 それを感じ取ってくれたのか、旭夏と溝呂木は互いに顔を見合せ頷く。

「分かったよ。その子の事は僕が引継ぐ。担当者の連絡先を教えて」

 後任を名乗り出たのは溝呂木だった。

 漁火は臼井の名刺を取り出そうと鞄を開く。中にあった分厚い茶封筒が目に入り、やるせない思いが胸を締め付けた。

【さっさと捨てよう。こんな物が無くても臼井教諭と溝呂木さんなら、西宮さんを最良の道へ導いてくれる】

 愛夢の為の資料は全て無駄になった。勝手に用意して期待し裏切られた独りよがりの結果を、早く消し去ってしまいたかった。

「勝手に決めんな。オレは許可しねぇぞ」

 美剣の声は先程より弱く小さい。顔色も青白い。だが威厳は全く失われてはいなかった。

 病室内の空気が重くヒリつく。

 美剣の発する重圧が肩にのしかかるが、漁火は殴られようとも意見を曲げるつもりはなかった。

「それは命令でしょうか?でしたら聞きません」

 名刺を渡して病室を出ようとする漁火に、美剣はまだ話を続ける。

「お前が自分から憎まれ役買って出てアイツを止めようとした事は分かってる。だが逆効果だ。今頃アイツは、お前じゃなく自分を責めて泣いているはずだ」

 全てを見透かされていた。まるで、その場で様子を見ていたかのように美剣は話す。

 今の状況は愛夢に引き止められ時と似ていた。

「アイツをまた泣かせた代償だ。この任を降りる事は許さない。担当の人選は絶対に変えない」

 漁火は何も言えなかった。だから病室の扉を開いて黙って部屋を出る。

 背中から溝呂木と旭夏がそれに続くのが聞こえる。

「おい、美剣。お前一人がその子の加入に賛成していても、僕たち三人はそれを許さない。そしてお前の接触禁止令も解かない。だから、この話は終わりだ」

「私も溝呂木さんと同じ意見です。漁火さんの説得が断られたのなら、次の適任者に任せるのが一番良いと思います」

 この場にいる人間が美剣に失望し糾弾しないのは、四月一日に言われたから愛夢をフロウティス部隊に加入させようとしているのではないと分かっているから。美剣は権力に屈して呑まれた訳ではない。

 これは仲間たちと愛夢、そして、これから新たに現れるメテウスを持つ者を守る為の選択なのだろう。

 本人の口から聞いてはいないが、そういう人間だから美剣は隊長に推されて、ここにいる。

「漁火!お前ならやれるって思ったから、オレはお前を選んだ。お前は傷付いた人間の心に寄り添ってくれるはずだって確信している。だから西宮愛夢の事は、お前に・・・任せたっ!」

 美剣は自分の言いたい事だけを言ってベッドに沈んだようだった。

 月歌が処置を施す声で、ようやく漁火の止まっていた足は動く。

「ごめん、漁火君。君は気にせずに通常業務に戻ってくれて構わないから」

 漁火は上の空で返事を返し仕事部屋に戻る。資料の入った茶封筒をゴミ箱に放り、一心不乱に仕事に打ち込んだ。

 愛夢の泣き声と美剣の懇願が頭に何度も響くが、雑念だと振り払う。

 スマホの着信履歴には学校からの着信が何件もあった。


 21時を回った頃、帰宅した漁火のスマホに再び着信が入る。

 画面に表示されていたのは臼井の携帯番号だった。

 彼女は学校が終わっても生徒の事を思い、こうして仕事に励んでいる。敬意と罪悪感から漁火は通話ボタンを押してしまう。

「本日は大変失礼いたしました。急を要する事態が発生したもので、連絡が遅れてしまいました事も重ねてお詫びします。申し訳ございません」

『いいえ。こんな時間にお電話をさせていただいてるのですから、こちらもお互い様です。それよりも西宮さんが泣き腫らした顔で帰って行った事への説明がまだなのですが?』

「・・・今回の勧誘のお話は見送らせてもらえるようにお願いしました。その事で西宮さんのお心を深く傷付けてしまった事は、お詫び申し上げます」

 電話口からは、臼井の深いため息が聞こえる。

『その理由は彼女が最初に勧誘を断ってしまった所為ですか?それとも其方のご都合?まだ私は西宮さんから話を聞けていないの』

 一般人である臼井には話せない事情が多すぎた。その為に愛夢にも大きな負担を強いてしまっている。

 もう関係無いと切り離そうとしても、愛夢の事を考える事は止められなかった。

「全て此方側の問題です。西宮さんに非は全くありません。臼井教諭にはお手数ですが、西宮さんの心が別の方へ傾むように教導をお願いいたします。次の担当者は私と違って大変優秀な方なので、ご安心ください」

『次の担当者?この状態のままで別の方に引き継ぐなんて・・・。漁火さんが、そんな不誠実な人だとは思いませんでした』

「お怒りは、ご尤もです。ですが、西宮さんも臼井教諭も、次の担当者と必ず良い関係を築けるはずです。それでは、本日まで大変お世話になりました。失礼いたします」

 漁火は返答を聞き終わる前に通話を切る。本来であれば、こんな無礼は絶対にしないであろう。だがこれは皆にとっての最良に繋がる。だからそうした。

【これできっと全部上手くいく・・・】

 疲れた身体をソファに沈める。寝転んだ視線の先には未開封のキャンプギアが積み上げられていた。

「もう・・・キャンプなんてずっと行けていない。父さんに、あげようかな・・・」

 趣味のソロキャンプは追弔が始まった四年前から行けていなかった。

「世の中には楽しい事なんていっぱいある・・・。西宮さんは、まだそれを知らないだけなんだ」

 両親はキャンプで出逢い意気投合したのだと何度も惚気を聞いて育ってきた。だが漁火自身には運命の恋のような劇的な出逢いはまだ無かった。

「今から素敵な出逢いがある。それこそ溝呂木さんに会ったなら、きっと私の事なんて一瞬で忘れる」

 溝呂木に説得されたならば愛夢は応じてくれる。自分なんかが今日までした事は全て無駄だったのだ。

 深い後悔に包まれながら、漁火はそのまま眠りに落ちていった。


 翌日、漁火は溝呂木がまとめてくれた各省庁の公共工事予定地を回る。カラスの能力のデメリットは訪れた場所にしかデコイを置けない事。だから漁火は自ら直接歩いて見聞し設置を検討をしている。

【ダメだ。この場所、ギリギリだけど射程距離内に認可外保育園がある。美剣さんがいない今の状況だと銃火器を使用しないとは言い切れない】

 漁火は地図が表示されたタブレットにバツマークをつける。今やデコイの設置場所は公共工事現場だけでは補いきれていなかった。民間や個人の工事現場も検討の対象となっている。

 だが迅速な追弔も、それを匿す事も、小さな工事現場では難しい。

「ここもダメだな。これも・・・」

 漁火は次々に地図にチェックを入れていく。タブレットを持つ手に付けた腕時計が震え、着信を知らせる。画面には溝呂木の名が表示されていた。

「漁火です、お疲れ様です。どうかなさいましたか?」

『向こうが君と話をさせろって聞いてくれなくてね。頑張ったんだけど、僕には荷が重かったみたいだ。先に謝っておくね。ごめん!』

 なんとも軽い謝罪の後に、コトッとスマホを置く音がする。

『僕は暫くの間、席を外すのでごゆっくりどうぞ』

「えっ!?ちょっと溝呂木さーん!?」

 一瞬の間の後に聞き覚えのある声がする。だがそれは普段とは違う静かな冷たい声だった。

『こんにちは、臼井です』

 おそらく今はLETの固定電話とスピーカーにしたスマホを合わせている状態なのだろう。それでも背筋を凍らせる感覚がした。

 漁火はこの空気を知っている。家族構成は、父、母、妹、四人。だが家の主導権や決定権は常に母と妹にあった。父は日頃、口を酸っぱくして言っていた。

 女性の"私は怒っています"という空気、これに逆らうと大変な事になる、と。

 漁火家の男の家訓「怒った女性には逆らうな」が頭の中に過ぎる。

 同時に対処方も叩き込まれ心得ていた。

「昨夜は不躾な態度でお話を終わらせてしまい、申し訳ございませんでした」

 反省点を真摯に受け止めて謝罪して再犯せぬように努める。それが父から教わった解決法。お詫びの品も渡せ、がセットになっているのだが今は難しい。

『漁火さん、朝食は召し上がりましたか?』

「はい」

『昼食も召し上がるおつもりなのかしら?』

「・・・はい」

 雑談だとしても質問の意図が全く分からずに漁火は戸惑う。臼井の声には棘がこもっていた。

『結構ですわね〜。西宮さんは昨日の昼を最後に何も食べていないというのに・・・』

「えっ!?どうしてですか!?もしかして西宮さん、また誰かに何かされているんですか!?」

 あの噂に守られているから最近はSNSのチェックを怠っていた。仲違いを察した生徒が愛夢に何をしているのでは、と嫌な想像が頭を支配していく。

『貴方の所為なんですけど?ショックで食事が喉を通らなくなっているの!ようやく最近になって食事をしてくれて顔色も良くなってきていたというのに!』

「えっ・・・あの、すみません・・・。それは、皆さんで心のケアに努めてもらってですね・・・」

『そのつもりです。これは私が貴方に一方的にする怒りのお電話です!いいから聞きなさい!』

 臼井の声にも威厳が込められていた。美剣ほどではないが電話越しでも重圧が感じられる。

「はい!」

 漁火は背筋を正す。

 家訓の通り、怒った女性には絶対に逆らわない。

『これまで西宮さんは、学校でずっと強張って緊張していた。でも、貴方方に出会って体の力が抜けたの』

「それは美剣さんのお力です。私の後任の溝呂木さんは素晴らしい方なので、きっと・・・」

『西宮さんは、漁火さんに許しをもらいたかったのよ。その為に昨日は、普段食べない昼食も食べて貴方を待っていたわ』

「すみません。でも、できません!」

 家訓といえども、これだけは聞けなかった。

『そう・・・。貴方、教師を目指していたと言ったわね?傷付いた子を他の人間に任せるのが目指していた教師像なの?担任教諭の事、何も言えないじゃない』

「・・・っ返す言葉も、ございません!」

『美剣さんが、自分は接触禁止になってしまったけど、後任は漁火さんだから大丈夫だって言ったの。だからお任せしたのに!』

「ご期待に応えられない事申し訳無く思います」

『こうも言っていました。信じていい。西宮さんみたいな子を救うのが漁火さんの夢だったから、絶対に大丈夫だって』

 その言葉で漁火は気付かされた。

 自分は愛夢に向かってやりたい事や夢を説いた。そのくせに自分の夢は忘れていた事を。

 どうせ道半ばで途絶えた夢で二度と叶う事はないと、思い出さないように、考えないようにしてきた。

 その事を美剣と臼井に教えられ導かれてしまった。

『後は漁火さんのお好きになさってください。以上で私からの言いたい事を終わります』

 受話器を置く音がして、話中音が空しく響く。

『ごめんね、漁火君。僕じゃ、お話にならないって言われちゃって・・・。強い人だね。自分の仕事に信念を持っているから、普段相手にしている人間と違って煽てもお世辞効かない』

 臼井は女性の身で教頭まで上り詰めた。いらぬ苦労も多いのだろう。強くなければ己の信念を貫けない。

 自分たちとは違う戦いを彼女もずっとしていた。

「溝呂木さん、事情が変わりました。美剣さんの言う通り、私が引き続き西宮さんの説得にあたります」

 漁火は通話したまま駅に向かって走る。

『正直、僕も今ある仕事で手一杯だから漁火君が引き受けてくれるのは助かるけど・・・いいの?』

「美剣さんの考えが少しだけ分かった気がするんです。多分ですけど・・・」

『今朝いきなり美剣が言ったんだ。君の忘れ物を鞄に入れといてやれってしつこくて、言う事聞いたんだ。ごめんね?』

 鞄には捨てたはずの茶封筒が入っていた。

 美剣にも溝呂木にも臼井にも、漁火が担当に舞い戻って来る事はお見通しだった。


 美剣は愛夢が漁火の説得を受け入れても、なくても、その答えを受け入れるつもりなのだ。

 誰も彼もが、本気でやりたい事を見つけられるわけではない。複雑な生い立ちで過酷な学校生活を送っていた愛夢は、好きなモノや夢を持てなかった。

 その心に寄り添い共に探す事は、今の漁火の本来の仕事ではない。だが美剣は漁火が話した夢の話を今でも覚えてくれていた。

【美剣さんは、いつも言葉が足りないんですよ!】

 漁火はかつて教師を志した日の事を思い出す。

 高校二年生の初夏、山中での校外学習で一人の少女に出会った。背中に中傷が書かれた紙を貼られおり、少女に気付かれないようにソレをポケットに入れて隠した。イジメに遭っていたその少女は、話をすると直ぐに漁火に打ち解けてくれた。

 だが少女は心無い教師と生徒の所為で、山中で一人置き去りにされたのだった。

 泣きじゃくる少女をあやして自分のバスへ連れて行く。その時の漁火の担任が、少女の迎えを待つのではなく送ると言った事が漁火の人生の機転になった。

 渡したイジメの証拠を受け取って、各所に毅然とした態度で厳罰と再発防止を求める姿に当時の漁火は深く感銘を受けた。

 漁火は事態を報告するメールを打つ担任の隣の席に座る。「先生のような人になりたい」と呟いた独り言を、担任は笑わずに聞いてくれた。その担任に「教師を目指してみようと思う」と続けると深く考え込んで、こう言った。

「先生ってな、なるのも大変だけど、なった後の方が大変なんだよ。仕事と保護者との関係もそうなんだけど、君らが家族の次に多く接するのが先生だろ?求められる事が多いから辛いぞ?」

 遠回しに諦めろと言われているのだと悟り、漁火は顔を伏せた。

「でもさ、だからこそ向いてると思うよ。漁火君に」

「えっ?」

「一番に求められるのは、"間違えない事と間違わせない事"。そして誠実である事。だから君なら大丈夫」

 求められるモノの意味が分からずに、さらには自分への評価が高すぎて、漁火は戸惑う。

 その後ろでは小さな騒ぎが起きていた。

 クラスメイトが少女を救いたい一心で始めた晒し上げ行為。度を越した生徒達を担任は即座に論して沈めてみせた。

 間違えない者でいる事、教え導き間違わせない様にする事、漁火はそれを目の当たりにし理解した。

 あの時の担任、そして少女との出会いは漁火の起点であった。

 担任のような先生になりたい。

 少女のような傷付いた子供を守り導きたい。

 その願いは漁火の夢になった。


 大学時代、山村留学先の学校へ教育実習に行った。そこは不登校の生徒を受け入れていて、自然と人との触れ合いを感じながら心のケアを図る学校だった。

 漁火は自らその場所へ就職を志望し合格した。


 そんな話を天海主催の合宿で皆にした。それを美剣は覚えていてくれたのだろう。

 当時の美剣は乱暴で刺々しくぶっきらぼう。今もそんなに変わらないが、誰よりも人を見て思い行動してくれる。だから漁火は美剣を隊長に推した。他の二人も口には出さなかったが、同じ思いなのだろう。

「溝呂木さん!女性が好きそうな昼食をテイクアウトできるお店をご存知ないでしょうか?」

『昼食?お詫びのスイーツとかじゃなくて?・・・弟が教えてくれたんだけど、その近くに新しく出来たパンのお店、美味しいらしいよ』

 溝呂木に礼を言い漁火はパン屋に向かう。

 愛夢の昼食と臼井へのお詫びの品を購入する為に。

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