卒業式
冬休みが明け、学校生活が再開する。
愛夢は独りの楽園を捨てて、がむしゃらに学業に打ち込んだ。そうやってマリアの事を思い出さないようにしていた。
向井に追い回された日の愛夢の大立ち回りは、学校で小さな伝説を生んだ。向井が退学となったタイミングで愛夢の噂は誇張され、重ねて担任の懲戒免職をも愛夢が関わっているとされてしまった。そうして遂には、愛夢自身にも妙な通り名がつけられる。
だがそれは恐れからつけられた名ではない。
しつこく交際を迫った向井を退学に見せかけて始末させた。それが学校に拡まった噂であった。全力疾走、階段の飛び降り、宙返り、誰にも見られていないと思ったクリスマスイヴの大立ち回りが、噂に噂を呼び、尾ひれがついた。
今や愛夢は、傍若無人な向井と担任に鉄槌を下した女神として下級生に崇められている。
向井と担任に苦しめられていたのは愛夢だけではなかった。そうして被害に遭っていた生徒がギリシャ神話の俊足の女英雄アタランテに因んで付けた愛夢の通り名は「アムランテ様」だった。
愛夢は卒業まで影でそう呼ばれ続ける。
だが同級生たちとは、相変わらずの不和で遠巻きに恐れられ続けた。
臼井はそれをひどく心配していた。
だが愛夢には、この状況は逆に好都合だった。
誰にも何も言われずに、そこにいないように扱われる。それを愛夢は学校生活で何より願っていたから。
月に二回ある約束の日。愛夢は春日の説得や説教には完全に沈黙と無視を貫き続け、マリアからの手紙を渡されても断固して受け取らずに突き返した。
その度に春日は愛夢に説教のような昔話をする。
「愛夢君は覚えていないかもしれないが・・・昔のマリアさんの料理は壊滅的に下手だった。食えた物じゃない料理でも、君が何でも美味しいと言って食べてしまうからと、あの人は一心不乱に努力したんだ」
春日の声が話が心を痛めつけるが、その度にマリアへの恩返しの意思は強くなっていく。
春日の説得は愛夢には逆効果だった。
約束の日の帰り道は、涙を堪える為に唇を強く噛みすぎて口の中で血の味がしていた。
それでも卒業までは辛い事ばかりでもなかった。
学校側から漁火と会えるのは月に一回に減らされてしまったが、愛夢は漁火と会えて話せて幸せだった。
何故か漁火は、向井の退学の事も、担任の懲戒免職の事も既に知っていた。愛夢が本来の教室に戻った事を伝えると、臼井から今の状況を聞いていたのか「何かあれば絶対に、私か臼井教諭を頼ってください」と釘を刺してきた。
食事終えた漁火は愛夢に勉強を教えてくれた。苦手な数学を懇切丁寧に、教師よりも分かりやすく説明してくれる姿は、まさに理想の先生であった。
「よく出来ました、流石は西宮さん!花丸です!」
ようやく解を得た愛夢を褒める漁火の顔は、逆に花丸をあげたいほどに眩しかった。愛夢はその笑顔のおかげで、何とか自分も笑顔を保つ事ができた。
美剣も愛夢の新居を決めてくれ、漁火に内見時の写真を持たせてくれていた。
その写真を見て愛夢は驚く。それは新築の建物であった。そして詳細情報には女性限定の物件でオートロックであると記されていた。場所も新宿で近くに交番があり治安も良い。そして家賃を薄目で見た愛夢は失神しそうになる。だが控除がある為、愛夢側の出費は大分削られているのが分かり胸を撫で下ろした。
愛夢の高校は卒業当日までは寮に滞在する事が許されおり、これこそが最大の受験理由であった。
美剣が三月からの入居契約を結んでくれたから、愛夢は卒業式を終えたその足で新生活をスタートさせられる。
マリアにも、春日にも頼る必要はもうない。ようやく自分は、誰にも迷惑をかけない大人になれると思っていた。
だが愛夢は全てを美剣に委ねた。だから知らない。賃貸の契約時に保証人と敷金が必要な事も。そしてそれを保護者であるマリアが引き受けてくれた事も。
繋がりは完璧に切れたと思っているのは、愛夢だけで、拒んだとしても離れても不変の愛を貫いてくれる存在はずっといてくれた。
だがマリアは、それを黙す。そして、そうするように頼まれた美剣もまた、それを黙した。
だから、それが如何に幸せな事なのか愛夢だけが知らない。
そうして、マリアと愛夢、二人の縺れた絆は様々な人間を巻き込んでいく事になる。
三月一日は、見事な晴れた空が清々しく門出に相応しい日であった。
やっと迎えた高校の卒業式は、あの日見た映画よりも、小説よりも、ずっとつまらなかった。
担任を慕ってなかったのは、愛夢だけではない。副担任がそのまま担任になった愛夢のクラスは、懲戒免職になった担任の事を惜しむ声は無かった。そして何の混乱も無いままで今日まできた。
受験に桜が咲いた者もいれば、散った者、まだ分からない者もいる。その全員が担任に名前を呼ばれて卒業証書を受け取っていった。
元副担任が愛夢の名を呼ぶ。
「はい」
愛夢の小さな返事に下級生達が一瞬だけ響動めく。
何度も転校を繰り返し、最後に通った小学校では卒業式は何の思い入れもなかった。
中学も事件の後に転校し、千葉の女子中学を卒業はした。だがASPウイルス蔓延防止の為、卒業式はリモートで卒業証書は郵送だった。
そして高校は初めて三年間通い、独りで戦い抜いた。愛夢の今日までの学校生活が終わりを迎える。
壇上で証書を手順通りに受け取って席へ戻るだけ。そんな簡単な儀礼を、今日までずっと待ち望んでいた。だが、いざその時を迎えても心は虚しかった。
自分で卒業式には来るなと言った。だが愛夢はどこかでマリアを探してしまう。そんな矛盾している自分に腹が立ち心の中で一人で呆れた。
壇上から自分の席に戻る途中、涙ぐむ保護者達の後方で、立ってスマホを構えている男性の姿が見えた。
男性の無造作に伸ばした赤い髪が、愛夢の心に灯った紅炎を揺らめかす。ガッチリと鍛え上げられた体躯を包むのは、あの日と同じ上品な黒のスーツとボルドーのネクタイであった。
愛夢の絶対の味方である美剣が、誰も祝ってくれないと思っていた卒業式に来てくれた。
その嬉しさで式典を放り出したい衝動に駆られる。それを必死で抑えて愛夢は自分の席へと座った。
必死に涙を堪える為に唇を噛み続け、最後の矜持をなんとか貫く。
つまらない上に長い校長の式辞、在校生の送辞、代表者の答辞、全てが時間の流れを遅く感じさせる。こんな退屈な式にいつまでもいてくれるはずがない、そう思い愛夢は何度も後ろを振り返る。
だが先程と変わらない位置に美剣はいた。我が子を祝う保護者と同じ微笑みで、まだそこにいてくれた。
閉式の挨拶が終わり、愛夢たち卒業生は盛大な拍手を浴びて体育館から退場する。
美剣はスマホを構え愛夢に手を振っていた。
漁火が言っていた通り、美剣の愛夢への接触禁止命令は卒業と同時に解除されたのだろう。
美剣は約束の通り愛夢を迎えにきた。
同級生は保護者や教師、そして後輩から笑顔で見送られる理由がある。それだけの事を皆は三年間やってきた。だが自分は違う。息を潜めて、何にも打ち込まず、ただ学校とバイトと寮を行き来するだけだった。
だから最後の日は独りぼっちで終わる、そう思って生きてきた。美剣と出会うまでは。
こんな自分がいいと必要としてくれた人が、門出を祝いに来てくれた。間違いなく今日が愛夢の人生で一番嬉しい卒業式だった。
今日のことは美剣の突然の思いつきなのか、サプライズなのかは分からない。どちらにしても愛夢はただこの光景を目に焼き付けるしかできなかった。
いつまでも何の反応を示さない愛夢に、美剣は腕を振り回す勢いで手を振り続ける。気付かれていないと勘違いしたのか、必死に自分の存在をアピールする姿が愛夢の心をさらに温かくさせた。
美剣の隣にいる保護者の迷惑そうな顔に、少しの申し訳無さを感じる。だが愛夢は飛び跳ねたいほどに幸せだった。
「ウフフ」
春の息吹のような柔らかい笑い声と共に、愛夢は美剣に手を振る。列になって退場しているクラスメイト達が驚いて愛夢を見るが、そんな事はどうでもよかった。生徒の前では泣かない事を矜持にしてきたが、笑う事も初めてだった。
そんな愛夢を見て美剣は喜びの表情を浮かべる。だが次の瞬間、その表情は仁王の形相に変わった。
その理由は隣りの男子生徒が愛夢を見て赤くなったからなのだが、当の愛夢に至っては瞳に美剣だけを写していた。
だから、そんな事があったなど知る日はこない。
教室での元副担任の別れの挨拶が終わると同時に愛夢は走り出す。
ようやく美剣との時間を咎められる事はなくなったのだ。その嬉しさで頭がいっぱいで、目と足は美剣を探す。向井に脅され愛夢を陥れる協力をした二人の女子生徒が話し掛けようとしてきても目もくれない。
愛夢は一心不乱に美剣を探す。
美剣は愛夢の為に、見つけにくい学校内にはいない気がした。だから愛夢は校門を目指した。
靴箱がある昇降口の外に美剣はいた。
臼井と話をしながら何度も頭を下げる美剣は、愛夢の父親だと言われても誰も疑わない。それほどに嬉しそうだった。
込み上げてくる喜びで愛夢の足が止まる。
胸が詰まり声が出せない愛夢に最初に気付いたのは臼井だった。
「美剣さん、待ち人が来ましたわ」
振り返った美剣は愛夢を見て大きく両手を広げる。
「にーしーみーやーあーむー!!」
名を呼ばれて腕を広げられたのなら、する事は一つだった。
愛夢は美剣の腕の中へ飛び込んだ。
優しく頭を撫でる手に身を委ね、美剣の体温に酔いしれる。
「卒業おめでとう。今日まで良く頑張ったな。偉いぞ」
愛夢は頭上から聞こえる穏やかな低い声に、猫の様にして美剣の胸に頬を擦り応えた。
コホンと響く臼井の咳払いで美剣の体が離れる。
名残惜しさから愛夢は美剣のスーツの端を摘んだ。
「美剣さん、西宮さんは一人の女性です。もう少し節度のある対応をお願いします」
「あー・・・はい。以後気をつけます」
「それから西宮さんも!これからは大人の女性として振る舞わねばなりませんよ?今の様に公衆の面前で男性に抱きつくなど、もっての外です!」
「・・・はい」
臼井の愛のある最後の教育に愛夢は消沈する。ようやく許され叶った美剣との時間を、今度は紀律が邪魔をした。別に規律という訳でもなければ、破ってしまっても罰せられる事も無い。だが破れば咎められる。同調圧力のような力が愛夢を縛った。
「まぁ、今日くらいは少しなら許されるのかしら?おめでたい日だし」
臼井の言葉に愛夢は美剣と目を合わせて安堵する。
「ほら、臼井先生に言う事あるだろ?」
そう言った美剣は優しく愛夢を押し出してくれた。
今朝、寮母や事務員への感謝と別れは済ませた。愛夢がお礼を言いたい人間は残るは臼井だけであった。
「・・・私、先生のおかげで初めて学校が楽しいって思えたんです。あの部屋を私に貸してくださった事、忘れません。今日まで本当にお世話になりました!」
「西宮さんは、あの部屋にいる時が一番生き生きとしていたわね。貴女に本当の学校の楽しさを教えてあげられなかった事だけが心残りです」
「本当の学校の楽しさ?すみません、先生のおっしゃりたい事が私には分かりません」
「ごめんなさい、何かも遅いわよね。せめて、もっと早く西宮さんと出会えたら良かったわ」
たとえ臼井と早く出会っていても、愛夢は何も変わらなかっただろう。美剣がいてくれたから、愛夢は変われた。他の誰も美剣の代わりは出来ない。
三人が別れの挨拶を交わす横で「アレが噂の?」と周囲の生徒が騒めき出す。
愛夢の耳は「若頭」という言葉を聞き逃さない。それは美剣も同じだった。
これには生徒の変化に過敏な臼井も眉を顰める。
「もう・・・お願いだから放っておいてよ」
愛夢は小さく嘆く。
臼井が生徒達を注意しに行こうとするのを、美剣が止めた。変わりに美剣は、臼井と愛夢を交互に見て自分の耳を指差した。
「耳を塞いでもらえますか?出来れば強めに」
愛夢は臼井と首を傾げるが、美剣の言う通りに手を耳に強く当てる。
その瞬間、美剣はコチラを盗み見て囁き合う生徒達へ身体を向けた。スーツの内ポケットに手を入れて何かを取り出し、ソレを素早く構えた。
「バァーーーーーーンッ!!!!!」
耳を塞いでいても腹にビリビリとくるような美剣の大声が周囲に響き渡る。
発砲音を模したその声に、ある者は悲鳴を上げて逃げ出し、またある者は腰を抜かして身を守る様にその場に縮こまった。
そうして愛夢達の回りは蜘蛛の子を散らすように誰一人としていなくなる。
「ザマァみやがれ!」
逃げる生徒に向かって叫ぶ美剣を臼井が叱責する。
「美剣さんっ!私の生徒達を脅かさないでください!」
「違います!脅したんじゃなくてオレの新しいスマホを自慢したんです。コレ最新で、めちゃくちゃカメラが高性能なんすよー」
美剣が手に構えていたのは自分のスマホだった。
アスピオンを迅し私かに還す事ができる誰よりも強い美剣が臼井に怒られペコペコと頭を下げる。臆せずに勇猛果敢に戦える美剣でも、臼井には頭が上がらないのを見ると愛夢は何故だか笑えた。
「西宮愛夢〜!笑ってないで助けてくれよぉ〜!」
愛夢は美剣の元へ駆け寄り一緒に頭を下げる。しかしその顔には申し訳無さのもの字もない。
そんな二人に呆れた臼井も笑い、今度こそ別れの時間を迎える。
「西宮さんに免じて、これまでにします!二人がここにいると、また同じような事になります。名残惜しいけど、もう見送らねばなりませんね」
臼井の言葉に、美剣は愛夢を見て頷く。
「臼井先生、本当にありがとうございました。さようなら。これからもお元気でいてください」
愛夢は感謝の気持ちを込めて深くお辞儀をした。そして隣で美剣もそれに続く。
「これまで西宮愛夢にお力添え頂き、ありがとうございました。あっ!寂しい時は、いつでも連絡お待ちしてますんで〜!」
臼井は美剣の軽口を無視し、美しいお辞儀して学校へ戻って行った。
「うしっ!んじゃあ、行くか!」
「はい!・・・どこにですか?」
「お前の新居だよ!今日から住むのに、まだ行った事ないんだろ?車で漁火を待たせてるから行くぞ〜」
「漁火さんも来てくれているんですか?」
「おう!インテリヤクザとしての最後の仕事を頼んだ」
何故か美剣は駐車場ではなく校門へ向かう。愛夢は首を傾げるが、美剣は「行けば分かる」と笑うだけだった。
「西宮さん!待って!」
校門へ向かう二人の足を止めたのは、聞き慣れない女子生徒の声だった。
振り返った愛夢は一瞬固まる。
それは愛夢が体育の授業で負かしてしまった、あの陸上部の女子生徒であった。
「ごめん。ちょっとだけ話したい、ダメ?」
愛夢は美剣を見る。ただでさえ美剣と漁火は忙しい。第一に話したい相手ではないし、二人をこれ以上待たすのは気が引けた。
「お前の好きにすればいいぞ。オレはここで待ってもいいし、一緒に来てほしいならついていくから。漁火だって怒りはしないさ」
愛夢の緊張は緩やかに解けた。美剣はいつだって愛夢の心を理解して欲しい言葉をくれる。
美剣がいれば、もう何も怖くない。たとえ罵られようが、殴られようが、蹴られようが、目の前の女子生徒はアスピオンではない。何かされて死ぬ事はないし、彼女と話す嫌な時間も永遠ではない。
苦痛な時間は我慢していれば終わる。そしてそれが終われば、今度こそ愛夢は大手を振って美剣と一緒にいられるのだ。
「先に行ってください。後で走って追いかけます」
「分かった。門の所にいるから慌てんでもいいぞ」
陸上部の女子生徒は去っていく美剣に頭を下げた。
彼女の髪は愛夢の顔を隠す為に伸ばしっぱなしの髪とは違う。走る時に邪魔にならないように綺麗にお団子にまとめられていた。彼女の少しでもタイムを縮める為に鍛え抜かれた身体も愛夢とは全く違っていた。
愛夢は美剣の背中を見つめる。もう声は拾えない程度に距離が開き、ようやく話が切り出された。
「あっ、あの、今日は西宮さんの保護者の人は?入学式にはいたのに・・・」
彼女の話し方は独特なイントネーションがあった。北陸地方から陸上の強いこの学校へ来た為、一年生の時にはもっと訛りが強かった事を愛夢は思い出す。
だが、よりにもよって彼女は愛夢の一番触れられたくない話題に触れた。
「そんな人いません。話ってソレだけですか?なら終わったので、もう行っていいですか?」
愛夢は返答にトゲを混ぜた。無意識であった。だが愛夢には彼女を苦手に思う理由があった。
彼女を負かした事でイジメられただけではない。愛夢に修学旅行に来ないでと言ったのは彼女であった。そして愛夢が教師の説得により欠席の届けを出せずにいた時も「早く死ね」と罵りの言葉をかけてきた。
「いやぁ、違うんよ。・・・西宮さん、この前めっちゃ足早かったよね。向井君に追いかけられてた時!あの時は、助けてあげられなくてゴメン」
シュンと下を向く彼女に愛夢は「いいえ」とだけ短く答える。
愛夢は彼女を見ようとしなかった。だから彼女の手も足も緊張で震えている事に気が付かない。
「覚えとる?昔、西宮さんに抜かされて私が泣いたの。でも、私も今は調子のいい時は、あのタイム出せるようになったんよ!」
昔の愛夢が適当に走ったタイムを、今の彼女は頑張らないと出せない。そして、今の愛夢はあの時よりもずっと速い。それがメテウスの力であり、これが常人の限界なのだろう。
愛夢は少しだけ彼女を可哀に思う。
そんな彼女が何を思っているのか、大体の検討はついていた。
「そんなに心配する事ありません。私は誰にも何も言いませんから」
愛夢の言葉に彼女は「えっ?」と戸惑う。
「貴女の進学の妨げになる事は、しませんから」
彼女は陸上を辞めずにずっと続けてきていた。それは、おそらく大学でも続く。彼女は練習を続けていたから、あの日の愛夢を目撃したのだ。
これからの輝かしい未来、そこに苛めという過去は汚点となる。だから彼女はその憂いを払拭しにきたのだと、愛夢には分かった。
「違う!そんな事思ってない!私、本当は西宮さんと仲良くなりたかった!だから・・・」
「全部水に流して仲良くですか?貴女にそんな事を思わせてしまう卒業式って怖いですね」
卒業式特有の気持ち良く終わろうという空気に愛夢は心底嫌気が差した。最後に全部を無かった事にして、皆んなが仲良しだった事にして、あの時はごめんねと言って、勝手に終わりたい。良い高校生活だったと、楽しかったと、思いたいし思わせたい。
周囲は「この友情は永遠」だの、「皆んな仲良しの最高のクラス」だのつまらない美辞麗句で溢れていた。
皆が、どうせスマホでいつでも繋がれる関係なのに、いつまでも別れを惜しむフリをする。
二人の横を「今からカラオケ行きまーす」とゾロゾロと生徒の集団が通り過ぎて行く。
「西宮さん・・・就職するんよね?もう走らんの?」
「そんなの元々やっていません」
「そうなんや。それなのに、あんな速いなんてすごいよ!今からでも陸上やろ?勿体無いよ!」
彼女のその言葉を聞いてから愛夢の腹の中はゾワッと蠢き気分が悪くなる。
恩返しに生きる為に必死だった愛夢には、部活なんかに割く時間は無かった。
愛夢が何かやりたいと言えばマリアは全力で応援しただろう。自分の身を裂き、お金も時間も労力も余す事なく愛夢に注いでしまう。それが分かっていたから、今日まで愛夢は何もしてこなかった。
部活なんかが出来るのは、身も心も環境も全て満たされた選ばれた者だけなのだ。
本気で陸上を始めれば目の前の彼女はどうなるのだろう。仲良くなりたいなんて寝言は二度と言わないだろう。愛夢の腹の中の蠢きがそう囁きかける。
愛夢は入学から卒業まで彼女にずっと気を使ってきた。登下校はおろか、寮の中でも、学校でも鉢合わせしないように、そして食事の時間が被らないようにと、ずっと神経を張り巡らせてきた。
「結局、話って何ですか?」
彼女はずっと愛夢を呼んでくれているが、愛夢は彼女の名前も知らない。そんな程度の関係だった。
「・・・西宮さんと、友達になりたい!私と連絡先を交換してください!」
「無理です。私に連絡先はありませんから。スマホを持っていないので」
頭を下げる彼女に愛夢は即答した。ただ事実を簡潔に述べただけの返答は、冷たいものだった。
「じゃあ、私の連絡先書くから!待ってて!」
「いらないので結構です。すみませんが、これ以上あの人達を待たせなくないので、私はもう行きます」
愛夢は歩き出す。その後ろに彼女も続いた。
「待って待ってー!じゃあ、どこに就職したのかだけでも教えて?ヤクザじゃないよね?」
「言いません。それから私は陸上なんか絶対にやりません。遊んでる暇なんて私には無いんです」
愛夢の言葉に彼女の足だけが止まる。
「遊び・・・?そんなんじゃないよ」
彼女は陸上を生きる道にした。生まれ育った土地、家族や友人と離れ今日まで頑張ってきた彼女もまた、独りで戦ってきた者だった。
愛してくれる者を自ら切り捨てた愛夢とは全く違う戦いを彼女もしていた。
愛夢はそんな彼女の事を考えもしていなかった。
「そんな風に、学校でただ走っているだけでいいなんて簡単そうで羨ましいです」
怒りに悲しみ、嫉妬や不安、全てを込めた独り言が風に乗る。愛夢は足を止めた。
それがスタートの合図だった。
「何それ!?ちょっと待ってよ!」
彼女の足が地を蹴る音が聞こえ、愛夢も走り出す。
あの体育の日とは何もかも違っていた。
二人の年齢だけではない、場所も服も。そしてさらに開いた距離は心に比例しているようだった。
「あの体育の日も、今も、私は本気じゃない」
愛夢は春の風になる。彼女の走る音が聞こえなくなるほどに、大きく距離を引き離して。




