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ーNo titleー  作者: 一ニ三
34/39

冬休み(前)

 クリスマスを終え26日を迎えた愛夢の表情は険しかった。閉まる寮に、いつまでもいる訳にもいかず重たい足を進める。

 今日の愛夢は学生の証である制服に身を包んではいなかった。私服である簡素なロングTシャツとカーディガン、そしてジーンズ、それは誰に何を言われない為にと、無難で王道な大衆ブランドで買ったシンプルな洋服だった。

「急がなきゃ」

 歩きながらポソッと呟いた独り言、それに答える者は周りにはいないはずだった。

「何処か行きたい場所があるのか?」

 他人に何の感情も抱かぬよう生きてきた自分が、唯一嫌う他人の声が背後から聞こえてくる。

 口数こそ多くはないが、長年に亘り聞き慣れた低く静かな声が愛夢の神経を逆撫でていく。

 その声を無視して愛夢は早足で駅へと向かう。

 後ろにいる声の主も、それに続く。

「待ちなさい」

 その声で愛夢が歩みを止める事はない。後ろから、ため息を吐く声と早く大きくなる足音が聞こえ、愛夢の苛立ちは更に加速していく。

「愛夢君、止まりなさい。そっちじゃない」

 愛夢はその声でようやく足を止める。

 名前を呼ばれたからではない。進む道の間違いを指摘されたからだった。

 最も近い駅へ向かうこの道に間違いは絶対に無い。

 愛夢は首だけで後ろを振り返り、背後にいる人物を抗議の目で睨みつけた。

「車で来ている。こっちだ」

 そう言い放った男、春日は愛夢に背を向けて歩いて行く。先程と位置が真逆になる。

 愛夢は翻るトレンチコートを睨んだ。

 愛夢に会う時、春日はいつもスーツを着ていた。今日もそうであり、それが同級生たちからの在らぬ噂を生んでいる原因であった。

 春日がどんな服を着ていたとしても、同級生たちは結局は同じ噂を生んでいた。だがそういった事に疎い愛夢には、それが理解できなかった。

「迎えに来なくていいって送ったよね?何でいるの?」

 春日に会いたくない愛夢はGPSからメッセージを送り、約束の時間よりも早く寮を出ていた。

 だが春日は何食わぬ顔で何故か既にここにいる。

「君はいつも必ず私が迎えに行く時は、伝えた時間よりも早く行動し逃げ回る。だから私も遅めの時間を伝えて行動する事にした」

 春日は足を止めて愛夢の方へ向き直る。

 シルバーのフレームの眼鏡から冷たい瞳が覗き、愛夢を見下ろす。

 どこか重々しさのある雰囲気も、無駄な肉が一切ついていない身体も、面白味の無い無表情も、いつもと全く変わらない。愛夢の大嫌いな春日のままだった。

「最っっっ低!!」

 愛夢は爆発した怒りをぶつける為に、持っていたトートバッグを春日の腕に振り下ろした。だが春日の体は、鋼でも入っているかのようにビクともしないどころか、眉すらも微動だにしなかった。

「気は済んだか?なら車に乗りなさい」

 目を逸らした春日の視線の先には、白の外国産の車が停まっていた。それが最高の高剛性能の誇る高級外車である事など全く知らない愛夢は、乱暴にトートバッグを投げ入れて後部座席に座る。

 美剣と漁火がいた車の中から見た景色は、煌々と輝いて見えていた。だが今は世界の終わりかのように、どんよりと曇って見え、愛夢の心をドン底へと突き落としていく。

 今から行く場所は春日の仕事部屋であるアパートであり、愛夢は冬休みの間そこで寝泊まりさせてもらう約束をしている。

 愛夢がこのような態度を取るのは、大嫌いな春日の世話にはなりたくないからであった。

 怒った春日が約束を反故すればいいと思って、あからさまに嫌悪を態度に出してみる。そうなる様に仕向けてきたが、その作戦は失敗し続けていた。

「愛夢君、大事な話がある」

「嫌!聞きたくない!喋らないで!」

 ここにいるのが美剣や漁火ならば良かった、と愛夢は心の中で大好きな二人を思い浮かべ、この地獄の空間を乗り切る努力をしていた。

「聞かないと、後で後悔する事になる」

 脅迫めいた春日の言葉は愛夢の逆鱗に触れる。

 春日は、こうやって逆らえない愛夢に言う事を聞かせてきた。時にはマリアを盾にして、こうしろ、ああしろ、と命令し従わせてきた。

 受験も、バイトも、休みの日の過ごし方も、全て春日に決められた。

 この監視される生活を終わらせる為に、愛夢は春日と会話を続けるという苦渋の決断をする。

「コレ!返す!受け取ってくれるなら話を聞く」

 愛夢はトートバッグからGPSを取り出し、空席の助手席に投げ落とした。

「・・・ダメだ。コレを持つ代わりに今の生活を許可してもらった事を忘れたのか?」

 赤信号で車を停止させた春日は、助手席にあるGPSを手に取って愛夢へ返した。

「こんな物いらない!許可もいらない!」

「卒業までは、コレを手放さない事を約束したはずだ。君はまだ高校生だろう?」

「卒業まではもう少しでしょ!?別に今返しても何にも変わらないじゃない!」

「いつから君は嘘つきになった?私には嘘をついても構わない。だがマリアさんを悲しませる事だけ絶対にするな」

 春日の正論にぐうの音も出ない愛夢は、GPSを受け取る。丁度、信号は青へと変わった。

 春日はそれからアパートに着くまで何も話をせずに静かに車を運転していた。


 車をコインパーキングに停め、春日の仕事部屋であるアパートまでを徒歩で行く。

 その間にも「外に出る時は人通りの多い明るい道を行きなさい」だの「夜は危ないから外出はしてはダメだ。どうしても行くなら私を呼べ」だの「施錠はチェーンまでしなさい」だの、春日からの口煩い小言に愛夢は黙って耐えるしかなかった。

 よくやく小言地獄に耐えたきった愛夢は、何度か過ごした事のあるアパートへと辿り着く。

 そのアパートは外観こそ普通だが、部屋は中は無機質なコンクリートが打放しの壁と床で出来ていた。その為なのか、夏は暑く冬は寒い。愛夢は常々、こんな所に住む人間の気が知れないと思っていた。

「春日さん、送ってくれてありがとう。もう着いたから帰っていいよ」

「愛夢君、実は今─」

 一階の角部屋である目的地を前に、春日が何かを言いかける。

 鍵を差し込もうとした瞬間、部屋の扉がゆっくりと開いた。中から出てきた見知った人物に、愛夢は硬直し頭が真っ白になる。

 会いたいけれど会ってはいけないと、自分に言い聞かせていた人。

 愛夢の養母である西宮マリアがそこにいた。

「─っ愛夢ちゃん!お帰りなさい!!」

 嬉しそうに泣きそうな顔をしたマリアは、愛夢を強く抱きしめた。

 美しい黒髪をショートヘアにした、先々日に41歳になったとは思えない美貌の女性。彼女の前では年齢などは記号に過ぎなかった。

 黒のハイネックセーターにスキニーと、簡素な物を纏っているにも関わらず纏う気品は霞む事すらない。

 マリアの緑の黒髪が愛夢の顔へとかかる。

「なっ・・・んで?」

 ようやく出た愛夢の声は小さく掠れていた。

「えっ?春日さんから聞いていない?私も年末年始の間、コチラにお世話になる予定なんだけど」

 愛夢はマリアから体を離し、春日を強く睨みつけた。そして持っていたバッグを春日の顔面へ投げつける。だが春日は、軽く首を傾け、難無くソレを避けてみせた。

 落ちたバッグを拾う春日に、愛夢は叫んだ。

「何で黙ってたの!?嘘つきはそっちでしょ!」

「言おうとしただろう?君が話を聞かないと駄々を捏ねたからこうなったんだ」

「言い訳しないでよ!何で勝手な事するの!?」

 喚き散らす愛夢の肩に、マリアは優しく手を置き宥める。

「愛夢ちゃん、お願いだから落ち着いて。そんなに嫌なら私はホテルに泊まるから」

 愛夢はマリアの顔を直視できなかった。

 マリアが書いてくれた連帯保証人承諾の書類は粉々になり機密保持の為、破棄された。

 あの書類の意味を知った今となっては、そうなって良かったと思う反面、罪悪感に心が苛まれた。

 マリアがどんな思いで書類にサインをしたのか、少なくとも信じていない相手の為ではない事だけは分かるからこそ、愛夢は強い負い目を感じて心が押し潰されそうになっていく。

 ここからいなくなるべきなのは自分であり、断じてマリアではない。

「・・・違うっ!ちゃんと自分でマリア先生に会いに行くつもりだったの!行きたかったの!こんな騙し討ちみたいな事、してほしくなかった!」

 美剣との約束を果たす事ができなかった愛夢の怒りの矛先は、全て春日に向いていた。

 そんな愛夢をマリアは優しく抱きしめ、落ち着かせる為に背中を撫でた。

「そうだったのね、ごめんなさい。ねぇ愛夢ちゃん、少しだけ私の話を聞いてくれる?」

 愛夢はマリアの腕の中で小さく頷く。

 大好きなマリアの香りも温もりも昔のままだった。愛夢はその温もりが離れ難く、ただ棒立ちで全てを受け入れる。心の中で、マリアが離してくれないからと自分に言い訳をした。

「私の父が怪我をして、暫くの間だけ介護が必要になったの。ほら、年末年始って何かと忙しいでしょ?急な事で家族の中で都合がつくのが私だけだったから」

 愛夢はマリアの家族に会った事は無かった。

 それどころか家族構成すらも知らなかった。

 マリアを育て共に生きてきた素晴らしい人物たちなのだろうが、当のマリアから話を聞いた事は一度たりとも無い。

「それでね、此処からなら通いやすいからって、私が春日さんにお願いしたの。私は、朝から夜までずっと実家にいるから愛夢ちゃんは気にしなくていいの」

 何故マリアは実家に泊まらないのか、そんな疑問はマリア以外の家族がいない愛夢には浮かぶ事すらない。だが愛夢の大好きなマリア、その大切な人の窮地を愛夢は放ってはおけなかった。

「・・・私も、お手伝いに行ってもいい?」

「駄目よ!愛夢ちゃんは来ないで!絶対に!」

 ようやく叶った家族との再会を邪魔されたくないのか、マリアは愛夢を強く拒絶した。

「・・・っごめんなさいっ!」

 小さな頃から愛夢がどれほど我儘を言おうと、マリアは声を荒げる事は無かった。その優しいマリアが愛夢に初めて声を上げた。

 マリアの明確な拒絶に足の力が抜け、目の前が黒く染まる感覚がした。

「違うのよ?ほら、気疲れしちゃうでしょ?愛夢ちゃんは、此処で好きな事をしていていいのよ」

 茫然としている愛夢に、マリアは話を逸らして全力で愛夢の気を逸らそうとする。

「そうそう!冷蔵庫を空けたくて作り置きを沢山しちゃったの!食べてくれると嬉しいわ!愛夢ちゃんの好きな物を作ったから!」

 自分なんかが手伝いに行ったところで、マリアの父親が気疲れするだけで何の役にも立てない。それどころかマリアの父は、娘の人生を奪った愛夢を絶対に許せる筈がない。

 そんな当たり前の事にすら気付けない自分に腹が立ち、愛夢の自己嫌悪は更に加速していった。

「ごめんなさい・・・もう分かったから」

 愛夢は春日から鞄を奪い取って、アパートの扉を開く。後ろから愛夢を呼び止める二人の声が聞こえても振り返りはしなかった。

「私は朝からいないし、帰りも遅くなるの。もう行くから愛夢ちゃんの邪魔はしないわ。だからお願い・・・一緒にいてもいい?」

「・・・本当に此処にいるべきなのは、マリア先生と春日さんだけ。消えた方がいい邪魔者なんかに、そんな事わざわざ聞かなくてもいいよ」

「そんな事を言わないで!お願いよ・・・私の家族は愛夢ちゃんだけなのよ」

「いい加減にしないか。どうして君は、そんなに捻くれているんだ。これ以上に、どうしてほしい?」

 名前を出されたからなのか、静観していた春日もマリアに加勢をする。その声には愛する人を困らせている邪魔者に対する怒りが込められていた。

 悲しさと悔しさで愛夢は唇を強く噛む。

「じゃあ言えばいい。そんな捻くれた女に部屋は貸さないって、そうしたら私は喜んで出て行くから」

 愛夢の提案にマリアは無言を貫いた。

 振り返らずとも悲しい顔をしている事は分かっていた。だが愛夢も引くに引けない。

「駄目だ・・・何処へも行くな。此処を好きに使って構わないから」

 春日が俯き小さく呟くと、静寂が三人を包んだ。

 春日と話すと、愛夢はいつもチクチクする胸の痛みに襲われる。この痛みが大嫌いで、二度と味わいたくないと思っているのに、春日は愛夢と会う事を止めてくれない。

 もし美剣から同じ言葉を言われたならば、愛夢は渋々でも受け入れられた。

 春日の言う事だけは絶対に聞きたくなかった。

 何故、今ここにいるのが美剣ではなく春日なのか、美剣に募る思いが愛夢の視界を滲ませていく。

 その顔を見られたくなくて、愛夢は無言でアパートの部屋の中に入り、扉を強く閉めた。

「美剣さん・・・早く迎えに来て・・・!」

 美剣ならば絶対に好きなようにさせてくれたはずなのに、泣いていたら抱きしめてくれるはずなのに、と愛夢は美剣に理想を重ね静かに泣く。

 興奮で過敏になった聴力が、自分の嗚咽の間に外の二人の会話を勝手に捉えてしまう。

「・・・どうしてこうなってしまうの。こっちに来るんじゃなかった・・・。愛夢ちゃんが来てくれるまで、千葉のアパートで待っていれば良かった」

「マリアさん、ご実家まで送ります。あの状態になると、暫く放っておくしかありません。頭が冷えてから話をすればいい」

「・・・私、本当に駄目ですね。上手く出来なくて、いつも春日さんが悪者になってしまう」

「構いません。今更、好いてもらおうとは思っていませんから」

 二人の足音と話し声は段々と遠くなっていく。聞こえなくなって、ようやく体が動くようになる。

 愛夢はフラつきながらリビングあるソファに腰掛けた。そしてそのまま倒れる様に寝転ぶ。

「上手く出来ないのは私の方・・・」

 ポツリと呟く自己嫌悪の独り言、それは嫌悪が加速する度に大きくなっていった。

 このアパートは防音には優れていた。コンクリートで出来た壁は、見事に愛夢の叫びを遮断してくれた。

「西宮愛夢は最低な人間だ・・・」

 美剣と話をしたにも関わらず、マリアに直接礼を言う事ができなかった。

「私は私が大嫌いっ!」

 マリアの手紙に書いてあったにも関わらず、春日にも礼を言っていなかった。

「こんな最低な人間なんて・・・早く居なくなれ!」

 最悪な態度をとって、恩人からの好意を無碍にする恩知らずな自分に、心の底から嫌気が差した。

「早く美剣さんの為に死ね!さっさと、この生命をお金に変えて、マリア先生の役に立て!」

 愛夢が真に嫌う人間は自分自身だった。

「その為に生まれて、生きてきたんだ・・・。それが私の生きる意味・・・」

 自分を呪う言葉を叫ぶ度に涙が頬を伝った。

 美剣の元で笑い、やりたい事をやって、死ぬ為に生きる。それは、いつか叶える愛夢の夢だった。

 この無価値な命が、美剣を守る為に使われて、弔慰金となってマリアに渡る。それは大好きな二人を幸せできる素晴らしい使い方であると、愛夢は信じて疑っていなかった。


 泣き喚き疲れた愛夢が、空腹で目を覚ます頃には昼を過ぎていた。

 今までは食事を抜いても、体にはさしたる影響も無かった。だが美剣と漁火に甘やかされた今の愛夢の体は違う。全力で腹を鳴らす抗議は止まらない。

 億劫だが身体を起こすと、部屋の違和感気付く。

 先程まではわからなかったが、前回訪れた時とは、この部屋は明らかに違っていた。

 殺風景だったコンクリートの床には、冬用のフカフカの絨毯が引かれていた。エアコンで部屋は適温に保たれ、カーテンも断熱性能が高い品に変えられている。更にはこたつテーブルまでもが置かれており、愛夢は此処が別の住人の部屋なのではと思えた。

 疑いを晴らしたのは、テーブルに置かれた一枚の書き置きだった。それはマリアの字で、愛夢ちゃんが過ごしやすい様に、春日さんがお部屋を快適にしてくれました。と書いたメモだった。

 泣き疲れていたとはいえ、こんなにも快適にされていれば、熟睡してしまうのも無理も無かった。

「どうせマリア先生の為なんでしょ!私の為じゃないくせに!」

 全ては、春日がマリアに好かれる為に恩に着せたのだとしか思えず愛夢の苛立ちは止まらない。そこに空腹という燃料も加わり、ついには爆発した。

「春日さんなんて嫌いっ!大っ嫌いっ!」

 愛夢も最初から春日を嫌っていた訳ではなかった。幼少期は春日に懐いて、何度も三人で外出をした。マリアが仕事の日は、愛夢と春日の二人だけで遠出した事もある。愛夢は心の底から春日を慕っていた。

 その期間は十年にわたり、好いていたからこそ失望は大きかった。

 発端は愛夢が中学二年の冬、不審者に強姦されかけた事から始まった。その後、男性恐怖症を患った愛夢は、全ての男性が恐ろしく思えて生活に支障をきたし学校にも行けなくなった。

 だが何故か春日だけは、その対象にはならなかった。愛夢はその時までは、マリアと同じくらいに春日を信じていた。

 二人が結婚をして、ずっと一緒にいてくれたら良いさえ思えていた。

 だが世界で一番信じていた春日は、最も卑劣な形で愛夢を裏切ったのだった。


 愛夢たちは事件があった場所から離れる為に、女子中学がある千葉へと越してきた。

 その日、愛夢はマリアに一番風呂を譲って家事をしていた。ASPウイルス蔓延防止の為に学校にも行けない、男性不信で外にも出られない愛夢に、出来る事はそれしかなかった。

 料理も掃除も洗濯も大概の事は出来ていたから、苦痛ではない。そして何よりもマリアの役に立てる事が嬉しかった。

 食器を洗い終えた愛夢は、アパートの外から微かに聞こえる不自然な物音に気がつく。それが何なのか気になり恐ろしく思いつつも、チェーンをかけたままで扉を開いた。そして外の様子を伺い見る。

 何も無い夜の静寂に包まれた、いつもと変わらない通路に愛夢は胸を撫で下ろた。

 その瞬間、アパートの側に生えている木から春日が降ってくる。唐突に響く着地の音と衝撃が、これは夢では無い事を告げた。

 愛夢は混乱から恐怖を忘れて、裸足のままで外へと飛び出した。

 光源は街灯と玄関の外灯の光だけで、ハッキリとは見えない。頭の中で、この人は春日ではない。誰か別の人物の筈だと強く自分に言い聞かせる。

 だがその願いも虚しく、何かを下に置いた春日は顔を上げて愛夢を見た。

「・・・愛夢君?」

 その顔と声、姿が、目の前にいるのは、愛夢が世界で一番信じる春日、その人であると証明した。

 春日は煩わしそうにコートに付いていた埃を払う。

「春日さん、何で木の上にいたの?何をしていたの?」

 愛夢は締め付けるような動悸に堪えながら、春日に問い掛ける。あの木は、立つ位置や角度によっては愛夢たちの部屋を覗く事も不可能ではなかった。

 今は、春日の愛するマリアが入浴中であり、愛夢の頭の中に最悪の想像が浮かぶ。

「・・・言えない。そんな事よりも裸足じゃないか。寒いだろう?早く家の中へ入りなさい」

 刺す様な冷たさに痛む足よりも、もっとずっと大切な事があった。

「そんな事なんかじゃない!何で言えないの?やましい事が無いなら、ちゃんと正直に答えて!」

 愛夢は怒られても構わなかった。春日が一言「覗きなんかしていない」と言ってくれれば、それだけ良かった。そうすれば信じた、信じられた。だが、疲れた顔をした春日は無言で愛夢たちの住む部屋の扉に手をかける。

「違うよね?ねぇ!どうして答えくれないの?」

「聞こえなかったのか?言えないと言っただろう。早く中へ入りなさい」

「・・・っ何それ!?私は春日さんの事を信じたいのに!ちゃんと・・・違うって言ってよぉ!」

 愛夢の声は悲痛な叫びに変わった。

「愛夢ちゃん!?何処なの!?お願い!返事をして!まさか外にいるの!?」

 その叫びを聞いたマリアの足音は玄関先で止まり、愛夢の名前を呼び続ける。そして春日が手を置いていた玄関の扉が、勢いよく開かれた。

 体勢を崩した春日の前に、マリアの風呂上がりの赤みを帯びた白く艶めかしい肢体が飛び込む。タオルを巻いてはいるが、その姿は春日の情欲を駆り立てるには充分過ぎた。

 その後の光景は、今もまだ脳裏に焼きつき、愛夢の心を傷付け続けている。

 マリアは春日に押し倒された体勢になる。

 春日の生唾を飲む音。

 驚きで目を見開く表情は"男"の顔だった。

 マリアを押し倒した春日の姿が、慌てて着ているコートを脱ぐ春日の姿が、数日前に自分を襲った男の姿と重なった。

 表情は乏しいし、口数も多くはない、感情を態度に出す事は無い、だが確かに愛夢とマリアには優しい春日が、一瞬で憎悪の対象に変わる。

「気持ちっ悪ぃ・・・!」

 愛夢の体は全力で春日を拒否し、先程食べた夕飯を全て地面に吐いた。吐き終えた瞬間、激しい動悸に襲われる。息苦しさを感じて、自分が呼吸をできていない事に気が付く。強い目眩と脱力に、愛夢はその場で身を丸めて屈む事しかできない。

 苦しがる愛夢に、春日は慌て駆け寄る。

「愛夢君!落ち着いて、ゆっくり息をしなさい」

 吐瀉物にまみれた愛夢の側に、春日が屈んだ瞬間、夜の住宅街に絶叫が響き渡った。

 愛夢は叫びながら、手当たり次第に石や木の枝を春日に投げつける。

 駆けつけたマリアが、愛夢を抱きしめてそれを止めた。マリアが着ていた春日のコートは、愛夢の過呼吸を更に助長させていく。

「愛夢ちゃん!もう大丈夫だから!お部屋に帰りましょう?」

 春日はマリアに手を貸そうとしたが「春日さん!今日はもう帰ってください」と跳ね退けられた。

 自分が何を叫んでいたのかは記憶に無い。だが後から周辺の住民が呼んだ警官に事情を聞かれた。その程度には緊迫した内容だったのだと推察はできた。

 次の日から高熱を出して寝込んだ愛夢は、大家や近所に謝って回るマリアの声を聞きながら泣き続けた。

 自分を襲った犯人への怒り、マリアに迷惑をかけている自分の不甲斐無さ、面白おかしく騒ぎ立てる人間、それらへの怒りは全て春日に向いた。

 愛夢は自分とマリアを裏切った春日を憎んだ。しかも、ただの裏切りではない、愛夢にとっては最低最悪の裏切りだった。

 その覗き事件から半年、春日は愛夢の前に姿を現さなかった。その間に、何度もマリアにあの日の事は愛夢の誤解だと説得された。だが愛夢は春日を理解できず信じられなかった。

 直接会って否定されようとも、もう全ては遅かった。愛夢にとって春日は、大嫌いな嫌われても痛くも痒くもない人間へと成り下がった。


 敵を作り憎む事で、無意識に自分の心を守る。

 それが子供の心理的防衛本能である事は、大人たちには分かっていた。当人だけがそれを知らない。

 それが今日まで続けられているのは、春日の優しさ故である事など、愛夢は永遠に知る事は無い。

 男性恐怖症は、他人との接触を最小限にする事で無理矢理に改善させていった。


 最悪な思い出と空腹に耐えかね愛夢は、昼食を買いに行く為に外出の準備をしていた。だが作り置きがあるというマリアの言葉を思い出し、冷蔵庫を開ける。

 中には皿に乗ったオムライスが真ん中に置かれ、他にも保存容器に入れられた大量の惣菜やペットボトル飲料が入っていた。

 オムライスに貼られた付箋には「自信作なので絶対に食べてね!」と書かれており、愛夢のささくれ立った心が少しだけ浄化されていく。

 レンジで温めたオムライスを、コタツテーブルで食べるという至福の時間。そんなもの、数時間前までは想像すらしていなかった。

 マリアのオムライスは、愛夢の好きなメーカーのケチャップを使って甘めに作られていた。先にケチャップを炒めて酸味を飛ばし、ご飯に絡ませてたオムライスは正に絶品でスプーンで掬う手が止まらない。

 細かく刻まれた野菜の甘味と、プリッとした鶏肉の歯応えが口を飽きさせない。チキンライスを包む卵は、昔ながらの薄く焼いて巻く正統なタイプで、愛夢はこれが大好きだった。

 冷蔵庫にあった作り置きも全て愛夢の好きな食べ物であり、マリアは今だにソレらを覚えていてくれた。むしろマリアの料理で嫌いな物など存在していない。その優しさと美味しい食事が愛夢の心を満たす。

 気がつくと、怒りは何処かへと消えていた。


 マリアがアパートに帰宅したのは深夜だった。終電に近い時間であり、愛夢は既に布団の中にいた。

 疲れているであろうマリアにベッドを譲り、愛夢は床に布団を敷く。だが昼寝と夕寝までした愛夢が簡単に眠れる筈もなかった。結局、マリアが帰るまで布団の中で何度も寝返りを繰り返す。

 寝室の扉が開く気配に、愛夢は布団を頭に被る。

「ただいま、愛夢ちゃん」

 愛夢を起こさぬようにと、マリアはリビングから小さく呟く。

 今日の事で不快な思いをさせてしまったマリアにどんな態度をとっていいのか分からない愛夢は、寝たフリを続けた。そんな愛夢の側にマリアは腰を下ろす。

 直接話すのが照れくさい言葉を手紙に書き、テーブルの上に置いておいた。今日のお詫び、食事のお礼、ここからでも手伝える事は無いのか、そんな事を書いた手紙を読んだマリアは布団の上から愛夢を撫でる。

「愛夢ちゃんの幸せが、私の幸せ。だから大丈夫。どんな事でも頑張れるの」

 マリアの優しい言葉と手に、愛夢は寝たフリがバレないように泣く。だが保育士をしているマリアには、寝たフリはバレていたのかもしれない。マリアはポツリと小さく消えそうな声で愛夢に話かけ続けた。

「今日はビックリさせちゃって、ごめんなさい。冬休みの間だけでも、愛夢ちゃんと過ごせて嬉しい。ご飯を食べてくれて、ありがとう。でも、また少し痩せていたわね。朝ご飯、沢山作るわね。明日、春日さんが愛夢ちゃんの様子を見にくるって。何か欲しい物や、困った事があったら言って。本当はね、就職のお祝いをしたかったの。でも愛夢ちゃんは、そういう事されるの嫌がるから止めた。愛夢ちゃんは私の宝物だから。ありがとう・・・大好きよ」

 愛夢は動けず、ただ黙ってマリアの声に耳を傾けて泣く。涙を拭う事さえできず布団が湿る。

 少しの静寂の後、マリアも啜り泣きながら呟いた。

「本当は・・・愛夢ちゃんがいないとね、寂しいの」

 マリアは布団の上に覆い被さる。まるで何かから愛夢を守るように、けれども苦しくならないよう、重さは感じさせない。触れた感触が分かるかどうかの優しい抱擁は、一瞬で終わった。

 寝室の扉が閉まり、マリアがシャワーを浴びる音が聞こえ愛夢は布団から頭を出す。

「私も・・・マリア先生が幸せでいてくれるなら、どんな事でも頑張れる。私も、マリア先生が大好き」

 愛夢は誰にも聞こえる筈もないのに、小さな声で呟いた。


 出会った時のマリアは、美しい黒髪を腰まで伸ばした大和撫子と呼ぶに相応しい上品な女性だった。

 だが愛夢と暮らして数年経ったある日、マリアは突然その髪を自分で切った。愛夢が何故なのか尋ねると「洗うのも乾かすのも面倒になったの」と笑った。そして「愛夢ちゃんの髪の毛を結うのが好きなの」と、愛夢を可愛らしい髪型にしてくれた。

 当時は、それが嬉しくて納得もした。

 だが時が経つにつれて、マリアは愛夢の犠牲になっているのだと気付いてしまった。

 着飾る事もせずに、贅沢品も買わない。買い物に行くとは愛夢の物ばかりを買う。そんなマリアを周囲の人間たちは「貧乏神に取り憑かれた」と揶揄った。

 マリアは節約の為に髪を切ったのだから、あながちその揶揄いは間違いでもない。


 小学校の隣の席で、教師に聞こえぬように毎日愛夢を罵る女子生徒がいた。その女子生徒は授業が始まると勉強を教えるフリをして愛夢に耳打ちをしてくる。「西宮さんみたいな子を引き取る人って金が目当てなんだって」、「保育士って底辺の仕事だから、お金が欲しくて西宮さんと暮らしてるんだよ」と言われ、当時の愛夢は深く傷付いた。

 他にも「保険って知ってる?死んだら、お金が沢山もらえるんだって!西宮さん入った?」、「その髪型全然似合ってない!やっぱり愛されてないから?」と常にその子は愛夢を標的にし攻撃し続けた。

 その言葉たちは、大人になる愛夢に自らの生命を金に変える道を選ばせる程の深い傷となっている。今も深く刺さる心の棘が、愛夢の生き方の指標なのだ。

 担任は授業中に泣き出す愛夢を無視し、その子の味方ばかりをしていた。

 母親が有名テレビ局の女子アナなのも関係しているのか、その子の言う事を信じて疑わない。

 その女子アナよりも、マリアの方が美人なのに。

 成績も、その子よりも愛夢の方が上なのに。

 馬鹿にされ続ける理不尽に、耐えに耐えた愛夢の怒りは、半年後についに爆発する。

 その子に大切にしていた物を傷つけられ、愛夢は生まれて初めて人を突き飛ばして怒鳴った。

 やられっぱなしでいた愛夢からの突然の反撃に、その子も最初こそ言い返していた。だが騒ぎが大きくなると、その子はクラスメイトを味方につけ愛夢を糾弾し始めた。

 クラスメイト達は、愛夢がその子に毎日罵られているのを知っていたが、味方をしてくれる者は誰もいなかった。

 その子が嘘泣きで同情を集めた為に、事は大事になっていく。愛夢が暴力を振るったとして、マリアはその日のうちに学校に呼び出された。

 保護者同伴で話し合いが行われたが、複雑な家庭である愛夢たちに周囲の目は厳しかった。

 その後、愛夢は学校で問題児として扱われ、マリアと共に頭を下げさせられた。

 だが、その子からの嫌がらせは違うクラスになろうとも終わらず、愛夢が転校するまで続く。

 その子は他の生徒も使って愛夢を傷つけ続けた。無視される、蹴られる、物を隠され壊される、は日常。

 愛夢にとって学校は地獄であったが、それでも愛夢は意地で通い続けた。

 不登校が許される程、世界は二人に甘くはない。だから愛夢が家にいるとマリアが糾弾される。

 学校から、世間から、職場からの非難の声にマリアが晒されるくらいならばと、愛夢は耐える事で戦い抜いた。

 そして決着は、思いも寄らぬ形で着く事となる。

 初夏のバス遠足で訪れた自然公園、そこで愛夢は「お前なんて置いて行ってやる!」、「歩いて帰れ」と同級生たちに揶揄われた。そして独りで林の中で集合時間まで泣いていると、課外授業に来ていた優しい男子高校生が愛夢を見つけ、手を引き、バスが待つ駐車場まで連れて行ってくれた。

 だが、そこに在る筈のバスの姿は無く、二人で途方に暮れる。点呼を偽った生徒、偽言を見抜けずに確認を怠った教師により、愛夢は本当に置き去りにされてしまった。

 深い絶望から駐車場で大泣きした愛夢の代わりに、事情を知った男子高校生の担任が烈火の如く怒ってくれる。聡い人だったのか愛夢が虐められている事にも気付き、その上で学校と教育委員会、さらには第三者委員会にまで連絡を入れてくれた。

 そして合流場所まで送り届けると約束し、自分たちのバスに愛夢を乗せてくれた。

 最初に愛夢を助けてくれた男子高校生とは席が離れたが、バスの中で愛夢は彼のクラスメイト達に揉みくちゃに可愛がられ丁重に扱われる。

 礼節を重んじる学校なのか、バスの中の全員が礼儀正しく、男女共に真面目そうな高校生達だったことを今でも覚えていた。

 四方八方からの褒め言葉と、お菓子が飛び交う状況に、愛夢は目を点にして大人しく座る事しかできない。そんな愛夢をいじらしく思ったのか、突然に放り込まれた異物が珍しいのかは分からない。とにかく男子高生達は一発芸を披露し始め、女子高生達は次々に愛夢の口にお菓子を放り込んできた。

「美味しい?ジュースもあるよ!」

「こんな可愛い子を置いていくとか、マジないわー!」

「ねー!この子、髪型も超〜可愛い!」

「本当だ!この編み込みカチューシャ、お母さんがしてくれたの?上手だね!」

 愛夢はバスの最後尾の女子高生に頬を突かれる。だが、それがお世辞だと分かっていたからこそ、調子には乗らず弁えた返事をする。

「ありがとうございます、お世辞でも嬉しいです。この頭はお家の人がしてくれました。・・・でも、学校では似合ってないって言われます」

 マリアは母ではない、そして同級生からは似合ってないと言われている真実に、女子高生達は何故か突然怒り出す。

「何それ!?有り得んしー!」

「はぁ〜!?それ言ったの男の子!?」

 怒る女子高生に男子高生たちが話に割り込む。

「その子、君の事が好きなんじゃない?」

「好きな子をイジメるヤツ?話すキッカケが欲しいんだよ、ソイツ!」

「尚更ダメでしょ!?」

「サイテー!」

「そんなヤツもいるって話だろー?」

「何で男ってそんな事するの?意味分かんない!」

 話題の愛夢の事だったが男女の討論に成り変わる。雑談が口論へと発展しそうになる前に、愛夢は隣の女子高生に質問をした。マリアにも相談できない悩みを行きずりの人間に聞いてもらう。

「あの・・・女の子もですか?似合ってないって意地悪なことを言うのも?物を隠すのも?壊すのも?好きだからですか?」

「・・・女の子に言われたの?似合わないって?」

「はい、最初に言ったのは隣の席の女の子です。後から男の子も皆んな言うようになって、今日も意地悪されて置いて行かれました」

「そっかぁ、悲しかったね。まぁ、感じ方は人それぞれだけど・・・」

「何で男だとイジメで最低になるのに、女だと感受性で終わらせるんだよ?まぁ、物を隠すとか壊すが駄目なのは男女共通だけども」

 結局討論の決着は着かなかった。話題は愛夢の悩み相談へと戻る。

「結局男の子の方が野蛮じゃん!少なくとも私は、その髪型は似合ってて可愛いって思う!それから置いて行くのは、最低だと思う!」

「私も、その髪は手が込んでて凄いなぁって思うよ。お家の人が可愛くしようって頑張ったのが分かるもん!時間と手をかけて大切にされてるって分かる」

 前の席に座る男子高生達もその意見に頷いた。

「でも・・・私を似合わない髪型にするのは、愛していないからだって言われました」

「えっ?何それ・・・それも、その子が?」

 愛夢はその女子高生の問いに黙って頷く。

「やっぱり、その女の子の言う事ひどすぎるよね?」

「もしかして羨ましいとか?髪の事以外に何か言われた?」

 助けてくれた優しい男子高校生のクラスメイトも優しく、皆で親身になり愛夢の相談に乗り始める。

「・・・私が死んだら家の人に保険金が入るって、その為に育てられてるんだって言われて、悲しかった」

 悲しい事を思い出し、愛夢の目に涙が溜まって零れ落ちる。両隣の女子高生が「泣かないで〜」と頭を撫でてくれた。これには右前に座っている男子高生達も慄く。

「最近のJSこわっ!そんな事言うのか?」

「女でも男でも、そんな事は言うべきじゃないよな。てか先生には?その事は言ったの?」

 男子高生の問いに愛夢は首を横に振る。

「・・・先生は、他の子達の味方です。私が泣いても無視するし、怒ったら逆に謝れって怒られます」

「イヤな先生だな!でもなぁ、まだこっちの言い分しか聞いてないからなぁ。もしかして何か嫌な事しちゃったとか?」

「だとしても置き去りはダメでしょ?段々エスカレートしちゃってるじゃん!」

「確かに。聞く分だと言い分的には、こっちの方が正しいんじゃないかな?」

「そうだよ!その先生が放置していた結果がコレなら、こっちは悪くないから!」

 多少の縁で繋がった愛夢に情が湧いたのか、高校生達の心には火が点く。まるで"こっち"の中に自分達も含まれているかのように高校生達は共に怒る。

 そして、それを煽る材料を投下するように一人の女子生徒が声を上げた。

「ねぇねぇ、見て!置き去りの事、ネットニュースになってバズってるよ!誰があげたの?」

「やっぱり学校のがおかしいって!」

「取材させてって、コメントついてるー!」

「よし!燃やせ燃やせ〜!」

「学校どこ?お兄さん達が謝罪会見させて、全国の人から先生が怒られるようにしてあげる」

 そこからの動きは早かった。

 義憤に駆られた高校生たちは、愛夢の学校を吊し上げようとする。先程までとは違い一斉にスマホを凝視する光景が恐ろしく思えて愛夢は鳥肌が立つ。

 それを制止したのは高校生達の担任だった。

「皆ー!先生の話を聞いてくれー!」

 バスにいる全員の視線が担任教師に集まる。愛夢もその担任教師を見つめた。

「自分より幼い子に優しくしたいのは分かる。間違った行いに怒れるのも、手を差し伸べて寄り添う事も素晴らしい。だがよく考えてくれ!拡めるのも、裁く事も、皆がする事じゃないだろう?話を大きくしてどうしたい?正義感から過剰な罰を望んでるんじゃないか?ちゃんと然るべき機関に連絡はしてあるんだ。厳正に対処してくれる。だから、ここは怒りを収めて黙していてくれ!頼む!」

 担任の言葉で車内は響動めく。

「・・・でも、騒ぎを大きくしないと揉み消しとかあるし」

「そうそう。うちの学校の事じゃないから別に平気じゃない?先生の迷惑になるの?」

「そうだな。悲しいけれど、確かに揉み消しはある。だけど、そんな大人ばかりじゃないって事を分かって欲しい。揉み消されないようにするのも、子供を守るのも、全部大人がしなきゃいけない事だ。どうしても許せないと言うのなら、皆がそういう事をさせない大人になるしかない。それこそ、その子より早く大人になる皆にしか出来ない事じゃないか?」

 車内にいる者は、誰一人としてスマホに触らず静かに担任の話を傾聴していた。

「それから確かにコレはウチの高校の事じゃない。でも皆がしようとしたのは、新しく叩いていいと思わせる弱者を生む行為だぞ。それが誰になるかは分からない。大人かもしれないし、子供かもしれない。もしそれが誰かの大切な人ならどうする?ここにいる誰かの家族ならどうだ?相手は生身の人間だということを忘れないでくれ」

 バスの走行音に負けない担任の声の良く通る声が、車内に響く。切実な願いの込められた声に、愛夢も黙って耳を傾けた。

「匿名の言葉の暴力だって、皆が憎む間違った行いだ。始まりは義憤かもしれないが、それは楽しんで人を傷つける人間の集まりに"理由" という名の餌を与えるだけだ。皆には、この子にも誰にも恥ずかしくない行いをしてほしいと思っているし、出来るって信じている。先生の言いたい事、分かるだろう?だから、頼む!この通りだ!」

 愛夢は子供に頭を下げる大人を初めて目にした。

 この子と言われた瞬間に視線は一斉に愛夢に集まる。愛夢は下を向き、俯き謝るしか出来なかった。

「・・・私の所為で、ごめんなさい・・・」

 小さな声が聞こえたのは両隣の女子高生だけで「違うよ」、「そんな事ないよ」と愛夢を励ます。

 他の高校生達はバツの悪そうな顔をして口をつぐんだ。シーンとした車内の空気はどんよりと重くなる。

 だが、あの愛夢を助けてくれた優しい男子高校生が、それを破った。

「コレ、回してくれる?あの子に渡して」

 男子高校生は、バスに乗ってからは一番前の席で担任教師の隣に座り話をしていた。その彼が、後ろの席の生徒に何かを渡す。そうして前から順々に回ってきたのは、巨大な煎餅のバラエティパックだった。

 皆が固まる中、優しい男子高校生は続けて言う。

「今朝、お隣のお婆さんがくれたんだ。良かったら皆んなも食べてよ、嵩張ってるんだ」

 途端に車内は爆笑の嵐となる。

「お前のリュック、デケェなぁって思ったら煎餅か!」

「ちゃんと持ってくるのがお前らしいな」

「お隣のお婆ちゃん最高〜!」

 男子高生達の賞賛の声に女子高生達も乗る。

「たまに無性に食べたくなるよね」

「甘いのとしょっぱいので無限にイケるわ」

「ほら!選んで?」

 開いたパックを差し出され、愛夢は一番上にあった塩煎餅を貰う。「私は歌舞伎揚!」、「いただきまーす!」と女子高生達も続く。そして、もう誰も先程の話題を口にしなかった。

 バスの中の空気はガラリと変わり笑い声で溢れる。

 愛夢が退屈せぬように女子高生達はスマホで動画を見せてくれたり、明るい話題で話を盛り上げてくれた。聞く事と励ます事はできても、解決する事はできないと弁え、信じる人に後を委ねて。

 そうして笑い声と米菓の砕ける音を聞きながら過ごしていると、バスは待ち合わせ場所へと到着する。

 惜しまれつつ見送られる愛夢とは対称に、迎えに来た小学生の校長は高校生達から睨まれヤジられた。

 バスを降りる前に愛夢は、高校生達に頭を下げる。

「優しくしてもらえて、嬉しかったです。今日の事は絶対に忘れません。ありがとうございました」

 一番前の席に座っていた優しい男子高校生はリュックからチョコレート菓子を取り出して愛夢に渡す。

「妹が好きなお菓子なんだ。お家の人と食べて」

 愛夢は受け取った菓子をリュックに入れて、自分が持ってきた苺味の焼き菓子を男子高校生に渡した。

「ありがとうございます!・・・コレは、私の好きなお菓子です。妹さんと食べてください」

 クスクスと笑う男子高校生につられて、愛夢も自然と笑顔になっていく。

「妹が喜ぶよ、ありがとう。でも、これじゃあ普通のお菓子の交換だね」

「あっ・・・ごめんなさい。私、お兄さんにお礼がしたかったけど、何も出来ないから・・・」

「謝る必要は無いよ。それに当たり前の事をしただけだから、お礼もいらない。でも、もし叶うなら僕のお願いを聞いてもらってもいいかな?」

「はい、何をしたらいいですか?」

「あのね、意地悪する子に負けないでほしいんだ」

 男子高校生は席を立ち愛夢の目線の高さに屈んだ。

 愛夢は男子高校生のお願いに首を傾げる。

「私は・・・ちゃんと意地悪に負けないで学校に毎日行っています」

「そうなんだ、偉いね。でも負けないってね、違うよ。そうじゃないんだ。その意地悪してくる人とは、同じにはならないでって意味だよ」

「同じ?私からは意地悪をしないでって事ですか?」

「うん。傷つける事は簡単で、戦う事は苦しい。意地悪をする子が増えるのは、その方が楽だからだ。でもそれは、苦しい道を選びたくない為に、誰かを犠牲にする事を選んだ、弱い負けの道だ」

 愛夢にも分かりやすいように、優しく話す男子高校生の言葉は、スッと愛夢の心に馴染んでいく。

「・・・負けない為に、どうしたらいいですか?」

「人は悪口を言われたら言い返すし、殴られたら傷つけ返す。でも、その道を選ぶから相手と同じになって争う。だから相手にしない、同じにならない。それが負けないって事だと僕は思う」

 その男子高校生の言葉に感銘を受けた愛夢は、何度も大きく頷いた。

「私、負けない!相手にしない!同じにならない!」

「でも絶対に無理はしないで大人に相談してね?今日みたいな意地悪は絶対にダメだから」

「ありがとう、お兄さん!」

 愛夢は高校生達に手を振りバスを降りる。

 毎日蔑まれていた弱いと思っていた自分は、本当は違った。負けの道を選んだ弱い人間ではなく、苦しい道を選んだ強い人間だった。

 今まで耐え忍んできた自分が、肯定された気がして、これで良かったのだと、自分は間違っていなかったのだと確信が持てた。

 それが嬉しくて、そして誇らしく、心と身体が軽くなっていく。

 愛夢はバスが見えなくなるまで大きく手を振り続けた。

 当の男子高校生は、愛夢の人生を大きく変えてしまった事など知らない。

 ここから愛夢は、そのお願いを忠実に叶え続ける。

 男子高校生とその担任、そして周りの生徒達の皆が優しかった。正しき者の元に優しい者が集うその様は、まさに鳥は枝の深きに集まるの言葉の通りで、愛夢をもっとあの場にいたいと渇望させる。

 彼らは本当に誰にも恥ずかしくないよう振舞った。

 人の口に戸は立てられない、そして拡散する手も止まる事はない。なのに、情報番組のインタビューに答えていたのは、バスの運転手や、生徒の保護者達だけであった。

 この置き去り事件はニュースになり、愛夢をイジメていた女子アナの娘の事も三流ゴシップ誌に載った。

 女子アナの不倫から子供が非行に走った、そんな内容の記事は子供達の新しい的になる。

 学校と担任は、愛夢とマリアを丸め込もうとした。

 だがマリアから事情を聞いた春日が、怒りで学校へ乗り込んだ。

 女性よりも男性の声の方が強いのだろう。学校側は青ざめ、否が応でも対応をせざるを得なくなった。

 そうして、当事者全員が愛夢とマリアに渋々頭を下げた。

 だが学校に抱いた数々の不信感は拭えず、最終的に愛夢たちは引っ越す事を選んだ。

 何とも後味の悪い終わり方ではあるが、そうする事でようやく安息を得る事ができたのだった。


 マリアが寝室に入った音で愛夢は我に帰る。

 追憶にふけりすぎていたのか、過敏になっている聴覚でもギリギリまで気付く事ができなかった。

「おやすみなさい、愛夢ちゃん」

 マリアは愛夢を起こさぬよう小さく呟いて、ベッドに横になる。すぐに穏やかな寝息が聞こえてくるが、愛夢は眠れなかった。

 声を荒げて怒るタイプではないマリアは、負けないと耐え忍ぶ愛夢の為に、何度も住む場所を変えてくれていた。時には環境を変える為、そして逃げる為に。

 マリアが他人に怒りを露わにしたのは、明確な犯人を前にした時だけだった。

 辛い戦いの日々でも、マリアは笑顔を絶やさず「愛夢ちゃんがいるから何処でも幸せ」と暗い顔の愛夢を励ました。

 愛夢を守る為に、マリアもずっと負けない戦いをしていたのだ。

 どんなに金銭的に困窮しようと、世間から非難されようと、マリアは愛夢の所為にはしない。責めたりする事も一度も無かった。

 愛夢が思うよりも、マリアはずっと優しく強い。

 だが、それが余計に愛夢を意固地にさせる。

 そんなマリアだから、愛夢は恩を返したいのだ。

 困窮しても自分の家族に助けすら求めない優しいマリア。それは両親や親戚一同から勘当され、何の援助も得られなかったが故の事だと愛夢は知らない。

 空が明るくなった頃に、愛夢はようやく眠る。

 自分がアパートで安らいでいる間に、マリアが家族から虐げられているなど夢にも思わず。


 聞き慣れない近所の雑音で愛夢は目を覚ました。

 見慣れないが見た事のある天井が、自分が春日のアパートにいる事を思い出させた。

 不本意な夜更かしから、目覚ましもかけずに寝たからなのだろう。時刻は11時を回っていた。

 横の綺麗に整えられベッドには主は既におらず、それどころか隣の部屋には人の気配すら無い。

 リビングに行くと、また部屋の中は快適な室温に保たれ、テーブルには朝食が用意されていた。

「マリア先生・・・何時に出て行ったんだろ?」

 ラップをかけてある朝食は冷え切っていた。焼鮭にサラダに目玉焼き、インスタントの粉末スープ、さらには炊飯器には米が炊かれていた。マリアは愛夢を起こさぬように、この見本のような完璧なバランスの取れた食事を作り出かけて行った。

 自分よりも遅く布団に入り、早く起きたマリアの気使い。それは彼女の体に鞭を打っているのと変わらない。愛夢は昨日からソレに甘えっぱなしだった。

「このままじゃ駄目!」

 愛夢は完璧に腑抜けている自分の顔を叩き喝を入れ、遅めの朝食兼昼食を胃に入れた。

 そして食べ終えた食器を洗い、そのままキッチンの掃除の準備に取り掛かる。

 愛夢は驚愕した。

 台所もシンクも、自分の驚いている顔が反射するほど美しく片付けられているのだ。年末の大掃除を朝に終えたのか、水垢一つ無い。

「じゃあ、お風呂!帰ってきたマリア先生に、ピカピカのお風呂に入ってもらう!」

 風呂場に飛び込んだ愛夢は膝から崩れる。

 シャワーを終えたマリアは、そのまま風呂場を掃除したのだろう。浴槽にはヌメりもカビも無く、タイルの隙間まで完璧に掃除されていた。

「・・・リビングと寝室!」

 全ては愛夢が来る前から終わっていたのだろう。

 棚には埃一つ無く、窓もピカピカだった。

 唯一、整える場所があるとすれば、先程まで自分が寝ていた布団くらいであった。

 愛夢は軽快に床を掃くお掃除ロボットに、ソファの上へと追いやられる。

 疲れているマリアに食事を作らせ、昼まで惰眠を貪り、直接礼も言わずにソレを食べ、何もしないで過ごす。今の愛夢は正真正銘の穀潰しだった。

「お掃除ロボットに負けた・・・」

 ソファに寝転ぶと、満たされた食欲の代わりに今度は睡眠欲が愛夢を襲う。そんな怠惰を極めていた愛夢を、バイブレーションの音が叩き起こす。

 音の主は春日から持つように言われているGPSだった。春日からのメッセージを受信したGPSは、画面に「今からそちらへ行く」と表示していた。

 愛夢は慌てて財布だけを握りしめ、玄関へ走る。

 行くあては無い。春日がいなければ何処でも良かった。だが、もう遅かった。

 玄関の外には、既に春日が待ち構えていた。

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