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ーNo titleー  作者: 一ニ三
3/37

企業見学

 泣いている愛夢を見て美剣は大きく目を見開く。

 二人の今の様子は美剣からすれば、足元から鳥が立つ様だったのだろう。

「漁火ぃ!!」

 美剣の咆哮が窓を震わす。愛夢は応接室2の室温が上がったように感じた。

 大声に顔をしかめ、目を閉じた束の間に前にいた漁火は視界から消え、美剣がかわりにそこにいた。

「何された?大丈夫か?どっか痛いのか?」

 先の咆哮と同じ声帯が発したとは思えないほどの優しい声で問いかけられる。

驚きと戸惑いで、あれほど止めどなく溢れ頬を濡らして涙がせき止められた。

「痛いです!誤解です、美剣さん!」

 足元から聞こえる声のほうに目をやる。床に両膝をつかされ脇固めをされた漁火が悶えていた。

「触られたのか?パンツは脱がされてないか?」

「そんなことする訳ないじゃないですか!」

 全くもってその通りである、そんなことをしても漁火には何のメリットがないし、お金を渡されてもごめんだろう、と愛夢は何とか声を絞り出そうとする。

 だが冷淡な美剣の声に愛夢の体は萎縮する。

「黙れ、これは私人逮捕案件だ。お前を少しでも信用した俺が馬鹿だった。」

「折れる!やめてください!」

 美剣が力を入れると漁火の腕がミシッという音をたてる。自分のせいで漁火があの心が優しくて強いでも、ちょっと可愛い彼があらぬ誤解をかけられた上に関節技をきめられている。

「私は何もされてません」そう言いかける、しかし泣いたあとのか細い声はさらに大きな太い声にかき消された。


「そっちの眼鏡のほうが被害者に決まってんだろ!」

 向井邦彦が応接室2の入り口から叫んでいた。なぜか玉の汗をかいて肩で息をしている。

「どうせ無理矢理に触らせて金でもせびってたんだろ?パンツはいくらで売ろうとしたんだ?」

 そんなことはしてない、と心の中で否定するしかできない。向井を前にすると愛夢は萎縮して声が出なくなる。

「毎週パパ活やってんだよな?スーツのおっさんとよぉ!皆んな見てんだよ」

 違う!その人にはバイトを紹介してもらっているだけなの、と言いたいのに言えない。

 鼻の奥がツンとしてまた涙が出そうになるが、愛夢は耐えた。

 イジメの中心人物である向井には、もうこれ以上こ泣き顔を見せたくはなかった。

 だが愛夢はこの後に向井が続ける言葉を知っている。その言葉だけは紛れもない真実であり黙って受け入れるしかない。愛夢は何も考えない様、感じぬ様に努める。

「さすが父親が人殺しで母親に殺されかけた女はエグいわ!異常者のミックスちゃんは卒業後の為にそっちの眼鏡を狙ってんだよなぁ?」

 そんなことはちゃんとわかっていた。

 これまでの人生の中で何度言われたかわからない“人殺しの娘“という肩書。

 漁火に何かしてほしいなんて思っていない、でもあの優しい人には絶対にこの事は知られたくなかった。数十分間の彼がくれた優しい時間を裏切りたくはなかった。

 愛夢という人間を理解し、誤解を解いたのだろう。美剣は漁火への拘束を解く。

「しつこいぞ、さっきので話は終わっただろ?」

唸るような低い声で陽炎を身にまといながら、美剣は向井へ近付いていく。その動きは捕食者がゆっくりと獲物を追い込む様で、彼が残した軌跡が熱を帯びている。

 向井は慄き後ずさる。

「美剣さん、気持ちは分かりますがダメですよ」

「うるせぇよ、お前の分もまだ終わってねぇからな」

 一触即発、視線が交差する。沈黙は愛夢が破った。

「向井君の言ったことは本当です。私の父は人を殺しました、そして母も私を殺そうとしました。こんな人間の為に、皆さんのお時間を無駄にさせてしまったこと本当に申し訳なく思っています」

 未だ両膝をつけたままの漁火の前に、愛夢は正座をして手を床につき頭を下げた。

「頭を上げてください、西宮さん!」

 土下座、同級生たちに幾度となく強要された行為。頭を踏まれて背中を蹴られたこともあった。

悲しさと悔しさしか感じなかったこの行為を、初めて自ら行った。

 自分の土下座なんか何の役に立つのだろう、とは思うがこれが謝罪の最上級なら何度でもする。

「今日聞いたことはお約束通り死ぬまで秘密にします。私の所為でご不快な思いをさせたこと、苦痛を感じさせてしまったことをお詫びします」

 ゲラゲラという向井の笑い声だけが応接室に響く。

 先ほどから部屋が温度が異常に暑く、真夏のようだった。誰かがエアコンを入れたのだろう、と愛夢は気には留めなかった。

「ど底辺にお似合いの位置だな。雑巾モップの代わりくらいにはなれるんじゃねぇの?」

 確かに髪の毛も制服も床についているし埃くらいはとれそうだ、役に立ててよかった、と自分に言い聞かせる。

美剣が向井に何かを言っている。「次はない」と、そんなふうに聞こえた。

「いい加減にしてください!何がそんなに面白いんですか?」

 目の前にいる漁火が声を荒げる。

「西宮さん!頭を上げてくれないなら立たせます」

 手を煩わせるのは嫌だ。顔だけ上げて謝罪しようと漁火を見る。

 愛夢は驚きで声が出なかった。

 漁火の表情が口角が下がって眼が潤んでいる状態だからだ。漁火が愛夢の肩を掴んで上半身を起き上がらせる。

「そんなことしなくていいんです!ご両親の罪は二人が償うものであり、貴女が背負うものではありません。司法による罰が下されているなら尚更です!」

 今までも何度かそう言ってくれる人には出会った。結局どこにいても何をしていても、噂は広まりその人たちも愛夢を糾弾する側に回ったのだ。

 でも泣きそうな顔でそんなことを言ってくる人は初めてだと愛夢は思った。

 首を横に振って下を見る。

「西宮さん・・・」

「その汚ねぇ舌で床は舐めるなよ!てめぇなんてパパをペロペロしてお小遣い貰ってりゃいいんだよ!」

 向井の前に黙って立ち尽くしていた美剣が、左手を彼の額にかざして親指と小指で輪をつくる。

「テメェがその汚ねぇ舌で床舐めろ」

 低いつぶやきが終わると同時に美剣は指を弾く。

 ゴッという鈍い音がし、熱風が頬を撫でた。

 愛夢が瞬きをする間に、向井邦彦は白目をむいて倒れていた。

「おや、彼は熱中症ですかね?お大事に」

 確かに部屋は異常に暑かったが、この短時間に熱中症を発症したのだろうか?と愛夢の頭に疑問がよぎる。

 だが漁火の体と美剣の背中で塞がれて、向井の身に何が起こったのか愛夢には見えなかった。

「使い勝手が悪い雑巾モップだな」

 吐き捨てるように言うと、向井の右足を掴んで美剣は彼を応接室1まで引きずって行った。

「西宮さん、大丈夫ですか?」

「漁火さんこそ、お身体は大丈夫ですか?私のせいで本当にごめんなさい」

「平気です、謝る必要があるのは美剣さんと先程の彼であって貴女ではありませんよ」

「違います、全部私が悪いんです」

 ごめんなさい、それしか言わない愛夢。

 立ってくださいと宥める漁火。

 繰り返される同じ会話。気がつくと美剣が二人の間に入り屈み込んでそれを聞いている。

「西宮愛夢、やっとお前と話せるってのに、ソレまだ続くのか?」

 呆れたような顔をして美剣が問いかける。

「私のせいでお二人の貴重なお時間を割いてしまい申し訳ありませんでした。きっとこの勧誘は何かの間違いです。お役に立てなくてすみません・・・」

 誠心誠意の謝罪をしたくてもう一度、頭を下げようとするが、出来ない。

美剣が右手の小指で愛夢の額を押さえている。全く力を入れている様子はないのにビクともしない。

「オレの前でソレ、もうやるな」

 少し悲しみが混じった声でそう言い、そっと指を離す。 そして美剣は床にあぐらをかいて座る。

「あっ、いいですねそれ!では私も・・・」

 膝立ちをしていた漁火もその場に正座する。

 愛夢はその行動に気が動転し、二人を交互に見る。

「えっ?あの・・・」

「うし!このままここで説明会だな!で、どこまで話したんだ?」

「LET創設の由来と、アスピオンとメテウスの力の事までです」

「まだそこか、次はフロウティスの話か?」

「西宮さんにご自身のメテウスの存在を認識してもらう為に2年前の確認をさせてもらおうかと」

「あの!」

 会話のキャッチボールを遮る、二人の視線は愛夢に集まる。

「お二人とも立ってください!」

 なぜ三人で床に座っているのか訳がわからない。掃除はされているだろうが、いつまでもこんな場所に座らせておけるわけがないので愛夢は二人に起立を薦めた。

 驚いた顔で見つめられ、そして笑われる。

「いやいやいや、お前が立てよ!」

「女性が座っているのに私たちだけが立つだなんて、そんなことできませんのでお構いなく!」

 漁火だけでなく、美剣もきっと優しいのだろう。だがその優しさが逆に愛夢を惨めにさせる。

 どうしても自分はこの二人を見下げることができない。

「お二人が立ち上がってくれるなら、私も立ちます」

先に動いたのは美剣だった。

「仕方ねぇな」

「はい、では西宮さんも」

 二人が立ち上がる、漁火が愛夢に手を差し伸べた。床についた手で彼を汚したくないので、とらずに立とうとすると優しく手を引かれた。

じんわりと互いの手の温もり伝わる。あぁこのまま溶けて消えてしまえればいいのにという気持ちが愛夢の心を支配する。

「すみません、勝手に触ってしまいました」

「おー私人逮捕だー漁火のセクハラ大魔神ー」

「美剣さんもさっき彼女に勝手に触ってましたけど?」

 そう言われてつい先ほどの出来事を思い出したのか、美剣は愛夢に向かって手を合わせる。

「すまん、許してくれ!」

「いえ、むしろ私なんかに触ってしまったお二人に申し訳が立ちません。本当にすみませんでした」

 愛夢は土下座ができないので、なるべく九十度に近い形でのお辞儀をする。下を見ているのでわからないが、声からするとおそらく美剣の大きなため息が上から聞こえた。

「西宮愛夢、お前は全っく自分の価値をわかってないぞ!花の女子高生なんか金払ってでも触ろうとする奴がいるんだぞ?いや、オレは年上のお姉さんしか興味ねぇからさ、そんなことした事ねぇけど」

「私以外の女子高生にはきっとその価値があるのだと思います」

「あーこりぁ極めてんなぁ、さっきのパンツも金を握らせて無理矢理に買おうするヤツもいるくらいなんだぞ、これからもちゃんと守れよ?」

 これからも守れ、美剣は愛夢が赤の他人にパンツを売るようなことをする人間ではないと信じてくれたのだろう。

嬉しく思う反面、自分が身に付けている不浄なものに彼の意識が向いていることに急激な羞恥を覚えた。

「頑張り、ます」

 少しでも空気に触れる面積を減らしたくて、愛夢はスカートを押さえる。

「大変よろしい、困ったらオレを呼べよ」

 火照る顔を隠したいが、スカートも押さえたい。愛夢は恥ずかしさで下を向く。俯くのは今日何度目なのかは分からなかった。

 漁火が愛夢を庇うように前に立つ。

「美剣さん、今まで大変お世話になりました。通報します」

「何でだよ?お前が捕まれ!」

「残った三人でこれからは頑張っていきますのでしっかり刑を務めて戻ってきてください」

 漁火はスマホを片手で操作して、110と表記された画面を美剣に見せる。まだ通話ボタンは押されていない。

「待て、西宮愛夢を入れて四人で、オレを入れて五人だろ!間違えんな、てか通報すんな!」

「え?」

 突然、自分の名前が呼ばれるものだから、会話の内容からも対応に困ってしまう。美剣と眼が合う。

「オレはお前を迎えにきたんだ、うちの部隊に来いよ!」

 美剣のニカっと気持ちの良い笑顔が眩しかった。

毎日、寮と学校とバイトの往復だけしている自分を迎えにきた?彼はそんな自分の何を見て勧誘しようとしているのだろうか。

どう生きていいのかわからなくて帰る場所もないに、どこに連れて行こうというのか。

 声で感情を悟られたくなくて首を横に振ることで返事をする。

「美剣さん、西宮さんには断る権利があります。それにまだ全てを説明し終わってない状態で彼女を勧誘するのはやめてください」

 漁火の戒めに美剣は「んー」と空返事をする。ボリボリと頭を掻きながら首を傾げる。

「てか、オレだいぶ前から学校にお前と話させてくれって申請してたんだが、もしかして今日の説明会も初耳だったか?」

「はい」

寝耳に水でしたと言ってしまおうと思ったが、余計なことはもう言わない。ライフスタイル通りに「はい」「いいえ」この二つだけでいい。

「やっぱりさっきの向井ってガキが止めさせてたか、自分を出し抜いてお前が勧誘されんのムカついたんだろうな。親父から聞いたのかウチに興味深々だったしなぁ」

「えっ、西宮さんにとって我々はアポ無しで突然やってきた怪しい男二人だったってことですか?」

「はい」

 漁火の問いに間髪入れずに返事をする。

「あー、どうりで何かずっと警戒されてるなぁと思ってたんです。すみません、気付かなくて!」

 漁火は頭を抱えてうな垂れる。あの礼儀正しい彼がアポイントを取らないなんてあり得ないとは途中から感じていた。

「いいえ」

 首を横に振る、警戒していたのは本当だがそんなものは漁火が解いてくれた。だから席を立たずに話を聞いていられたのだから。

漁火と話していると美剣が間に入り愛夢の顔を覗き込んでくる。

「はい、と、いいえ、と、相槌だけで会話を成立させられるのは男の扱いを心得た熟練のお姉様だけだ。技術のないお前にはまだ早い!」

「すみません・・・」

 目上であり年上の男性達に対する態度ではなかったかもしれない、気に障ってしまったのだろう。

 今日も謝ってばかりの一日だと悲しくなってくる。

「美剣さん、本っ当に通報しますよ?」

「待て、オレはここから凄くいいことを言おうと思っていたんだ!押すな?絶対その画面を押すなよ?」

 受話器のマークに指が触れようとした瞬間、漁火は弾かれたように顔を窓の方へ向ける。さらにその先の、空の彼方を凝視している様だった。

「あぁ、本当に残念です。西宮さんともっとお話したかったのですが・・・」

 虚空を見つめる彼は瞳はまるで、獲物に狙いを定めた鴉にように見える。声だけが残念そうで違和感を覚えてしまう。

「美剣さん、アスピオンです。山頂の送電鉄塔建設現場のデコイにかかりました!」

「数は?」

「一体です」

 心臓が早鐘をうつ。アスピオン、一体で二十一人を殺した化け物がまた現れた。漁火と美剣は今からそれを屠りに行くのだろう。

 どうかこの優しい二人が怪我がなく無事にアスピオンを倒せますように、と愛夢は自分を嫌っているであろう神に祈った。

「すみません、西宮さん後日また必ず伺います」

 早足で応接室から出ようとしている漁火に対して美剣は何かを考えこむように顎髭をさわりながら愛夢を見た。

「西宮愛夢、今から企業見学にこないか?」

「は?」

漁火と愛夢の返事は同時だった。


 企業見学、教育活動の一環として生徒が企業に赴き仕事のあり方を見て学ばせてもらう授業の一つ。

美剣は今、愛夢にアスピオンを倒す現場の見学にこないかと誘っている。

 一女子高生に劣る価値しかない自分に。先ほどから寄せられている彼の期待の念が重い。

「美剣さん、何を言ってるんですか?」

「お前の長い説明をぐだぐだ聞くより、見た方が早いと思ってよ」

「危険すぎます、一般人を戦闘の現場に連れて行くなんて認められませんよ!」

「大丈夫だって、一体だけなんだろ?」

「まだ何のアスピオンかも分かっていないのに早計すぎます!」

「固いんだよ、お前の頭は」

 愛夢を挟んでの二人の論争は活発になっていった。

それを目で追っていると美剣が近寄ってくる。

「百聞は一見にしかずだ!」

 そう言いながら美剣は俵担ぎで愛夢を抱えた。足が浮いた瞬間変な悲鳴が出そうになるのを堪える。

 嫌だ、やめてください、その言葉がどうしても言えない。

 今までいじめられてきた中でその言葉を言うと、笑われ蔑まれもっと酷いが起きるのを嫌というほど経験してきた。その呪いが愛夢を支配していた。

 そしていつからか自動的に肺と喉はその言葉を拒否してくれるようになった。

 ガラッという窓を開ける音が後ろから聞こえる。

血の気が引く、応接室は三階だった。

「西宮さん!」

漁火が駆け出し愛夢に手を伸ばす。

「漁火さん!」

 その手を掴もうと手を伸ばすが引力がそれを邪魔する。

 美剣と愛夢の身体は宙に浮きそのまま落下した。

 驚きで声が出ない、内臓が浮くという感覚を愛夢は初めて体験する。

 行っていないが修学旅行帰りのクラスメイトの話でそんな感覚があるということ、知識として知っているだけだった。だがまさか自分が今日体験するとは思わなかった。

「あぁ、もう!」

 応接室にいる漁火の声が少しずつ遠くなる。

 このまま消えてしまいたい、早く死んでしまいたい、毎日願っていた。屋上から飛び降りる妄想もしたことがあるが、実際に行ったことはないし養母に迷惑がかかることは絶対にしたくなかった。

 そんな中途半端な自分に罰が下った。


 衝撃に備え美剣の肩の上で強く目を瞑り縮こまる。怖くて美剣のワイシャツを強く握りしめた。

 皺になってしまったらどうしようなんてことを考えていると、腹部と骨盤に軽く押されたような振動を感じた。

 何の音もしなかった。授業中の生徒たち、教師すらが誰も二人が降ってきたことに気付かないほどの静かな着地であった。

「悪い、ちょっと揺れたわ」

 心臓がバクバクという音を立てている。あんなに死にたいと思っていたのに、いざ三階から飛び降りただけでこんなにも恐怖に襲われることを痛感した。

「あと、また触ったけど服の上からだからノーカンにならないか?」

 そう言いながら美剣は愛夢を優しく地面に降ろす。

 パニック状態で身体が固まり、愛夢は美剣のシャツを握る手を離すことができない。

 皺になってしまったらすみません、と謝りたいのに相変わらず声が出ない。大きく見開き続けた目が潤む。

「おーい、ここは怒るとこなんだぞー?何するんですか!ってさ」

「っ・・・シャツが・・・」

 やっと絞り出した声で謝ろうとするが美剣の声に遮られる。

「違うだろ、シャツなんてどうでもいい、何でそうやって"自分"を殺すんだよ。さっきも今もお前は怒っていいんだ!」

 怒ればそれはさらに大きな怒りとなって自分に返ってくる。そして周りはそれを嗤う、それを思い出し愛夢は次第に冷静さを取り戻す。

 身体の自由がきくようになり、ようやく美剣のシャツから指を離すことができた。

「怒ってはいないです、ただ驚きました」

 淡々と下を向き相手を不快にさせぬよう言葉を発する。

「そっかお前、今この瞬間も殺されてるんだな、周りに。こんな地獄みたいな場所にいたら当然だよな」

 心の中を見透かされた気がしてそっと美剣を盗み見る。

彼は土下座を止めたときと同じ顔をした後に優しく愛夢に笑いかける。

「ごめんな、迎えにくるのが遅くなって」

 その言葉に愛夢は言葉を失う。それはまるで頭から水を浴びたようだった。

 激情に駆られているときの彼とはあまりに違う声色に、まるでこの地獄から連れ出してくれるような言い方に、驚きを隠せない。

 返す言葉が見つからず、ただ美剣を見つめる。

「さっきの相槌の話なんだが、続きがあってな。熟練のお姉様が言うには成立にコツがあるんだってよ!」

 つい先程、美剣に技術がないからまだ早いと言われたことを思い出す。今後の参考の為に耳を傾ける。

「こ・れ・だ」

 そう言って曇りなく笑ってみせた。

意味が分からず首を傾げてしまう愛夢に、美剣は呆れながらも説明する。

「笑顔だよ!可愛く笑っておけば相手が察してなんか色々うまくいくんだとよ!だから笑え!熟練の熟女を信じろ、西宮愛夢!」

「・・・はい」

 せっかく教えてくれた技術だが、確かにまだ自分には早かったと痛感する。熟練の熟女とは何者なのだろうか。お姉様はどこへ行ったのだろうか。と心でツッコむがライフスタイル通りに愛夢は黙り続ける。

「あとオレとお前、上履のままだったわ!変えてこようぜ!」

 美剣の溌剌さに振り回され愛夢は疲れ果てていた。

頷き彼の後ろについて行く。


 校舎の中に入り下駄箱で靴を履き替えていると、漁火がまっしぐらにこちらへ走ってくる姿が見えた。

「西宮さんっ!大丈夫、でしたか?」

 荒く整わぬ呼吸で話しかけられる。

「大丈夫です。怪我もしていません」

「よかったぁ・・・」

 漁火は安堵から膝から崩れ落ちた。

 愛夢もそんな彼を見てホッとした。

 地獄に仏、非常識に常識、美剣に漁火だ。

「遅いぞ漁火!車の鍵お前が持ってるんだから早くしてくれよ、まったくよぉ!」

「美剣さん!言いたいことが山ほどあります!まずはこれは貴方の背広とネクタイです!」

 睨みながら詰め寄ってくる漁火に美剣は面倒くさそうに返答する。

「あーご苦労様、ありがとうねー」

「それから、応接室の片付け、気絶した彼への対処、西宮さんを連れ出すことの学校の方々への説明、各所への連絡、全部、わ・た・しがやりました!」

「ねー漁火、その話長い?まだ続く?」

「貴方への愚痴は一晩かけても足りませんけどぉ?」

 声に苛立ちがこもっている、応接室での漁火の愚痴が思い出された。彼はまだ半分も終わっていないと言っていたので、これは長くなりそうだと愛夢は覚悟を決めた。

「漁火、マジで時間ないぞ。もう何分たってる?」

 低く落ち着いた口調で美剣は嗜めるように問う。

 漁火は怒りを外に出すかのように大きな溜息を吐くと、ポケットから車の鍵を取り出し美剣に渡した。

「靴を履き替えてきます、続きは帰ってからにしましょう」

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