羽化
「あぁ、やっと来た」
先程から周りを気にしていた溝呂木の視線の先には、予約と表示されたタクシーがいた。そのタクシーに向かって、溝呂木は伸ばした手を振る。
「貴女は今までの人生で、死んだ方がマシだと思う事はありましたか?」
こちらに向かうタクシーは、赤信号で停止した。
タクシーの到着を待つ間、溝呂木は愛夢を見ないままで質問を続けた。
解答に困る内容ではあったが、愛夢はその質問に正直に答える。
美剣の仲間である溝呂木に嘘をつくことはしたくなかった。
「・・・美剣さんに出会うまでは、毎日のようにそう思っていました」
あの地獄の日々を思い出す。いつもならその記憶で苛まれ涙を流していた。だが今は違う。愛夢はようやく、自分が今日まで生きていた意味を理解したのだ。
いつか来る美剣と彼の仲間たちの命の危機に瀕した時、愛夢自らの命を使ってそれを阻止する。
それが愛夢が導き出した命の使い道だった。
「退屈な日常が、そう思わせていたんですか?」
「違います。私は俗に言う底辺の負け組の嫌われ者で何にもできないし、皆んなが当たり前に持っているようなものも、何も持っていなかった。毎日馬鹿にされて嗤われて、その度に、ここからいなくなりたい、消えたい、死にたいって思っていたんです」
溝呂木は愛夢を憐れむでも、励ますでもなく、淡々と質問を続けた。
「それを、美剣が変えたんですか?」
「はい!美剣さんは私を探して会いに来てくれました!褒めて必要としてくれた!諦めるしかないって思っていた私に、なりたい自分になっていいって、何にでもなれるって言ってくれました!自分だって信じられなかった私を、誰よりも信じてくれました!」
美剣の言葉によって愛夢の人格が変わる事は無い。今だに他人の嗤い声は怖い。そして口さがない人間がいなくなった訳ではない。
だが美剣が何とかしてくれたおかげで、愛夢が聞こえる範囲にはいなくなった。
そして取り巻く環境は大きく変わった。
そんな恩人である美剣がくれた数々の言葉を、愛夢は溝呂木に伝える。
「貴女も・・・たった一人の言葉で救われたんですね」
「はい。そんな事かって思われるかもしれないけど、私は美剣さんに救われたんです」
ようやく信号が青に変わり、タクシーは愛夢たちの前に停車した。
後部座席のドアが自動で開き「遅くなってすいません!今日はイヴだからか道が混んでいてー!」と言う中年の男性運転手の大きな声が響いた。
溝呂木は開いたドアから、運転手にタクシーチケットと住所が書かれた紙を渡す。
「この住所までお願いします。安全運転で、なるべく早めに着くようにしてください」
「上着を貸していただき、ありがとうございました。とても温かったです」
溝呂木が今からタクシーで家に帰るにしても、仕事で何処かに向かうにしても、する事は一つだった。
愛夢は借りていた上着を脱ぎ、溝呂木に返す。だが、それは手で制止された。
「今日は冷えるので、帰るまでは着ていてください。明日、返してくだされば問題ありません」
「ありがとうございます。今日は色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「それはもういいので、早く乗っていただけますか?」
「えっ?そのタクシー、溝呂木さんが乗るんじゃないんですか?」
「何を言っているんですか?貴女が乗るに決まっているでしょう。僕の所為でこんな事になってしまったというのに、この暗い中を女性一人で歩かせるわけにはいきません」
「困ります!私、お金は電車賃くらいしか持っていないです!」
「僕が勝手に呼んだタクシーなんですから、貴女が代金を支払う必要はありません。早く乗ってください。運転手さんが困っています」
開いたドアに手をかけ、早く乗るように促す溝呂木は、物語の中にいる王子様の様に麗しかった。
愛夢の瞳は、その姿に釘付けになる。
「・・・あまり聞き分けが悪いと、美剣の接触禁止命令が長引くことになりますが?」
その場から動かない愛夢に痺れを切らした溝呂木から出た言葉は、王子様の様に甘く優しくはなかった。
長引くという言葉が出た瞬間、愛夢は持てる反射神経の全てを使い、最速の動きでタクシーに乗り込む。
「お言葉に甘えさせていただきます!」
畳んだ傘で席を濡らさぬように、姿勢よく座って叫ぶ愛夢に溝呂木は呆れた顔をした。
「もう大丈夫です。行ってください」
呼出主の許可をもらった運転手は、タクシーのドアを自動で閉めた。「それでは向かいますね〜」の声と共に車は静かに発進する。
待ちぼうけをくらっていた運転手に、愛夢は詫びと感謝を込めたお辞儀をした。
後ろを振り返った時には、溝呂木はすでに丸ガーオマンと共に門の前にいた。
溝呂木と丸ガーオマン、そして傘を貸してくれた男性、その3人の恩人が居た防衛省は段々と小さくなっていき角を曲がると見えなくなった。
「明日・・・傘をあの人に返せるといいなぁ」
愛夢は傘の持ち手を撫でながら呟く。
最低な一日だと思っていたクリスマスイヴは、シトラスとウッドの香りに包まれ終わろうとしていた。
高速は空いており、寮に着いたのは21時少し前だった。玄関では不安そうな寮母と臼井が、愛夢の帰りを待っていてくれた。愛夢は2人にこってりと絞られた上、反省文を書くという処分を下された。
だが愛夢は拍子抜けする。最後に冬休み中は大いに反省するようにと言われただけで、あの楽園を取り上げられることも、保護者であるマリアに連絡されることもなかったからだ。
聞けば溝呂木から事情を聞いた漁火が、臼井に連絡を入れ、今までの愛夢の行いを鑑みて寛大な処置が下されたとの事だった。
その事態を横目に、女子学生の間ではまた新たな噂が生まれていく。
その噂は、次の日に愛夢の耳に入ることとなる。
クリスマス本番である12月25日。終業式のみである今日も、愛夢はいつもの場所にいた。タブレットに映る退屈な式典の様子を見つめながら、一刻も早い終了を願う。同級生の目的は、午後から行われる大学進学者に向けた補講だった。
そんな追い込みをかけている三年生ではあるが、終業式の列に並べられた椅子に空席を見つける。
それは向井の席であったが、一足早い冬休みに入ったのだろうと愛夢は気にはしなかった。
愛夢と同じで進路の決まっている彼にとっては補講も終業式も出席する意味はない。
昨日の書類の破壊で満足し、楽しい冬休みが愛夢のことを忘れさせててくれてことを願うしかなかった。
従来ならば学校はもう冬休みに入っていてもおかしくはない。だが日々増え続けるカリキュラムに教員と授業が追いつけていなかった。
そして学校側は苦肉の策として冬休みを削った。もちろん、この事に生徒は怒り抗議した。
だが愛夢の通う高校だけではなく、全ての学校でこの問題は起こっていた。
教師の仕事は勉強を教えるだけではなく、部活や校外学習、進路指導、クレーム処理など多岐にわたる。なり手が少ないから忙しいのか、忙しいからなり手が少ないのか、愛夢には分からなかった。だがどちらにしても、ストレスが溜まる仕事であることだけは分かる。だから昨日の担任の態度も、仕方のないことなのだと自分に言い聞かせた。
教室で担任が注意事項を話終える。今年の最後の学校がようやく終わり愛夢は席を立った。
ジャケットと傘は綺麗に整え寮の部屋に隠しておいた。昨日の出来事は万が一に備えるには充分すぎた。
寮へ荷物を取りに行き、溝呂木の待つ防衛省へ向かう。これからの自分の人生を決める今日の目的を達成する為に愛夢は扉を開いた。
廊下に足を踏み出すと、視界の端に1人の男子生徒が見えた。こちらを睨みつけている生徒の顔を見て、愛夢の呼吸は荒くなる。
説明会の妨害、書類の破壊、ニ度にわたって愛夢を苦しめた男、向井邦彦がそこにいた。
「テメェの所為で親父にキレられたんだよ!」
向井は愛夢を指差し怒り肩で叫ぶ。
「赤毛と眼鏡使って好き放題やりやがって!ヤクザの女とか噂されて調子乗ってんじゃねぇぞ!」
向井が一歩前に進むと、愛夢も一歩後ろへ下がる。
「昨日はこの俺が直々に引導を渡してやったってのに、呑気にクリデートして彼ジャケ着てタクシーで帰ってきただと?」
向井の身体は怒りでワナワナと震えていた。
偶然、昨日はクリスマスイヴだったこと、そして溝呂木が善意で貸してくれたジャケットが災いして、また心無い噂を生んでいた。
「舐めてんじゃねぇよ!人間のクズの出涸らしが!何でこの俺じゃなくて、お前なんかが選ばれんだよ!?」
向井の疑問は最もであった。
何故、メテウスは美剣たちのような相応しい人間ではなく愛夢のような者をを選んだのか。
誰よりも愛夢が一番そう思っていた。
美剣はメテウスなんか無い方がいいと言っていた。だが愛夢が美剣たちと繋がっていられる理由はメテウスがあるからだった。
美剣に見つけてもらえた。
漁火に進路相談をしてもらえた。
溝呂木に上着を貸してもらえた。
丸ガーオマンと傘の男性に親切にしてもらえた。
それらは全て愛夢にメテウスがあったから起こり得ることだった。
「どうせ、あのおっさん共に泣いて擦り寄ったんだろ?何発ヤラせて言うこと聞かせたんだ?お前は服脱いで足開いて寝てるだけで良いんだから慣れた楽な仕事だよなぁ!そりゃあ、どんだけ邪魔しても、おっさん共もお前も粘って齧り付くわけだ!」
槍の様に降り注ぐ罵倒を愛夢はただ黙って受ける。
向井の言葉は愛夢だけではない、美剣たちをも侮辱するものだった。
たった4人しかいないフロウティス部隊、彼らに関わる全ての者が1人でも多くの増員を望んでいる。その祈りに近い想いは愛夢も抱いたから理解できた。
あの破かれた書類にも、その人たちの想いが込められている。だから溝呂木は激高したのだ。
向井も彼らの事情を知っているが理解はしていない。
向井に対する怒りの感情は湧かなかった。それよりも美剣たちが誤解されていることに対する思いが心を咎めた。だが愛夢は否定の言葉を口にすることができない。向井を恐ろしいと思う感情が愛夢が口を利くことを許さない。
我が身可愛さで沈黙を貫いてしまう自分に自己嫌悪は加速する。
今の愛夢にできることは前を向くことだけだった。
ただ美剣たちの下へ向かう道を見据える。
「何だぁ?その目?お前あれだけやられても、やっぱり諦めてないみたいだなぁ?」
いつものように下を向いて謝らない愛夢に、向井が怒りはさらに増していく。
後ろへ下がり続けた愛夢は廊下の端に追いやれた。
「剥いた写真撮ってバラまきゃ二度とそんな気も起きねえだろ?面倒だが、どいつもこいつも内申気にして協力しやがらねぇし、担任も上にひよってやがる!本当に使えない奴らだ!」
愛夢の胸ぐらを掴もうと向井の手が伸びてくる。
「えっ?」
恐怖よりも驚きで愛夢は戸惑った。向井の捕えようと伸ばした手がスローモーションのようにゆったりとしていたのだ。あまりの遅さに逆にフェイントを疑う程であった。
目を凝らすが向井の目は本気だった。
アスピオンの動きを目で追える愛夢には、向井の動きなどナマケモノの動作に等しい。
今は自分の本当の能力に驚く時間も、酔いしれる暇もなかった。
伸びてくる手を躱し、向井の横をすり抜けた愛夢は全力で廊下を走る。
あの日、追弔で見た美剣の奔る姿と、翔ぶ姿は愛夢の心と体に焼き付いていた。
紅い獅子が愛夢に奔り方を教えてくれた。
もう手を抜いていた体育の授業の時とは違う。
グンッとした加速は茫然としている向井との距離を大きく引き離す。
メテウスの覚醒により身体能力の向上した愛夢の本気に、向井は全く反応ができていなかった。
塞がれていた最速で下駄箱まで行ける道を愛夢は駆ける。
「ゴミ女が!待て!!」
地の優位には立ったが、追いつかれるのではという不安が拭えず、後ろを振り返ることができない。
離れた位置から聞こえる「ど底辺が!死ねよ!」という向井の声を耳が捕らえて、心は負けそうになる。だがその度に、胸ポケットに入れた防衛省への入場許可証がカサッという音を立てて愛夢を励ました。
「絶対にっ・・・諦めたくない!」
この一歩は美剣たちへ近付く為の一歩だった。
諦めの悪さは漁火に習った。愛夢は自分の中に芽生えた強い思いを口に出し、己を奮い立たせる。
階段を一段ずつ降りている暇はない。
愛夢は走りながら覚悟を決める。
走る勢いをそのままに床を蹴り、下の踊り場まで一気に飛び降りた。
折り返しの次の階段も、二階の階段も人がいないことを確認して同じように飛び降りる。着地の衝撃で足が痛んだが、それでも愛夢は止まらなかった。
一階に降りると、下校する生徒たちが波のように下駄箱に集結し、人の波が行手を遮る。
息は切れているが集中力は研ぎ澄まされていた。愛夢は生徒同士がすれ違う際に出来る一瞬の隙間を見極め猫のように通り抜ける。
だが同級生たちは愛夢を見た瞬間に、モーセの海割りの様に道を空ける。
上履からローファーに履き替え校舎の外に出ると、後ろからは向井の叫ぶ声が聞こえた。
「どけ!邪魔なんだよ!」
ぶつからないように生徒を避けた愛夢と違い、向井は人の波を掻き分けているのだろう。愛夢の耳は様々な生徒の戸惑いの声も捕らえ、足が止まりそうになってしまう。
校舎の裏にある寮までジャケットと傘を取りに行く時間は無かった。そんな事をしていたら向井に捕まってしまい、借りていた物を壊されてしまう。
これは愛夢にとっては苦渋の決断だった。
ジャケットを返す約束を破られた溝呂木は失望するかもしれない。
傘を貸してくれた人も、すぐに返しにこなかったと呆れるかもしれない。
書類を提出し、向井の気が済むまで詰られた後に返しに行く。それしか考えられる手は無かった。
罪悪感と恐怖で視界が滲む。それでも愛夢は前に進むことを止めない。
止まってしまえば、胸に灯る炎が消え二度と走れなくなるような気がした。
12月の空気が全力疾走する愛夢の身体を苛める。冷えた空気は肌を刺し肺を凍らせ、風は目をさらに潤ませた。
その為に視界が滲み油断が生じる。
前方には靴紐を結ぶ為に屈む男子生徒がいた。
衝突か停止の二択が頭をよぎったが、愛夢はどちらも選ばない。
翔び方はもう知っている。
助走は完璧だった。
膝を曲げて腰を上げる。
愛夢は地面を蹴って飛び上がり、身体を小さく丸めて前方宙返りで男子生徒の上を通過した。
突然目の前に着地された男子生徒は、尻餅をつき驚いていた。そして補助も踏切も無しに前方宙返りを決めた愛夢に、周囲は驚嘆の声をあげる。
「・・・ごめんなさいっ!!」
愛夢は前のめりで転びそうになりながらも、何とか着地をし、男子生徒の方を見ずに謝りながらも走る。
「おいっ!お前!その女を捕まえろ!」
向井の怒号と戸惑う男子生徒の声、そして野次を背に愛夢は校門を後にした。
クリスマス一色の街を愛夢は駆け抜ける。その走りはまだ未熟で弱く王たる獣には遠く及ばない。
だが美剣に言葉によって孵化した愛夢は、蛹から蝶へと羽化しようとしていた。
今している腿を上げ弾むような走りは、アスリートもしている最速の走り方であった。スクールバッグが手の動きを制限していなければ、騒ぎになるほどには早く走れていた。
追弔中の美剣の奔りはアスピオンと戦う為の最適であり、筋力も瞬発力も足りない愛夢には負担が大きすぎた。だから愛夢は本能で実際に走りながら最適解に辿り着く。
体験したことのない荒い呼吸、心臓の痛みに耐えながらも発車寸前の新宿行きの列車に飛び乗る。
自身の駆け込みを注意するアナウンスを申し訳なく思いながら、愛夢は呼吸を整えた。
クリスマスで混雑している電車内の乗客は、皆が自分のことに必死で、愛夢には一瞥すらくれない。
愛夢は未だ恐怖が拭えず、そこにいるはずがない向井の姿を探す。
「美剣さんっ・・・!」
愛夢は自分の絶対の味方でいてくれる美剣の名前を呼ぶことで再び自分を奮い立たせる。
ここにいないのは美剣も向井も同じはずなのに、心に灯った紅炎が揺らぎ自分を守ってくれるように思えた。




