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ーNo titleー  作者: 一ニ三
20/39

ランチタイム

 秋の風は冷たさを帯びてきていた。その為、外で昼食をとっている生徒は誰もいなかった。

 愛夢はそのことに胸を撫で下ろす。

 窓際で漁火と食事をしている姿を生徒たちに見られたなら、噂に尾ひれはひれがつき、大変なことになっていただろう。

「飲み物は、以前飲んでいたお茶と同じものをご用意させていただきました。お水のリベンジです、今度は飲んでいただけますよね?」

「あの時は、すみませんでした」

 高一の夏、ペットボトル飲料にイタズラをされて以来、学校での飲食は避けていた。

 その当時は猛暑で、迫り来る喉の渇きが愛夢の危機察知能力も鈍ってしまっていた。お茶に混ぜられた激辛ソースの刺激は今だに忘れることができない。

「是非、人気ツートップのパンを召し上がってください!」

「すみません・・・。私、嫌いな食べ物は無いって美剣さんには言いましたけど・・・本当は辛いものは、あまり得意じゃないんです」

 あの優しい漁火が、舌をえぐるような辛いものを用意するとは思えなかった。だが、どうしても体が学校という場所で辛いものを食べることに抵抗をする。

「正直にお話してくれて、ありがとうございます。では、このカレーパンは私が頂きます」

 カレーパンの包みを開ける漁火に倣い、愛夢もクロワッサンサンドの包みを開いた。

 スクランブルエッグと、レタスとチーズがサンドされたクロワッサンの先端を齧る。

 歯を立てた瞬間、サクッと気持ちのいい音がなる。香ばしく噛むたびに、じゅわっとバターの風味が口に広がるクロワッサンは、食感と味、そして香りで愛夢を楽しませてくれた。

 中に挟まれたフワフワのスクランブルエッグは卵本来の優しい甘さがした。そこにシャキシャキのレタスと、チーズの程よい塩味が合わさる。

 それらが口の中で調和を産み、空腹が最高のスパイスとなって、舌から脳へと美味さが駆け上がった。

「今まで食べたクロワッサンの中で一番美味しいです」

 人気店なことが頷ける出来だった。だが、これほどまでに美味しいと感じられるのは、漁火が今までと変わらずに愛夢に接してくれているからだろう。

「このお店、同僚が教えてくれたんです。ん〜!このカレーパンも中に半熟卵とチーズが入っていて凄く美味しいです!」

 変わらない漁火の笑顔に、愛夢の胸は熱くなる。

 胃が満たされたからなのか、腹の奥底までをも熱くしていく。

「ウフフ、それは・・・おいしそうですね」

「へっ・・・!?あっ、えっと・・・はいっ!」

 しどろもどろになった漁火の顔は、赤く染まっていった。

「漁火さん、顔が赤くなってます。やっぱりそのカレーパン、辛いんですか?」

「えっ!?あー・・・はい!後に引く辛さでした!」

「・・・私が食べていたら大変なことになっていました。ありがとうございます、漁火さん」

「いいえ・・・このカレーパンと同じですよ。こんな風に私は、もっと西宮さんの嫌いなもの、好きなものを、知りたいです!」

「えっ?私の好きなものですか?・・・なんだろう?」

「やっぱり・・・。西宮さんは、まだ自分が何が好きなのかも分からない状態なんですね」

「・・・すみません」

 子供の頃から愛夢が好きだと思ったものは同級生や周りの大人たちに嗤われ、そして踏み躙られてきた。

 だから、好きなものや、大切なものは、匿すことで守ってきた。そんなことを繰り返していくうちに、心は疲れ、表情は死んでいった。

 そうして、いつしか何にも興味は無くなり、もう好きなものの探し方も、見つけ方も忘れてしまった。

「謝らないでください。これから私と一緒に探していきませんか?もちろん、美剣さんも一緒にです!」

「でも接触禁止だって・・・」

「おそらくですが、西宮さんへの接触禁止命令は高校卒業と同時に解除されると思います。それまでは私がお二人の間に入りますから」

「漁火さん、ありがとうございます!」

 美剣とは接触を禁止され、漁火にはもう二度とここへはこないと言われ、その事を愛夢はただ嘆くしかなかった。そんな昨日までの不安を漁火は祓う。

「どういたしまして!さぁ、まだまだパンはありますから沢山召し上がってください!」

「こんなに沢山は食べられません」

「まずは、自分が食べたいと思うものを選ぶところからですよ!気になるパンがあれば持って帰ってもらって構いません」

「えっと・・・じゃあ、これで」

 そう言いながら愛夢は、透明の袋に入ったメロンパンを手に取った。

「では、この辛子明太フランスは私が食べますね」

 愛夢はメロンパンを頬張りながら自分の好きなものについて考えていた。

 甘くザクザクとしたクッキー部分の食感と、しっとりとしたクリーミーな中身とのギャップを楽しむ。

 半分ほどメロンパンを食したところで、頭に浮かんだのは愛夢の唯一の大切な人間であるマリアのことだった。そして大好きな美剣、そこに漁火が加わる。

 出た結論は、自分は空っぽで何もない人間だということ、そして好きな人間の為にしか頑張れないということだった。

 愛夢は漁火から貰ったペットボトルを開け、お茶を口に含んだ。

 刺激的な味など何もしなかった。

 心も腹も満ち、頭の中が冴えてくる。

 愛夢は、今唯一ある自分の好きを口に出した。

「・・・美剣さんと過ごす時間は楽しくて好きです!でも漁火さんと過ごす時間も、あっという間に感じるくらい、もっと続けばいいのにって思えるくらい好きです!」

「きょっ・・・恐縮ですっ!!」

 そう答える漁火の顔が、みるみる赤くなっていく。

「・・・辛子明太フランスも、辛かったですか?」

「・・・ジワジワとっ・・・効いてきました!」

 愛夢は今日、人気パン屋の惣菜パンは中々に辛口だということを学んだ。


 二つのパンを腹に入れ、愛夢は満腹だった。

「漁火さん、ごちそうさまでした。とっても美味しいパンをご馳走してくれて、本当にありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。西宮さんがいなければ、私はここのパンを食すどころか、知ることすらなかったでしょうからね」

「お忙しいのに、また私なんかのためにお手間をとらせてしまいました。本当にごめんなさい・・・」

 漁火は、エビとアボカドのベーグルサンドの包みを開く手を止めた。

「・・・私なんか、か。分かりますよ、そう言ってしまう気持ち。毎日思っています、私なんかが西宮さんの担当にならなければ、きっと今とは結果が違っていたのにって」

「えっ!?それは違います!私は漁火さんが一緒じゃなければ、追弔に着いて行くどころか、お話すらもきっと聞かなかった!」

「・・・そうなって欲しかったんですよ、私たちは。だから私は適任ではなかったのでしょう」

「思う通りできなくて、我儘でごめんなさい・・・」

「いいえ。こうなって良かったのかもって、時々思うんです・・・」

「どうしてですか?」

「そうでなかったら、西宮さんと夕食もお昼もご一緒できなかった。お話なんて以ての外です。そして、この美味しいパンも一緒に食べられなかった」

「・・・でも、このパン屋さんは同僚さんが教えてくれたって言っていましたよね?じゃあ、いつかは食べられました。それに漁火さんは、私に構っていた時間で、素敵な誰かとご飯を食べられたし、素敵な時間を過ごせたはずです」

「素敵な誰か?その方が、西宮さんなのですが?私は西宮さんとお食事をご一緒したかったんです」

「素敵なんて言葉・・・私とは真逆です」

「いいえ、西宮さんは荒唐無稽な私の話を茶化すでも、流すでもなく、真剣に聞いてくださった。私たちのために心を砕いて打開策を考えようとしてくださった。素晴らしい人です」

「それは当たり前です!私じゃなくても、漁火さんと美剣さんは素敵な人だから、きっと誰だって力になろうとしてくれたはずです!」

「・・・西宮さん、私も自分が国民栄誉賞を貰うような英雄じゃなくてよかったって、心から思うんです」

「何でですか?皆さんのような素晴らしい人は、ちゃんと評価されるべきです!」

「だって、そうなったら西宮さんに気軽に会いに行けなくなってしまいますからね!お話も、お食事も、できなくなってしまう!そんなのは絶対に御免です!」

「・・・っ私なんかと一緒にいるよりも、国民栄誉賞の方がっ─」

「そんな栄誉よりも、今この時間のほうが大切だと私は思えます。美剣さんも絶対にそう思うはずです」

「そんなの嘘です!だってそれじゃあ、私と・・・」

 漁火が言ったことが本意なら、愛夢と同じ思いということになる。

 漁火は与えられるべき栄誉や賞賛よりも、自分なんかと過ごす時間の方が大切だと思ってくれている。

「そう言えば西宮さんも昨日、同じことを言っておられたなぁ。同じことを思っていてくれて嬉しいなぁ」

 漁火はそう言い、手に持っていたベーグルサンドに大きく齧り付いた。

 愛夢と話してくれている間、漁火は食事の手を止めてくれていた。

 これ以上、漁火の食事の邪魔をしないよう愛夢は口を閉じる。

 今この瞬間の平和を担う、追弔。それを支えるシステムの要である漁火が、この凄い人が、自分と同じことを思ってくれている。

 嬉しいと思う反面で、社交辞令なのではないかと、心の何処かで、まだ疑ってしまう。

 愛夢は、そんな自分に心の底から嫌気がさした。

 

「これ、クリームチーズも入っていました!美味しいだけじゃなくて食べ応えもバッチリですね!」

「・・・はい」

 愛夢と過ごす時間が待ち遠しく思えた、漁火は今日ここへ来たときにそう言ってくれていた。

 それは愛夢も一緒だった。

「西宮さん、残ったパンを幾つか貰っていただけますか?余りは私が持って帰って、同僚たちへのお土産にしますので」

「・・・はい」

 そして先程は、好きなものをこれから一緒に探そうと言ってくれた。

 その言葉は、美剣からの命令があったから掛けてくれたものなのか、愛夢への純粋な好意から言ってくれた言葉なのか。

 どちらでも有難いことに変わりはないのに、後者であってほしいと願ってしまう自分がいた。

「西宮さんが辛いものが苦手だと、美剣さんにお伝えしてもよろしいですか?自分が知らないことを、私が先に知ったと分かったら、きっと悔しがるだろうなぁ」

「・・・はい」

 漁火がここに来てくれた理由は、臼井から雷を落とされたからだけでは無い。自身の栄誉よりも、こうして愛夢と過ごす時間の方が大切だと言ってくれた。

 今日、漁火は何度もそのことを愛夢に根気強く伝えてくれていた。

「下手をしたら殴られるかもしれませんが、まぁ怪我をしている美剣さんの拳なら多分大丈夫です」

「・・・はい・・・えっ!?殴られるのはダメです!」

 美剣の名前と、殴られるという言葉で、愛夢の意識は漁火に向いた。

「やっとお返事を返してもらえました。上の空でしたが大丈夫ですか?」

「すみません・・・私・・・」

「あまり時間もありませんが、今から西宮さんの気になっていることについてお答えいたします」

「えっ!?いいんですか!?」

「はい、まず西宮さんが一番心配していらっしゃるのは美剣さんのことですよね?」

「はい!美剣さんの怪我は大丈夫ですか?昨日のお話の後、私のせいで怒られたんでしょうか?また始末書を書いたんですか?」

「あはは、一つずつお答えします。まずは美剣さんの怪我の具合ですが、常人よりも身体能力が優れているとはいえ、大怪我であることには変わりありません」

「美剣さんっ・・・」

「西宮さんが悲しい顔をされることを、美剣さんは望んでいませんよ。怪我の割に凄くお元気なので、医療スタッフの方々が驚いているくらいです。少しは、お心が軽くなったでしょうか?」

「・・・はい」

「それから、あの後のことですが、衝突は多少ありました。ですが始末書は書いていませんよ」

「・・・よかった。追弔は、どうしているんですか?」

「メテウスさえあれば、追弔は可能です。本来の追弔は美剣さんが主力ですが、今は別の方を主軸として戦術をたてて、何とか凌いでいる状況です」

「美剣さんも、追弔に参加されているんですか?」

「我々とて、怪我人に無理はさせたくありません。ですので、美剣さんには後方で指揮をとっていただき、他の方に前線で奮闘していただいています」

「追弔って、どのくらいの頻度であるんでしょうか?」

「週に1、2回というところですかね。昔はここまで頻繁ではなかったのですが・・・」

「そんなに・・・。何か私にできることはありますか?美剣さんと、漁火さんが怪我をするのは嫌です!でも他の人に危ない目にあってほしくもないんです!」

 次から次へと溢れ出る疑問に、漁火は丁寧に答えてくれた。

「ありますよ。西宮さんにしかできないことが」

「何ですか!?私、どうしたらいいですか!?」

「どうか私たちに向ける優しさを、ご自身にも向けてください」

「えっ?」

「食事を抜いて自分を蔑ろにすることは、もうしないでください。それが私と美剣さんの為になります」

「そんなのっ・・・追弔に何の関係も無いじゃないですか!あの手紙に書いてあったみたいに、武器の製造や研究で私を役立ててください!」

「西宮さん、それは違います。私たちも西宮さんと同じ思いなんです。だから分かってくれるはずです」

「・・・全然分かりません!私の食事が二人の役に立つはずがない!!」

「分かってください。西宮さんが私たちを思ってくれるように、私たちも貴女が心配なんですよ」

「お二人と私とじゃ、状況が全然違います!命懸けで戦っている人と、私なんかじゃ全然違う!!」

「そうやって私たちのために心を砕く度に、泣いておられるのではと、食事をとられていないのではと、心配で私たちも何も手につかなくなってしまいます」

「私は大丈夫です!今までだって、ずっとそうしてきたんですから!私なんかのことを気にしないで、自分の安全のことだけを考えてください!!」

「もう私も美剣さんも、西宮さんのことを知る前には戻れないのです。ですから、どうかご自身を大切にしてください。それが私たちの為になることです」

「私だって一緒です!あっ─」

 何度も同じような問答を繰り返し、愛夢は漁火が導いてくれた答えに辿り着いた。

 そして気付いた。この問答は昨日、自分が漁火としたものであることを。

 漁火は何度も愛夢と同じ思いであることを口に出して伝えてくれていたのに、そのことに中々気付くことができなかった。

 漁火はいつも通りの優しい笑顔で愛夢を見つめていた。

「私が心配をかけたら・・・追弔に影響しますか?」

「ええ、それはもう大いに影響します!ですが、食事をちゃんと摂るとお約束してくれるなら、私も美剣さんも、従来通りに追弔に集中できます!」

「・・・寮だと、他の人たちが同じ時間に一斉に集まるからどうしても嫌なんです。だから・・・お昼は無理ですけど、朝と夜は自分の部屋で絶対食べます!」

「できれば昼も食べてほしいところですが、及第点としましょう!これで安心して、お仕事ができます」

「約束します!だから・・・時々でいいんです。また今日みたいに、ここに来てくれますか?」

「えっ?」

「私、LETに入ることは諦められないけど、他のことはちゃんと漁火さんの言った通りにします!だから、漁火さんが嫌じゃないなら・・・また、お話がしたいです!」

 愛夢のその言葉を聞き、漁火は大きく息を吸いながら空を仰ぎ見た。そして、瞳を閉じ、頭を抱え、その姿勢のまま微動だにしない。

「漁火さん?」

「何故ここは私の職場じゃないんだぁ!戻りたくなぁい!ずっと!ここに!いたい!」

 愛夢も天井のLEDランプを見つめてみるが、そこには何も見えなかった。嘆く漁火に愛夢は問いかける。

「職場・・・?あっ!もしかして、またアスピオンがデコイにかかったんですか!?ここから遠いですか?」

「・・・いいえ、安心してください。アスピオンじゃありません」

「よかった・・・」

 アスピオンが出現しなかったことに、愛夢は胸を撫で下ろしたが、漁火の顔はまた赤くなっていた。

「もう少しでお昼休みが終わってしまいますね。名残惜しくはありますが、とりあえずこれをお渡ししておきます!」

 漁火はそう言いながら慌ててブリーフケースから大量の茶封筒を取り出し愛夢に渡した。

「これは何ですか?」

「差し出がましいことは重々承知しておりますが、私なりにLETと関係が深い仕事について、調べてまとめておいたものです」

「あっ・・・漁火さん、私・・・」

 LETに加入したいという思いに変わりはない。

 この漁火の気遣いを無碍にすることで、また昨日の二の舞になるのではないかという不安が頭をよぎる。

「思っていることを正直に言ってもらって構いません。私が西宮さんにとって最良だと思えた道は、貴女にとっては違うのでしょうから・・・」

「ごめんなさい・・・。やっぱり私は、美剣さんと漁火さんと同じ場所で一緒に働きたいです」

「分かりました。ですが、その資料に目だけでも通していただけないでしょうか?その中に西宮さんの心を動かすお仕事があるかもしれませんから」

「心を動かす?」

「はい、それは西宮さんの可能性の選択肢だと思ってください。好きな物、苦手な物、やりたい事、したくない事を考えて探すための資料です」

「可能性・・・?私なんかの・・・」

 漁火がくれた言葉は、鉄塔の上で美剣がくれた言葉と同じように愛夢の胸を熱くした。

 自分の未来を考え、可能性を一緒に探してくれる。理想の教師のような漁火の優しさに愛夢は全力で応えたいと思い、渡された茶封筒を胸に抱く。

 溢れそうになる涙を堪え、漁火の声に耳を傾けた。

「そうして悩み抜いて西宮さんが出した結論がLETに入るということならば・・・その時には入隊の書類をお渡しします」

「はい!ちゃんと全部に目を通します!考えます!」

「私も当初の予定の通りに西宮さんにプレゼンをいたします。来週、またここにお邪魔しても?」

「はい!私、待っています。漁火さんを!ここで!」

「その時は、また内緒で食事をご一緒しましょう」

「食事なんか無くてもいいからっ・・・漁火さんに会いたい!漁火さんが、私の先生だったら良いのに!」

 漁火がここの教師だったなら、きっと愛夢は学校が今よりも好きになっていた。彼ならば絶対に他の教師や生徒のように、愛夢のことを侮蔑したりしないという確信が持てた。

「うぐっ・・・ぃっ」

 漁火はシャツとネクタイをギュッ握り潰すように心臓を押さえた。

「ウグイ?あっ・・・!お魚縛りのしりとりですね!?イワナ!」

 川魚という縛りがあるのかもしれないので、愛夢は無難な魚の名をあげることにした。

「・・・素晴らしい返答でした。私も心ゆくまでお付き合いしたいのですが、あと数分で午後の授業が始まります」

 時計を見ると、昼休みは残り10分をきっていた。

「・・・私、早く大人になりたい。何にも縛られないで、漁火さんや美剣さんと沢山お話がしたい・・・」

「なっ・・・!まっ・・・ぐうぅ!!」

 漁火はまた胸を押さえ、椅子に座ったままよろけた。

「ナマズ?えーと・・・スネークヘッドで!和名ではライギョです」

「詳しいですね!続きの魚が浮かばないので、私の負けです」

 王道のドジョウを言わずに、漁火は愛夢に勝ちを譲ってくれた。そして席を立ち、帰り支度を始める。

「あの・・・今日は本当にありがとうございます。パンご馳走様でした」

「いいえ、こちらこそ楽しい時間をありがとうございました。では、お好きなパンをお取りください」

 愛夢は机の上にあるパンから自分の好きなものを探す。

 ピザパン、餡パン、クリームパン、焼きそばパン、パン・オ・ショコラ、どれも満腹なのに食欲を唆る美味しそうな見た目をしていた。

「これをいただきます!」

 愛夢はその中からパン・オ・ショコラを手に取り、漁火に見せた。

 甘いものを食べると幸せな気持ちになることを、最近になりようやく思い出した。

「では、残りは持ち帰らせてもらいます」

 満足そうに微笑んだ漁火は扉へと向かって歩いて行く。外まで漁火を見送りたかったが、予鈴のチャイムがそれを阻んだ。

「あっ・・・」

「さぁ、西宮さんは午後の授業に励んでください。私も仕事を頑張ってきますので!」

「・・・はい」

 扉に手をかけたところで、何かを思い出した漁火は咳払いを一つして愛夢に振り返った。

「昨日、宣言した通りに私は、もう二度と応接室には訪れません。次回よりこのお部屋を使わせてもらえるように臼井教諭にお願いしておきます」

 昨日漁火が愛夢に言った、二度とここにはこない、という言葉、それはもう二度と応接室には訪れないという意味にされた。

 まるで子供の屁理屈のようなことを言う漁火に、呆気を通り越して笑いが込み上げてきた。

「ふふっ、もう応接室は使えなくなってしまいましたね!あっははは!!」

 何がそんなに面白かったのかは自分でも分からない。だが愛夢は数年ぶりに声を出して笑った。

 そんな愛夢につられて漁火も、照れくさそうに笑い そして手を振り部屋を後にした。


 1時間前まで、昨日のことは愛夢にとってはこの世が終わることよりも深い絶望を感じさせる出来事だった。

 だが漁火が笑顔になれるような笑い話へと変えてくれた。

 午後の授業の開始を告げる本鈴が鳴り、愛夢は席つく。

 背筋を伸ばし、前を見据え、授業に取り組む。

 美剣と漁火に心配をかけないよう、恥じない自分になるために。

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