ママチャリに乗った女の子
気が付くと目の前を、一台の自転車がゆっくりとしたスピードで走っていた。
季節は恐らく5月だ。気持ちの良い青空の下で、自転車はなだらかな下り坂を進んでゆく。お母さんと思しき女性は、ペダルに足を乗せたまま軽くブレーキを握っている。後ろに取り付けられた座席には、3歳くらいの女の子が座っている。でも後ろ姿だから二人の顔を見ることはできない。
ああ、この光景は見覚えがある。僕は夢の中ですぐに思い出した。何故ならその光景は僕の人生の中で思い出せる、最も古い記憶そのものだったから。でも実際に後部座席に座っていたのは、その女の子ではなく僕自身だった。僕は母の運転する自転車の後部座席に乗せられて、流れてゆく景色をただ眺めていたのだ。
何故そんな光景を30歳になった今でも覚えているのか。その理由は簡単に言ってしまえば「この光景を覚えておこう」と、そう思ったからだった。
当時の僕にとって自分の周りにある光景は、恐らくほとんどが初めて見るものだっただろう。だから全ては圧倒的に新鮮だったはずだ。でもその時に僕は子供ながらに直感したのだと思う。自分が歳を取るにつれて、今目の前に見えている美しい記憶はいつしか失われてしまうことを。
そしてそのおかげで僕は今でも覚えているのだ。あの時に視界の中でゆっくりと流れていた両側の景色や、自転車を運転する母の背中や、頬に感じた優しい風や、そんな何もかもを。そしてそれを思い出すたびに、僕は3歳の自分に感謝することになった。「この光景を覚えておこう」と、心に誓った3歳の自分に。自分の一番古い記憶をこんな風に覚えていられることって、きっと素敵なことに違いないから。
その自転車は女の子を乗せたまま段々小さくなり、やがて僕の視界から見えなくなった。すると周りの風景が、まるで絵の具で塗りつぶしたみたいにぼやけて行った。