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何かが抜け落ちたように

でも恐れていた通り、ずっとしがみ付いて生きていた目標を失ったダメージは大きかった。それから夜になるまで、僕は力が抜けたように居間のソファーに座りこんでいた。トイレに数回行ったのを別にすれば、そこから立ち上がる気力もなく、背もたれに体を預けて中空の不確かな点を見つめていた。ぼんやりと視線を上に向けながら、僕は前にどこかで読んだマイケル・フェルプスの話を思い出していた。かつてオリンピックで金メダルを幾つも獲得した、言わずと知れた水泳界のレジェンド。フェルプスは週に6日ある練習が異常にキツいせいで、残りの1日は疲れ切ってしまってソファーから立ち上がる事すら出来なかったらしい。僕は肉体的には全然疲れてなんかいなかったけれど、精神的には彼に勝負を挑める位に疲れているかも知れないと思った。


午後になるとカーテンの隙間から光が差し込んで、その辺りに浮かんでいるほこりをキラキラと輝かせた。その光景は思いのほか美しくて、僕を少し困惑させた。それまで自分の住んでいる古びた狭いアパートに、「美しさ」なんてものを期待したことがなかったから。日が陰って夕暮れ時になっても、僕は自分の住むアパートに浮かんだほこりをただ眺め続けていた。


夕闇が辺りを完全に包み込んだ頃、僕の中には段々ネガティブな感情が湧き上がって来た。僕はようやく気が付いたのだ。自分がどうやら世間から取り残されてしまったらしいという事実に。その感情は前の年の2020年に、僕が嫌と言うほど戦い続けたのと同じ感情だった。不安、焦り、そして恐怖。僕はあの頃夜になると、妄想に支配されて自分は深刻な病気にかかっているのだと思い込んだ。そして不安が限界を超えるとパニックがやって来た。僕には、あの状態を上手く言葉にすることが出来そうにない。それほどの常軌を逸した精神状態だった。


あの頃は悩みを打ち明けられる人たちとのつながりが断ち切られていたせいで、絶望を感じて叫びだしたい気持ちになってもどこにも逃げ場はなかった。そんな時に頭に浮かぶのは、「自殺」という単語だった。でも僕は毎晩、恐怖をただ噛み締めることしか出来なかった。布団をかぶって、枕に顔をうずめながら。あれから1年が過ぎて僕はまだこの世界に生きているけれど、それは決して僕が精神的に強い人間だったからではない。僕はただ、死んでしまうのが怖かったのだ。


そして今再び、真っ黒い塊のようなものがニヤニヤと笑いながら、その黒くて長い手を僕の方へ着実に伸ばしていた。隔離が生み出した孤独が、見事にそいつらを蘇らせたのだ。未来にあるはずの目標にしがみ付いて生きることで、やっと彼らに別れを告げられたと思っていたのに。どうやら目標に依存して生きる今までのやり方は、不安に対する根本的な解決策にはならなかったみたいだ。僕は頭を抱えてしばらくソファーにうずくまっていた。不安や恐怖が、どこかへ魔法のように消えてくれるのを期待して。けれど時間がたってもそいつらはどこにも行かなかった。


でも前の年に繰り返された戦いと本が教えてくれた知識のおかげで、僕は一つだけパニックへの対処法を身に付けていた。どんな苦しみがあってもただじっとして、自分の吸って吐く呼吸に集中すること。そうすれば恐怖心はいつか峠を越えてゆく。パニックに陥った時に人は動き回りたくなるものだけれど、それは長い目で見れば逆効果にもなり得る。無理やりに抑え込んだ恐怖は、またどこかで顔を出すものだから。5分か10分くらい呼吸に集中していると有難いことに少し落ち着くことが出来た。


僕はソファーから立ち上がり、冷蔵庫にあったものを使って簡単な夕食を作った。納豆ご飯と味噌汁、そして野菜炒め。食べ終わった皿を流しに適当に積んでから、パソコンを立ち上げてYoutubeでゲーム実況を見た。なるべく何も考えずに見れて笑えるものを選んで、そればかりずっと見ていた。ゲラゲラと笑っていたら、少し気分が晴れたのを感じた。寝る前に体温を測ったら36度台だったので、ほっとして僕は眠りについた。

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