初日の朝
隔離初日の朝、僕は何も思いつかずにとりあえずキッチンに立ってお湯が沸くのを待っていた。部屋はやけに静かで、時計の針が鳴らす小さなカチ、コチという音だけが響いていた。きっと周りの部屋の人たちが仕事に出かけたせいだろうと僕は思った。僕の住むアパートの住人は一人暮らしの会社員が多いのだ。コーヒーの粉が入っている缶の蓋を開けると、酸味の効いた独特な匂いが鼻腔を刺激した。豆の産地は確かコロンビアだった。近くのコーヒー専門店で、店員に勧められるまま購入したものだ。
普段の朝は忙しすぎて、コーヒーをゆっくり淹れている時間なんてとてもない。本当はもっと早く起きればいいのだけれど、学生の頃から続いてしまっている夜更かしの癖を直すのは中々難しかった。こんな時だけれどせっかくだから、いつもより時間をかけてコーヒーを淹れてみるのもいいかとふと思った。僕はドリッパーに茶色いフィルターを敷いて少し水で湿らせ、計量のスプーンで2杯分粉を入れた。お湯が沸いたら、ドリップポットの蓋を開けて温度が下がるまで少し待った。何かの本に、コーヒーを淹れる時の温度は百度よりも少し低い方がいいと書いてあったから。お湯が熱すぎると、コーヒーの苦みが強く出てしまうらしい。お湯は円を描くように、少しずつ丁寧に。そうすると心地の良い香りが、僕の住むアパートの部屋に広がって行くのが分かった。やがてコーヒーポットには、十分な量のコーヒーがたまっていた。
冷蔵庫にあったドーナツをかじって淹れたてのコーヒーを飲みながら、僕はさっき見た夢についてぼんやりと考えた。あの夢は一体何だったのだろう。自分が精子となり、子宮の中を泳ぐ夢。僕が普段見る夢とは全く異質な夢であることは間違いなかった。
時計の針は朝10時を回っていて、窓の外からは近くの公園で遊ぶ子供たちの笑い声が聞こえていた。平日のこんな時間に家に居るのなんて、いつ以来だろうか。僕はマグカップを片手に、昨晩見た奇妙な夢について考え続けていた。でもいくら考えても、謎の糸口が見つかることはなかった。
やがて僕は頭を横に何度か振って、「馬鹿馬鹿しい」とつぶやいた。
夢なんて、どこまで考えても結局のところ夢でしかないのだ。昔付き合っていた彼女が夢占いにハマっていた時も、僕は占い師の解釈をまるっきり信じてなんかいなかった。いくら仕事がない日々が来てしまったとは言え、こんなことを考え続けても仕方がない。僕はふっと息をついて、流しで皿とマグカップを丁寧に洗った。