ある日の仕事で
気が付くと、僕は汗だくで息を切らしながら寝室の天井を見つめていた。夢の中で自分が落ちて行った深淵の恐怖が、脳内にまだありありと残っていた。
壁掛け時計の針は、9時少し前を指していた。反射的に仕事へ行かなければという思いに駆られて体を起こしたが、そこで昨日起きた出来事を思い出した。
「そっか。今日仕事行かなくていいんだ」と僕は放心したようにつぶやいた。
2021年夏のある日。それは、いつもと同じように代り映えのしない一日だった。出社して僕がパソコンに向かっていると、隣の席の谷本さんが話しかけてきた。
「それでねー、竹田さんと昨日レストラン行ったんだけど、もうみんなコロナなんてなかったみたいに満席だったわよお。食事中ももちろんマスクなんてつけてないし。みんな困っちゃうよねえ、ほんとに。ねえ、高瀬くん聞いてる?私の話」
僕ははいはいと相槌を打ちながら、視線だけはパソコンの画面をしっかりと見つめていた。谷本さんが僕に、自分の話したい事を延々と話し続けるのは毎日のことだった。僕も隣の席になって最初の1週間くらいは一応手を止めて話を聞いていたのだけれど、そのうちにこんなことをしていたのでは仕事にならない事に気が付いた。この人はとにかく、飽きてしまわない限り話が止まるということがないのだ。子育てに一区切りがついた四十代女性って、誰でもいいから話を聞いて欲しいのだろうか。
「日曜にコンサート行った時も、普通に満席だったからねえ。もちろん、クラシックのコンサートだから騒いだりとかはしないわよ?でも気になるわよねえ、あれだけ席の間隔が近いと」
谷本さんがコロナを気にしているとはとても思えなかったが、僕はとりあえずそうですねと言いながら、来週のプレゼンの資料を作成していた。
昼休みになると、谷本さんは他の女性社員と一緒にランチに出かけて行った。僕は時間が勿体なかったので、コンビニでパンと唐揚げを買ってきてむしゃむしゃと食べながら資料の続きを作成していた。今回のプレゼンの結果次第では部長に企画のリーダーを任せてもらえる可能性があって、自分にとっては結構な山場だった。
昼休みが終わっても何故か谷本さんは戻ってこなかった。僕は念のためフロアを見回してみたけれど、谷本さんの姿はどこにもなかった。これは結構珍しいことだった。谷本さんは話してばっかりで仕事は大してしない人だけれど、時間を守ることに関しては恐ろしいくらいに正確なのだ。その谷本さんが午後の時間になっても来ないということはつまり、何か予想外のことがあったということなのだ。何だか良く分からないけれど嫌な予感がした。