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電話

夕飯に頼んだ出前の弁当を食べ終わったあと、僕は冷蔵庫に残っていた最後の缶ビールを飲んでいた。冷房をつけていなかったせいでビールは既に生ぬるくなっていた。そのビールは口の中に気だるい苦みを残しながら、喉を伝ってゆっくりと胃の方へ流れて行った。それはまるで友人の結婚式に自分だけ呼ばれていなかったことを後で知ったみたいな、そんな気だるい苦みだった。半分くらい飲んで僕はグフっと一つ、大きなげっぷをしてソファーにもたれかかった。


時計が9時を回った時、僕は唐突に綾香に電話してみることを思いついた。突然夜に電話するなんて迷惑だろうと思ったのに、気付いたら僕は携帯の電話帳をタッチして彼女に電話をかけていた。普段なら止めていただろうけれど、隔離の寂しさが僕にそうさせたのかも知れなかった。それなのに、耳元でコール音が鳴り始めた時には僕は既に後悔していた。綾香と話すのなんて10年以上ぶりで、どうせ彼女は電話に出ないだろうと思ったから。でも驚いたことに、コール音が5回ほど鳴った時に綾香は電話に出た。


「もしもし」という小さな声がした。

明らかに大きな声を出すのを避けているのが電話越しにも伝わって来て、

「あ、ごめん今大丈夫だった?」と僕は慌てて聞いた。

「ちょっと待って。今移動するから」

綾香が床をそっと踏みしめる足音とドアを開ける音がした。背後でバタンとドアを閉めてから、「ねえ、何なのこんな時間に?」と彼女はあきれたように言った。

僕はどう説明したら良いのか思いつかずに、「まあ、ちょっとね」と答えた。電話の向こうでは誰かがシャワーを浴びている音が聞こえた。


「まさか、あれ?「香水」に影響でも受けたの?」と綾香は少し笑ったような声で言った。

そのおかげで僕も緊張がほどけて、

「いや、それは考えてなかった」と言って笑った。

「ねえ電話する時間くらい考えてよね?やっと子供寝かしつけたとこなんだから」と彼女はため息をつくように言った。

「あー、子供?そっか」

「そういえば直人には言ってなかったもんね。子供が2人いるの。上が男の子で下が女の子」

「なるほどね」と言いながらも、僕の頭は上手く働かなかった。30歳の女性に2人子供がいても何ら驚く事ではない。それは分かっている。でも僕の中の彼女は高校生のまま時が止まっていたから、それはずっと現実離れした話のように聞こえた。

「ねえ、何なのその反応?やめてよ」

「いや、ごめん。というか、ありがとう」と僕は言った。

「何が?」

別の世界で転校生の高瀬夏帆に話しかけてくれたこと、と僕は言いかけて唇を噛んだ。さすがに頭がおかしくなったと思われそうだった。


「えーっと、綾香と付き合ってた頃に楽しい思い出をくれた事かな?」と茶化すように言って誤魔化してみた。

「それを言うためにわざわざ10年ぶりに電話かけてきたの?しかも夜に?」と怪訝そうに彼女は尋ねた。

「ごめん、迷惑だった?」

綾香は電話の向こうで少し考えてから、

「いや、いいよ。私ももしかしたら誰かと話したかったのかも。というか直人と話したかったのかも。今話してて何か落ち着いた気がするから。最近色々抱え込んで疲れちゃうことが多くってさ」と言った。

「そっか。そんなら電話かけて良かったわ」と僕は少し安心して言った。

「ねえ、またいつか会いたいね。今は無理だろうけど」と綾香が言った。

「コロナが終息する感じ、しないもんね。でもいつか同窓会とかで集まりたいよね」

「うん。じゃあ、そろそろ寝るね?旦那が風呂から出てきたら困るから」と彼女は声を落として言った。

「おっけ」

「ねえ、今夜は月が綺麗みたいだよ?」と綾香は楽しそうに言って、電話を切った。


僕はしばらくの間何もない空間を眺めていた。何だか自分の青春がすごいスピードで走り去って行ったのを目の当たりにしたような、そんな気分だった。今まで考える暇もなく生きてきたけれど、僕はもう30歳なのだ。当然、子供ではないし、たぶん青春でもない。でもいざその事実を突きつけられてみると、僕の中でセンチメンタルな謎の固まりが膨れ上がって、何とも言えない気持ちになった。しばらくすると、その固まりはジェットバルーンみたいにしぼんでどこかへ飛んでいった。


窓辺に立って夜空を眺めてみたら、いつもと同じような上弦の月が浮かんでいた。何の変哲もない、上弦よりも少し太った月だ。綾香が今夜は月が綺麗だと言った理由が良く分からないまま、僕は生ぬるいビールを片手に月を見上げていた。雲がゆっくりと風に流されて、うさぎが餅つきをする様子が見えたり隠れたりしていた。「月が綺麗な夜だ」と試しにつぶやいてみたら何だか楽しくなってきて、僕はにっこりと笑った。

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