死際斑
「あの時と同じ、天気もいいし海も綺麗だなあ」
温かい海風を受けていた。僕は思い出の地となる、この林の中、少し開けた斜面に座り、水平線をジッと見つめて吐き出すように呟いた。
「もっと……もっと……こんな綺麗な景色を見たかったなあ」
空を見ると、トンビが雲一つ無い真っ青な中、グルグルと飛び回っていた。が、突然、急に林の中に向かって降下したが、又、上空へ上がり再びグルグルと回っていた。僕はそのトンビを眼で追っていた。
「エサは取れなかったか?そうか……。でも、生きていくんだから負けるなよ。何度も何度も負けるな……よ」
いつしかトンビに一人声を掛けては、それに気付き、思わず自分自身軽く笑ってしまった。誰も来ないことは分かっているのに、つい周りを見てしまった。
「お前は頑張れよ。でも、僕は……僕は……ダメだ」
何度も頭を左右に振っていた。
「僕も……僕も何度も何度もお前のようにぐるぐる飛び回ったよ、でも……でも!」
一人で少し声を荒げた。そして、頬をつたった温かいものが右手の甲に落ちた。両手は全身が震えるほど強く握りしめていた。
「とうとう尽きた……、僕は疲れてしまった……。もう僕は勝てない」
頭を垂れると頬をつたって何滴も何滴も今度は斜面の土に染み込んだ。
「すまない……芳美、僕は僕なりにこの半年間頑張ってみたんだよ。でも、ダメだった……」
頭を上げ、もう一度水平線に眼をやった。キラキラした海は太陽のせい?それとも涙のせい?もはや判断が付かなかった。
「芳美、ありがとうな、本当にな。今、もう僕ができるたった一つの事……それは自殺。そうすれば家のローンは終わるし、少しだが保険金も残る」
僕は力無く傍にある大きな木にゆっくりとつかまりながら立ち上がった。そして、大きく息を吸い、ため息のように吐いた。
「これが僕の……人生……なのか。これが僕の48年の集大成?僕は無責任だよな、一人だけ楽になろうなんて」
そう言って吹き出すと筋肉が緩むように顔がにやけてきた。
「まあ、いいや。僕の事は忘れて……」
そう言うと、急に声が詰まった。何かを言おうとすればするほど、どうしてもそこから先の言葉が出てこない。しばらくは黙っていた。
「とにかく、芳美、生きてくれ!頼む、僕の分も生きてくれ!」
もっと違う言葉を選択しようとしたがやはり出なかった。最後の言葉であっても、妻である芳美にこの言葉を伝えることはできない。そう思えば、この言葉でもいいと思った。自分自身に納得させると、覚悟を決めて横に置いていた白いスーパーの袋からロープを取り出した。真っ白な白いロープ。そのロープを掴む手が大きく震えているのが分かった。
「決めたのに……決めたのに……」
知らずに声が漏れていた。今度は全身が震えて来た。正直怖かった。それでも、ロープを枝にかけて端を、震える手で強く強く結んだ。
「最後の光景だ……」
そう呟き眼は閉じたままで妻の顔を瞼に焼き付けていた。時間では30秒、いや1分、いや5分……いや、やっぱり、分からなかった。ただ、自分的に踏ん切りがついた。いや!無理やり踏ん切りをつけた!
「さあ!」
無理やり自分に声を掛けると、飛び上がって、ロープの輪の中に首を突っ込み……。
「これで終わり……。え?あれ?あれ?何だ、ここは?」
僕は一人ポツンと立っていた。何が起きたのかが全く理解できないでいた。恐る恐る周りを見回して見ると、ただ、真っ暗な空間があるだけだった。下手すると自分は空間に浮いているような感覚にさえ思えた。ただ、不思議なのは真っ暗なのにハッキリと周りが見えた。
「僕は首を吊って……でも、僕は、まだ?」
何を見ている訳でもないが、ただ、前をジッと見ていた。すると、突然、
「ああ、すいません。ちょっと遅くなりました。申し訳ありません」
横で声が聞こえてびっくりして振り向いた。見るとグレーの制服?っぽい格好の男が立っていた。将に降って湧いたような感じだった。
「あ、あ、あなたは……誰?ですか?」
そう震える声を出すのが精一杯だった。
「再び申し訳ありません。まだ説明不足で」
そう笑ったようだったが、その顔を見ると、ナント!その男?の顔がハッキリと見えない!つまり、目、鼻、口とある筈なのに、まるでモザイクがかかっているようで顔の輪郭すらよく分からない状態だった。だが、不思議と恐怖は無く、むしろ、それが当たり前のよう思えて不思議だった。僕はハッキリしない、たぶん声で男だと思う、その顔をジッと見るしかできなかった。
「申し遅れました。今回、山中良一様のサポートをいたします、メイドとなります」」
「え?何を言ってるんですか?しかも、メイドさんって若い女の子でしょ?」
「あ、いえいえ、この字ではなく」
男は掌を出して、
「冥途って書きます」
漢字で書いてくれた。
「どういう事?冥途って……あ、そうか!僕は死んだんだよな」
僕の声が急に小さくなってきた。その声を聴き、男は首を横に振った。
「確かに山中様は自殺をいたしましたが、まだ、あの世には到着しておりません。今、あの世に向かう途中になります。そこで」
男は楽しそうな声で
「その道で迷わないように、この私、メイドがサポートいたします!」
大きく頷いた。その言葉を聞き、僕も少し納得した気がした。
「そうか……、これで、お別れだな……。じゃあ、メイドさん、僕を連れてって下さい」
「承知いたしました。では、私の後ろから付いて来て下さい」
そう男は前を歩いたが、実は下を見ても何も見えず、床の感触も無い真っ暗な、でも、前はよく見える、という理解出来ない不思議な空間を歩いていた。
「あのう、メイドさん、名前はあるのですか?なんと呼べばいいのですか?」
背中を見ながら聞いてみた。後ろから見ると僕とよく似た細身の感じがした。
「ああ。皆さん、面倒だからメイドさんって言います。【冥途】って漢字が怖いじゃないですか」
男の肩が軽く上下に動いていた。軽く笑っているのが分かった。
「じゃあ、メイドさんって呼びますね。メイドさん、どうして僕の名前を知っていたんですか?ずっと僕の傍にいたんですか?」
「ハハハ!私は死神じゃありませんよ」
そう言うとクルッとこちらに振り向いた。相変わらず、顔は良く見えないが、なんとなく表情が分るようになって来た。
「山中様の名前は……ですね」
男は胸ポケットからスマホを取りだした。それを見て僕は驚いた。『この世にもスマホ!それに、電波……いや、もしくは霊波?……飛ぶんだ!』心の中で呟いた。
「このスマホに直前にデータが飛んでくるシステムになっています。だから、山中様の全てのデータがこれに載っています。例えば」
男は楽しそうに指で滑らせて、
「半年前に会社が倒れ、山中様は再就職を捜し始めた。でも、なかなか採用にならず、出した履歴書は29通!すべてダメだった。家の貯金は既に無くなり、もはや、食べることに事欠き始めた。そして、山中様は自殺をなさった」
男はスマホの画面を僕の目の前に見せた。僕は思わず顔を背けて、
「もういいよ!どうせ死んだんだから!」
突き放すように言うと、今度は男の横をすり抜けて歩き始めた。
「あ、でも、山中様、あと2通ほど履歴書が残っているようですが?」
後ろから男が追い駆けて来て声を掛けると、
「そんな物はもういらないよ!どうせダメだし、もう見たくも無い!しかも、もう死んだんだ!関係ない!」
僕は嫌な記憶を話されて少しイラっとした。
「それより、あなたは僕の天国へ行く為のサポートだろ?」
僕は振り向き睨みつけるように、その男の顔に近づいた。近づいてもやはり顔は良く見えなかったが。
「し、失礼いたしました。では、参りましょう」
今度は男が僕の横をサッとすり抜け歩き始めた。僕はそれを見て、ただ、後ろに着いた。数分間無言のまま歩き続けた。
相変わらず、真っ暗な、上下左右すら分からない空間をただ、この男と歩き続けていた。
「メイドさん、どこまで歩くんですか?」
もう僕の感情は穏やかになっていて、不満ではなく、単に、疑問を声にした。
「もうすぐですよ」
その男も特に何の感情も無かったようだった。機嫌を損ねなくて良かった。
「ほら、光が見えてきました。あれが駅です」
そう言うと男は指を前に突き出した。
「駅?」
僕は目を凝らすように前にある小さな光を見つめた。すると、一瞬にして、その光が僕たちを包んだ。ものすごい明るい光で僕は目を覆った。と、同時に急に周りがザワザワし始めた。ハッとして、目を開けると、今度はなんと駅の前に立っていた。空間が明るくなっていた。
「え?どういう事?この駅は?」
意味が分からず、男に尋ねた。
「これが【入天駅】になります」
男は当たり前のように僕に話してくれた。確かに、見えたままだった。
「い、いや、そうじゃなくて、どうして僕は駅の前にいて、というか、こんな駅は見た事は無いし」
僕はキョロキョロとして周りを見ると沢山ではないが、何人かが駅に向かっているのが分かった。その人たちを見ると、将に今の僕たちのように一人の人間と制服を着た男のペアになって歩いていた。言うまでも無いが、制服を着た、あの男たちの顔もモザイクで見えないでいた。よくよく制服を見ると駅員のようなイメージがあった。だから駅に来たんだ……。
「メイドさん、これはどういう?」
この状況が何なのかが知りたくて男に尋ねようと顔に向けると、
「ああ。ちょうど私たち含め5組、全員冥途行の列車に乗る為ですよ」
すぐさま、嬉しそうに答えてくれた。それを聞き『ああ、これで終わりなんだなあ』思わず寂しくなり、つい、後ろを振り向いて見た。先程と違い、今度は明るい空間がずっと続いて端っこが見えなかった。『戻ることも無いか……』呟いて前を見ると男が駅の券売機の前で待っていた。あとの4組は改札口を通ってプラットホームに向かっていた。
「メイドさん、僕、お金が無くて……六文銭すら無いですよ……あの世でもお金が無いのか、僕は!」
自分が情けなくて仕方が無かった。その様子を見て、男が慌てて、
「いえいえ、違いますよ!山中様、お金なんかいりませんよ!それに今どき六文銭なんて、どうせならスマホ決済の方が楽ですよ。まあ、元々お金は必要ありませんから、大丈夫です」
男は冗談ぽく笑って言った。
「え、でも、その券売機で切符を」
「券売機ではないです。よく似ていますが」
そう言うとボタンを指差してくれた。僕は機械に近づいてジッとボタンを見ると確かに金額は無く、数字が1からずっと並んでいた。
「メイドさん、この数字は何の意味なんですか?」
僕の質問に男は大きく頷いた。
「この数字は過去に戻る年数を表しています」
男はボタンを押す振りをしながら答えてくれたが、やはりピンと来ない。男は僕の表情を見て、さらに続けて言った。
「この冥途行列車は一度だけ過去に止まります。皆さまがあの世に行く前にもう一度懐かしい場面に実際に戻り、その楽しさを見て感じて、そして、納得し、この世との別れを決意していただくオプションです!」
男は自慢げに話した。
「【その時】に戻れるのですか?」
「ええ!でも、ちょっとしたルールはあります。そのルールを破ることがないように私たちがメイドとして添乗するのです!」
相変わらず自慢げに言い切った。何故、この男が突然僕の傍に現れたのか、の意味がよく分かった。
「さっきオプションと言いましたが、過去に戻らず直接あの世に行く人もいるのですか?」
男は直ぐに首を横に振った。
「皆様、やはり、未練があります。必ず、一度戻られます。そして、その時の楽しさ、あるいは疑問があったりしたものをもう一度確認、という事でそれが分かって納得なさる、その為のものですから。中にはここから帰らない方もいて困るのですが」
男の声は穏やかで、そして、優しく、心に沁み込む感じがした。心地よい声だった。
「じゃあ、僕も戻ります、というか、戻ってみたい日があるんです!」
僕はニッコリとして伝えると、男は大きく頷いてくれた。
「では、何年に戻られます?その希望年数のボタンを押してください」
そう言われて、僕は迷わず「2」を押した。
「次に月日を押してください」
僕は「10」と「20」を押した。つまり戻りたいのは2年前の10月20日!僕は男に頷くと、男も大きく頷いてくれた。そして、スマホをポケットから出すと、
「あっ、ちょうど【2年前行】列車が出ます!急ぎましょう!」
叫ぶと急いで走り出した。僕も、一緒に走りながら、
「メイドさん、もし、乗り遅れればどうなるのですか?」
息を切らせながら尋ねると、
「この列車はランダムで出発いたします。だから、乗り遅れると希望年数に行けません。いつ出発するか全く分かりませんから!」
男は僕と違い息が全く切れなかった。全く普通に話を続けた。
「山中様、ラッキーですよ。ホラ、あの列車ですよ!」
指差した先にあるレトロな〈列車〉が見えた。むしろ僕より男の方が喜んでいるように思えた。既に自殺した僕に「ラッキー」もクソも無いような気がして笑えた。
僕は列車の前に立ち止まり、息を整えた。そして、もう一度列車を見た。確かに写真でしか見た事のないような列車で、内装は全て艶のある木製で出来ていた。
僕はユックリと列車に入り中を見ると、車両前にお婆さんと同じく顔がモザイクになっている別のメイドさんが楽しそうに話していた。そのお婆さんの添乗員なのだろう、と思った。僕はあえてお婆さんとは反対の車両に行った。窓側の緑色の生地で覆われた座席に座った。男は僕の対面に座った。
「時間が遡る風景ってどう見えるんですか?どの位かかるのですか?」
僕は窓の外を見つめたまま尋ねた。
「何も見えません。列車が動くとまるでトンネルのような真っ暗な中を走ります」
「えっ?」
思わず、男に振り向いた。男はジッと僕を見つめていた。
「この世界は距離も過去も未来も時間さえも何もかもが一緒になった、時空間が歪んでいる不思議な世界です。だから、どのくらいで【2年前】に戻るかは分かりません」
そう言うと、今度は男が窓の外に眼をやった。僕は少し残念だったが諦めて、また、僕も外を見つめた。
大きなベルが鳴り響いた。すると列車が動き始め、すぐに回りが真っ暗になった。一番最初に、この世界に入った時のように真っ暗な世界になった。少し、列車の動く音が聞こえ、その振動が伝わった。ただ、何も見えない為ジッと静かに窓を見つめるしかなかった。
「ところで山中様は」
男の声でビクッとして、男に振り向いた。
「どうして2年前の10月20に戻られたのですか?」
初めての僕への質問だった。僕は一瞬、言葉が出なかった。何だか恥ずかしい気がしたからだ。ただ、今後このような話をすることは二度とない、と思うと最後くらいは聴いてもらっても良い気がした。僕は全てを話してスッキリあの世に行こうと決めた。
「実は、僕たち夫婦は約20年間で旅行をしたことが無かったんです。正直生活もあまりユトリもありませんでしたし」
僕は少し恥ずかしいように下を向きながら話をしていた。
「だから、唯一したのが2年前の旅行でした。僕たちも、ものすごく、特に芳美も喜んでくれたんです。旅行先は僕が自殺した……場所です」
「自殺した場所、それが初めて旅行した所だったんですね」
男は、顔はモザイクだが、何だか、優しいような目で僕を見ているように思えた。僕も頷いた。
「その首を吊った、その思い出の場所で、二人で弁当を、芳美が作ってくれた弁当を一緒に食べたんですよ、もう、それがおいしくて」
そう言うと、思わず目を閉じて思い出すと、すこしニヤけてしまった。
「今まで食べた料理、いや!世界のどんな高価な料理よりもはるかに芳美が作ってくれた弁当が一番ですよ!」
僕は自慢げに男に話した。男は何度も頷いてくれていた。
「ただ、その日、弁当の件で、お互いの記憶がかみ合わないところがあったんです。それが何だか知りたいと思っていたんです。その時に【戻れる】なら知りたいと思っていたんです」
「なるほど、だから、2年前の10月20日なんですね」
「ええ。実は弁当は一つを二人で食べたんです」
「二つ作らなかったんですか?」
「いえ、二つ作ったんですが、芳美が言うには、僕がトイレから戻った時に一つ渡したって言い、僕は、僕がトイレに戻った時に芳美が落としたって言ったんです。お互いの話が違うんです。まるで芳美が二人いるような感じでしたね」
そう言うと少し首を傾げて思い返していた。
「結局は、弁当は一つだけになり、それを二人でその場所で食べたんです。ある意味、思い出深いでしょ」
僕は笑って話した。
「それを今、真実を知りたい!っていう事ですね」
僕は何も言わず大きく頷て見せた。
「だから、今でも、たまに、妻と話をしていると、よくこの弁当の話をしながらお互い笑い合っていましたね。そう思うと記憶の真実とは別に最後にもう一度あの弁当を食べたい気がしますね」
僕は急に思い出して目を閉じた。しばらくして目をゆっくりと開けて、
「これが、僕にとっての最後の楽しい思い出になりました。あとはあまり良い事が無くて……」
呟くと、また、真っ暗な外に眼をやった。
男は鏡のようになった車窓に映る僕に眼をやり、その後、スマホを取り出しチラッと見た。
「確か、奥さんは1年前に大手術をされましたよね。生死を彷徨うほどの」
「ええ。心臓に問題がありまして。1週間危篤状態でしたが奇跡的に助かりました。本当に良かったです。でも」
そこで言葉に詰まってしまった。そして、上を見上げた。
「悪い事って続くんですよね。3ヶ月経って退院になったんですが費用も結構掛かりました。元々、給料も多いわけでもなく、貯金も殆ど無い我が家では家計的には芳美以上に死に体に近かったですね」
思わず失笑してしまった。
「どうにか、頑張って、と思った途端に会社が倒産。そこからはある意味、生き地獄でしたね」
無意識に僕は床にある一点を見つめていた。
「どんなに再就職をしようとしても、全部、不採用。これを半年続けていましたね。でも、家計はどんどん悪化!死にたくもなりますよね」
思わず笑ってしまった。
でも、男は、もちろん顔は分からないが、笑っているようには思えなかった。今度は僕の顔が真剣になった。
「この直前に2社ほど面接をしましたがどうせ無理です。僕では無理です。だから、あとは芳美をどう楽にしてあげるか、しか考えられなくなったんです」
「その結論が……ですね」
僕はニッコリとして男に顔を見せた。
「ええ。最善の方法だと思います。少し保険金も出るし、家のローンも消える。唯一、残せる財産ですよ。それに……僕自身、楽になるし」
僕はスッキリとしていた。後悔など無いと信じていた。
男はそれを聞いていて何も言わず、おそらく優しい目で僕を見つめていた。
「さ、さあ」
僕は話を変えようとした。もうこの話を思い出すには辛くなった。
「もうすぐ『2年前』に到着するくらいかな」
真っ暗な窓の外を見えるかのように笑顔で見つめていた。男も軽く頷いて、
「そうですね、そろそろ、ですね」
ちょうどその時、車内アナウンスが鳴った。
〈間もなく2年前、2年前。お忘れ物の無いようにお願いいたします〉
僕は外を見つめた。真っ暗な中に駅が見えてきた。
列車が静かに駅に入り、止まると、扉が開いた。前を見るとお婆さんとメイドさんが出ていくのが見えた。僕はお婆さんが出て行った後に列車から出た。駅を見回したが、周りは暗いままだった。
「メイドさん、ここが……『2年前』ですか?全く何も見えないんですが……」
僕がキョロキョロとしているのを見て、男は、
「大丈夫です!」
自信気に行った。「まあ、そうなら」とサッサと改札に向かうと、
「少し待って下さい。注意事項があります!」
男が突然僕を引き留めた。
「え、注意事項?」
「はい。これをお伝えしないと、いや、この為に私たちがいる!という意味になります」
僕はキョトンとしてしまった。男は僕の事など意にも介さず話を続けた。
「必ず、ここでは私の言う通りにして下さい。でなければ、とんでもない事が起きます!」
「ええ!とんでもない事!それは」
「はい!必ず、その当時の本人に見つかってはいけません。その為に、私が色々な環境を監視し、本人に見つからないように指示を出します」
「もし、見つかったら?」
「俗にいうドッペルゲンガーです!同じ空間に同じ者を見てはいけません!もし本人に見られてしまうと、結果、霊体側の山中様は一瞬にして消え、規則違反で地獄へ直行!本人も近々召喚となります!」
「た、確かに地獄行は、嫌ですし、自殺する前に消えるという意味不明なのも……」
男は大きく頷いた。
「でも大丈夫です!その為に私が添乗していますから!」
何だか頼もしく感じた。
「わかりました!よろしくお願いいたします!」
僕が頭を下げると、
「良かったです。聞いてもらえて。中にはこの時に戻って嬉しくなるのか、勝手に動き回って、困ってしまう霊もいるんですよ」
男の声から安堵感が伝わった。
「では、改札を出る前に」
男はそう言うと、ポケットからスマホを取り出して、僕の姿とスマホを交互に見て、「あ、これだ!」
言うと指をパチンと鳴らした。一体、この男は何をしたんだろう?僕の頭の中は「???」だった。
「山中様、これで大丈夫です!」
「え?何が?」
「その服です」
そう言われ僕自身を見てみると、あの旅行時の服装に変わっていた!
「すごい!いつの間に!」
「これで、当時の奥さんに会っても大丈夫ですよ」
僕は芳美と話を、いや、声すら聞くことも無いと思っていたから、嬉しくて自然に涙が流れた。
「メイドさん、ありがとう!ありがとう!」
繰り返してお礼を伝えた。男も満足そうに頭を掻いていた。
「さあ、改札を出ましょう!」
男と一緒に出ると、今までの真っ暗な世界から一瞬にして旅行先の風景に変わった。
「え?どういう事?……すごい……」
僕はただただ驚いて周りを見ていた。そして、すぐに記憶が蘇った。たくさんの観光客、あの綺麗な海、青い空、そして、トンビが回っていたことも。僕は時間を忘れて、ただ、その場に立ち止まっていた。
「さあ、行きましょう!」
静かに男に促されて歩き出した。その時、ふと気付いた。
「メイドさん、僕やメイドさんは周りの人に見えるのですか?」
僕が見るメイドさんの顔はモザイクが入っている。周りの人が、同じようにモザイクが入った人だと見えると、目立ってしまい過ぎだったからだ。もっと言えば、変な人間に見える。
「ハハハ。大丈夫ですよ」
楽しそうに質問に答えてくれた。
「現在、山中様は霊体ですので見えません。でも、改札を出た所で霊を具象化いたしました。ですので、今は、他の人にも普通のように見えるようにしています。ただ、私は出来ません。ですから、山中様だけ見えます。他の人には私は見えません、声も聞こえませんから、ご安心を!」
なるほど、と頷いた。僕は当時の記憶を思い出していた。
「そうだ!この場所でトイレに行ったんだ!その時に話が食い違ったんだ!と、いう事は、ここで全て分かる、という事だ!」
僕は嬉しくなってきた。ずっと分からなかった事がとうとう判明する!これが分かるまで死に切れないとずっと思っていたからだ。逆に分かると直ぐに死ぬ?僕は眼を閉じ、もっと深く記憶を辿っていった。
「思い出した!あの先を右に行くと海岸洞窟があったんだ。その入り口に入る時に、トイレが行きたくなってトイレに行ったんだ!」
僕はそこへ走ろうとした。
「ちょっと待って下さい!」
そう言って男が僕の腕を掴んだ。僕は驚き男に振り向いた。
「え、どうして?」
「さっき言ったじゃないですか。今、そっちに行くと当時の山中様本人がいるじゃないですか!すると、見つかりますよ!消えちゃいますよ!」
「あ、そうか!」
さっき聞いたばかりだったが、あまりにも妻に会いたくて、その事を忘れていた。意味は分かっていても、やはり、はしゃいでしまう理由がよく分かった。僕は申し訳ない、と男を見ると、たぶん、ニッコリしているような声で、
「気を付けて下さいよ。まあ、皆さん、最初はやりますから」
相変わらず優しい言葉で返してくれた。僕も少し微笑んだ。
男はスマホを見つめて何かを確認すると、一度小さく頷いた。
「あと、3分後に山中様本人がトイレに向かいます。トイレの場所は駐車場の横。つまり」
「そう!あのトイレは遠い!そして、そのトイレが混んでいた!」
僕は嬉しくて声を上げた。
「仰る通りです。約10分間ですが、ご本人が離れます」
「そこか!その時だな!芳美と話ができるんだな!」
再び嬉しくて体が震えだしていた。遠くで僕らは物陰に隠れてタイミングを見計らっていた。
「あ!来た!」
僕は僕自身を見て、ふと、不思議な感覚を覚えていた。しかし、そんな事を考えたのも一瞬だった。それよりも『会いたい!話をしたい!』が最優先だった。僕は男に振り向いた。男も本人の僕をジッと見ていて、
「今です!どうぞ、行って下さい!危なくなると言いますから!それまでは」
そう言うと僕の背中を軽く押してくれた。
「よし!」
僕は走り出した。無我夢中で走った!少し後ろを振り向き僕自身に気が付いていないか、を確認していた。この一瞬に全力で駆けだし、心臓が飛び出しそうに……と言っても、もはや死んでいる僕にとっては心臓が飛び出しても構わなかったが……。今、目の前に妻・芳美が見えた。
「芳美!」
大きな声で叫んだ。周りもびっくりして驚き、
「ちょっとどうしたのよ。そんな大きな声で。恥ずかしいじゃないの」
芳美の声だ!間違いない!思わず手を握った。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ、恥ずかしいじゃない!」
芳美はすぐに手を離した。でも、それでも構わない。その温もりを感じたから!
「どうしたのよ?ちょっと変よ。それに、早いわよね、トイレ。行かなかったの?」
「あ、い、いや……、あ、混んでいたから止めた」
僕はそう言いながら芳美の姿、下から上へ全身を舐めるように見ていた。これで最後の見納めだと思っていた。芳美もいつもと違っていて、それを感じ、
「どうしたの?朝ご飯で何かに当たった?」
冗談っぽく尋ねた。僕はただ、笑って首を横に振っていた。その時、急に僕のお腹が鳴った。
「あ、お腹鳴った!やっぱり、お腹痛いんじゃないの?トイレ、大丈夫?」
僕の顔を覗き込むようにしていた。
「あ、そうじゃないよ」
そう言ったが霊体の僕でも、まだお腹が鳴るなんて、不思議だった!
「あ、じゃあ、お腹がすいてるんだ!」
芳美は作っていたお弁当を取り出した。すると、すぐに微かだが、お弁当のいい匂いがしてきた。思わず、今度は喉を鳴らした。
「じゃあ、どこかで食べようか」
そう言って僕の分を渡してくれた。その時、僕の耳元で
「山中様。そろそろ、ご本人様が戻られそうです」
囁く、よりは、頭の中に響いた感じだった。でも、僕は思わず、
「え、もう?」
声を出してしまった。僕の声を聴き、芳美が
「え、何?誰かと話しているの?」
当然のように尋ねてきた。僕は頭を掻きながら、
「い、いや、そんな事は無いよ。独り言だよ」
そう言って芳美から眼を逸らした。
「もう、来そうです!近づいてきております!あと20メートル、あと19メートル……」
男の声がまるで、実況している感じで、急かされてきた。
「あ、ちょっと、トイレに……あ、あ、それと……幸せに……な」
最後は声が小さくなって口籠ってしまった。僕はサッと言うとトイレの方向とは違う、さっきまで隠れていた方向へとダッシュした。
「え、何?なんて言ったの?どうしたの?そっちはトイレじゃ……」
微かに芳美の声が聞こえ、そして、段々と小さくなり、とうとう聞こえなくなった。僕は物陰に隠れて芳美を見ていた。最後の声、最後の言葉。僕はグッと唇をかみしめ我慢するように上を見上げた。でも……涙は流れた。
「元気でね。幸せにね」
ポツリと自然に出た。
「山中様、それは?」
男は僕の手に持った物に指を差した。僕は涙を拭きながら、右手に持った物を見た。
「ハハハ、お弁当だ」
僕は微笑んで男の顔の前に出した。
「という事は、奥様が仰った『お弁当を山中様に渡した』は正解ですね」
男にそう言われると、
「確かに、そうですね!」
僕自身が持っているのだから頷くしかできなかった。
「でも、確かに、あの時、芳美が僕にお弁当は落としたって言ったんだけどなあ」
やっぱり不思議だった。これが知りたくて【この時】に戻ったのに、かえって分からなくなってしまった。
「あ、違う……、僕が芳美と話をしていた所はここではなかったような気が……」
僕は記憶をもう一度思い出そうと眼を閉じていた。その時、
「あのう、大変申し訳ありませんが、そろそろ列車の出発時間になります」
男は申し訳ないように小さめに話してくれた。
「あ、そ、そうか……。とうとう、ですね」
そう言うと、もう一度物陰から芳美の姿を眼に焼き付けるように、瞬きすらしなかった。もう見ることも出来ない、と分かっていても、自然と頬を温かいものが何度も何度も流れた。大きな声で『大好きだよ!ありがとうね!』って言いたかった。でも、実際にはできなかった。それが、悔しくて悔しくて仕方が無かった。いつしか拳を握り締めていた。
「これで最後となります。納得いたしましたか?」
男の声は非常に優しかった。体に纏わりついた汚れが、今、サッと流れ落ちた、そんな感覚になった。
「ありがとうございます。これで、参ります」
本当は納得できない、死にたくない、しかし、だからと言って、どうすることも出来ない。そう思えば、ある種、スッとした気もした。自分なりに納得した。
男は何も言わず、前を、僕を駅に誘うように静かに歩いていた。
と、突然、男のスマホが鳴り、慌てて取り出した。
「あ、そうですか。分かりました。列車は到着していますか?」
男の話を後ろから聴いていて、これで終わりだ、と実感した。
「山中様!」
サッと振り向き、さっきまでの声とトーンが違っているような気がした。
「おめでとうございます!」
僕の両肩をグッと掴んだ。いくら天国行きとしても、やはり、死んだ人間に〈おめでとう〉は『どうか?』と思い、少し、ムッとしてしまった。しかし、男は全く気にもしない様子で嬉しそうに話を続けていた。
「帰れますよ!現世に!」
ん?少し頭を傾げた。言葉の意味が理解できていなかった。
「え?どういう事ですか?現世って?」
「山中様、助かったんですよ!生き返れますよ!」
「えっ?本当?僕は死んでいないの?芳美に会えるの?」
僕は眼を丸くしたまま男の顔を見つめた。男は大きく頷いてくれた。この時、モザイクの顔がイケメンに想像できた。
「ヤッター!」
その場で飛び上がった。また、芳美に会えるんだ!心から喜んでいた。
「あ、来ていますね。あの列車です」
男は駅を指差していた。来る時に乗っていたのとよく似ている古めかしい列車がもう1台止まっていた。
「あの奥にある列車ですか?」
「ええ。あれは偶にですが特別緊急列車になります。あ、それと」
男は僕の手にあるものを指差した。
「大変申し訳ありませんが、そのお弁当、駅に持ち込む事はできません」
「え、ダメなんですか?あとで食べようかと……」
「ええ。この時空間の物を、異なった時空間に持ち込む事ができませんので。規則ですので」
男は申し訳なく言った。僕は、やむなくお弁当を駅の手前にソッと置いた。時折、何度も振りかえって弁当を見ていたが、歩いて行くと見えなくなっていった。
僕は諦めて、駅に入り、その列車の前に立ち止まった。その時、顔を横に振って見ると、僕がさっき乗っていた列車が今、動き始めた。僕はその動き出した列車を眼でユックリと追っていたが、それも段々と小さくなって消えていった。複雑な気持ちになっていった。もし、あれに乗っていれば、もう帰る事は出来なかったんだ……。
『2番線にある列車は現世行特別緊急列車となります。まもなく出発となります』
駅構内にアナウンスが響いた。
「さあ、乗りましょう!乗り遅れたら終わりですから!」
男はすぐに乗り込んだ。しかし、僕は右足を一歩列車に入れただけでそれ以上は入れなかった。急に思い出してしまったからだ。生き返れる、という事は嬉しかった。でも、なぜ僕が自殺をしたのかを考えれば、すぐに喜べなくなっていた。僕はその場で躊躇してしまった。
気持ちを急かすかのように、ベルがけたたましく鳴った。
「山中様、どうしたのですか?もう出発しますよ」
逆に男の方が焦り始めていた。
「あ、ああ……」
僕が止まっていると、男は僕の腕を引っ張って列車に引き込んだ。直ぐに扉が閉まった。
「どうしたのですか?奥様に会えるのですよ!」
床に座り込んだ僕に怒るような声で言い切った。
「怖いんだよ……」
僕は微かな声で言い放った。男は何も言わず立っていた。
「怖いんだよ。だって、生き返ったって、何も変わってないじゃないか!結局はやっぱり死ぬしかないじゃないか!」
床を何度も何度も叩いていた。まるで、子供が駄々をこねているかのように。すると、男はユックリとしゃがんで、
「聞こえませんか?奥様の声?耳を澄ませてみてください」
僕に顔を近づけて囁くように言った。すごく優しい声に感じた。
「……」
僕は何もかも忘れ、ただ、声に集中した。
「き、聞こえる……。確かに、芳美の声が聞こえる!僕を呼んでいる!なぜ聞こえるんだ?」
僕はユックリと立ち上がり、見える筈もない芳美の姿を求め、列車の天井を何かを見つけるように眼で探していた。
「山中様、新着情報が来ております」
男はスマホを出して画面を見ていた。
「新着情報?」
「ええ。1社、採用通知が来ています」
「ええ!採用になったのか!」
僕は真顔で男の肩を掴んで顔を近づけた。
「どうですか。同じではないですよ。もう一度、頑張れるのでは?」
そう言われと、途端に膝から崩れるようにしゃがみ、ただ、何度も頷いていた。何滴も何滴も温かい水が床を濡らした。
「よかった、よかった。戻れる!戻れる!」
呟き続けていた。
「さあ、山中様。お席に行きましょう!」
ユックリと僕の体を支えるようにして席へと連れて行ってくれた。
僕は眼を擦りながら真っ暗な窓の外を見つめていた。
僕はさっきとは違い、今はただ、ただ、帰ることが嬉しかった。
暫くして、真っ暗な中の先に小さな光が見えた。僕は無言で男の顔に振り向いた。すると、男も意味が分かるのか、小さく頷いてくれた。
「そろそろお別れです。短い時間ですがお世話をさせていただきました」
改めて、そう言われると、急に寂しくなってきた。
「ありがとうございます。色々と教えていただきました。楽しい、というのとは違いますが、でも、助かりました」
僕は心の中から本当にそう思えて、言葉に出た。
「よかったです。私も山中様にお供ができてよかったです。では、最後になりますが」
そう言うと、ポケットからスマホを取り出して僕に画面を見せて、そのスマホを渡してくれた。
「これは?」
「これはアンケートです。私たちも報告が必要なもので」
男は恥ずかしそうに頭を掻いた。この世界も、やはり、「報連相」なのか、と嫌気もしたが、とにかく正直に答えようと決めた。内容は現世で言うお店で見るような従業員さん、まあ、ここで言うメイドさんの態度や言葉遣い等の回答だった。僕は全ての項目について「最高」に丸を付けた。ただ、最後に一つ記入欄があった。
「この最後の項目の【願い】とはどういった事でいいのですか?」
「今度、死ぬ時に何を願うか、という漠然とした要望です。それを皆さんに書いてもらっているのですが、何でもいいですよ。ただ、内容如何によっては本当に願いが叶う場合があります。決めるのは上層部ですけどね」
男は笑っているかのような話し方だった。
「現世もあの世も同じですね」
僕も笑いながら言うと、男は大きく頷いていた。僕は最後の項目の【願い】を記入した。
「記入しました。これをどうすれば?」
「では、その下に〈送信〉ボタンがあると思いますが、それを山中様自身で押していただけませんか?私が押す事は規則違反になりますので」
僕は頷くと送信ボタンを押した。【送信いたしました】画面が消えた。スマホをソッと男に返した。
「ありがとうございます。そろそろ到着です」
そう言うと、急に回りが明るくなった。やがて、列車は静かに止まった。
「現世。現世。停車時間は5分です」
車内アナウンスが響いた。
帰れるんだ。今はほっとした気持ちだった。男と一緒に列車を下りた。ホームに立った時、いつも通り地面を踏む感覚が無かった。ちょうどフワフワとした状態に感じた。
「これでお別れです。ところで、山中様には……」
そう言うと、男は僕の頭から下にじっくりと何かを探すように眼で追っていた。
「あ!あった!」
男は僕の右手を見つけて眼が止まっていた。僕は驚いて何があるのかと自分の手を見つめた。
「右手の甲にありますね」
そう言われた自分の右手の甲を見た。すると、小さな1㎝位の正方形の青痣ができていた。ただ、色が薄くてじっくりと見ないと分からないくらいの痣で、子供の頃にあった蒙古斑のような色の感じだった。
「これは何ですか?」
僕は以前には無かった痣だったので、今、できたものだと分かった。
「人間は必ず死にます。一度戻れても、次は無いと思います。その時蘇った人には次の死ぬ日時や場所、死に方が決められています。この痣は体のどの部位に出てくるか、どの大きさや形、色の濃さ等々が関係します。最後の死をこの痣が示しているのです」
「ええ?そんな事ができるのですか!じゃあ、僕のこれも……」
僕は右手の甲を穴が開くほど見つめていた。
「決まっています。ただ、私や人にはそれがいつ、どこで、は分かりません。これこそトップシークレットです。上層部はこの痣を見ると分かるようですが」
「現世で言う、QRコードみたいなものですね」
「ハハハ。そうですね。でも、山中様、死ぬ時期は知らない方がいいと思います。まずは精一杯生きて頑張りましょう!」
そう言うとメイドさんは右手を差し出した。一度死にかけた僕が今更死期を知っても意味が無かった。僕も右手を出して、メイドさんの手を強く強く握った。その男の手の温もりは今まで以上に驚くほど暖かかった。思わず涙が出てきた。直ぐに僕は涙を拭った。
「お時間となりました。お体をお大事に」
「メイドさん、さっき言ったように人は必ず死にますよね。次に僕が死んだら、また、僕に付いてくれますか?」
男はジッと僕の顔を見つめたまま、直ぐに、
「上層部に懇願いたします!」
微笑んでくれたように思えた。
「まだまだ先だと信じて、また、お会いいたしましょう!」
その言葉を聞いた途端に意識が少しずつ遠退いた。
「あっ……」
急に何もかもが分からなくなった。そして、
「……、あ……あな……あなた……あなた、あなた!」
新たな声が少しずつ聞こえてきた。何だか懐かしくて優しい声に聞こえた。その声で目が覚めていき、少し眼を開けてみた。ただ、真っ白な色が眼に入った。
「ここは?」
「よかった、よかったあ!」
声がする方へ顔を向けると、そこには芳美の顔が、涙が流れている顔が見えた。眼をキョロキョロとさせて、僕は病院のベッドに横たわっている事に気が付いた。さっきに見た真っ白な色、それは病室の天井?
「……芳美……僕は夢を見ていたのか……」
すると、横から太い男の声で、
「あのう、山中さんですね。私は警察の者です」
そう言われて、再度、ゆっくりと周りを見てみた。芳美の他にも、あと医者と思しき人たちもいた。思い出した!僕は自殺未遂をし、結果病院にいるんだと、ボーとした頭で理解できた。
そこからは警察、医者と次々色々と尋ねられた。慌ただしいこの人たちもようやく引き上げてくれて、ホッとして本当の意味で生き返った気がした。
僕は体を起こし、ようやく芳美に声を掛けると、芳美は頷いた。
「死ななくて良かった。死んだら、私はどうするのよ。でも、お帰り」
少し微笑んだ顔で僕に言った。何も言わず小さく頷いた。
「もう少し発見が遅いと死んでいたのよ」
「そうか、でも、誰が僕見つけてくれたのかな?」
「それは私が警察に連絡をしたのよ。だって、急にあなたと連絡がつかなくなったから、それですぐに分かったの」
「え?どうして、それで場所がわかるの?」
僕はすごく不思議だった。芳美が霊能者であるというのはこういう事なのか。
芳美は少し笑うと、
「会ったでしょ?メイドさんと私に」
僕の顔を覗き込むように近づいた。僕は言葉を失った。実際には、メイドに会ったというのは実は夢かも、と思っていたからだ。でも、これは現実の事だった。眼を丸くしたまま芳美を見つめた。
「お弁当、おいしかった?」
嬉しそうに首を少し傾げて僕に笑った。再び僕は一瞬言葉が詰まった。
「ど、どうして、メイドさんを?」
「何を言ってるのよ。私だって1年前に死にかけたのよ。忘れたの?」
芳美は当たり前のように笑って話した。そうだ!思い出した!確かに芳美は心臓病で一度生死を彷徨って危なかったことがあった。
「心臓の手術の時に生死を彷徨った時だ!」
僕は叫んだ。
「そう。私も、その時にメイドさんに会って、そして、あの楽しかった旅行の時に戻ったのよ」
芳美の言葉に何度も頷いていた。僕が経験したことを芳美は1年前に既に経験していた。だから、芳美は霊能者のように先が読めたりしたんだと思った。
「で、ちゃんとお弁当は食べた?」
「あ、い、いや、結局食べずに……」
僕の言葉を聞いて残念そうに、
「そう……せっかく、本体のあなたに会わないように時間稼ぎをして作ったのに」
呟いた。
「え、どういう事?時間を作ったって?」
僕には理解できなかった。芳美は少し頷き、ユックリと立ち上がった。
「説明してあげる。まず、霊体のあなたが会ったのは本体の私なの」
「本体?それは?」
部屋の中をゆっくりと歩き回っている芳美を眼で追っていた。
「あの時、あの場所にあなたも私も、共に本体と霊体が同時に存在していたのよ」
急に僕は芳美の言葉を集中して理解するため、眼を閉じて下を俯いた。
「メイドさんが言ったでしょ。本体に会ってはいけないって。会うとトンデモナイ事が起きるって!」
「そうだ!確かにそうだ!」
初めてその言葉を思い出して眼を丸くし顔を上げて芳美を見た。
「まず、霊体のあなたが本体の私にお弁当が欲しいという話をしていたのよ。そこで、霊体の私があなたの霊体にあなた本体と会わないよう、離れたトイレの前であなた本体と話をして時間を稼いでいたのよ」
「そうか!そうだったのか!」
僕にはあの時芳美が弁当を落とした話をした記憶があったのに、あの世界に行くとお弁当もらった、という異なる2つの記憶があり分からなくなっていたからだ。
「じゃあ、僕の、僕本体の記憶にあった『弁当を落とした』っていう話をしたのは」
「その話をしたのは霊体の私です!」
芳美は嬉しそうに無邪気に笑って自分自身を指差していた。
「なるほど、だから異なった記憶が残っていたんだ。どちらも正解だったんだ」
でも、新たな疑問が湧いた。
「でも、僕は確かに先程死にかけていたが、芳美は?芳美が死にかけたのは1年前だよな。どうして、その時間にそこにいたんだろう?いや、もっと言えば、旅行時は二人ともまだ、死にかけてなかったはずだけど……」
その疑問にすぐに芳美が答えた。
「メイドさんに言われなかった?あの世界は時空間がおかしくて、過去も未来も同じように存在しているのよ。あの世界には時間の概念が無いのよ。たとえ2年前だとしてもね。だから、あの時点でそうなる未来になっていたんだと思う」
「そういう事か……」
「私の方が1年前にこうなる事を知っていたから……だから、あなたを助けることができたのよ」
僕の顔を優しい眼でジッと見つめ、話を続けた。
「だから、もう死ぬなんて言わないでね。今後は私にも分からないから。あの世界ではここまでしか分からなかったからね」
僕は大きく頷いて、
「ああ。メイドさんにも言われたよ。精一杯生きて、ってね」
笑いながら言った。
「そうね。メイドさんて、本当にいい人……いや、いい霊……かもね」
急に、芳美は僕の前に座って右手をギュッと握ってくれた。その手の温かさが、まるで僕の心臓をそっと包んでくれるような幸せ感を与えてくれた。
「私たち、もう一度生まれ変わったように生きていこう!最後まで二人で生きて行きましょう!」
そう言うと僕の手に、優しさを凝縮した水が何滴も落ちてきた。僕も無言で芳美の手を握り擦りながら、ただ、何度も何度も頷くだけだった。
「あ、ノド……渇いたよね、ちょっと、缶コーヒーを買ってくるね」
涙声で芳美は少し照れ隠しのように言うと、涙を軽く拭って、サッと部屋を出た。
僕は芳美が出て行った扉をジッと見つめたまま、
「今度、死ぬ時は二人同時だよね。それは明日なのか、それとも何年後なのか、どんな死に方なのか、分からない。だけど、一緒だから」
自分の右手の甲をジッと見つめていた。
涙で擦っても消えない芳美の右手の甲の痣。それは僕と全く同じ大きさや色形の痣。つまり二人同じ場所で、同じ死に方で死ぬ事を意味している。
「僕も芳美もアンケートにあった【願い】は、同じ『死ぬ時は一緒』、だったんだよね」
僕はベッドから降りて窓に近付くと窓に映る自分の顔が見えた。晴れやかな顔に見えた。僕は窓を開け、外の風景を見ていた。暖かい風が吹いていた。
「さあ、その時が来るまで、死ぬまで二人で生きて行こう!もう怖い事も辛い事もない!だって……本当に一緒だから」
夕暮れになった茜色の雲を見つめながら『僕に付いてくれたメイドさん、もしかしたら芳美にも付いてくれたメイドさんだったのかも。だから、僕たちの願いを上層部に頼んでくれたのかも……な』そう思うと急にメイドさんに会いたいような気がした。
「あ、いやいや!まだ、頑張って生きて行かなくっちゃ。でないと、メイドさんに怒られるな」
空に向かって微笑みながら呟くと、僕は愛おしく思うほど右手の甲の痣をずっとずっと優しく撫でていた。
了