九日目
眼下に懐かしい校庭と教室の窓から眺めた街並み。魚眼レンズを覗いたかのように歪む地平線をぼくは見ている。
なんでここにいるんだっけ?記憶が定かでない。
ただ、とても痛くて、寂しかったことは覚えている。
足場は数センチしかなくて、一歩でも踏み出せばぼくは潰れたトマトよろしく即死だろう。
そうだ、ここはぼくが通っていた高校の屋上で、そのフェンスの向こうにいるんだ。
眩暈をするのを堪えて下を見た。教師やクラスメイトがぼくを見て口を開けている。
ああ、なんだかいい気分だ。今この瞬間だけは、ぼくは皆に注目されてる。でも、それだけ。
なんとなく大好きなあの子の姿を探すけど、なぜだか見つからなかった。
風がぼくを引き留めるように強く吹き付けているように思えた。
いや、もういい。考えるのはやめた。これ以上は、きっと、
……ぼくは舞台に立つ大スターよろしく仰々しく両手を広げて、
「ちゃんと見てろよ、馬鹿ども」
足を、
「……っは、ぃひっ……!?」
目が覚めた。見慣れた天井が見えた。
夢を見たらしい。全身冷や汗びっしょりだ。居眠りしていたらしい。
ベッドで寝なかったせいか、とても嫌な夢を見た気がするけど、既におぼろげになって思い出せない。
心なしか吐き気もするし頭痛も酷い。ふらふらとなんとか立ち上がり、キッチンへ行って水を一杯飲んだ。
それでも頭痛は止まないから、仕方なく薬を飲んだ。
聞いた話によると、人は定期的に日光を浴びないと気が狂うらしい。もしかしたらぼくもそうなのか?
……帽子被ればベランダ出てもいいかな?
何気なく窓を見やると、日が暮れはじめていた。
もうすぐ彼女が帰ってくるだろう。しまった、今日の夕飯決めてない。
冷蔵庫を覗いてうんうん唸っていたら玄関からドアが開く音。
「ただいま」
「あー、おかえ……うん?」
彼女は重そうなビニール袋を両手から提げていた。
慌てて受け取って中身を見るとスナック菓子と酒類だった。
「え、これどういう……」
「呑もうぜ」
マジで言ってんの???ぼくが酒に人一倍弱いって知ってるよね?
ましてや変な夢見た後で気分が悪いのに……
でもまぁ、彼女の要望なら叶えないわけにはいかないんだけどね!
思わず小さなため息が出た
「あーもう……いいけど一杯だけね?」
「おう」
せっかくだから余りものでおつまみ作ろうか。もう一度冷蔵庫を開けて適当に取り出す。
「ちょっと待ってて」
ぼくが料理をしている間、彼女はテレビをつけながら早くもビール缶を開けた。
毎度ながら彼女のマイペースについていくのはなかなか難しい。
自惚れじゃあないけど、ついていけるのはぼくとお兄さんくらいなんじゃないかと思っている。
そう言っている間におつまみができた。
テーブルまで持っていくと、目の前に缶チューハイを突きだしてきた。
度数が低いのを選んでくれたのはいいけど、ぼくチューハイでも酔っぱらう下戸だからなぁ……
そして酔うと高確率で記憶が抜け落ちるおまけつきだ。だからあんまり下手な真似はできない。
げんなりした気持ちでプルタブを引く。シュカッと気持ち爽やかな音がする。
のろのろと一口啜る。うっやっぱり慣れない……
それからはつまみをつつきながらいくらか話をした。
その内缶チューハイは空になっていた。
なんだか体、熱いな……もう酔いが回ってきたのか。
ぼんやりしているぼくに気づいてか、彼女が目の前で手を振っている。
その手すら何重にもブレて見えている辺りこれは相当……まず、い……
「…………くくっ」
「あ?」
「くくくっ、ふ、ふふっ、くひひひ」
「……いつもながら思うが、缶チューハイ1本で酔うなんて相当だよな」
やばい。なんかテンションあがってきた。笑いとまんない。ふひ、ひひひ。
「あは、はははは!おっかしー!」
「……何がだ」
「あひ、ひひひっ!ええーっと、せんせー!」
運動会の選手宣誓よろしく右手を天高く突き上げた。もう自分でも何が何だかわからない。
「ぼくはー!いっしょーどーていでいることをぉーちかいまぁーす!」
「……は?」
彼女が珍しくめちゃくちゃ驚いたような顔をしているように見えたけど、酔っぱらってるからわっかんね!
「おい、なんだそれは。一生童貞宣言してどうする」
「えへーぇ。らってー!高望みは、いけないんらって!あんね!おかーさんがね!いってたんらー」
「あ?高望み?」
「ぼくはねー!君とねー!いっしょにいるだけれいいんらもーん!もーぅなんもいらなーい」
だからねー!と続けようとした口が不意に彼女に鷲掴みにされた。
「もがっ」
「わかった、もういい。もう何も言うな。行くぞ」
「ふぁー?」
そのままずるずる寝室に引きずられていく。あーなんかもうめちゃくちゃ眠いけど、せっかく一緒にいれるんだからもうちょっと起きてたい……
ベッドにぞんざいに投げられて息が詰まった。
「ぶふ」
「くそっ、いつまで経ってもこねーと思ってたらそういうことかよ……」
「んーぁ?」
ぼくに覆いかぶさる形で彼女が何か言っているけど聞き取れない。耳も遠くなっているようだ。
「んんー……」
あつい。あついなぁ。服が邪魔だ。シャツを脱ぐのにもたもたしていたら、彼女が全部脱がしてきた。
「おい、しっかりしろ。ちゃんと起きてろ」
「んんぅん……ねむぃ……」
「おい、寝るな。おい。さもなきゃ俺が勝手にしちまうぞ」
「うーん……」
寝たくない気持ちはあるんだけど、眠気には逆ら……え、な……い………
そして。
「……ん……ん……ぁ?んん?」
目が覚めた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
頭が痛い。デジャヴを感じる。具体的には昨日の夕暮時もこんなんだった気がする。いやこれではデジャヴにならないな?
ガンガン痛む頭を抑えながら起きると、隣で彼女が寝ていた。
あれ?いつの間に寝てたの?昨日は缶チューハイ飲みきったあたりで記憶がない。
そっと、彼女の顔に近づく。まだ眠っているようで、小さく寝息が聞こえる。
……あ、キスしたい。キスしたいなぁ……駄目だよなぁ……寝込みを襲うなんて紳士らしくないッ!
これはいかん、と理性が働いて、なんとか彼女の顔から離れようとした時、
「ん、ぁ」
「………おはよう」
「あ……うん、おはよ……大丈夫?」
「…………」
次の瞬間にはぱっちりと目を開いた彼女に挨拶とでも言わんばかりのバードキスをされました。かわいい。役得。俺得。
しかし、起き上がった彼女は目に見えて気分が悪そうだった。
「昨日は……大変だった……んだからよ……」
「あ、うん……すぐ酔っ払っちゃったみたいで……介抱してくれたってことだよね?」
「あぁ……苦労したぜ……てめー、酔っぱらってるせいでまともにたたねーでよ……おまけに半分寝てやがるから力抜けまくって動かすの……も、しんどい……」
「やっぱあの後すぐ寝ちゃったんだ……ごめんね?」
「……次は、もっと別の方法を考えるぜ」
「う、うん?」
「とりあえず今言えることはだ」
「……うん」
「もう二度とてめーと酒は呑まねェ」
「いやだから言ってんじゃん!!」