夜のような
もし、僕らの人生が、輪廻や生まれ変わりなんてものが、前世や今世、来世なんてものが、長い長い列車のようなものなら。
それは、どこへと向かうのだろう。
僕は、それが知りたかった。
僕はM。Fって呼ばれることもあるけど、僕的にはMの方がしっくりくるんだ。
僕が何歳なのか、僕も知らない。気づいた時にはこの列車で旅をしていたし、ほんのついさっき、「いったい僕は何者なんだろう」なんて思う前まで、自分の歳なんて気にしたこともなかったから。
もう何十年も生きている気がするし、ついさっきの自問から僕が生まれたような気もする。結局どれほどの自問を繰り返しても、その答えは出なかったけれど。
車両の前の方にかけられた時計があったから、僕はそれを指針にすることにしたんだ。その時計はとても珍しいもので、使い古された懐中時計のようなデザインに、零から八拾までの文字盤があった。今はまだ零時だけれど、そのうちこの時計も進んでいくんだろう。
車窓のはるか遠く、駅が見えた。多分、あれが最初の到着点。
列車は段々速度を落として、ゆっくりと止まった。
駅には駅名を示す看板すらなく、そして駅以外には何もない地平線が広がっていた。はるか向こうには強烈な光を放つ恒星か、ともかく眩しい。
僕はプラットフォームから降りる階段に足をのせる。ふと思って後ろを振り向いた。どこまでも続く列車は止まり、その扉を開いたまま、発車するような気配はなかった。それに安心して、前を向きなおして歩く。
地平線の端まで来ると、いくつもの植物が咲いていた。その植物にはいくつもの文字が並んでいて、それらすべてが遠くの恒星に向けて頭を垂れていた。
その中に一つ、じっとこっちを見つめたまま視線を外さない花があった。その花に僕は近づいて、根っこからその花を抜いた。
その花にも何やら文字が書いてあった。僕にはその文字が読めなかったけれど、どこか懐かしいような気がした。
僕は、その花を列車まで連れて帰って座席に植えてやった。座席に根を張って、そのまま動かなかった。
時計の文字盤が壱を指すころ、次の駅に着いた。車窓から見えるその景色は相変わらず平らな地平線が広がっていたけれど、その中にいくつかの建物があることが分かった。
僕は降りて、その建物に向かって歩き出す。
近づいてみると、それは車であったり、あるいはコップであったり、あるいはアイスクリームであったりしたが、それらすべてが、輪郭が溶けてあやふやだった。中には、もう輪郭がすべて溶け落ちて、地面にへばりついているものもあったけれど、僕にはそれがくまのぬいぐるみであることがわかった。
その建物の隙間、少し離れたところに少女が立っていた。少女は黒く、かつ明るい髪をしていて、金髪で赤髪。身長は高く小さい。体型は細いし太い。髪の中から覗く目は鋭く優しかった。少女は僕のほうを見ると、とてもうれしそうに笑い、近づく。そして僕の前で立ち止まって「どうかした?」と尋ねた。
「旅をしているんだ。いくつか質問してもいいかな」
少女は首を縦に振る。
「ここはどこ?」
「ここは、壱の駅。これから貴方は八拾までの時間の中、いくつかの駅に降りることになるわ」
「君は誰?」
「私はF。Mって呼ばれることもあるけど、私的にはFの方がしっくりくるの」
「君も来ないか?」
「この私は一緒に行くことはできない。けれど、私はいつもあなたと共にいるわ」
僕は「ありがとう」と礼を言って、踵を返す。
眼下に広がる建物の輪郭はまだ溶けたままで、Fと名乗った少女は「ずっと一緒にいるわ」と、背を向け歩きだした僕に向けて言った。僕は振り返り、「さようなら」というと、それから振り返ることはなかった。
列車の中に入り、席に着く。遠く、Fが手を振っているのが見えて、僕も手を振り返した。汽笛が音を立てて、列車がごとりと動き出す。
それからもいくらか時間が過ぎた。弐時、参時、肆時。そして伍時になったとき、列車は駅につく。
ぼんやりとした輪郭は変わらないけれど、そこに住んでいる住民は増え、けれどその服装はみんな似たり寄ったりだった。
黄色い頭に、青い上半身。下半身こそ色は違えど、その等身は似たり寄ったりで、みんな丸い顔をしていた。
けれど彼らの感情は著しいものがあった。
あるものは笑顔で、あるものは耳を劈く泣き声で、あるものはあるものと喧嘩していて、あるものはあるものと仲良さげに駆けていた。
その、大多数のものが他者とともにいる中に、一人で何かを描いているものがいた。僕は気になって声をかける。
「君、名前は?」
「僕はM。君は?」
「僕はM。Fって呼ばれることもあるけど、僕的にはMのほうがしっくりくるんだ」
「そうなんだ」
「君はどうして一人なんだい?」
「僕には、みんなと一緒に何かをすることは無理みたいだ。この間も、僕がみんなとかけっこをしようとしたらみんなのうちの一人を壊してしまった。幸いすぐに治ったけれど、やっぱり僕にはみんなと一緒にいるのは無理なんだってわかったんだ」
「でも、本当はみんなと一緒にいたいんじゃないのかい?」
「そうだよ。でもみんなは駄目だっていうんだ。だから僕はひとりなんだよ」
「その絵は?」
「上手いもんだろう。最高傑作なんだ。僕の周りの人たちだよ」
「そう。けれど僕には、それは真っ黒に見える」
「そうさ、真っ黒なんだ。けれど、その根底は純白なんだ。この駅の周りに住む人間に、根底から黒い人はいないよ」
彼はそういってにっこりと笑った。僕は「さようなら」と一言いうと、彼は黒塗りの絵を渡してきた。
「君の列車にでも飾っておいてくれよ」
そういって彼は新しい紙を出すと、また黒く塗り始めた。
僕は振り返って、列車に乗る。
何も言わずに、列車は動き出して。
なにも、何一ついわずに。
七時になって、駅に着いた。その駅は四角い部屋みたいになっていて、その中にいくつもの建物が立っていた。その建物に寄りかかる、見たところ三十人ほどの人がいた。彼らは青い頭をして、上半身、下半身ともにまちまちだったけれど、どうやら男は黒、女は赤の背嚢を背負っているらしい。
彼らはひとりの主導者に先導されて生きていた。食事をとるにも、その建物から離れて、遠くに点在する建物に移動するにも、一人の主導者によって動いていた。
僕はその主導者に声をかけた。
「あなた名前は?」
「私はF。ここの人間には先駆者と呼ばれています」
「この駅は珍しい」
「これからの十二の駅は、みんなこういった景色です」
「この大きな建物は?」
「これは、人を人足らしめるために必要なものです」
「人を人足らしめるとは?」
「人には無限の可能性がある。無限の可能性を育てるため、私のような主導者が彼らに課題を課し、それによってその人の情報を作ります」
「課題とは」
「無限の可能性を考慮し、平均的にあらゆるものを課します」
「できないものは?」
「この駅では何もありません」
僕は一言礼を言うと、また列車に乗った。
座席に根を張った植物は、また成長して、もう少しすればはっきりと幹になりそうだった。
それから十の時を過ぎて、時計が壱六を指したとき、列車が駅へと着いた。
相変わらず駅は四角い部屋みたいで、その中に同じような格好をした男女がすだっていた。
その中に一人、耳にヘッドホンをつけた人間を見た。それが、以前の駅で出会ったMだとすぐにわかった。
「M」
「おや、お久しぶり。もう会うことはないと思ってたけれど」
「そうだね。僕も会うとは思わなかった」
「お互いさまってことか」
「まだ一人なのかい?」
「そうだよ。僕はあれからずっと一人さ。周りのみんなも変わらない。変わらないはずなのに、僕にはみんな、根底から黒に見える」
「その耳のものは?」
「これは僕の宝なんだ。これがあれば、僕は一人でいられる。黒い世界から離れられる」
「それは逃げだろう?」
「そうかも知れない。でも、僕にはこうすることしかできないんだよ」
そういってM は寂しそうに笑った。
僕が乗った列車が、ゆっくりと動きだして、一つ駅を過ぎたとき、列車ががくりと揺れて、車窓を何かが横切った。僕にはそれが、Mの頭に見えた。
それからいくらかの時を過ぎて、時計が弐拾四を指したとき、列車に一人、女性が乗ってきた。
その人は、黒く、かつ明るい髪をしていて、金髪で赤髪だった。身長は高く小さい。体型は細かったし太かった。髪の中から覗く目は鋭く優しかった。
「あなたは?」
高く低い声で話しかけられる。
「僕はM。Fって呼ばれることもあるけど、僕的にはMの方がしっくりくるんだ」
「私はF。Mって呼ばれることもあるけど、私的にはFの方がしっくりくるの」
そういうと、彼女は僕の前の席に座った。そしてどこから出したか、まるで僕が壱時の駅で持ってきた植物みたいな花を植えた。
するとすぐに根を張って、幹がみるみる育って、枝が僕の木の幹に食い込んで、そのうちその木々は一つになった。
それをみて、彼女はにっこりと笑う。僕も、まるでかけていたピースがはまったみたいな安心感と充足感からにっこりと笑った。
それから、僕らはいくつもの駅を回っていった。
黒や鼠色の服を着た、高い建物の並ぶ景色が弐拾弐時からずっと続いていたけれど、その景色ですら、彼女と回るととても愛おしいものに思えた。
高い建物の景色は六拾時まで続いて、それから、穏やかな景色がずっと続いていて、七拾八時の駅に着いた。
その駅はとても穏やかだった。緑繁る景色の向こう、空を埋め尽くす星が煌めいて、僕は彼女の手を握って、その穏やかな駅に降り立った。
「あれが」
彼女は、空に向かって指をさす。
「デネブ、アルタイル、ベガ。あれが天の川銀河」
「それは一体何だい?」
「あの星に名付けられた名前。いろんなお話があるの」
「例えば?」
「昔、ジョバンニとカムパネラという二人の旅人が、銀河を走る列車に乗って旅をしたのよ」
「それは、とても素敵な話だ」
僕はそういって笑った。彼女もつられて笑う。
星で埋め尽くされた地平線に、一軒の家が見えた。窓からは光が漏れていて、屋根の煙突からは煙が上がっている。
僕らは、その家まで歩いていくと、扉を二三たたいた。
ギイ、と木材が軋む音がして、中から一人の老婆が出てきた。僕にはそれが、以前の駅で会ったFだと分かった。
「お久しぶりです」
「久しぶり。彼女はF」
「私はF。Mって呼ばれることもあるけど、私的にはMの方がしっくりくるの」
「私はF。彼とは壱の駅で会いました。どうぞ中へ」
老婆に促されるままに僕らは中に入る。中には暖炉があって、編みかけのマフラーと湯気を上げる紅茶の乗ったテーブルが一つあった。
「これまでの旅はどうでしたか?」
老婆は僕らに訊く。僕らは互いに顔を見合わせて、それから口を開いた。
「長い旅だった。途中、Mという男が自殺したよ。その光景は今でも覚えている。ちょうど車窓を眺めていたんだ。飛んできた顔と目が合った」
「楽しい旅だったわ。こんなにも長い時間素晴らしい体験をできるんだなんて夢みたい」
僕らは同時に口を開いた。老婆はその光景に失笑し立ち上がると、台所からカップを二つ持ってきた。
カップからは湯気が上がっていて、中身は紅茶だった。
僕らはそれに口をつけた。茶葉はセイロンのようだ。
その紅茶はとてもおいしく、僕らは我を忘れてそれを飲んだ。そして飲み切って、同時にカップを置いた。
そして立ち上がって、「ありがとう」と一言いうと、僕らは扉に手をかけた。
老婆は──いやFは「また、月の綺麗な夜に」とだけ言った。
それから次の駅も、またFの家へとつながる道が伸びていた。駅へと着いた列車がゆっくりと止まり、それから扉が開いた。
「行こう」と彼女が言う。僕は立ち上がって、彼女と並んで扉まで歩いた。
扉越し、木々の隙間から見えた空は曇天で、今にも雨が降り出しそうだった。頼りない光を頼りに、僕らはFの家へと急ぐ。
結局、あと少しでFの家に着こうかというところで雨が降り出した。濡れた頭を撫でて、彼女は少し悲しそうな笑顔を浮かべる。
「列車で旅を始めて、初めて天気なんて言うものを見たわ」
「君はこの列車での旅の始まりを知っているのかい?」
「えぇ、最初から覚えているわ」
「聞きたいね」
「今はFにタオルでも借りましょう。話はそれからね」
彼女はそういって、扉をノックする。
すると、中からどうぞ、とくぐもった声が響いて、僕らは家の中へと入った。
Fはベッドに横たわっていた。
カビの匂いのする毛布にくるまって、その息もか細い。
Fは──いや彼女は、もうすぐ死ぬ。
その人の死に際を前に、僕のできることは限りなく少なかった。何ができるというわけではない。その空しさを前に、僕は彼女の手を握る。
「ありがとう。最期に会いに来てくれて、ありがとう」
「僕は何もしてない。僕には何もできない。だって、僕は十六で死んでしまったのだから。だから、いま君にこうして礼を言われる筋合いなんてないんだ。むしろ僕は君に礼を言って、むしろ僕は君に謝らなければならない。本当に、──ごめんなさい」
彼女は、僕の言葉をただひたすらに聞いていた。
そして、僕の言葉が途切れた時、彼女はおもむろに口を開く。
「控えめに言って、あなたは最低よ。私はそう思ってる」
その声は、とても優しさに満ちていて、僕は目頭が熱くなるのを感じた。
「だって、ずっと一緒にいるって言ったのに、結局一人で逝ってしまうんだもの。それから後も私はずっとあなたを思い続けて、想い続けて、それでも届かない思いに焦がれて、結局ここまで来て。それでも、許せはしないけれど、最後にあなたに会えて、私はとても満足だったわ。だから、これまでの全部を、集めて、集めて。ありがとう」
力尽きたFの顔に、僕は布団をかけてやる。
Fは、最後に思い出させてくれたのだ。僕らの旅が、僕らの人生を振り返る旅であるということを。この列車での旅が、僕の人生を追体験しているだけだということを。
その人生で、僕は十六で死んだ。
彼女は──Fは、僕を支えてくれた人間の一人だった。彼女とはよく「ずっと一緒に行こう」などと言って笑いあったりしていたんだ。どうして、それを忘れていたのか。
きっと彼女は最初から全部覚えていたのだろう。──いや、覚えていた。そして、これが人生の追体験であることも知っていた。だから彼女は、僕に接触してきたんだ。僕の旅に登場するキャラクターとして。僕の人生に食い込んできたんだ。
僕は窓の外に視線を移す。雨はまだ止まず、月は雨雲の向こうへと隠れてしまっていた。
僕は列車に乗って、僕らは窓の外を眺めていた。
ついに、この駅では雨が止むことはなかった。屋根を、ガラスを、そして木々を濡らしていく雨が、なんだかとても。
こんなことを言えば、彼女は、いや、君は怒るだろうか。
けれど、
「いい、天気だね」
と、僕は呟く。
「昨日も、今日も。きっと、明日もいい天気だよ。きっと──ずっと、いい天気でいればいい」
列車は、ゴトリと動き出す。
僕は、膝に落ちる涙を止められなかった。
ついに八拾の駅に着いた。車窓から望む景色は、黒。
僕は立ち上がって、またいつものようにドアが開くのを待った。しかし、その扉はいつになっても開く気配がない。
そうこうしているうち、時計が一つ、大きな鐘の音をたてて、やがて長針がやおら回りだす。そして長針が零時の位置まで戻ったとき、別車両に移るための前後の扉が開いた。
扉からはまばゆい光が漏れていて、その向こう、何があるのかすらわからない世界からは励ましの声がして。
とても、優しそうだった。
僕は扉まで歩いて、扉の向こうへと進むための一歩が踏み出せないでいた。
振り返る。今となっては僕一人しかいない列車が、とても広く見えて、僕は哀愁にかられて、こみ上げてくる涙を必死に堪えた。
それでも、僕は振り返って、前へ向けて歩き出す。
踏み込んだ足が、光に包まれて。
目を覚ます。
息苦しくて、僕はむせる。息を吸うために、泣いた。
目はまだ見えない。明るいかくらいか程度の視界だ。
泣き続ける僕を、誰かの温かい手が抱えた。
僕には、それが母親の手であることが分かった。
母親は僕のほほをそっとなで、そして涙交じりの声でいう。
「はじめまして、M」
って。
僕らの人生が、輪廻や生まれ変わりなんてものが、前世や今世、来世なんてものが、長い長い列車のようなものなら。
それは、どこへと向かうのだろう。
僕は、それが知りたかった。