第66話 無償の愛はお好きですか? 5
「先生、答えて下さいって言ってますよね。生徒の悩みを解消してやるのが先生じゃないんですか? 先生、教えてくださいよ。どうして先生は櫻井が良くて、俺は駄目なんですか」
「そんな…………お人好しだからとかそういう一つの対象で好意が決められるわけないだろ……」
「じゃあ…………」
淀む。
潜む。
降りる。
悪意の帳が、降りる。
悪意が周囲の空気と混和し、赤石の体に沁みる。
心が、悪意に満たされる。
告白も出来ない神奈のことを。
ストーカーのようにして、櫻井を追いかけている神奈のことを。
軽蔑する。
自嘲する。
苦しむ。
貶す。
怒る。
悲しむ。
理解できない感情を、叫ぶ。
赤石は、どす黒い空気を纏わせ、口を開いた。
「じゃあ一体何なんですか? 俺も櫻井みたいに女の人にばっかり優しくなったらいいんですか? あぁ、そうですか。そうですよね、櫻井みたいに女の人にだけ優しくなって、女の人の所にばっかり行けばいいんですよね?
そういうことですよね? 女に優しくすることだけに集中すればいいってことですよね? 先生は櫻井がそんな人間だってことを何も分かってないんですよね? 馬鹿だから」
貶す、言葉。
無法な、言葉。
品位のない、暴言。
知性のない、悪罵。
「櫻井みたいに、男とは全く話さないで、男にはその優しさを一切見せず、いたずらに男を遠ざけて、女が困ってたらすぐさま手伝って、男は切り捨てる。そういう生き方をしたらいいんですよね? そうすれば俺も女の人から好意を持たれるって訳ですよね?」
言い募る。
悪意を。
理解できない感情を。
櫻井へ好意を抱く神奈への怒りを。
自身に巣くう劣等感を。
心根に張り付いた澱を。
叫ぶ。
「あぁ、そうですか。神奈先生もそういう人間が好きなんですよね? 男とは全く仲が良い訳でもないのに、自分に優しくしてくれるからって、馬鹿みたいに好きになる。そういう男が好きなんですよね? 自分に一切好意を抱いていない、優しくしてくれるだけの男を好きになる。神奈先生はそういう人なんですよね?
馬鹿みたいにストーカーになって、馬鹿みたいに高校の教師になって、馬鹿みたいに好意を告げることも出来ず、これからも一生櫻井からは好意を持たれることもない、恋愛関係におけるモブのようなあなたが櫻井を好きになるのは、なんだか分かる気がしますね」
自身の無力さを。
自分の心の弱さを。
断定して。
そして、悲しんで。
叫ぶ。
「櫻井の周りに、他にどれだけ女がいるか分かってるんですか? 先生はそのただの取り巻きの一人にすぎないんですよ。所詮、先生はただのモブの一人なんですよ。櫻井が先生に好意を持つことなんてこれまでも、これからも一生ありませんよ」
ただのモブの一人。
自分に対しては好意を抱かない。
それは、神奈に対する言葉か、自分に対する言葉か。
「よくもまぁそんな返ってこない愛を囁けますよね、先生は。俺には無理ですよ。そんな無駄な事。全然合理的じゃないですね。理解できない、俺は全く先生のことが理解できませんよ。
こんな所で気持ち悪く櫻井が出てこないか見張ってるなんて、本当ちゃんちゃらおかしいですよね。職務怠慢に加えてストーカー気質とかもう救いようもありませんよ。本当…………」
胸が、痛かった。
何に対して怒っているのか、自分でも分からなかった。
「あんな女にしか目がないような櫻井も、そんな櫻井を慕う尻軽なあんたも、皆が皆馬鹿ばっかだよ! どうせ櫻井と付き合うことが出来たって無様にフラれるだけに決まってる!
さんざ利用されて、捨てられるに決まってる! どうあがいたってあんたに幸せな未来は待ってねぇんだよ! 狂ってんだよ、お前らは!」
櫻井の取り巻きに対する悪意と好意。
赤石は、櫻井の本質を、決定的に、言う。
間違っている神奈を諭すように。
「先生、あんた、ちゃんと櫻井のこと分かってんですか? 櫻井の悪逆非道な振る舞いをちょっとでも理解してるんですか? あんたがどれだけ櫻井を好きでも、櫻井は一切あんたのこと好きにならないんですよ。この意味、分かります?
俺の言ってること、分かります? あんたもう二四歳ですよね? そんな年にもなってまだ櫻井の性格が分からないんですか? まだ櫻井の本質を見抜けないんですか? 本当に、本当に、馬鹿ですね」
あぁ、そうだ。
理解した。言葉を紡ぐうちに、胸の奥にある確信が生まれた。
騙されている。
神奈は、騙されている。
そうだ、洗脳されているに違いない。
櫻井が自分の良いところだけを神奈に見せていた。故に、神奈は櫻井に好意を抱いた。そうに違いない。
きっと。
きっと、神奈は騙されている。
救わないといけない。
「ついさっきも教室に櫻井はいましたよ。高梨の頭を撫でて、八谷の額に自分の額を当てて、八谷も高梨も頬を染めてましたよ。あんた、これがどういうことか分かりますか? 年も離れて、櫻井に取り巻きの一人の女としてしか見られてないようなあんたが櫻井と付き合えると思います?
あんたは櫻井にとっては、都合よく自分を好いてくれる、いつでも取り替え可能な女の一人にすぎないんですよ。所詮、櫻井の高校の先生になるようなクソストーカー女でしょうけどね、あんたは」
理解できない感情のはけ口。
自分よりも格上の神奈だから、受け止めてくれる。
自分の悪意も、劣等感も、何もかも、受けてめてくれる。
先生だから。
自分よりも何年も生きている神奈だから。
他の取り巻きと違い、櫻井に常時ついて回っている訳ではないから。
表裏がないから。
信頼できるから。
取り巻きの中でもひときわ異質で、櫻井の汚点を教えれば理解してくれそうな、人生経験を積んでいるはずの、教師だから。
だから、だから、だから、だから、だから。
だから、櫻井に洗脳されているに神奈は、言葉を紡げば正気に戻るはずだ。
櫻井の汚点を認めて、嫌いになってくれるはずだ。
そういう期待が、あった。
「高梨も八谷も、新井も水城も葉月も誰もかも、皆が皆櫻井を好きなんですよ? それも、男の友達すらまともにいないあいつが。馬鹿みたいに崇め奉られてる。この意味、先生なら分かりますよね?
これがどれだけ馬鹿馬鹿しいことか、先生なら分かりますよね? 馬鹿らしいでしょう? 男の友達もまともにいない、女のことしか考えてない、クズの櫻井が、何の方針も指針も矜持もない、尻軽な女に好意を抱かれる。馬鹿らしいでしょう? ねぇ先生、分かりますよね、この意味。」
希望的観測に基づく、個人的見解。
それを、押しつける。
「櫻井は、水城に告白されても全部無視してましたよ?
櫻井は、八谷の頭を撫でて、体を触って、ご飯の食べさせあいなんてしてましたよ? 先生、分かりましたか? 櫻井がどれだけ悪人か、分かりましたよね? あいつは先生のことなんてなんも考えてませんよ。先生も、自分を取り巻く女の一人くらいにしか思われてませんよ?
下心でしか動いてないんですよ、あいつは。女に好かれるために好かれる行動を意図的にとってるだけに過ぎないんですよ、所詮あいつは。先生にも、下心を隠して近づいただけなんですよ。あいつは先生の思ってるみたいなお人好しなんかじゃ、決してない。下心を性欲を、欲望を、自分の我欲を満たそうとするだけのクズなんですよ。年がら年中女のことしか考えてない、ゴミクズなんですよ、あいつは」
櫻井が、櫻井が、櫻井が、櫻井が、櫻井が。
櫻井の犯したことを、事実を、押しつける。
一拍。
自信に満ちあふれた目で、神奈を見た。
言葉を、発する。
「あんなクズの櫻井を慕うなんて馬鹿げて……」
「うるせぇんだよ!」
突如、パン、と平手打ちの音がした。
教室の中に、鈍い音が響く。
「………………え?」
目を剥き、赤石は茫然自失とした。
「…………え?」
神奈を見る。
自分の激情のせいで、神奈の状況を見ていなかった。
神奈がどんな表情をしているのかを、見ていなかった。
「………………っ」
神奈は、泣いていた。
唇を噛みしめ、泣いていた。
泣きながらも、その表情は強気であった。
唇を震えさせながら、強気な表情で、泣いていた。
神奈は、赤石の悪意を受け止めきれなかった。
赤石はそのことに気付いていない。
どうして。
どうして平手打ちをされたのか。
咄嗟の事態に、頭がついていかない。
櫻井の悪事を全て教えたにも関わらず、神奈が自分に怒っている理由が、一切分からなかった。
「どうして…………」
「どうしてじゃねぇだろうが!」
叫ぶ。
神奈は想いの丈を、叫んだ。
「聡助のことを悪く言うな!」
「…………え」
あんまりだ。
あんまりにも、おかしい返答だ。
櫻井が悪人であることをバラして、どうして自分が怒られているのか。
「聡助のことを悪く言うなって言ってんだよ! お前に何が分かるんだよ! 聡助の何が分かるかって聞いてんだよ!」
「それは…………」
言ったことの全てが、赤石の知っている櫻井だった。
違うのか。
それは、違うのか。
そんな訳がない。
少なくとも人格者であるのなら、須田のように男の友達もたくさんいるはずだ。
それに、神奈自身の言からも、櫻井の美点を象徴するようなものは、何もなかった。
「お前が聡助のことを語ってんじゃねぇよ! 私は聡助が好きなんだよ! お前みたいになんでも斜に構えて、理詰めで批判的な、心の欠片もないような、機械みたいなお前に、私の気持ちなんて理解できる訳ねぇだろうが!
お前みたいに何でもかんでも理屈で通そうとするような奴に聡助のことが理解できるわけねぇだろうが! お前みたいに…………お前みたいに人の心を解することが出来ねぇようなゴミクズに聡助の何が分かるって言うんだよ!
言えよ! 言ってみせろよ! お前は他人を俯瞰的に見て悦に入ってるだけだろうが! お前なんかに……他人を見下すことでしか偉ぶれないお前なんかに人の気持ちが理解できるわけねぇだろうが!」
「…………」
心が、痛い。
抉られる。
鈍痛が、走る。
だが、自分には心がある。
その心を意識したからこそ、櫻井の悪事をリークした。
そのはずだ。
そのはずだった。
「でも櫻井に男の友達がいないのは事実…………」
「うるせぇんだよ! それでも私は聡助のことが好きなんだよ! 私の好きな人の悪口を言うのは止めろって言ってんだよ!」
「…………」
理解できない。
それは、妄信にも近い感情。
恋慕ではなく、妄信。
「私が好きな聡助のことを侮辱してんじゃねぇよ!」
神奈はそう言うと、走り、教室を出た。
涙を拭いながら走る神奈の横顔が、見えた。
「…………」
ずるずると、力なく壁にもたれかかった。
「…………なんで」
赤石は、茫然としていた。
なんで自分が怒られているのか。
何が間違っていたのか。
自分は何か間違ったことを言ったのか。
分からない。
赤石は、櫻井になりたかった。
櫻井のように下心を前面に押し出すのではなく、自分の本心を偽りなく、他者に伝えたかった。
だが、その結果が、これだった。
櫻井のように本心をさらけ出した結果が、これだった。
櫻井とは、天と地の差が、あった。
本当に、自分がなりたかったのは、櫻井のように本心をさらけ出すことだったのか。
分からない。
何故なのか。何故櫻井と同じようにならないのか。
分からない。
自分が本当は何をしたかったのか。
分からない。
赤石は、自分が櫻井を羨ましく思っていることを、分からない。
葉月に、新井に、水城に、高梨に、神奈に。
八谷に、無類の愛を与えられている櫻井を羨んでいることを、分からない。
分からない。
赤石が本当になりたかったものは、櫻井のように、自分を一途に、真摯に愛してくれる人がいる状況だということを。
比することなき、他者の心の無理解。
「……」
赤石自身が人の機微に疎い、合理的で、理知的で、それでいて愛を欲する、普通の人間だということを、自分でも気付いていない。
神奈をすら、羨ましく思ったことを。
教師の立場があるのにも関わらず、自分の地位を脅かすようなことをさせるほどの愛を。
屋烏の愛という言葉があるように、一度芽生えた好意は他者に何を言われようとも消えることがないことを。
その愛は妄信であり、当事者の間でしか、揺るがないことを。
赤石は茫然自失とし、たどたどしい足取りで教室を出た。
誰が何を言おうとも、本物の愛は揺るがない。
好意を持つ者がどれだけの悪事を仕出かしたとしても、その愛は揺るがない。
赤石は愛の重さを、見誤った。




