第6話 櫻井聡助はお好きですか? 1
翌日――
「ちょっとあんた、私に自重しなさい、ってどういうことよ!」
半眼で、八谷は荒々しく赤石の机の上に手をついた。
「…………は?」
赤石は唐突な八谷の突貫に顔をしかめ、返答した。
「は? じゃないでしょ! あんた昨日私に自重しなさいって言ったでしょ!」
「いいや、言ってないなそんなこと。自分の名前の意味を知った方が良い、って言ったんだ。強制じゃないし、意味も全然違う。言葉の綾にすらなってないな」
「なんなのよあんた!」
八谷は憤慨し、赤石の胸倉を掴む。
「言葉でダメなら暴力か、情けないな」
「こっの!」
我慢の限界が切れた八谷は拳を振り上げる。
が、振り上げた拳は背後から櫻井に止められた。
「なっ……何よ聡助離しなさいよ! これは私とこいつの問題よ!」
「おいおい、もうそこらでやめとけよ。赤石が何を言ったのかは知らねぇけど、お前にも悪い所あったんじゃねぇの?」
「うるさいわよこのバカ聡助! 引っ込んでなさい!」
「うええぇぇぇっ!」
拳を掴んだ櫻井を放り投げ、改めて赤石の机に両手をつく。
「お前もう櫻井の下に帰れよ。迷惑だ」
「なっ…………そっそんなことっ……私は聡助なんて何も…………!」
櫻井との関係性を指摘されたことで露骨に頬を染め、両手で顔を挟む。
事態を収拾するためとはいえ、櫻井との関係性を揶揄するようなことを言ってしまった自分に嫌気がさした。
キーンコーンカーンコーン。
言葉に詰まったところで、一限目の鐘がなった。
「あんた放課後覚えときなさいよ!」
八谷は去り際に赤石に呪詛を投げつけ、自分の席へと戻っていった。
「なんなんだ一体……」
赤石は掴まれた胸倉のしわを引き延ばしながら一人、呟いた。
「面貸しなさい、赤石」
「また来たのかよ……」
放課後、掃除の時間中に、八谷が赤石の下へとやって来た。
「用件だけ言えよさっさと」
「あんた本当むかつくわね。モテないわよ」
「お前だってモテてねぇだろうが」
「私はモテてるわよちゃんと」
「くっ…………」
事実、八谷は校内でも人気の美少女ではあったが、赤石にはそういった件の噂は全く立っていなかったので、言い返せない。
「あんた昨日私に『名前の意味を知った方が良い』だなんて言ったじゃない」
「ああ、言ったな」
「あれは私に自重しなさいって意味でしょう。『恭子』の『恭』は『恭しく、礼儀正しいこと』、『子』は『最初から最後まで』。あんたが言いたかったのはつまり、私には礼儀正しさだとか恭しさがない、って言いたかったってことなんでしょ』
「その通りだ」
「じゃあ合ってるじゃない! 朝にあんた否定したでしょ! 嘘ばっかつかないでよ!」
凄絶な剣幕で赤石に詰め寄る。
「自重しろとは言ってないだろ、それに『知った方が良いかもしれない』って言ったんだ。含意は違う」
「屁理屈ね」
「違うね」
売り言葉に買い言葉、赤石は八谷の詰問に返答する。
そうして何も事態が進展しないまま、掃除の時間が終わった。
「あんた、掃除終わった後も居残りなさいよ。私に謝るまで許さないからね」
「部活行けよ」
「今日は休みよ」
「ちっ…………」
「舌打ちするな!」
赤石は八谷に、掃除の後も居残ることを要請された。
赤石と八谷の班の掃除が終わり、赤石は教室で所在なさげに教科書を読んでいた。
「逃げなかったのね、偉いじゃない」
「そう言うと思ったからな」
放課後、八谷を放置して帰ったとしても事態は好転せず、悪化の一途を辿るのみだと考えた赤石は当座で問題を解決しようと考えた。
矜持から謝るようなことはしなかったが、それ以外に道がないと考えた赤石は謝罪してその場を収めようと考えた。
「悪かったな、八谷。じゃ」
「ちょっ……ちょっとそれだけ⁉」
即座に話を終わらせようとした赤石に、八谷は動転し、腕を掴む。
「謝っただろ。はいはい俺が悪かったよどうもすいませんでした、もう二度と言いません、はい。放せよ」
「全然心こもってないじゃない!」
「生憎感情を表に出すのが苦手でな。じゃ」
赤石は八谷の手を振りほどく。
「まっ待てっ……」
八谷がもう一度腕を掴む様手を伸ばした時、その手はまたしても櫻井に捕まれた。
「おいおい恭子…………お前何やってんだよ。赤石ごめんな、こいつが何かしたみたいで。喧嘩してんだろ?」
「喧嘩じゃないわよ聡助…………これは蹂躙よ」
唐突に自分の手を掴んだ櫻井に頬を染めながらも、八谷は胸を張って大声で宣言した。
そして、宣言すると同時に、例によって櫻井を放り投げた。
面と向かって話すのが恥ずかしいため、暴力を振るいその恥ずかしさを誤魔化しているんだろう、と、瞬時に察しが付く。
子供だ。
どこからどう見ても櫻井に好意を寄せていることが分かるので、赤石は、はぁ、とため息を吐く。
「じゃあ悪かったな櫻井。俺はこれで」
「待てよ赤石!」
教室から出ようとしたところを、櫻井に呼び止められた。
「このままじゃ恭子と赤石に禍根とか残るかもしれないだろ? 俺たちクラスメイトだろ? 禍根を残したまま終わりたくないだろ? 仲直りしようぜ?」
「はぁ…………?」
櫻井は赤石と八谷の仲直りを要求した。
強引に自分と八谷とを仲直りさせるという櫻井の言葉に、心底嫌な気分になる。足に鎖を付けられたかのようなまがまがしい倦怠感が体を襲う。
「禍根を残したまま終わりたくないだろ? 仲直りしようぜ?」
一見して、正義心に満ち溢れ人との仲を取り持つような言葉ではあるが、その実、その根底には発言者の意識的か、無意識的か、どす黒い感情が垣間見える。
それが、お前たちにとっていいことだろう? と。
正義を、他者に押し付ける。
正義を押し付けるなら、それはもはや正義ではない、悪だ。
赤石は、そう考える。
表面的な人の厚意に相対するとき、常々その言葉の根底にあるどす黒い感情を感じざるを得なかった。
俺は正義だろ? と。
正義を全うするべきだろう? と。
それが正しいだろ? と。
他人に正義を、押し付ける。
殺害が正義だと、悪人は言う。それを他人に押し付けることが正義だと。
物事の根底としてあるのはどちらも悪であり、表層的にそれが厚意に見えるか悪意に見えるか、そういった違いだけだろうと、赤石は常々感じていた。
故に、正義を振りかざす人間から距離を取りたいと、瞬時にそう思わせた。
「そうだ、今から俺たち三人でどっか飯食いに行こう! ちょっと夕飯には早いかもしれないけど、大丈夫だろ? な、恭子? な、赤石?」
「わっ私は別に良いけど…………聡助がそう言うなら仕方ない…………」
八谷はまんざらでもない様子で、櫻井に同意する。
「じゃあ決定! 行こう、俺たちで!」
赤石の気持ちは無視し、櫻井は夕餉を共にすることを強引に決定した。
櫻井に対する敵愾心は心の底に付着し、ぐちゃぐちゃと粘ついた音を立てながら、沈殿していった。