第544話 志藤志保はお好きですか? 1
赤石悠人が、嫌いである。
左右に揺れるおさげ髪。
カチャカチャと音を鳴らしながら、金のフレームをした丸い眼鏡を上げる。
誰ともなく、自然に名付けられたあだ名は、委員長。
志藤志保、暮石たちの友人として長年一緒に帯同してきた彼女が、一番最初に赤石に抱いた感情だった。
常に控えめで主張をすることのない彼女は、赤石悠人を嫌っていた。ともすれば、憎んでいた。勤勉で実直で、真面目で誠意にあふれている自分にすらも、劣等感を持っていた。スカートを短くすることもなく、校則を一切破ることもなく、ただただ純粋に、ただただ着実に、規律を守ってきた。そんな自分を、好きになれなかった。
ルールとは、破るためにあるものではない。遵守するためにあるものである。
志藤の中に根付いた、一種の価値観でもあり、呪いでもある。
志藤はチャームポイントともいえる丸眼鏡をカチャカチャと鳴らしがら、歩く。
「あっ」
「あ」
廊下の曲がり角で、誰かとぶつかる。
抱えていた教科書、ノート、筆記用具が滑り落ちる。
「いたた……」
志藤が顔を上げると、そこには赤石が立っていた。
「悪い。立てるか」
赤石が志藤に手を差し出す。
「ども」
志藤は赤石への返答を短く切り上げ、落とした筆記用具などを拾い上げた。
そのまま小走りで、赤石の横を素通りする。
「……」
赤石は志藤の背中を見送った後、そのまま歩いて去った。
志藤志保は、赤石悠人が嫌いである。
暮石たちと昵懇の仲、というわけではない。
たまたま同じクラスが続いて、たまたまお互いに気が合って、たまたま近くにいるだけの存在である。親友だとか竹馬の友だとか、そんな大層な関係ではない。
ただお互い都合が良くて、ただお互いが一人にならないようにつるんでいるだけの、友人。都合の良い関係だ。
「赤石君って面白いよね~」
暮石と話していると、自然、赤石の話が出て来る。
赤石がその場にいないのにも関わらず、暮石の口からは何度も何度も赤石の名が出る。
「あはは……」
それが不快で不快で、たまらなかった。
三白眼で目の下にクマを刻んだ、人相の悪い男。
とりわけ、自分は世界のことを何でも分かっています、とでも言いたげな態度が、心底嫌いだった。
「志保も赤石君と話してみなよ? 面白いから」
「そだね~」
何故この男がここまで評価されているのか、理解できない。
だが、友人関係にある暮石が面白い、と太鼓判を押しているため、迂闊には嫌いだと表明できない。好きな人を共有できない人間とは、軋轢が生まれてしまう。暮石と軋轢が生まれてしまえば、今後の学生生活に支障が出る。
ただただ静かに、無関心を貫くより他ない。こんなことになるのなら、もっと前に嫌いだと表明しておけば良かった。
忘れもしない。
鈴ノ宮高校に入学してすぐの日。
「……」
高校初日、志藤は緊張の面持ちでたたずんでいた。
本来の集合時間よりも、随分と早い。まだ人の出入りも少なく、集団に汚されていない綺麗な空気が、肺に入る感覚がする。
「ふ~」
校門前で息を整える。
そこに、同じように周囲をきょろきょろとしながら校門へと入る男がいた。
「あ」
「……?」
きっと、自分と同じ同級生だろう。まさかこんな朝早くに同級生と出会えるとは思っていなかった。
志藤は咄嗟に、声をかけていた。
男が志藤を見やる。
「一年?」
「一年」
男、赤石悠人は指を一本立てた。
「こ、こんにちは」
「こんにちは」
志藤は赤石に会釈する。
赤石も志藤に会釈で返す。
「私も一年」
志藤は赤石に一歩、歩み寄った。
「初めまして」
「初めまして」
「キャピタルスタッシュ芸能社所属の浄堂新一朗と言います。以後、お見知りおきを」
「え、あ、芸能人……」
志藤は前髪を直す。
まさか芸能人と出会えるとは思っていなかった。死力を尽くして何とか入れた、頭の良い高校。揶揄もさながら自称進学校などと言われてはいるが、志藤にとっては高い高いハードルだった。
親からの勧めもあり、毎日毎日血反吐を吐くような思いをして勉強して、どうにかこうにか入れた高校である。県内でも上から数えて五本の指に入る鈴ノ宮高校に入学することができ、志藤はいささか舞い上がっていた。
「芸能人の人に会えるの初めてで」
志藤はしどろもどろになりながら、答える。
やはり頭の良い高校は他とは違うんだ。こうして簡単に芸能人にも会える。
「浄堂君はもしかして裏口入学とか……?」
芸能人はやはり裏口入学なんだろうか。
お金を詰んで頭の良い高校に入れたんだろうか。
「正々堂々、受験合格。」
赤石は小さなガッツポーズをし、コマーシャルのごとく志藤に視線を送る。
「あ、そうなんだ」
「あと、芸能人は冗談だ」
「え、えぇ……」
初対面である。
あまりにも堂々とした、嘘だった。
初対面での自己紹介にも関わらずジョークを織り込める男の胆力に、いささか感心する。
「あ、私は志藤。志藤志保」
「志藤さん」
「志藤でいいよ」
「志藤」
志藤は茶目っ気たっぷりにそう言う。
「人少ないね」
「まだ早いからな」
志藤は校内に入り、赤石と談笑する。
「赤石君はここ受かった人?」
「いや、隣の高校の」
「え、あ……」
志藤は隣の高校に視線を寄せる。
「時間空いたから他の高校の視察しようかな、って」
「そ、そうなんだ」
「って言ったら怖いだろ」
「止めてよ、もう」
志藤が目を細める。
「ここ受かった人、とか聞いてくるから」
「確かに私も変な質問だったね。なんか初対面の人って何話したら良いか分かんないんだよね。ノリ合わないかもだし」
「自己紹介と趣味、働いてる会社とか」
「合コンすぎるでしょ」
「じゃあ右の人から順に好きな男のタイプと今までの交際人数を」
「有害すぎる男いるなぁ」
志藤が苦笑する。
「私あんまり勉強が出来るタイプじゃないからね、こんな頭の良い高校に受かって、本当に良かったっていうかなんていうか、うん、緊張してる」
「高校受験まぁまぁ大変だったしな」
「分かる」
志藤がふぅ、と息を整える。
「赤石君も受験緊張した派?」
「まぁそんなに覚えが良いタイプじゃないからな」
「じゃあ私の仲間だ」
「ああ」
「これから三年間、お互いに苦しもうね」
「あんまり苦しみたくはないな」
志藤が遠い目をする。
「こんな良い所入学できたんだし、やっぱり真面目にやっていきたいよね」
「良い大学まで直行で行けると良いな」
「うんうん、三年間頑張らないとね」
「ああ」
「でも私あんまり勉強とか好きなタイプじゃないからさ、正直心配だよね」
志藤は勉強を苦手に思っている。学ぶことを忌避している。
母の勧めもあり、どうにかこうにか高校受験をクリアすることはできたが、高校受験よりもずっとハードな難易度の大学受験を、懸念していた。
「高校こそ、お母さんの勧めもあってなんとか頑張って来れたけど、大学までこの調子でパスする自信ないなぁ」
「高校受験と大学受験は根本的に別物だしな」
「やっぱり人生で一番華のある高校時代を勉強で過ごすのって、もったいなくない?」
「まぁ今頑張らないと将来困るから、仕方なくやることはやる、って感じだな」
「そうかなぁ」
志藤は小首をかしげる。
「なんかさ、受験で思ったんだけど、私お母さん嫌いなんだよね」
志藤は自身の家庭環境を、とつとつと語り始めた。




