第511話 初めての下宿先はお好きですか? 15
「……」
八谷はベッドの中で、もぞもぞと動いた。
「眠れない……」
赤石の返信が来てから三十分、中途に覚醒した八谷は興奮し、眠れない夜を過ごしていた。
「……」
眠れない夜にスマホを見ることが良くないとは分かっていても、再び赤石への返信を見てしまう。
つい引き寄せられてしまう。
「……」
八谷はスマホを枕の近くに置き、布団をぎゅっと掴んだ。
「……寒い」
窓が開いている。
肌が粟立つ。八谷は腕をさすり、暖を取る。
春にしては肌寒いくらいの夜風が、八谷の部屋にすうすうと入って来る。
八谷の部屋の近くには家がなく、大通りに面しているため、車が通過する音がうっすらと八谷の部屋に聞こえてくる。
「はぁ……」
やはり、眠れない。
八谷はベッドの中でもぞもぞとする。
布団から顔だけを出し、静かに目をつぶる。
「赤石……」
一人、そっと呟いた。
窓の外を見る。
夜も更け、外は真っ暗になっている。
気付けば、しとしとと雨が降ってきていた。
夜風に薄いレースのカーテンがたなびき、外が見え隠れする。
高い階層に住んでいる八谷の部屋からは、遠くの景色と橙色の街灯しか見えない。
「好き」
八谷は一人、ベッドの中で静かにそう呟いた。
窓が開いているため、八谷の声は外に聞こえる。いっそのこと、誰かに聞こえてしまえば良いのに、とすら思った。
道路をひっきりなしに通過する車の音だけが、八谷の部屋にうっすらと流れ続ける。
「好き、好き、好き」
目をつぶる。
自分の身体を抱きながら。
「好き、好き、好き、好き、好き」
次第に、八谷の身体にも熱がこもる。
部屋に一人、八谷は布団に体を隠したまま、小さく、小さく呟き続ける。
手でゆっくりと自身の身体を撫で、体が小刻みに震える。
知って欲しい。
でも、知って欲しくない。
ああ。
全部どうにかなってしまえば良いのに。
「赤石……。好き、大好き、好き、大好き。好き、好き、赤石、大好き」
頬は赤く染まり、上気する。
肌がじんわりと汗ばむ。八谷の身体が、冷たい夜風に吹かれる。
熱を帯びた八谷の言葉は夜気に溶け、その恋心を包み隠すかのようにして、消えていく。
とろんとした目で、八谷は赤石の名前を呟き続ける。
呼気は荒くなり、自然、思わず声が漏れてしまう。
「好き、好き、好き、好き、好き、大好き」
赤石への愛を呟けば、自然と、眠れる気がした。
強張っていた体から、力が抜けていく。
脱力感が、そしてふんわりとしたような浮遊感が八谷に訪れる。
「好き、好き、大好き、好き、好き、愛してる、赤石……」
汗ばんだ肌が夜風に吹かれ、心地良い。
夜の帳は八谷の恋心すらも、覆い隠す。
今ここでどれだけ赤石への愛を呟こうとも、しとしとと降る雨が、全て流し去ってしまうだろう。
ここだけだから。
今だけだから。
贅沢は言わないから。
八谷は体にぎゅっと力を入れた。
「はぁ……」
好きだと、思った。
愛しい存在。どうしても、手に入れたい。世界で一番、好きな人。
一体自分はいつから、こんなにもわがままになってしまったんだろう。
一体自分はいつから、こんなに赤石のことが好きになったんだろうか。
あるいは、それもただの勘違いなのか。
自分を肯定させるためだけの。
橙色の街灯が、八谷の部屋に、燐光のように入って来る。
八谷の肌を、うっすらと照らす。
「やば……」
八谷は自身の手を見る。
細くしなやかな、綺麗な指を、見つめる。
「……」
八谷は細く長い指を、再び布団の中にしまい込む。
体が熱い。
赤石のことを考えると、いつも複雑な感情を帯びてしまう。
「触って――」
触ってほしい、などと邪な考えが八谷の脳裏を過る。
八谷は自身の長い脚をゆっくりと撫でた。自分で撫でているはずなのに、誰かに撫でられているかのような妙な感覚に陥る。
「赤石……」
目に涙を浮かべる。
「好き、大好き、大好き、大好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き……」
ベッドの中で、八谷は膝を抱えて丸くなる。
赤石への好意を呟けば呟くほど、安心できた。リラックスできた。守ってもらえる気がした。
赤石への言葉は八谷の部屋の中を浮遊し、ゆっくりと落ちていく。
本人には、決して伝わらない言葉。
自分の中でしか完結できない、ただの独りよがり。
「……」
甘く。
か細く。
可憐で。
掠れ。
熱い。
そんな。
声で。
「悠人……好き、好き、好き……」
八谷は自室で赤石への好意をそっと呟くことしか、出来なかった。
段々と熱を帯びる身体を慰めるように、八谷は自身の身体を、ぎゅっと抱いた。
「切ないな……」
小さな吐息だけが、夜気に溶けていた。
暮石は赤石の背中に抱き着いたまま、しばらく雑談を楽しんでいた。
「夜だねぇ」
「そうだな」
赤石の部屋も窓が開いており、冷たい夜風が二人の頬を撫でる。
「寒いねぇ、やっぱり今日」
「な」
「春じゃないみたい」
「窓閉めるか?」
「ううん、大丈夫。部屋違うし、別にこっち見えるようなところでもないし。それに、車が通る音も聞いてて気持ち良い」
その代わりに、と暮石は赤石をぎゅっと抱いた。
「寒いけど、二人でいたらあったかいねぇ」
「そうだな」
「ちょっとだけこっち向いて?」
「ちょっとだけな」
暮石は、赤石を自分の方に振り向かせる。
「……ん」
暮石は赤石の唇に、そっと自身の唇を重ね合わせた。
「ちゅっちゅしたかった」
「変態だな、お前は」
赤石は再び暮石に背中を向ける。
「二人で今の写真撮ってさ、恭子ちゃんに送らない?」
「なんでだよ」
「オタク君、見てる~? 今から二人で楽しい夜を過ごしちゃいま~す、って」
「そんな同人誌みたいなことできるか」
「写真だけ撮っとこ、っと」
暮石は赤石と自身の写真を撮った。
赤石は顔を隠す。
「裸の女と顔を隠す男、これは……事案ですねぇ!」
「はいはい」
暮石はスマホを覗き見ながら興奮する。
「赤石君が大物になったら、スクープできそう」
「大物になんてならないよ、俺みたいな人間」
「私はそうでもないと思うけどな」
「まぁ、誰がどうなるかは確かに分からないけど」
「私、赤石君の彼女だってこと自慢できるかな~」
「俺が自慢する方だろ、きっと」
赤石はくすり、と笑った。
「オタク君、見てるぅ~?」
暮石は布団に入ったまま、何枚か赤石との写真を撮る。
「寝る前にそんなにスマホばっか触ってたら眠れないぞ、暮石」
「は~い」
暮石はスマホをしまった。
「ぎゅ~しよ?」
暮石は赤石の背に抱き着いた。
「ぎゅ~」
暮石は強い力で赤石を抱きしめる。
「幸せだねぇ」
「……ああ」
赤石は暮石の頭を撫でる。
「えへへ」
「おやすみ」
「おやすみ、私のダーリン」
暮石は赤石に抱き着いたまま、静かに眠りについた。




