第504話 初めての下宿先はお好きですか? 8
赤石の家の前で、八谷は壁を背にして隠れた。
「……」
息を潜める。
階段を上がる音が、聞こえてくる。
靴音がゆっくりと、赤石の部屋へ向かう。
「……」
コツコツと靴音が響き、人の影が見えたあたりで、八谷は勢いよく飛び出した。
「遅いじゃない! どこで何して、た……」
「……え」
八谷の前には、見知らぬ女が、いた。
大学生と思しき女は八谷に突如声をかけられ、硬直する。
小さなハンドバッグを持ち、ばっちりとメイクを整えた美形の女は、八谷をじろじろと見る。
「あ……」
露出の多い服装で整えた女は、不審な目で八谷と対峙する。
「ご、ごめんなさい……。人間違いで……」
「……」
女は八谷にぺこり、と会釈すると、横を通り抜けて、赤石の向かいの部屋に入った。
「……」
八谷はうつむいたまま、またトボトボと赤石の家の前へ戻った。
「はぁ……」
結局、赤石は帰って来なかった。
いつまでも家の前にいては隣人の迷惑にもなり良くないな、と反省した八谷は階段を下りる。
実家に帰って連絡できない可能性もあるため、これ以上の長居は無用と判断した。
「……」
八谷はトボトボと、家への帰路を歩く。
「わ……」
近くにある運動公園のバスケコートで、一組のカップルがキスをしていた。
袖をまくる男と、男の口元に顔を寄せている女が、いた。
夜も深く、顔も姿も詳しく見えないが、カップルがキスをしているであろうことは分かった。
「ヤなの見ちゃったな……」
八谷はすぐさまキスをするカップルから目を逸らし、前を向いた。
「はぁ……」
八谷は何度も何度も、ため息を吐いていた。
「危ないな」
「駄目なの~?」
バスケットコートで暮石が赤石にキスを迫っていた。
赤石は手で暮石の口元を抑え、キスを何とか防いでいた。
「恋人なのに?」
「外でこんなことしたくない」
赤石は暮石の肩を持ち、姿勢よく立たせた。
「外でやるからスリルあるのにぃ!」
「誰かに見られてたらどうするんだよ」
暮石はきょろきょろと辺りを見渡す。
「大丈夫、誰も見てないから!」
暮石は親指を上げた。
「今見てないだけで、誰か来るかもしれないだろ」
「いいじゃん、見せつけちゃえ!」
「外でそういうことはしたくない」
赤石は帰るため、地面に置いたカバンを持った。
「ケチ! けちんぼ赤石君! ケチケチケチ!」
「けちんぼで結構」
「じゃあいいよ!」
暮石はぷりぷりと怒りながら、カバンを持った。
「全く……」
赤石はため息を吐く。
「お前はエロいことしか考えてないのか?」
「考えてない」
「性欲モンスターめ」
「はいはい、私は所詮性欲モンスターです~」
暮石は唇をぶるぶると震わせ、抗議する。
「困った女だな……」
「……」
赤石が軽く体操する。
暮石は赤石の隙を見て、背伸びをした。
「赤石君?」
「ん」
暮石が赤石の首筋に、キスをした。
「……」
「……っ」
赤石は赤い顔で暮石を睨みつける。
「何さ何さ、これくらいなら良いじゃないか! はんっ、そんな悪い顔しちゃってさ! 彼女特権だ! 私には彼氏にキスをする権利がある! 彼氏に体を好きにする権利がある! 彼氏は彼女の要求に全て答えるべき!」
顔を赤くして怒る赤石に、暮石がぷりぷりと反論する。
「海外じゃ挨拶だよ、このくらい!」
「ディスイズジャパン」
「これがヘルジャパン……」
「違います」
「私彼女なのにな~……」
暮石は赤石と手をつなぎ、赤石の家へと向かった。
「このマンション?」
二人は赤石の家へとたどり着いた。
「ああ」
「メモしとかなきゃ」
暮石がスマホに赤石の自宅をメモする。
「聞いてくれたらいつでも教えるよ。行くぞ」
「おっけ~」
赤石は自分の部屋まで、階段を上がった。
「……ん?」
「なになに?」
赤石が自分の部屋に到着したところで、立ち止まる。
「なんだこれ?」
「なにこれ?」
赤石のドアノブに、ナイロン袋が引っかけられていた。
袋には、料理の入ったタッパーが複数入れられていた。
「赤石君の?」
「いや、こんなことしてない」
「捨てちゃえば?」
暮石が、ドアノブにかけてある袋を取った。
「お~」
暮石がタッパーを確認し、納得する。
「恭子ちゃんからだ」
「八谷から?」
暮石は赤石にタッパーを見せた。
タッパーには、八谷の名前が書いてあった。
「律義な女だな」
「ね~」
赤石は胸を撫で下ろし、家のドアを開けるため鍵を取り出す。
「ちょっと待っててくれ。人来ると思ってなかったから、家の中片付けてくる」
「おっけーまるなのだ!」
暮石はビシッ、と敬礼する。
「袋、もらっとくよ」
「あ、私持っとくよ。掃除するのに邪魔でしょ?」
「そうか。分かった。じゃあ待っててくれ」
「了解のすけ男爵!」
暮石はにこにこ笑顔で赤石に微笑みかける。
赤石は家の中に入り、片付けを始めた。
「……」
赤石が家の中に入ったことを確認し、暮石は冷たい目で袋の中身を確認する。
袋の中にはタッパーと、そして手紙が入っていた。
『赤石へ。突然こんなことをしてごめんなさい。赤石がいつこれに気付くか分からないけれど、赤石に料理を食べて欲しくて作りました。一生懸命作ったので、食べてもらえたら嬉しいです。今日卒業旅行が終わったばかりで急いで作ったので、もしこれに気付くのが遅くなったら、捨ててもらっても構いません。前からずっと料理が下手クソって馬鹿にされてたけど、私なりに頑張りました。また下手くそって言われちゃうかもしれないけれど、食べてくれたら嬉しいな笑。私なりに赤石のことを考えて作ったので、もし嫌いなものがあったら教えてください。あと、また今度赤石の好物を教えてください。教えてくれたら、次は赤石の好きな物をいっぱい食べさせてあげたいです』
八谷からの手紙が三枚にわたり、入っていた。
暮石は八谷からの手紙を流し見する。
『料理を楽しんでもらえたら幸いです。八谷より』
三枚目に、一、二枚目の手紙の内容を総括してそう締められていた。
「……」
暮石は八谷の書いた一、二枚目の手紙をぐしゃぐしゃに丸め、自身のカバンの中に入れた。料理をタッパーに入れたから時間が経ったため、タッパーの中の食材から水気が出ており、袋の中に汁がこぼれていた。
「……」
暮石はタッパーのふたを開け、袋の中に汁をこぼした。
「……」
袋の底が、料理の汁でべちゃべちゃになる。
暮石は三枚目の手紙の一部を、袋の中の汁に浸す。
手紙がぐちゃぐちゃによれ、文字の大部分が読めなくなる。
「おまたせ」
しばらく家の掃除をした後、赤石は扉を開けた。
「ううん、全然待ってないよ。今来たところ」
暮石はにこにこしながら、赤石に顔を近づけた。
「知ってるよ」
赤石は暮石を家の中へと招いた。
「恭子ちゃんが、お料理美味しくできたからついおすそ分けに来ちゃった、だって~」
暮石は赤石に、袋を渡した。
「そうか」
赤石は暮石から袋を受け取る。
「わ……」
赤石は袋の底を見た。
「よく見たら滅茶苦茶こぼれてんじゃねぇか」
「ね~」
暮石は赤石に手紙を渡す。
「なんか汁すごいこぼれてて色々べちゃべちゃになってたんだけど、手紙入ってた」
「手紙?」
「うん、美味しくできたから家近い赤石君におすそわけ~、って」
「おお」
暮石は赤石に手紙を渡す。
「あ~……」
手紙はタッパーの中にこぼれた汁を吸い、ふやけていた。
「読めねぇ……」
赤石は手紙を広げるが、汁で紙がふやけ、大部分の文字が見えない。
「ごめんね赤石君、何とかしたかったんだけど……」
暮石はうつむきながら、申し訳なさそうに言う。
「お前は何も悪くないよ。ありがとう」
赤石は暮石の頭をポンポンとする。
「でへへ……」
暮石は頬を染め、赤石の手を両手で優しく触る。
「タッパーである以上、料理から出た水分がこぼれるのは仕方ないよな」
「うんうん、仕方ないよね」
「あいつはまだ料理したことないから、そういうの分からないのかもしれないな」
相変わらずの料理スキルに、赤石は苦笑する。
「恭子ちゃんお料理苦手なんだ~」
「まだ苦手みたいだな」
汁でべちゃべちゃになった袋から、赤石はタッパーを取り出す。
タッパーにも汁がつき、汚くなっていた。
「わ~……」
赤石はタッパーを拭く。
「味とかちょっと混ざっちゃってるかもな」
そしてタッパーを冷蔵庫の中に入れた。
「ま、誰でも失敗くらいあるよ! 恭子ちゃんは何も悪くない!!」
「人間は失敗を繰り返して成長する生き物だからな」
「私も手伝うね~」
暮石もタッパーについた汁を拭き、冷蔵庫に入れるのを手伝った。




