第499話 初めての下宿先はお好きですか? 3
「ジュースを買いたいのだっ!」
赤石たちは飲み物のコーナーへやって来た。
「私これ好き~」
暮石は無色透明の桃ジュースを持ってきた。
「水じゃねぇか」
「違うよ、違うよ!」
これはそういうのじゃないの、と暮石は抵抗する。
「赤石君はどういうのが好きなの?」
「ん~……」
赤石はカゴを持ちながら、飲み物コーナーを回る。
「これだな」
赤石はレモンの炭酸ジュースを指さした。
「また酸っぱいのじゃん」
「好きなんだよ」
「私が?」
暮石が赤石を覗き込む。
「は、はい」
「返答までに間があった。やり直し」
パンパン、と暮石が手を叩く。
「……」
赤石は暮石のサインを待つ。
「ほら、赤石君から!」
「え?」
赤石は何を言ったか覚えていなかった。
「反応速度おじいちゃんじゃん」
「まだ十代だぞ」
「じゃあ赤石君の、大好きなんだ、から。よ~い、アクション!」
「そんなこと言ったか?」
パンパン、と暮石が手を叩く。
赤石は咳払いをした。
「大好きなんだ」
「私のことが?」
「はい」
「……」
暮石はしばらく考え、赤石の周りをうろちょろとする。
「まぁ、今はこれでいいでしょう。及第点とします」
「まだ向上の余地が……?」
「当たり前じゃん! ラマヌジャン!」
もう、と暮石は頬を膨らませる。
「全く……彼氏を教育するのにも一苦労だよ」
「そうか」
暮石はやれやれ、と首を振った。
「赤石君はこういうのが好きなんだ?」
暮石は、赤石のカゴに炭酸レモンジュースを入れた。
「ああ」
「酸っぱいのが好きなの?」
「酸っぱくて甘いのが好きだ」
「酸っぱいのなんて何が美味しいのか全然分かんないんだけど」
「良いだろ、酸っぱいの。人生みたいで」
赤石は追加でレモンの炭酸ジュースをカゴに入れる。
「酸っぱい所が?」
「ああ。それでいて、意識をしたらほのかに甘いところが」
「なんでジュースに人生投影してんの」
「まぁ出るんだろうな、性格が」
「確かに、赤石君の人生そのものだね」
暮石が赤石の前で、くるくると回る。
「赤石君の苦しく、ずっと酸っぱかった人生に舞い降りた、一人の天使……!」
暮石は大仰に舞い踊った。
「今まで彼の人生はあんなにも酸っぱく苦しかったのに、なんと言うことでしょう。私という一人の天使が現れてからは、彼の人生もレモンジュースの甘みのように、ほのかな幸せを感じるようになったのです……」
暮石はくるくると回る。
「あぁ、なんてことでしょう。彼の灰色で面白みのなかった人生は、私という一人の女神が現れてからは、極彩色に色づくことになるのです……。こんなのもうレモンジュースじゃない! フルーツジュースだ! 彼は喜びながら、私というジュースをちゅうちゅうと吸いつくすのです」
暮石は目をつぶり、酩酊しているかのようにそう言い連ねた。
「止めて、変態! 赤石君のエッチ!」
暮石が赤石を軽く叩く。
「……」
「はい、拍手!」
赤石はパチパチと拍手した。
「お酒も買う?」
「お酒は二十歳になってから」
暮石がカゴに酒を入れようとしたため、赤石がノーを突き付ける。
「そもそも身分証ないし」
「小学生の頃におままごとで子供の免許作ったんだけど、使えるかな?」
「使えるか」
「冗談じゃん」
暮石は酒を元の場所に戻した。
「酸っぱい飲み物が好きだなんて、赤石君も案外エムなところあるんだね」
にしし、と暮石は笑った。
「俺は別にエムでもエスでもないぞ」
「うそ~? どう見てもエスっぽいけど」
「そんなことないだろ」
暮石は妖しく笑う。
「私はエムだけどね」
「お前もそんな風に見えないけどな」
「私エスっぽい?」
「ぽい」
「ふ~ん……」
暮石は赤石に近づき、耳元に口を近づけた。
「私ドエムだから、赤石君にいじめられるの、楽しみだな」
そう耳打ちした。
ぞわぞわと、鳥肌が立つ。
「私、男の子に言葉責めされるの好きなんだよね」
暮石は口元を隠し、にやにやと赤石を見た。
「お前って何にも出来ねぇよな、とか本当頭悪いよな、とかなんでこんなことも出来ないの? とか、詰られるの好きなんだよね」
「そんなやつ存在して良いのかよ、この世界に」
「性癖には無限の可能性が秘められている。我々には、可能性を切り開く責務がある」
「研究論文みたいな言い回し」
赤石たちは人気のない飲料水のコーナーでぶらついていた。
「ねぇ、赤石君もちょっと罵倒してよ、私のこと」
「嫌だよ、こんな所で人罵倒するの」
「一年前の赤石君では考えられないようなセリフ」
「何も思いつかない」
「このメス豚が! って言って」
「なんで俺が女王様役なんだよ」
「ほら、早く早く」
暮石が赤石を急かす。
「このメス豚が」
「んひいいいぃぃ!」
赤石は無感情に言い放ち、暮石は小声で叫んだ。
「うるさいうるさい」
赤石は静かにするように人差し指を一本立てる。
「ごめんね、ちょっと興奮しちゃって」
じゅるり、と暮石が口元を拭く。
「じゃあ次は――」
「いや、もう言わねぇよ。うるさいし迷惑だろ」
「あんな小声だったのに!? 赤石君以外に絶対聞こえない声量だったよ!?」
「顔がうるさいんだよ」
「や~だ、赤石君のエッチ」
暮石が赤石の胸にとん、と指を触れる。
「彼女のエッチな顔見てたんだ」
「物は言いようだな」
「良いよ、別にじゃあ」
暮石は赤石に背を向けた。
「あとは別に、家帰ってからベッドで言ってもらったら良いわけだし」
「お前……」
赤石はため息を吐いた。
「なんかお前、俺の知ってる暮石とちょっと違うな」
暮石の妙なテンションに、赤石は複雑な感情を抱いていた。
赤石の知っている暮石は、テンションこそ高けれど、ここまで下品なことを言う女ではなかった。
「付き合うってこういうことなんだよ、赤石君」
分かるかね、と暮石が人差し指を立てる。
「絶対違うと思う」
「それまで知れなかった良い所も悪い所も見えてくるのが、付き合うってことなの。赤石君童貞だから分からないと思うけど。良い所も悪い所もあわせて、私なの。赤石君だってそうでしょ? 良い所も悪い所もあわせて、赤石君なの」
暮石が赤石の瞳を覗き込んだ。
「それをなんだい、赤石君は。俺の知ってる暮石じゃない、だとか。下品な話ばかりするから暮石じゃない、だとか。ちょっと自分の理想と違ったからって、その言い方はひどいんじゃないかい? ねぇ、赤石君」
「はぁ……」
暮石は赤石に説法を垂れる。
「……」
そして一足で、赤石の眼前までやって来た。
膝に手を当てながら前屈みになり、赤石を上目遣いでじっと見つめる。
「思ってたのと違うかったから別れるとか、絶対に許さないから」
「……」
暮石は赤石の瞳を、じっと、じっと、見る。
吸い込まれそうなほどに大きく、黒い瞳が、そこにあった。
暮石は先ほどの幸せそうな表情とは一転、打って変わり、赤石に無感情な表情を見せた。
「私は元々、こういうのなの」
そして軽やかな声に戻り、赤石から視線を外した。
「元々エッチなことを言ったりするのが好きだったけど、赤石君は友達だったから言ってなかっただけ」
「上麦相手にも言ってなかっただろ」
「彼女の裏の一面を知れるのは、彼氏だけなんだよ?」
だめぇ? と暮石が後ろ手に、甘い声で赤石に聞く。
「お母さんもお父さんも、友達も親友も知らない、私の裏の顔」
「……」
「彼氏しか知らない、私の裏の顔」
「裏の顔がただのスケベ親父なの悲しすぎるだろ」
赤石はふ、と鼻で笑った。
「赤石君はこれから私の変態性と付き合っていくことになるんだよ」
「前途多難すぎるだろ」
赤石たちは食料品を購入し、レジへと向かった。
「……」
はぁ、とため息を吐きながら手をこする。
三月ではあるが、夜はさすがにまだ少し肌寒かった。
「遅いなぁ……」
八谷はスマホを見た。
『もう帰ってる?』
赤石に送ったメッセージは、数時間以上経つがずっと既読にならない。
「赤石、まだ帰って来ないのかなぁ」
八谷はその場でしゃがんだまま、赤石からのメッセージを待っていた。
赤石の、家の前で。




