第491話 平田清はお好きですか? 2
平田清は、平凡な男だった。
平凡な家庭で生まれ、平凡な兄弟を持ち、ごくごく平均的な生活をしてきた。
思考の偏りも、能力の偏りもなく、人生における平均というものを地で歩いて来た男だった。
親からは平凡に愛され、兄弟とは平凡な関係を築き、平凡な学業成績を修め、平凡に大学へ行き、平凡に就職し、職場で出会った女と平凡に結婚し、平凡な仕事を続けながら、平凡に妻との同棲生活を謳歌していた。
平田清は、平凡な男だった。
だが、それで良かった。
清は、それこそが自分が歩くべき道であり、自分が乗るべきレールだと信じて、疑わなかった。
事実、清は幸せだった。
平凡な企業で平凡に働き、十歳以上も年下の、平凡な嫁を娶った。
清は娶った嫁を、愛していた。平田洋子を、愛していた。
端から見れば、平凡な女かもしれない。
だが、洋子は清にとって何よりも大切なパートナーであり、余人をもって代えがたい、宝物だった。
思考の偏りなど、必要なかった。
他者と争うような闘争心など、必要なかった。
ビジネスを始めるような起業精神も、皆を笑わせることが出来るようなユーモアも、人から一目置かれるような美しい容姿も、プロのスポーツ選手を目指せるような高い身長も、必要なかった。
ただただ平均的な生き方さえ、出来れば良かった。
平田清は、多くを望まなかった。
平田清は、平凡な望みだけを、叶えたかった。
ただ平凡に生き、平凡に結婚し、平凡に子供を授かることさえできれば、それで良かった。
そんな清の人生のレールが狂いだしたのは、結婚して一年が経った頃だった。
清は洋子との間に子をなすことが出来なかった。
一年間励んできたが、子宝に恵まれなかった。
清は、本格的に悩み始めた。
洋子との相性が悪いのか、洋子との子を授かれないことを、ひどく悩み始めた。
清は、平凡に生きてきた。
これからも平凡に生き、生まれてくる子供のために、必死に働くつもりだった。
大切な嫁と大切な娘を守るために、清は必死に働くつもりだった。
だが、清の思惑も外れ、それから数年の時が経った。
子供のために、と思っていた貯金は目に見えて減り、洋子への負担も増えていった。
洋子も憔悴し、清もまた、未来の見えない現状に絶望を感じていた。
清が酒に頼り始めたのは、この時からだった。
だが、数年の努力は見事実り、一人の娘を授かることが出来た。
ああ。
ようやく、可愛い娘の顔を見ることが出来た。
清は娘である朋美の顔を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
これから出会う色んな人と一緒に、成長して欲しい。
肩を寄せ合って、一緒に成長して、皆で助け合って、美しく生きて欲しい。
そんな想いをこめて、清は娘に朋美と名付けた。
これでようやく妻と娘のために一生懸命働くことが出来る。
安心して、清は再び仕事に精を出すことが出来た。
清の平凡なライフプランは、その後十年にわたり順調に進んで来た。
だが、朋美が中学一年になった頃、清の平凡な人生に、またも大きな苦難が待ち受けることになった。
「なんだ、これは……」
清は一人娘である朋美の部屋で、煙草を発見した。
「言ってみなさい!」
「……」
朋美が、社会のレールを逸脱するように、なっていた。
「ちっ」
朋美は父親が、嫌いだった。
口ばかり出し、自分の人生に過干渉をしてくる親が嫌いで嫌いで、仕方なかった。
「先輩の預かってるだけだから。吸ってないし別に」
「お前は……」
清は娘に手を上げた。
朋美は赤くなった頬を手で押さえながら、父を睨みつける。
「止めてください、止めてください!」
洋子は清と朋美の間に割って入り、自分が殴られることで娘を守った。
実際にお腹を痛めて産んだのは、洋子である。
洋子も清と同様に、娘を待ち望んでいた。
洋子は清よりもずっと重く、娘を愛していた。
長年苦しんで生まれた一人娘を、自分の命よりも大切に感じていた。
洋子にとって朋美は、宝物よりも、自分の命よりも大切な、とても大切な、娘だった。
「……もう、するんじゃないぞ」
清は、洋子を愛している。
そして朋美も、愛している。
怒らなければいけなかった。
間違っている、と声を荒らげて怒るべきだった。
だが、それ以上何もできなかった。
洋子が朋美との間に割って入ることで、それ以上朋美を怒る気になれなかった。
「……」
清は一人、思いつめるようになった。
それからも朋美は非行の限りを尽くし、清が朋美を叱るたびに、洋子が朋美を庇った。
結局朋美は、何も悪びれることはなかった。
何も成長することなく、何も自身の行動を振り返ることなく、ただただ自身の思いつくままに、朋美は好きに生き続けた。
「朋美……」
清は、思いつめていた。
「……」
そして再び、清は酒に溺れることになる。
清も、大切な一人娘を叱りたくはなかった。
だが、洋子が割って入ることで、清は何も言えなくなった。
清はどうすれば良いのか、全く分からなくなった。
毎日毎日、大量の酒を浴びた。
清の体調は、ここからどんどん悪化することになる。
洋子の静止も聞かず、妻とも娘とも向き合うこともせず、ただ酒に、逃げ続けた。
「お父さん、もうそれくらいに……」
「うるさい!」
清は洋子に怒鳴る。
「今日も朋美は帰って来ないのか!」
朋美は日に日に、家に帰って来なくなっていた。
「朋美の好きなようにさせてあげてください、お父さん。朋美には朋美の考えが、朋美の人生がありますから……」
「限度があるだろ!」
清は酒に溺れ、体調を悪くすることが増えていった。
そして洋子に怒鳴りつける回数も、増えていった。
「お前が……」
清は洋子を指さす。
「長い間子供が生まれなかったのも、全部お前のせいだろ! お前のせいで、朋美はあんなおかしくなったんじゃないのか!? お前がおかしいから、朋美もあんな風になったんじゃないのか!?」
「……」
宝物のはずだった。
人生をかけて守りたい、宝物のはずだった。
「……もういい。寝る」
気が付けば、清は最愛の妻に向かって、暴言を吐くようになっていた。
酒を浴びるように飲むことで理性のリミットが外れていた。
朋美が非行を続けていることに、清は重い責任を感じていた。
誰かのせいにしたかった。
娘が非行に走っていることも、何もかも、誰かのせいにしてしまいたかった。
自分は娘一人まともに育てることが出来ないのだ。
最愛の妻に対しても、あんな暴言を吐くことしか出来ないのだ。
自分は、なんて駄目な人間なんだ。
もういっそ、死んでいなくなった方が良いのかもしれない。
自分は本当に、愚かで矮小な人間だ。
最愛の妻と娘さえいれば、それで良かったのに。
妻と娘さえ幸せならば、それで良かったのに。
自己嫌悪。
清は深く、自分を恨むようになる。
妻と娘さえ良ければ、それで良いはずなのに。
そうなるように、死ぬ気で頑張ってきたはずなのに。
でも。
何故だろう。
今は、妻も娘も、幸せな未来を送るイメージが、できない。
自分は、本当に、どうすればいいんだろう。
清は最愛の妻に対しても、最愛の娘に対しても、やりきれない思いでいっぱいになっていた。
清の人生はそこから、転落の一途をたどる。
清は浴びるように酒を飲み続け、体を壊していった。
朋美は母からの無制限の愛を受け続け、非行を止めることはなかった。
洋子は清から罵倒を受け続けても、それでも清への愛が失せることはなかった。
清の人生は、平凡なものだった。
平凡な、はずだった。
洋子との結婚を機に、清の人生は大きく変わることになった。
「……」
娘を叱ることが間違っていたのか。
洋子にあんな言葉を吐いてしまったことが間違っていたのか。
それとも、酒に逃げ続けた自分が悪かったのか。
清は骨ばった体を見ながら、病床で一人、ずっと思い悩み続けていた。




