第445話 卒業式はお好きですか? 6
母に追われ、新井は昇降口まで来ていた。
「ほら、帰るわよ、由紀」
昇降口まで逃げてきた新井は観念して、階段に座っていた。
「だから、帰らないって言ってるじゃん……。皆とご飯行くんだ、って」
新井の隣に、母が座る。
「あの子が好きなの?」
赤石は昇降口の出入り口で、手をこまねいていた。
香織は遠くの方で立ちすくんでいる赤石を瞥見して、問い尋ねる。
「別に好きじゃないって……」
「あの男の子が好きなの?」
「だから好きじゃないって……」
「止めときなさい、ああいう子は」
香織は新井の言葉を聞かずに、話を続ける。
「今も由紀を追いかけに来ないで、あんなところでぷらぷらぷらぷら」
赤石はたまたま近くにやって来た三矢、山本、そしてその母たちと話していた。
「ああいう子はいつかあなたが困ったときに、真っ先にあなたを捨てて逃げるタイプだから」
「まぁ、それはそうかもしれないけど……」
新井は困った顔で言う。
「あなたは男の子を見る目がないんだから、全部私に任せればいいのよ」
「えぇ……」
「いい? こんなところで告白してくるような軽薄な男は選んじゃ駄目。どうせあなたのことを意志のない奴隷か何かだと思ってるに違いないんだから。選ぶならもっと真面目でまともな人じゃないと駄目。大学に受かってるかも分からないのに、こんな将来性のない状態で告白してくる男なんてロクな男じゃないから。女を道具としか思ってないのよ」
「いや、でも……」
「でももだってもないでしょ。あんた、最近だって大学生の男の子に騙されてたでしょ。あんたはいっつもそう。そうやって男の人に騙されて、騙され続けるのよ。お母さんだってさんざ騙されてきたんだから。将来性もない男なんかと付き合うのはもう止めて。お母さんを安心させて」
「……」
新井はうつむく。
卒業式が終わり、昇降口には誰もいない。香織は静かに呟くようにして、娘に言い聞かせていた。
「男なんて皆ゴミみたいなものなんだから。料理を作ったら、やれおかずが少ないだ、茶色ばっかりだ、文句ばっかり垂れてくるんだから。まともな稼ぎもないくせに女だからって人のことを見下して、気持ち悪い。そんなに料理が食べたいなら自分で作れっての。自分で作れもしないのに、女にばかり自分のできないことをやらせて」
香織はふつふつと怒りを発する。
「こんな所であんたに告白してくる男なんてロクでもないんだから。ほら、馬鹿な男に引っかかる前に早く帰るわよ」
香織は新井の腕を握る。
「だから、そういうのじゃないって……。赤石も、皆も、そんなのじゃないって。友達とご飯食べるだけだから……」
「友達って、あの子のことでしょ?」
赤石を見る。赤石は未だ、三矢、山本の母たちと話している。
「まぁ、そうだけど……」
「何が良いの、あんな子の? 大人に対する敬意も尊敬もない。言葉遣いも汚いし、顔だって良くもない。あんなのと付き合ったら将来まともな稼ぎもないのに、女に上から目線で説教してくるだけよ。止めときなさい」
「あのさぁ……」
新井はため息を吐く。
「お母さんが何思ってても別に良いけどさ、私の人生なんだから好きにさせてよ……。別に好きじゃないし、卒業式だから皆とご飯食べたいだけなんだ、って。何回言ったら良いの? 本当にさぁ……」
新井は半眼で母を見る。
「由紀、あなたは一体私の何を見てたの? 今まで私のことを捨ててきた男と同じようなこと言わないで。誰がお腹痛めて産んであげたと思ってるの? お父さんは蒸発して、女手一人であなたを育ててきたのよ。一体誰があなたを育てて来たと思ってるの?」
「うん、それはそうだけどさ……」
新井は沈んだ顔で返答する。
「男なんて、私たちのことなんて意志のない道具だとしか思ってないんだから。あなたも搾取される前に気付かなきゃダメ。大人になって、ちゃんとしたお金を持ってる人と結婚するために、あなたはこんな所で足踏みしてちゃダメ。こんなしょぼい偏差値の高校から大成する男なんて出て来るわけないんだから。こんな所にいたら、あなたまで駄目になるわよ。また駄目な男に騙されて搾取されたいの? 大学に入って、太い実家とお金を持った人を見つけて、あなたからアプローチするの。もうお母さんを楽にさせて。お願いだから……」
香織はがっくりと肩を落とし、うつむいた。
「……分かったよ」
新井は渋々ながら、香織の言うことを聞いた。
新井は立ち上がり、ゆっくりと昇降口の出口を目指した。
「おう、久しぶり」
「久しぶりでござるな」
三矢、山本が新井に手を上げた。
「ふふふ、どうも~」
香織が三矢と山本をいなし、赤石たちの間を通る。
「ごめん、赤石。私やっぱり帰る……」
「そうか」
新井は赤石の隣を横切りながら、そう言った。
「なんや、帰るんか?」
「さよならでござる。またいつか会えると良いでござるな」
三矢と山本が新井に手を振った。
「じゃあな。また」
赤石も三矢と山本にならい、手を振る。
「……うん」
「……」
赤石たちは新井に手を振り続ける。
「……っ」
新井は振り向き、口を開け、
「……」
何も、言わなかった。
止めて、欲しかった。
行くなと、止めて欲しかった。
一緒にご飯でも食べようと、言って欲しかった。
母の意志なんて放っておいて、自分たちと一緒にいてほしいと、言って欲しかった。
新井は求めていた。
自分が自分の意志で行動するための撃鉄を、求めていた。
自分の背中を押す一言が、欲しいだけだった。
「……」
だが、赤石はそれ以上何も言わない。
赤石は止めない。
新井の決めたことに口を挟むべきではないと、考えているから。
例えそれが新井の将来に黒い影を落とすことになったとしても。
例え向こう数年後悔するようなことになったとしても、赤石は何も言わない。
自分の人生は、自分で決めるべきだから。
「あら、帰るのね」
赤石たちの下に高梨がやって来た。
「さよなら、新井さん」
高梨も手を振る。
高梨もまた、新井を止めない。
止めようとすら、思っていない。感傷もない。
「うん、ばいばい……」
新井は暗い顔で高梨に手を振る。
「さて、どこ行きましょうか、赤石君」
高梨はすぐさま赤石に向き直った。
「さぁ。適当なファミレスとかでいいんじゃないか」
「俺はもうちょっとええところ行きたいわ」
「ごちそうさま、ミツ」
「誰が出す言うたねん!」
「私の別荘でも良いけれど?」
「ええやん、それ」
新井は自分を抜きにして盛り上がる赤石たちを見る。
これから自分は家に帰るのに、赤石たちは皆で楽しくご飯を食べる。
どうして自分がこんな目に遭っているのか。
本当に母の言うことを聞く必要はあるのか。
「……っ!」
気付けば、新井は走り出していた。
「みんなっ!」
「由紀!」
新井は香織の下を離れた。
「やっぱり私も行きたい!」
そして赤石たちの下に、駆け寄って行った。
「由紀……!」
香織が新井の下へ小走りでやって来る。
「ごめんなさいね、帰るので」
おほほ、と苦笑しながら香織は新井の腕を掴んだ。
「ごめん、やっぱり皆と一緒にいたい。お母さんは一人で帰ってて」
新井は香織に三行半を突き付ける。
「由紀……」
呆れた顔で香織は娘を見る。
「すみません、お母さん。しばらくご一緒するので」
赤石は香織の前に立った。
「由紀さんは責任を持って送ります」
赤石はぺこりとお辞儀する。
「嘘ばっかり」
「統貴がいるから大丈夫」
新井が茶々を入れる。
「ごめんなさいね、でも帰らせてもらいます。やっぱりうちの娘が心配でね。最近も変な男に騙されたばかりだから」
香織はいたって冷静に、笑顔を張り付けたまま赤石と対峙する。
言外に、赤石たちのことを指弾したい意志が、伝わって来る。
「それは可哀想に。まだ私たちと出会っていなかったんですね」
赤石もまた、笑顔を張り付けたまま皮肉に皮肉で返す。
「やっぱり一人娘だから本当に心配でね……。私が若いころなんて、女はクリスマスケーキだ~、だなんて言われてたからねぇ。二十五を過ぎたら売れ残り扱いされてたものだから、どうしても良いイメージがなくてねぇ……。娘が変な男に騙されないか心配で心配で……」
「そんな時代があったんですね。理念や理想、信念やポリシーのある由紀さんのことですし、他人の言葉より自分の意志を尊重してくれますよ」
赤石はにこにこと話す。
言い過ぎたか、と赤石は少し考えた。
新井を持ち上げることによって、逆に母を貶めていることになるか、と自身の言葉の失態に気付く。
理念も思想もないからあなたは他人の言葉を真に受けたんじゃないのか。
自分のことを自分で決めることも出来ず、何かの責任にすることでしか自分の人生を決められないから、自分にとって都合の良い言い訳を探して頼りにして来たんじゃないのか。
実際にあなたを縛っていたのはあなたの周りの環境でも、人からの視線でもなく、あなた自身だったのではないのか。
自分自身が自分を変えて生きていく。
人の言葉に惑わされず、自分が信じた道を突き進む。
そういう強さがなかったから、あなたは自分の人生に責任を持てず、何かを言い訳にすることしか出来なかったのではないか。
自分の人生を人任せにするよりまず先に、自分で前を向いて歩いて行かないといけなかったんじゃないのか。
人に頼りっぱなしで生きて来たから、今も何かあるたびに人のせいにして、自分の手で解決することを忘れているんじゃないのか。
そんな風に口撃をすることはできたが、赤石は口を閉じた。
新井の母親としがらみを残すわけにはいかないという思いのもと、赤石は話す。
水面下で赤石と香織のバトルが勃発していた。
「そんなことを言ってもねぇ。私も年老いたおばさんだけど、やっぱり男性は今でもヒドいことをしてくるイメージがあるから……」
「それだけ魅力にあふれているということかもしれないですね。男の人を惑わされてるんですね」
「今までもさんざひどい目に遭ってきたから、娘にも同じ目に遭って欲しくなくてね……」
「確かに今でもお母さんはお目立ちになられてますしね。さぞかしご大変な思いをされたのでしょう」
見れば、周囲の男子生徒たちから赤石たちへ視線が注がれていた。
その実、赤石と新井との関係性を気にしていることもあったが、香織の美貌も視線を集めている一因ではあった。
健康的な小麦肌に、ぱっちりとした目を持つ新井の母たる所以でもあった。人前に出るにあたって一応の準備をして来た香織は、人目を惹くには十分な美貌だった。
「あはは」
「ははは」
赤石は香織を持ち上げる方向にシフトした。
新井は赤石と香織の間に入った。
「というわけだから、ごめんね。私皆と一緒にご飯食べてくるから、お母さんは一人で帰ってて?」
「……はぁ」
香織はため息を吐いた。
「門限までには帰って来てね」
「分かった!」
香織はため息を吐き、その場を後にした。
「……」
「……」
赤石たちは香織を見送る。
「やった、やったよ赤石!」
いぇーい、と新井が赤石とハイタッチする。
「よく丸め込んでくれた赤石! 偉い!」
「別に丸め込んでない……」
「そうか! あのお母さんを静かにさせるには褒めたら良かったんだ! 初めて知った!」
新井はぴょんぴょんと跳ねる。
「そんな薄汚い目論見で喋ってないぞ、俺は」
「ありがとう赤石! これで私は晴れて自由の身だ!」
「お前は自分の母をなんだと思ってるんだ……」
ありがとう、と新井は赤石に何度も感謝する。
「お母さんったら、赤石たちみたいな底辺の男と喋ってたらまた騙されて搾取されるよ、ってうるさくてさ」
「お母さんの言ってることの方が正しいんじゃないか……?」
「本当うるさいんだよね、お母さんは」
「さすが、母親をぶん殴って家から出て来た女は言うことが違うな」
「あれは事故みたいなもんだから!」
新井が地団駄を踏みながら反論する。
「というか、お母さんと交渉してくれるなら最初からしてくれたら良かったのに……」
「お前が本当に望んでるか分からないだろ。声を上げないと分からない。自分で声を上げろ」
「なんでそんなことも分からないの!? 察してよ! このクソ男!」
新井がべ、と赤石に舌を出す。
「帰ったらまたちゃんと話しとけよ……」
赤石はうなだれながら答える。
新井は赤石たちとの打ち上げに参加することになった。