第429話 大学の入学金はお好きですか?
「……」
赤石はただ無言で、櫻井からのチャットを眺めていた。
皆へのお願い、から続き、櫻井からチャットが送られてくる。
『今、俺の友達が大学進学のことで困っています。俺の友達は母子家庭で、あまりまとまったお金もありません。母親も毎日のようにパートに明け暮れて、自分の子供との時間も取れないような状況です。そんな状況で、俺は友達を援助したいと思いました。仮に大学に合格したら、入学金が払えない可能性もあります。友達の母親は何も悪いことをしていないのに、一方的に元夫に関係を切られ、生活がどんどん苦しくなっています。母子家庭となった友達を援助したいと思います。母子家庭だから、という理由で大学入学を諦めるようなことにはなって欲しくないと思います。この世界は、社会は、母子家庭というような経済的な理由が原因で大学に行けない、なんてことがあってはいけないと思う。お金がないから、という理由で社会的な孤立や進学に差があってはいけないと思う。社会的に困っている人を、俺は救いたい。母子家庭なのは俺の友達の責任でもないし、お金がないのだって、友達の母親に問題があるわけでもありません。俺は目の前で誰かが困っていることを知っておきながら、見て見ぬフリをすることなんて絶対に出来ない。一万円……いや、五千円。皆が一人、たった五千円出すだけで、俺の友達は大学に行くことが出来ます。皆のたった五千円の支援だけで、社会的に孤立している人を救うことが出来ます。少しでも誰かを救いたい、困っている人に手を貸したい、と思う人がいれば、声をかけてください。貧困や偏見で大学に行けない人が増えるような社会は間違っているという気持ちが少しでも皆の心に残っているのであれば、是非支援のほどよろしくお願いします』
櫻井から、長文のチャットが届いた。
「……」
母子家庭の友人のために、大学の入学金を支援して欲しい。
要約すれば、そういうことだった。
「……」
赤石は迷わず、トークルームを閉じた。
赤石は支援を、しない。
その後櫻井と同級生との間でいくつかの会話が交わされたが、赤石は興味を失った。
「はぁ……」
水城家、あらため葵家で、大きなため息が聞こえた。
「大丈夫ですよ、紅藍さん」
櫻井がポン、と紅藍の肩を持つ。
「俺が知り合いに支援してくれないか聞いてみました。微力ですが、俺も協力します」
櫻井は親指を立てる。
「ごめんねぇ、櫻井君。櫻井君には関係ないのに……」
紅藍は目を伏せ、櫻井に感謝する。
「何言ってるんですか、紅藍さん。俺が出来ることなら、なんだって協力しますよ!」
櫻井は紅藍に白い歯を見せる。
「ごめんね、櫻井君」
「いやいや、全然」
櫻井は葵と紅藍の二人に、惜しみなく協力していた。
紅藍は櫻井を頼りにしていた。
「はぁ……」
紅藍はしきりにため息を吐いていた。
櫻井が帰り、紅藍の元気が一層なくなる。
「お母さん」
「なに、志緒」
「お金、大丈夫?」
「あなたは何も心配しなくていいから」
母子家庭となりお金に余裕がなくなったことで、葵は大学に行くか決めかねていた。
「なんであの人はたったこれっぽっちしかお金を出してくれないの? なんであの人は楽をしてるのに、私だけこんな目に遭わないといけないの? 全部あの人のせいなのに」
紅藍はぶつぶつと元夫、茂への怨嗟を呟く。
「お母さん……」
「心配しないで、志緒。櫻井君も一緒に協力してくれるって言ってたでしょ」
「でも……」
「大丈夫、いざとなったらお母さんがなんとかするから。パートでも何でも増やして、志緒のために頑張るから」
「……うん」
葵は足音を殺して自分の部屋に戻った。
紅藍は家計簿を見て、頭を悩ませる。
紅藍、そして娘のスマホ代を合わせて八万円、使っていないサブスクに二万円、これだけで既に十万円を消費していた。
茂と夫婦関係にある時は茂が常に家計を管理していたため、茂と離婚することで紅藍は初めて家計を握ることになった。
茂が今まで何にどれだけのお金を使っていたのか、さっぱり分からなかった。
何も分からぬまま、ただ他者に言われるがままに契約し、茂がいた頃からは考えられないほど出費が増えていた。
「……あぁ」
紅藍は頭を悩ませる。
ママ友からおすすめされた保険も、大きくはないが、だが、確実に家計に響いていた。
茂からの養育費の仕送りでは、もう限界が近づいていた。
紅藍のパート代もむなしく、家計は火の車となっている。
養育費は大学入学まで、と決めていたため、これからより一層家計が厳しくなることが予想される。
「どうしたらいいのよ……」
紅藍は髪を乱した。
切り詰める場所のない家計、時間に余裕のない生活、働いても働いても上がらない給料、紅藍の人生はまさに、切羽詰まっていた。
「あああああぁぁぁぁ!」
呻く。
「全部あの人のせいよ」
茂がいなくなってから、全てが狂い始めた。
お金も、人生も、生活も、何もかも。
全て、茂が壊した。
「この社会が悪いのよ」
怒りをぶつける先も分からず、紅藍はスマホを手に取り、自身の気持ちを書き殴った。
「なんで私がこんな目に遭わないといけないのよ」
紅藍は血走った目で、書き殴る。
『スマホに八万も金かけてるからだろ』
見知らぬ他人から自身の生活環境を揶揄するようなコメントが送られてくる。
『何をどうしたら八万もかかるわけ?』
『自分たちの生活が恵まれていることを自分で証明してしまう好例』
『【悲報】ヒスおばさん、自らの無能を全世界に晒してしまう』
『畜生ロボ「離婚しなきゃ良かったのに」』
『毎月新しいスマホ買ってもお釣りが出るくらい払ってて草』
『三人家族でも余裕で暮らせる金額で草』
『お前に足りないのは金じゃなくて頭だから』
「ちっ」
紅藍は舌打ちをし、即座にアカウントをブロックする。
自分の状況を何も知らないのにもかかわらず、分かったような顔をして上から目線で講釈を垂れてくるアカウントが、心底嫌いだった。
『頭使えよ、おばさん』
『頭悪すぎて笑う』
『文学小説でこんな展開見た』
『今までどうやって生きてきたんだ?』
『金に困ってるなら、ネットに籠ってぐちぐち文句言う前にまずは働けよ』
複数のアカウントから、自身の環境を揶揄するようなコメントが飛んでくる。
「ちっ」
紅藍は再び舌打ちをする。
不愉快なコメントをするアカウントは全員ブロックした。
匿名をいいことに、ネットの世界では適当なことを言って、自分を大きく見せようとするような人間のクズが多すぎる。
自分が強くなったわけでも偉くなったわけでもないくせに人に講釈を垂れてくる人間のゴミが多すぎる。
紅藍は激しい怒りを心に灯し、アカウントをブロックし続けた。
ネットを使えば使うほど、不愉快なコメントが多く、苛立ちが溜まった。
「環境が悪い。この社会が悪い。世界が悪い」
紅藍はぶつぶつと呟きながら、ネットに書き込み続ける。
「私たちは何も悪くないのに、社会が常に私たちをいじめてくる」
お金が、足りない。
娘の大学への入学金も足りない。
自身が娯楽にふける時間もお金も足りない。
大学に入ったら入ったで、授業料が足りない。
仕送りも足りない。
明らかに、自分に割ける時間も金も減っていた。
鏡を見れば日に日にやつれ、顔に皺が増えていくことが分かった。
もう鏡を見るのは、嫌だった。
何もかもが、足りない。
奨学金に頼るしか、なかった。
「奨学金とか借金をさせる国終わってる。この国終わってる。借金をしないとまともに生きれない国」
紅藍は深いクマを目の下に刻み、今日もパートへ行く。
「お母さん……」
「行って来るわね」
「……うん」
葵は母親をパートへ送った。
スマホを落とし、画面がバキバキに割れてしまっていたが、それを母親に言う勇気は、なかった。
同級生、友人たちに除け者にされたくないがために同じ機種の高価なスマホを購入し、そのスマホ代も紅藍に負担になっているということを考えると、葵は何も言うことが出来なかった。
「……大丈夫かな」
葵は画面が割れているスマホを見て、一人、呟いた。




