第421話 卒業前はお好きですか? 5
「何、って……」
赤石の質問に葉月が小首をかしげる。
「櫻井君が好きなだけだけど」
葉月はこともなげに、そう言った。
「……」
赤石は言葉を失う。
「意味が分からない」
「は?」
「もう付き合ってるだろ、あいつ」
水城志緒と櫻井聡助は、交際している。
「騙されてるだけだから」
「……?」
「そもそも本当に付き合ってるかどうかも分からないよね」
「それは……」
確かに、櫻井と水城が二人でいる所はあまり目撃していない。
「反論できないからって、黙り込んじゃった」
あはは、と葉月は笑う。
「好きで付き合ってるのか、付き合わされてるのか、分からなくない? 櫻井君も嫌々付き合ってるって思えない?」
「……」
思えない。
何を言っているのか、理解が出来ない。
「てか、お前どういう状況で櫻井君が告白されたのか知らないわけ?」
「……さぁ」
「皆の前で! 無理矢理! 告白されたわけ! そりゃ嫌です、って言えないよね?」
「……」
「結局さ、二人で大して会ってもないし、そもそも今も付き合ってるのか分からないよね? あんな公衆の面前で告白されて、櫻井君が可哀想。櫻井君は優しいから、うん、って言うしかないよね。付き合います、って言うしかないよね?」
「……」
何を言っているのか、理解できなかった。
だがそのメカニズムは、理解できた。
確かに、公衆の面前で告白されて断ることは難しい。
色々な人たちが楽しそうに遊んでいる遊園地でフラッシュモブに加え告白などされようものなら、それを断ることは難しいだろう。
だが、櫻井にいたってはその後も交際が続いている。
櫻井がいやいや付き合っている、という道理は通らないだろう。
「櫻井君もどうせすぐ別れるし、なんなら今もう別れてるだろうし、付き合わされてるだけのにその言い方おかしくない?」
「……」
おかしいのはお前だよ、とは言えなかった。
思い出す。
自分が懸想しているアイドルや芸能人が結婚をして、結婚をしたことを認められない人間がいるということを、思い出す。
キツネと酸っぱい葡萄。
無理矢理結婚させられている。
本当は結婚をしたくなかった。
そんな事実は存在しない。でたらめだ。
もし結婚をしているのだとしたら、これはおかしい。
そんな美辞麗句を並びたてて、真実と向き合うことが出来ない人間がこの世界にはいる、ということを、思い出す。
この世界に厳然として存在する真実ではなく、自分が見たいものしか見えない人間がいるということを、思い出す。
この世界は、人間には重く、汚く、泥のように粘りついて、化膿している。
生きていれば、何らかの精神的な負荷をかけられることが多々ある。
自分の好きな人が自分の嫌いな人と交際している。
自分の好きなものが、人が、自分の嫌いなことをしている。
信頼していた人に裏切られる。
親族から縁を切られる。
自分の間違いで、友人を失う。
恋人だと思っていた人に大金を貢ぎ、騙される。
尊敬していた先輩に、非合法なバイトに誘われる。
仲が良いと思っていた人たちは全て嘘っぱちのビジネスで。
仲良さそうに、楽しそうに笑っていた彼ら彼女らはお互いに裏で罵り合っていて。
楽しいと思っていたのは自分だけで、裏ではゴミのように呼ばれていて。
仲良くなった人は皆、自分の下から去っていく。
正義と理を信じる誠の人たちは恋愛に溺れ、堕落する。
自分たちの苦境を跳ね返そうとしていた人たちは反対に、苦境に陥っている人を蹴り、あざけり、自分たちが正義だと自称する。
命を守ろうとしていた人たちは命を弄ぶようになり。
辛い境遇の人を助けようとしていた人たちは、自分たちに与えられた権力に溺れ、他者の自由を奪おうとする。
過ちを認めることもなく――
自分を顧みることもなく――
ただ、自分が心地良い、と。
ただそう思うためだけに。
愚かで、醜悪な行動を取り続ける人間共が、この地球に寄生している。
真実とは関係なく、自分が信じたい、見たいものしか見えない者達が、この世界には、ごまんといる。
この世界は醜悪で、汚らわしい。
自分たちの精神に、絶え間なく絶望と恐怖を浴びせてくる。
人間は愚かで、非道だ。
何の理由もなく傷つけてくることもあれば、些細な切っ掛けで、面と向かって罵詈雑言を吐いて来る。
皆が皆、お互いに傷つけあって、傷をなめ合って、他者を糾弾しあって、憎しみあって、何もなかったかのように、のうのうと生きていく。
人間は常に、他者を貶め、憎んでいる。
心の痛みに、慣れなければいけない。
傷つけられ続けることに、慣れなければいけない。
他者が無条件で自分自身を助けてくれることなど、あるはずがないのだから。
醜悪で、人を傷つけることに長けている人間が、何の我欲もなく自分自身を助けてくれることなど、あるはずがないから。
自分で自分を救済するより、他ない。
もし今、無条件で自分を助けてくれる人がいるのだとすれば、疑うより他ないだろう。
それもきっと、何か目的があるはずだから。
何かその人にとっての利益があっての行動だから。
どれだけ心が傷つけられても、どれだけ精神に影響を与えられても、立たなければいけない。
立ちたくなくても、歩かなければいけない。
この世はどこまでいっても、所詮自分のことは自分事でしか、ないのだから。
傷つけられても、叩かれても、立たなければならない。
きっと、苦しいだろう。
それでも、自分たちは、自分の足で、前を向いて、一歩ずつ、少しずつ、色んな困難を乗り越えながら、色んな艱難辛苦を乗り越えながら、精神に重い苦痛を受けながらも、歩いていかなければ、いけない。
どんな苦境でも、どんな環境でも、どんなに悲しいことや、苦しいこと、辛いことがあっても、ただ、自分たちは、前を向いて、歩かなければ、いけないのだ。
逃げてはいけない。
精神にどんな負荷がかかろうとも、どんな嫌な現実だろうとも、直視を、しなければ、いけない。
それが自分たちの、そして、自分の信じる人たちの、活力に、なるのだから。
それこそが、ただ、今の腐った現実をぶち壊す、鍵になるのだから。
どんな時だって、辛くて苦しい現実だけが、自分たちを成長させてくれる。
そしてその辛い、苦しい環境から、人生から、そして苦境に、立ち向かえなくなった人間だけが、他人を貶め、人の足を引っ張り、存在しない、ありもしない真実を作り上げて、ただ、その甘美な妄想の世界にだけ、浸るように、なる。
現実は、醜く、汚らわしい。
妄想の世界に浸り、偽りの正義を振りかざしている方が、よっぽど良い。
そう思う人も、いるだろう。
そんな醜悪な世界で前を向いて立ち向かう人間だけが、ただこの世界で、光り、輝いているのだ。
「……」
赤石は葉月を見守る。
ああ。
こいつもきっと。
立ち向かえなくなった人間なんだ。
辛く、苦しい現実に、立ち向かえなくなった、人間なんだ。
誰かを貶めて、足を引っ張ることでしか、自分の生きる世界を前進させることが、できなくなった人間なんだ。
赤石はひどく悲しい目で、葉月を見た。
「おかしいよね? 普通、櫻井君も好きならこんなことしないよね」
壊れたラジオのように繰り返される葉月の妄言は、もう赤石の耳には入って来なかった。
「お前は」
赤石は寂しい声で、呟く。
「お前はどうして、そんなに櫻井が好きなんだ?」
どいつもこいつも。
一体何が彼女たちを、そうさせるのか。
何が彼女たちを、過ちに導くのか。
いや。
誤っているのは、自分だけなのだろうか。
赤石は葉月を、見る。
「……別に」
葉月は口を開いた。
「櫻井君はお前らみたいなのと違って、ちゃんと私の良い所を分かってくれてるから。頑張ってて偉いって、櫻井君は分かってるから。お前みたいに、いつもいつも人のことを馬鹿にして笑ってるようなクソ陰キャと違うから。お前みたいなのが櫻井君の足を引っ張るんだよ。自分より優れてる人間が羨ましいからって、そんなこと言って馬鹿にしてて何か自分の人生が好転するわけ?」
「……」
何も、感じなかった。
もうこいつは、駄目なんだ。
最初から、狂っていた。
こいつは。
こいつらは。
最初から、狂っていたんだ。
自分の努力を信じることが出来ない。
自分の信じる道を、信じ切れない。
自分のなしたことを、なそうとしていることを、直視できない。
自分で何かを、成し遂げたこともない。
ただ他人から浴びせられる無感情な、自分本位で醜い、薄っぺらな、上っ面だけの賞賛を、この女は欲しているのだ。
それは自己肯定感の低さからか。
それは何事にも精一杯取り組めなかった自分自身への諦めか。
人を褒めることなんて、誰にでも出来る。
何も思っていなくたって、誰にでも出来る。
何も感じていなくたって、誰にでも出来る。
たとえ心底嫌っていたとしても、出来る。
そんな、上っ面だけの自分自身への賞賛が、この女を、ここまで導いたのだ。
「……」
赤石は、何も言えなかった。
だが、彼女だけが悪くないのかもしれない。
育った環境が、周りにいた人たちが、彼女をここまで堕落させてしまったのかもしれない。
現実を直視できないように育ててしまったのかもしれない。
もしかすると、彼女をここまで堕落させたのは彼女自身ではなく、周りにいた誰かなのかもしれない。
凄惨な環境なのかもしれない。
間違った教育を施し続けた両親なのかもしれない。
彼女だけが原因では、ないのかもしれない。
「……」
だが、もう、どうでも良かった。
赤石にとって、眼前にいる女の境遇など、もうどうでも良かった。
ただ現実に立ち向かうことが出来ず、偽りの賞賛を欲して、他者を貶め、足を引っ張り、自由を奪い、自分のしていることを顧みることもできぬ、ただ狂っているだけの女の今後など、もうどうでも良かった。
生きていようが、死んでいようが、もうどうでも良い。
彼女を改心させようだとか、更生させようだとか、そんな気持ちは、さらさらなかった。
本来、たった一人の人間が他人の人生に出張って変えてやろう、などというのは傲慢で、ただただ、度が過ぎていたのだ。
「櫻井君がどれだけ人のこと見てるか分かる? お前はネチネチネチネチ、何も出来もしないのに馬鹿みたいに文句ばっか言って」
葉月は赤石を、貶め続けた。
「だからもう私に関わらないでくれる? お前の言うこととか本当どうでもいいから。写真も別に上げるつもりないし」
赤石は葉月の暴言を、ただただ無言で聞き続けた。
無感情に。
いや。
ある種、可哀想だと。
不憫にすら、思った。
「もう一生関わらないと思うけど、私のことも言わないでね。お互い他人なんだから、私の人生にもう二度と顔出さないで」
「……ああ」
話半分に聞いていた葉月の話が、終わっていた。
葉月は赤石の横を通り、本棟へと戻って行った。
「……」
暫くして、赤石も扉を開け、学校に戻る。
「いるんだろ」
赤石は一人、呟いた。
「……」
「わぁ~、すごいねぇ、悠人君は」
物陰から霧島が、顔を出した。




