第397話 下田隆弘はお好きですか? 5
「お母さんと」
「……?」
京極が伸びをしながら、話し始める。
「お母さんとお父さんが、言ってたんだ。人に優しくしなさい、って。人の根幹にあるものは優しさだから、優しさを与えれば必ず優しさが返って来るんだ、って」
「天国の教えみたいだな」
赤石はふっ、と笑う。
「まぁ素敵な考えなのは確かに素敵な考えだな」
「僕は今までずっと、お母さんとお父さんの教えを守って忠実に生きてきたんだ」
「なんかの達人の弟子みたいなセリフだな」
「さっきから茶化さないで」
「すみません」
京極が赤石を叱る。
「それに近い考え方をしてるのが、櫻井君なんだ」
「……」
「櫻井君はいつも人の優しさを見出して、自分自身も優しくて、僕のお母さんとお父さんにも胸を張って紹介できるような優しい人だと思ってるんだ。人のために生きて、いつも自分を後回しにしてしまうような優しい人だと、僕は思ってるんだ」
「……」
赤石は静かに京極の話を聞く。
「でも、赤石君と会って、不思議な人だな、って思った」
「……」
「人が嫌い、人は醜い、人の根幹にある物は悪と憎しみ、そうやって言ってのけるのに、赤石君自身は人を欲して、人を愛してる」
「気のせいじゃないか?」
「黙ってて」
「はい」
赤石はお口チャックのポーズを取る。
「赤石君は人を憎んで嫌ってるのに、愛されたくて仕方ない。そんなところがどうしても気になって、赤石君の考えがおかしいって教えたくて、否定したくて、今までしつこく付きまとってきたんだけどね」
「そうか」
赤石は余計なことは言わないこととした。
「でもね、最近おかしいんだ、僕」
「……」
「下田君のやってることが正しいことだと思えない。優しい人だと思えない。お母さんとお父さんは、親の教育が子供にも悪影響を及ぼすって言うけどね。僕はどうしてもお母さんとお父さんの考えもおかしいって思うようになってきちゃって」
「……」
「赤石君はずっと人の悪い所ばかり説いて来るし、人を好きなはずなのに人の悪い所ばかり言ってくるし、下田君の悪い所ばかり目についちゃうし、結局、今、僕は下田君のいないこんな所で下田君の悪口ばっかり言って、馬鹿にして――」
京極が黙って、上を向いた。
空を見上げた。
目頭を拭う。
「こんなんじゃ、赤石君の言ってる通りだよ。お母さんとお父さんが間違ってたのかな? どう見ても、これじゃ、僕が赤石君の言ってる悪い人だよね? 良い人なんかじゃ、決してないよね。僕は今まで困ってる人がいたら助けて来たよ。それに、助けてもらっても来たよ。確かに悪いことをする人はいた。でも、その人にもその人なりの理由があるんだ、って納得してた。無理矢理に自分を納得させてきた。それなのに、最近の僕は、赤石君と会ってからの僕は、ずっとおかしい。人の悪い所ばかり目について、人が悪くあることを願っちゃうんだ」
京極は立ち止まった。
「もう嫌だよ、僕……。僕は自分が嫌いになりそうだ」
京極はその場でうずくまった。
「下田君のことを思い出すと、やっぱり悪口を言いたくなっちゃう。馬鹿にしたくなっちゃう」
「人間なんだからそういうもんだろ」
「本人のいないところで悪口を言うことのどこに正当性があるのさ。教えてよ……」
「人間らしさはあるぞ」
「本当に赤石君嫌い……」
京極は膝を抱えて道端にうずくまったまま、言う。
「どう思う?」
「人間は醜い」
「どういう所が?」
「世間で話題になるようなことなんて、大抵人の悪口だろ。ネットでも見てみろよ。どこでもかしこでも、人の悪口を言って、暴言を吐いて、あいつが嫌いだ、あいつを殺したいだ、あいつが死ね、だ。結局人の話題の中心になるのは、自分が嫌いな誰かの話ばかりだ。誰かを好意的に言うことで話題になることなんて、ほとんどない。誰かを馬鹿にして、嫌って、犯して、憎しむことばかりが、皆の間で面白おかしく共有されるんだ。人間っていうのは、そういうもんなんだろ。そういう生き物だろ。元来、人を憎んで嫉み、殺すように出来てる」
「……」
京極は黙って赤石の話を聞いている。
「結婚したって、結局相手の死を願うんだよ、皆。一刻も早く、相手が死ぬことを願うんだよ。知り合いも、友達も、家族も、恋人も。皆相手が不幸になることを望んで、自分の嫌いなあいつを皆で共有して、笑いものにして暮らしてる。他人と一緒の時間を共有するなんて、所詮人間ごときにはすぎた望みだったんだ。それが人間だろ? それが俺たち、人間だろ? 善性なんてない。大義なんてない。正義なんて、存在しない。そこにあるのは、他人を貶めて笑いものにしたい、なんてひどく下衆な願望だけだ。お前だって本当は気付いてるんじゃないか? 自分たちは人を褒めることではなく、貶すことで興奮できるんだ、って。人間は面白おかしく他人を嗤うことで結束力を高めてるんだ、って。人の輪に混ざってみろ。そこにあるのは、そこにいない誰かを嗤うだけの傀儡の集団だよ」
「人の欠点を指摘するような所ばかりが皆の話題に上がるのは、確かだよ……」
京極はうずくまったまま言う。
「でも赤石君は一部の人たちを槍玉にあげて、自分の発言に正当性を持たせようとしてるだけだよ。自分の発言の意図に沿うような人を意図的に選んで、自分が正しいと思い込もうとしてるだけだよ。赤石君は卑怯だよ」
「本当にそうか? 俺の周りじゃ、そうはなってないけどな」
赤石は京極と目線を合わせず、立ったまま話し続ける。
京極は赤石を見上げる。
「卑近なところを見たって、ずっと人間はそうしてきてるんじゃないのか? そうじゃないなら、俺の周りだけがおかしいのか? 例えば、自分が失敗したら、事態が明るみに出るまで黙りこむだろ?」
赤石は言い連ねる。
「行列だって、誰も人が通るスペースを空けちゃくれない。スペースを空けたら誰かが横入りすると思ってるからだ。だから、人がまともに歩けるスペースすら空けない。元来俺もお前らも、皆他人に対する不信があるんだろ。誰かが横入りすると思って生きてるんだろ? そして横入りされたら何も言えないから、スペースなんて誰も空けない」
「見たことは……あるけど。それも一部の人だよ」
「一部の人なら、俺はもっと歩きやすい」
京極は渋々ながら答えた。
「恋人との話を聞かれたって、皆上手くいってない、って言うだろ。どれだけ恋人のことを思っていても、誰かの前ではお前たちは必ず上手くいってない、と言うはずだ。上手くいってる、と言えば相手が自分に嫉妬して何をしてくるか分からないから。嫌われるから。仲間外れにされるから。相手が自分に嫉妬しないように、自分はいつまでも恵まれていない、成功していない弱者であり続けなければいけない。そうしなければ、例え友達だとしても、自分を憎み、嫉妬して、何をしてくるか分からないから。そう思っているから。違うか?」
「……違わない」
「おかしいんだよ。お前も、お前たちも。口では人の美しさや正しさを説きながら、行動は常に人への不信感と憎しみで溢れてる。なら最初から口でも行動でも、人を憎しみ、嫌ってる、とだけ言っておけばいい。口でばかり飾って、上辺だけ取り繕って、何がしたいのか理解できない。自分を高めたいのか? 人徳者でありたいのか? 人間なんて、所詮、不信感と憎しみの塊でしかないだろ」
「……」
京極が洟をすする。
「人間は醜い」
「醜い……」
京極が復唱する。
「人間は愚か」
「愚か……」
「人間を憎んでる」
「憎んでる……」
「お前は下田を憎んでる」
「僕は、下田君を……」
京極は言葉に詰まった。
「…………」
そして、押し黙った。
暫く、考え込んだかのように、京極は沈黙した。
そして数分。
「ううん、やっぱり、赤石君は間違ってると思う」
京極は目頭を拭い、立ち上がった。
「やっぱり赤石君は間違ってると思う。人のことをそんなに悪く言うものじゃないよ」
「ついさっきまで下田の悪口を言っていた奴とは思えない発言」
京極は赤石の肩にポン、手を置いた。
「ううん、そうだね。でも、うん。僕も間違ってたかもしれない。皆が皆良い人だなんてことは、ないかもしれない。そういう面では、部分的には赤石君の言ってる意味もちょっとは分かったよ」
「そうか」
赤石は再び歩き始めた。
京極は気丈に笑顔を作る。
「ありがとう、赤石君。僕、今日からちょっと、悪い人になろうと思う。赤石君みたいに」
にこ、と京極は赤石に笑いかける。
「俺はいつだって善性だけで動いてる至極真っ当な善人だよ」
「絶対違うと思う」
京極は赤石に軽く体をぶつけた。
赤石はたたらを踏む。
「やっぱり皆に良い顔は、出来ないんだね」
「……人を傷つける覚悟を持つことだな」
京極は赤石の腕を掴み、赤石を転倒から救った。
「僕、悪い女の子になるね」
「どうぞ」
京極は、決意した。
「あと、僕って本当は可愛いの?」
「知らん」
京極と赤石は二人、帰った。
「ねぇ」
「……?」
一人廊下を歩いていると、京極がいつものように下田に話しかけられた。
「返信遅いんだけど」
京極は下田から来たメッセージに、返信していなかった。
「何してた? 返信してない間」
いつものように下田が京極を詰める。
「誰かとどこか行ってたの?」
京極は下田に詰め寄られた。
「やっぱりあの――」
「ごめん!」
京極は声を張り上げた。
「ごめん、僕のことが好きなんだよね?」
「…………」
下田は口を大きく開ける。
「あぁ、やっぱり君も、僕のことが好きなんだ」
下田はそう言って、笑った。
「なんでそう思ったの?」
京極はひるまず聞き返す。
「好きじゃなかったらあんなに話しかけたりべたべた体触ったりしないよね?」
「……」
京極は頭を抱える。
果たして、自分が悪かったのか。
「普通挨拶とかもしないし」
「ごめん」
再び謝る。
「それ、普通の僕だから」
「……」
下田は呆けた顔をする。
「僕は君のこと、全然好きじゃない。ごめん。だからこうやって僕を縛り付けたり、こういうことをされると、僕は自由に動けないし、いつも君の顔色ばかり窺うようになっちゃう。彼氏でもないんだし、こういうことは今後止めて欲しい。ごめんだけど、本当に止めて欲しい。もうこういうことはしないで欲しい」
「…………」
呆けた顔をしていた下田が、ゆっくりと、怒りの表情に変わっていく。
眉間に皺を寄せ、目が吊り上がる。
顔が薄い朱色に染まり、京極は悪鬼羅刹を思わせる下田の表情に、たじろいだ。
「そんなことして楽しい?」
下田は静かに、怒っていた。
「楽しいって……何の話」
「僕みたいな男を騙して楽しかった?」
「……」
顔から血の気が引く。
人から向けられた純粋な悪意に、京極は慣れていない。
全身から血の気が引いていく感覚に、襲われる。
思考が追い付かない。
「思わせぶりな態度で僕みたいなしょぼい男を騙せて楽しかった?」
下田は静かに、静かに怒る。
怒っている、という事実だけが分かる京極は、次の手を打てない。
「騙してなんて、ないよ……」
京極はゆっくりと後退した。
下田が大きく、見えた。
「なんであんなことしたの?」
「君が勝手に誤解しただけだよ」
「あ~あ」
下田は大きく腕を振った。
「受験勉強…………受験勉強!!」
下田は近くの机を蹴り飛ばした。
「受験勉強だってあるんだぞ! 僕の受験、どうするつもりだよ!」
「それは勝手に君が……」
急に現実に引き戻された下田が、突然に激昂した。
京極は体を縮こまらせ、壁に背を向けた。
「ふざけんなよ……ブス」
下田はそう言い残し、廊下を早歩きで去って行った。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
京極は暫くその場から動けなかった。
腰が抜けたかのように、ずるずるとへたりこむ。
少しして、赤石がやって来る。
「人間って、皆こんな感じで失恋してるんだなぁ」
赤石は京極に水を渡した。
「あぁ……赤石君、ありがとう……」
京極は力ない声で赤石に感謝する。
「なんでここに?」
京極はもらったペットボトルに口を付ける。
「なんでここに、って一組のすぐ近くの廊下なんだから当たり前だろ。下田がお前を追ってるの見たから、面白そうだな、と思ってつけてきた」
「面白くないよ、こんなの。見てたなら助けてよ……」
「嫌だよ、俺が恨まれそうだし。それに俺が介入したら下田のためにも、お前のためにもならない」
「僕は人生でこんな体験をあと何度もしないといけないの?」
「モテる限り続くんじゃないか?」
「モテないよ、僕は……」
ははは、と疲れたように笑う。
「確かに、ブス! って言われてたしな」
「うるさいよ」
京極は赤石の足にグーパンチをする。
「でも、助かったよ、赤石君。ちょっと和んだ」
「俺もお前も、皆少しは下田を抱えてるのかもしれないな」
「赤石君はもっと駄目」
「悲しい」
京極は赤石の手を借り、立ち上がった。
「心に負担を感じても、近くに友人がいたらすごい支えになるんだね」
「メンタルクリニックみたいな教えだな」
京極は赤石の肩を借り、ゆっくりと立つ。
「うん、でも、ありがとう。うん。怖かったから。ちょっと助かった。うん。ありがとう、赤石君、どうでもいい話をしに来てくれて」
「失礼だな」
京極はにこ、と笑いかける。
「うん、本当に、ありがとう。ちょっと気が楽になった」
「次は上手くいくと良いな」
「うん……」
京極は寂しそうに笑う。
「勉強だね、日々」
「そうだな」
「……」
「……」
赤石も、水を飲んだ。
「美味しそうな水だね」
「お前が持ってるのと同じやつだよ」
赤石が水を持ち上げる。
「ちょうだい」
「俺にも飲ませてくれよ」
「あはは」
赤石と京極は下田が去った廊下を、見ていた。




