第371話 夏休みの課題はお好きですか?
キィ、と扉が軋む音がする。
「……」
数日ぶりに家に帰ってきた新井は、ゆっくりと扉を開けた。
「ただい……ま」
部屋の中はいつもの通り、ヤニの匂いでいっぱいだった。
「お母さん」
靴を脱ぎ、部屋へと入る。
トントントン、と音がした。
「お母さん……」
香織はキッチンで食事を作っていた。
「ただいま」
「…………」
香織は返事をしない。
「ごめん、帰りが遅くなって」
香織を突き飛ばして家を出た新井は、いたたまれない気分でいた。
「……」
香織は返事をしない。
ベーコンを切り、焼く。
チーズとジャガイモを適当に放り込み、香織はリビングへと戻った。
「……」
「……」
新井は香織の前に座り、正座した。
「どこに行ってたのよ、あんた」
香織は虚ろな目で新井を見る。
部屋の中は依然としてゴミで溢れ、蜘蛛の巣があちらこちらに出来ていた。
「……」
新井は答えない。
「どうせ男のところでしょ」
「……」
新井は静かに頷いた。
「で、捨てられたから戻って来た、ってわけ?」
再び新井が頷く。
「呆れた……」
香織は煙を吐いた。
「だからお母さん言ったよね? どうせ捨てられて戻って来るだけだ、って。だからお母さん言ったよね? 騙されて終わるだけだ、って。だからお母さん言ったよね? どうせあんたも使い捨てだ、って。全部お母さんの言ったとおりだったよね? だからお母さんの言ったとおりにすればよかったのよ。お母さん何回も言ったよね? それでも聞かなかったのは誰?」
「はい……」
「全部お母さんの言う通りにしてたらこんなことにならかったよね? 全部お母さんの言う通りにしてたらもっと上手く言ったよね? なんでお母さんの言うことが聞けないの!?」
香織は唐突に声を荒らげ、ペットボトルを新井に投げつけた。
「だから全部お母さんの言う通りにしてたら良かったでしょ!」
香織は手近にある物を新井に投げつける。
新井は手を前に出し、飛んでくるものから体をかばった。
「はぁ……」
香織は痩せこけ、ひどく疲れているように見えた。
いつからか。
こんなにも母親が小さく見えるようになったのは。
いつからか。
こんなにも母親が頼りなく見え始めたのは。
いつからか。
母親を尊敬できなくなっていたのは。
新井は恐怖と不安の入り混じった目で香織を見る。
「行く気ないなら高校辞めたら?」
香織が煙草をくゆらせる。
「お母さんが必死に働いて、働いて働いて働いてあんたを学校に行かせてあげたのに、あんたは男と遊んでるだけ。勉強をしようともしない。どうせ大学も落ちるわよ」
「……」
返す言葉もなかった。
そして実際に、新井の成績は山田と関わってから急下降していた。
大学に行けるかも怪しいラインまで落ちていた。
「私立なんか絶対行かせないからね。うちにはそんなお金ないんだから」
部屋の中が煙たくなってくる。
香織はキッチンへ戻り、ベーコンの様子を見に行った。
「……」
新井は母親との仲を修復が出来ないまま、一日を終えた。
ピンポン、とインターホンが鳴る。
「はい」
扉をガラガラと開けて、赤石が出た。
「や、後輩」
「ああ、どうも」
扉の前には、未市がいた。
「今日も家庭教師しに来たよ」
「どうも」
赤石は未市を家に上げる。
「お母さんは?」
「いないです」
「お父さんは?」
「会社です」
「二人っきりだね」
「そうですね」
赤石は扉を閉めようとした。
「あ、ちょっと待って」
「……?」
未市は扉を止めた。
「おいで」
「…………はい」
物陰に隠れていた新井がおずおずと、姿を現した。
「え?」
赤石は未市と新井とを交互に見る。
「新井君だよ」
「知ってますけど」
新井はお邪魔します、と言い靴を脱いだ。
「勝手にお邪魔しないで」
赤石は新井の前で仁王立ちする。
「まぁまぁ、赤石君」
「全然まぁまぁ、でも何でもないんですが。なんですか?」
「新井君が夏休みの課題が終わってないみたいでね」
「はあ」
「だからここでやろうかな、と」
「そんな……」
赤石は愕然とする。
「お邪魔します」
新井は赤石の横をすり抜けて、家に入った。
「汚い家ですまないね」
「いえ」
「俺の家なんですけど」
未市は新井を二階の部屋まで案内した。
「新井の夏休みの課題とか知ったこっちゃないんですけど。普通に大学受験の勉強教えてくれません?」
「まあまあ」
「いや、まあまあじゃなくて」
「新井君の課題を手伝ってあげてよ。手伝ってくれなかったらこれ以降赤石君の勉強手伝ってあげないよ?」
「契約違反だ……」
新井と未市は赤石の部屋に入り、カバンを置いた。
「図書館か家かでやればいいじゃないですか。なんでここまで来るんですか」
「家はお母さんがいるから無理……。図書館は声出せないから教えてもらえない」
「教えてもらう前提?」
「まぁまぁ、赤石君。教えることも勉強のうちだから」
「教える側が言うセリフであって、教えられる側が免罪符として使う言葉ではないと思います」
新井は赤石の言葉に耳を貸さず、カバンから課題を取り出す。
「というか、お前一カ月も何やってたんだよ。課題が終わってない、って自業自得だろ」
「赤石君、そんな言い方はひどいよ。新井君だって放置したくて放置してたわけじゃないんだから」
「放置したくて放置してたでしょ、絶対」
「何も手、つけてないから……」
新井は課題を開き、始めた。
「一度関わった問題なんだから、赤石君は最後まで面倒を見る義務があるはずだよ」
「巻き込まれただけなのにそんなに責任負わされるんですか?」
「元々、君が止められなかったのが問題なんだからね」
「納得できない……」
未市はベッドに座り、赤石は学習机に座り、新井はテーブルで、それぞれ作業を始めた。
「というか、別に夏休みの課題くらいやらなくてもそんなに問題にならないんじゃないですかね」
「新井君は今まで真面目で通ってたんだよ。夏休みの課題も終わらさずに高校なんて行ったら、今後の新井君の学生生活に関わるじゃないか」
「良いじゃないですか、どうせあと半年なんだし」
「新井君の真面目イメージが崩れたらどう責任を取るつもりなんだい?」
「ピアスつけてこんなに肌焼けてたらもう真面目なイメージとか持たれないと思いますけど」
ピアスは外していたが、焼けた褐色の肌はそう簡単には元には戻らない。
「夏休みの課題は大学受験に関わる基礎的な部分でもあるからね。夏休みの課題を終わらせた、という自信が新井君の今後にもつながるんだよ」
「高校三年の夏休み遊び呆けてたやつはもう大学受からないでしょ」
「赤石君、ヒドいよ!」
未市が赤石を叱責する。
「……」
新井はべそをかく。
「私立の大学はお母さんから行っちゃ駄目、って言われてるから大学も最悪行けないかも……課題も内容全然分かんないし……」
新井はシャーペンをとんとんとテーブルに当て、困り果てていた。
「じゃあ先輩の家で見てあげてくださいよ」
「私の家はエッチな道具でいっぱいだから」
「いいでしょ、別に新井なんだから」
「それに、新井君が心配で赤石君も勉強に手が付かないだろうと思って」
「全然心配してないです」
「お願い、赤石君」
未市がしなを作る。
「もう頼れる人は赤石君しかないのよ!」
未市が赤石を指さした。
そう言われると、赤石は弱かった。
赤石は元来、頼まれるという行為が苦手だった。
「え~……」
赤石は椅子に座ったまま、新井の課題を見た。
「もう二十八日ですよ? 間に合わないでしょ」
「ネガティブな発言ばっかり言って皆を嫌な気持ちにさせるのは、赤石君の良くない癖だよ」
「~~~~~」
赤石は頭をかいた。
「静かにしててくださいね」
赤石は椅子から下り、新井の課題を見始めた。
「じゃあ頼んだよ、赤石君」
未市は部屋を出た。
「どこ行くんですか?」
「ちょっと野暮用」
赤石と新井を残し、未市は部屋を出た。
「あ」
未市が戻って来る。
「私がいないからって、エッチなことしないでよね!」
「しないですよ……」
赤石は未市を玄関まで見送った。




