第365話 新井由紀:Rising 5
赤石と新井は階段を上る。
「足元、気をつけろ」
「ありがとう」
新井はライトで床を照らしながら、リビングに行く。
「暗いね」
「真夜中だからね」
赤石は自室にたどり着いた。
「ここ」
赤石は部屋に入り、新井を招いた。
「お邪魔します……」
新井はおずおずと赤石の部屋に入る。
赤石はヘルメットとフライパンを外し、机の上に置いた。
「ヘルメットとフライパンは……何?」
新井は赤石に聞く。
「変な人が来たと思ったから、一応防御として」
「すごい変だった」
「深夜三時に人に家のインターホン鳴らす方がずっと変だけどな。ヤバい奴だと思うだろ」
新井はうつむく。
「じゃあなんで開けてくれたの?」
「すぐに開けたわけじゃない。一回二階から見下ろして、女の人だな、って分かったから開けたんだ」
「私が?」
「うん。中年の親父だったら開けてなかったよ」
「じゃあヘルメットなくても良かったんじゃない?」
「何かしらの怨恨でこんな時間に訪問されてるかもしれないだろ。包丁とか持ってたら怖いな、って思ったんだよ」
「そ、そっか」
赤石の素っ頓狂な格好は、少なからず新井に安心感を与えていた。
害す側ではなく害される側という認識が、新井にとって安堵の材料になっていた。
新井は赤石の部屋をライトで照らす。
「そこ座ってて」
「……うん」
新井は床にちょこん、と座った。
「これ、何?」
「統……同じ高校の須田が俺の家に来るたびに持って来る、お菓子のおもちゃ。子供のころから一緒にお菓子を食べておもちゃを並べてて、高校生の今、街が出来たところ」
「須田君……知ってる」
お菓子のおまけのフィギュアで、赤石の部屋に小さな街が出来上がっていた。
「子供の頃に須田と俺と二人でこの部屋でよくお菓子食べててな。お菓子のおもちゃが妙に格好良くて、子供心を刺激して、すごい喜んでたよ。あいつがここにおもちゃの楽園を築こう、って言って、その時はどうせ年を取ったら忘れるんだろうな、って思ってたけど、ここまで続いてると感慨深いものもあるな」
「……そうなんだ」
うらやましいな、と思った。
子供のころから今に至るまで時間を共有していることが、ただ羨ましいな、と、思った。
「じゃ」
赤石は新井の前に座った。
「脚伸ばして」
「……え?」
赤石は電灯を橙色に点灯した。
「な、なんで?」
新井が赤石から視線を外す。
「手当てだよ」
「手当て……?」
赤石は鏡を新井に渡した。
「何、これ……」
新井の顔は擦り傷だらけで、真っ赤にはれ上がっていた。
流れた血は凝固して、ぐちゃぐちゃになっていた。
「何……これ」
新井は赤石にライトを手渡した。
赤石は新井の顔にライトを当てる。
新井は鏡を見ながら、口の中を見る。
「切れてる……」
想像以上に自分が傷ついていることを知り、新井は赤石を睨んだ。
「ごめん、こんなに傷だらけになってると思わなかった」
暗闇で見たからか、新井の正確な傷の状態は把握できていなかった。
「歯が割れたりはしてなさそうだけど、病院は行った方が良さそうだな」
赤石はライトを消した。
「足上げて」
「……」
新井は自分自身の状態にショックを受けながら、足を上げた。
「手当てするぞ?」
「……うん」
赤石は救急箱から消毒液を取り出した。
新井の足の裏を消毒した。
「痛っ!」
新井が小さな悲鳴を上げる。
「我慢しろ」
「……うん」
もう自分の体はそこら中が傷だらけなんだと思うと、悲しくなった。
大切な自分の体がひどく傷つき、もう二度と戻らない傷になるかもしれないと思うと、涙がこぼれそうになる。
「靴は?」
「裕也君の家に置いて来た……」
「お前……」
「急いでたから、靴なんて履く暇なかった……」
赤石が手当てをし、新井が小さく悲鳴を上げる。
「それに、あんな靴じゃちゃんと走れなかったし……」
厚底のブーツでは、走れない。
「外って、お前が思ってるよりずっと汚くて危ないよ。特に裸足なんて、本当に危ないんだぞ。錆びた釘でも踏もうものなら大変なことになるぞ。ましてや、今は夜。何が落ちてるかも分からないだろ」
「……うん」
新井は洟をすする。
「ごめん……」
「ごめんじゃなくて、お前自身のために言ってるんだよ」
「ごめん……」
新井はゆっくりと流れてきた涙を拭う。
「破傷風ってのがあってな、裸足で歩いてたら細菌が感染してとんでもないことになるかもしれないだろ。今回はどうしようもなかったとしても、次からは裸足で外歩くなよ」
「うん……」
赤石は新井の両足の裏の手当てを終えた。
「もしかして、何か踏んだ?」
「何かは分からないけど、踏んだ」
「病院行けよ、すぐに」
「うん……」
新井は洟をすする。
「赤石のお母さん、起きてないかな?」
安全な場所に来たと分かると、急に周りが気になり始めた。
「もう起きてるかもな。お前うるさくしてたし」
「でも、出て来ないよ?」
「起きてて、俺の好きにさせてくれてるのかもしれない。結構そういう所干渉して来ないタイプの親だから」
「思春期みたい」
「思春期なんだよ」
赤石は新井の脚の手当てにかかった。
「いったい!」
新井の膝を消毒する。
とりわけ膝の傷が、深かった。
「傷だらけだな、お前本当に……」
「必死で逃げて来たから……」
新井はカバンの中身を見た。
「財布もスマホもない……」
山田の家に、置いたままだった。
「置いたまま?」
「……うん」
「じゃあ最低でもあと一回は会わないといけないな」
「……」
怖い。
山田が、怖い。
非合意の上で行為にいたった、山田が怖かった。
もう二度と、会いたくなかった。
「……っ」
ぐす、と新井が涙を流す。
赤石は、何も言わない。
「脚終わり。腕」
「うん」
新井は言われるがままに、腕を出す。
赤石は新井の腕を手当てし始めた。
「痛い……」
「痛いか?」
「ごめん、お腹……」
新井は腹をさすった。
「……」
突如として、新井は顔を青ざめさせた。
「今、何日目……?」
新井はぼそ、と呟く。
「何日目?」
新井の謎の質問に赤石が答える。
「今は二十五……いや、二十六日目だな、十二時を回ったし。八月二十六日、夏休みももう終わる」
「そうじゃなくて」
「そうじゃないことないだろ」
新井は腹を撫でる。
「……ううん、もういい」
「……?」
赤石は小首をかしげた。
救急箱から包帯を取り出し、新井に包帯を巻いて行く。
「……」
ぐすぐすと、新井はぐずり始めた。
「痛いか?」
「違うの」
新井は自分の膝を見ながら、泣く。
どうしてこんなことになってしまったのか。
この傷はちゃんと元に戻るのか。
もう二度とは戻らない傷にはなってしまわないだろうか。
家の中に入り、体の傷が手当てされていくと同時に、今まで考えてこなかった不安と恐怖が、新井にのしかかった。
赤石は新井の腕を手当てし、顔の手当てに入った。
「痛い!」
「ごめん」
顔の傷は、とりわけひどかった。
「治る?」
「俺には一時的な手当てしか出来ない」
「傷残りそう?」
「……」
赤石は黙った。
「分からない。専門じゃないから」
「……」
新井は涙を拭う。
拭っても拭っても、涙がこぼれてくる。
山田に暴行されて、顔も足も傷だらけになり、元に戻るのかも分からない。
綺麗だった足も傷だらけになり、顔にも多くの傷が残っている。
自分はどうすればいいのか。
もうどうしようもないのではないか。
考えれば考えるほど、怖くなる。
考えれば考えるほど、嫌になる。
何もかも、嫌になる。
「出来ることはした」
赤石は一通り手当てをした。
「お湯持って来る」
「……」
赤石は階下に降り、お湯を持って再び上がって来た。
「髪、血がついてる」
「お願い……」
「……」
赤石はタオルを湯につけ、新井の髪を拭き始めた。
「もう嫌だ……」
新井は赤石に背を向け、赤石は血で固まった新井の髪を溶かしていく。
「もうやだよ、何もかも……」
新井は涙を流す。洟をすすり、肩を震わせる。
「死にたい……」
何もかもが、嫌になった。
「死にたいよ……」
新井はそう、呟いた。




