第358話 早期退職はお好きですか? 3
新年度になり、裕奈は三年生に上がった。
そしてそれと同時に、裕奈は家を引き払った。
「今日からはここで暮らします」
「……はい」
元の家とは比べ物にならないほど小さな家を前にして、裕奈は唖然とした。
それでも、一般的な民家としては贅沢な部類に入るような佇まいであった。
「ちっ」
裕奈の父、和夫は家を見て舌打ちをした。
早期退職により、和夫は誰にも求められない人間になっていた。
部下から飲みに誘われるでもなく、力を貸してほしい、と懇願されることもなく、ただただ一人、孤独な毎日を送っていた。
「汚い家だな」
「そんな……」
和夫は悪態をついて、家へと入っていた。
「行くわよ」
「……はい」
裕奈と可憐も家へと入った。
「部屋が……」
元の屋敷と比べ、部屋の数が、圧倒的に足りていない。
4LDK――
それでも、三人家族としては、一般的な庶民からすれば十分な広さではあった。
「ママ、部屋が……」
「我慢しなさい。今日からはここで住むのよ」
裕奈たちの庶民暮らしが、始まった。
早期退職を決めてから、和夫は露骨に変わっていった。
元来、仕事しかやってこなかった和夫は、自身はもっと評価されるべき人間だと思っていた。
頼りになる上司で、周囲からの尊敬を集めていると、思っていた。
だが、現実は違った。
毎日毎日、一人部屋の中で和夫は何をするでもなく呆然としていた。
和夫は社会とのつながりを、人とのつながりを、完全に失った。
「飯」
十八時、自室から出て来たと思えば、和夫は可憐にそう言った。
「すみません、まだできてません」
「何で出来てないんだ」
「作っていないので」
「いつも十八時に食べに来てるだろ! 何で作ってないんだ!」
「すみません」
可憐は顔色を変えず、謝った。
「はぁ……」
和夫はため息を吐き、車の鍵を持った。
「もういい。食べに行く」
「……分かりました」
和夫は車に乗り、外食に出かけた。
「…………」
可憐は無言で、食事を作り始めた。
「あ、あの」
「ママが料理作るから、裕奈は勉強してきなさい」
「はい……」
いたたまれなくなった裕奈は、リビングから出て部屋に籠った。
五月――
和夫は毎日のように、酒を飲むようになっていた。
「おい」
「はい」
和夫はたびたび、裕奈と可憐のいるリビングにやって来ていた。
「会社の資料は?」
「会社の資料は家に持ち込めなかったはずですよ」
「違う! 俺のノートはどこにしまった?」
「どこ、って」
引っ越しを終えて一カ月、まだ全ての荷解きは出来ていなかった。
「はぁ……」
可憐はため息を吐いた。
「なんだ、その態度は!」
「分かりました。探します。探してきます」
可憐は手を洗い、拭いた。
「何なんだ、その態度は! それが主人に対する態度か! 誰が稼いできてやったと思ってるんだ! 誰のおかげであんな良い家に住めてたと思ってるんだ!」
「……」
可憐は無言で段ボールを漁る。
「一体どこにあるんだ、俺のノートは!」
「分かりません」
「なんで分からないんだ! お前が段ボールの中に入れたんだろ! なくなってたらどうするつもりだ、お前は! 大切なノートなんだぞ! 大体、いつもいつもお前は俺の邪魔ばかり――」
「はい、すみません。申し訳ありませんでした」
可憐は和夫に背中を見せたまま謝り、部屋を出て、他の部屋の荷物を見に向かった。
「何なんだ、一体あいつは。俺に向かって、なんて態度だ」
小言を言いながら、和夫は自分の部屋へと帰って行った。
「――――」
裕奈は両親の喧嘩を前にして、イヤホンをつけて、ひたすら聞かないように、見ないようにしていた。
数時間の捜索の後、可憐は和夫のノートを発見した。
「これですか」
「……ふん」
和夫はノートを受け取ると、書斎へと入って行った。
「はぁ……」
ため息を吐いて帰って来る。
「裕奈」
「……はい」
怒られると、思った。
「裕奈はあんな人と付き合っちゃ駄目よ」
「…………」
何も、言えなかった。
「裕奈は私みたいになっちゃ駄目よ。あんな人と付き合っちゃ駄目よ」
和夫が変わっていくのと同時に、可憐も段々と変わっていった。
美しく力のあった目元には、今や小さな皺が出来ていた。
髪にも白髪が少し混じるようになり、以前の母の姿が嘘のようだった。
「裕奈はいっぱい頑張って、どんどん可愛くなったんだから。裕奈は変なのに引っかかっちゃ駄目よ」
「……」
可憐はくたびれた顔で裕奈に言う。
「お金なんかで結婚相手を決めた私が馬鹿だった。裕奈は、裕奈は騙されないで、ちゃんとした人を選ぶのよ。お願い、お母さんを心配させないで。お母さんを不安にさせないで」
「はい……ママ」
母親の言葉も、裕奈には重圧に思えた。
毎日毎日夫婦喧嘩を見て、自宅にいることがストレスだった。
六月――
「赤石さん……」
赤石の様子を心配していた花波は、新学期になってから、風の噂で聞いた学校掲示板を頻繁に覗いていた。
あることないこと書かれており、掲示板のユーザー数も百人を超えていた。
「ん」
「え」
見れば、後方から父が裕奈のスマホを覗いていた。
「え、あ」
裕奈はスマホの電源を切り、即座に学校の裏掲示板サイトを隠した。
「何を見てたんだ」
「えっと……」
父と話すことがすっかりなくなった裕奈は、あたふたとする。
「娘のスマホを勝手に見ないでください」
可憐が和夫を一喝した。
「なんだ、お前は! 誰の金だと思ってるんだ!」
「はぁ……」
和夫を相手にせず、可憐はため息を吐く。
「お前は俺のために今まで何をしてきたんだ! 俺がどれだけすごいか分かってるのか! 年収も一千万以上、上位何パーセントの人間なのかちゃんと分かってるのか!」
「……」
和夫は可憐を詰める。
「大体、掲示板だかなんだか知らんが、どうせ他人の悪口を言いたい人間が集まってるだけだろ。何の生産性もない。そんなものを見てる暇があるなら、勉強の一つでもしたらどうなんだ!」
「……はい」
裕奈はリビングから出て、自室に入った。
七月――
「ちっ」
和夫は舌打ちをしながら、リビングで新聞を読んでいた。
「なんだ、最近の若いのは。どいつもこいつも、クソみたいなやつばっかだな。忍耐力もねけりゃ、甲斐性もない。こんなのがこれから活躍していくんだと思うと将来が心配だな」
新聞の記事の一つ一つに文句を言いながら、和夫は朝食を食べていた。
「おい、酒」
和夫は可憐に酒を頼んだ。
「朝からお酒なんて飲まないでください」
「これが飲まずにやってられるか! どいつもこいつも、神経を逆撫でするゴミみたいな人間ばかりだ」
「そんなに嫌なら、新聞なんて見なければいいじゃありませんか」
「お前は黙ってろ! さっさと酒を持って来い!」
「はいはい、すみませんでした」
可憐は酒を取りに行った。
「研究が失敗に終わった? ふん、こんな簡単なことも分からんのか。下らん。やる前に分かっただろうが。どいつもこいつも忍耐力がない」
目につく新聞の記事に文句を言う朝が、習慣となっていた。
八月――
「ちっ……」
いつものように和夫は、舌打ちをしながら家を歩いていた。
いつもより機嫌が悪いのか、足音も大きく、ドアを開閉する音も大きい。
和夫の足音が聞こえてくると、裕奈と可憐は少しピリついた空気になる。
「おい!」
和夫が別室で呼んでいる。
可憐と裕奈は、和夫を黙殺した。
「おい!」
和夫はまだ、呼んでいる。
「はぁ……」
ため息を吐き、可憐は外へ向かった。
和夫が変わってから、可憐はため息を吐くことが増えた。
「なんでお前はこんな簡単なことが出来ないんだ! 俺の言ったことがなんで出来ないんだ!」
別室に言った可憐は和夫から注意を受けた。
別室から裕奈の耳に、和夫の罵声と可憐のため息が小さく聞こえてくる。
夏休みで家にいることが多くなった裕奈も、和夫の限度に我慢できなくなっていた。
可憐も裕奈も、和夫を黙殺することが増えた。
部下にも仕事仲間にも相手にされず、頼られず、連絡もない和夫は、家での立場も失った。
和夫はただ一人、家族に囲まれながら、孤独に毎日を暮らしていた。
「そこまでが私の現状、そしてあらましですの」
花波はファミリーレストランで食事を頬張りながら、赤石に言った。
「……はあ」
赤石もまた、食事を頬張った。




