第357話 早期退職はお好きですか? 2
年の瀬――
大豪邸を構えている花波家は、何の装飾も施さず静かに暮らしていた。
三年生を前にして、花波は自宅で紅茶をたしなんでいた。
「裕奈」
「はい、ママ」
花波可憐、四十代半ばにして絶世の美貌を保つ、花波裕奈の自慢の母親だ。
白髪の一本も見えず、艶のある髪がその若さを一層際立たせていた。
時間が出来た折にはジムで体を鍛え、自分作りの余念のない母親だった。
裕奈が飛び降りを決行して以降、どこか距離を置かれているように、見えた。
「こっちに来なさい」
「……はい」
裕奈は言われた通り、母の下へと歩み寄った。
「暇してるなら手伝って」
「はい」
裕奈は可憐の隣に座り、服を畳む。
「……」
無言の時間が続く。
「最近、学校はどうなの?」
「え?」
唐突の母の言葉に、裕奈は多少うろたえる。
「冬休み……ですけれど」
「……そう」
可憐は、そこで会話を打ち切った。
可憐は、気品のある母だった。
娘に対して、家でも言葉遣いには厳しかった。
自分に厳しい可憐は、その分、他人にも厳しかった。とりわけ、娘には。
「学校は楽しい?」
「……」
飛び降りをしてしまった手前、即座には回答できない。
が。
「ええ」
花波はゆっくりと微笑んだ。
「そう……」
可憐は裕奈に、畳まれていない衣類を渡した。
「先日来た子たちは、裕奈のお友達?」
年の瀬前に、裕奈は赤石たちを自宅に呼んでいた。
「お友達……と言いますか、お友達になる予定の、人たち?」
「お友達になる予定……ね」
どこか、可憐の顔が、やつれて見えた。
「お友達はきちんと選びなさいよ」
「はい、ママ」
「……」
可憐は裕奈の目を見た。
「いじめられて、ないのよね?」
「……っ」
裕奈は息を飲む。
そうか。
あんなことをしてしまった手前、そう思われても仕方がないのか。
「いじめられては……いないです」
「本当ね?」
「はい」
「本当なのね?」
「はい」
「……ならいいわ」
母も父も、飛び降りの件について、裕奈に深くは尋ねなかった。
思春期の真っ只中、何か嫌なことがあったのだろう。
母はそう結論付けていた。
そして結果的に、裕奈と距離を取ることが、裕奈に強い不安を抱かせても、いた。
「そういえばあなた、好きな子には会えたの?」
「……」
裕奈は両親に無理を言って高校を変えてもらった。
だが、裕奈のたくらみは失敗に終わった。
「会えました……けど、他の女性と付き合ってしまいました」
不器用な笑みを、浮かべる。
「高校を変えてまで会いに行った好きな子が他の女の子と付き合っちゃたのね」
「……ごめんなさい」
母が自分を責めているように、感じた。
「こんなことまでしてもらったのに……」
裕奈は無理を言って高校を変えてもらった。
ただ、櫻井に会うためだけに。
ただ、櫻井ともう一度会いたいがために。
そしてその結果が、飛び降りだった。
さぞかし、失望しているのだろう。
さぞかし、嫌われただろう。
さぞかし、恨まれているだろう。
そんな思いが、裕奈の心に去来する。
自分がしたことの重圧が、自分に、帰って来ていた。
「言わないといけないことがあります」
「……え?」
可憐は裕奈に背を向けたまま、話す。
「この家を、売り払います」
「…………え?」
唐突だった。
本当に、唐突だった。
「な、何故ですか?」
青天の霹靂、裕奈は混乱した頭で可憐に聞く。
「お父さんが、失業しました」
「え?」
思考が、ついて行かない。
「正確には、退職しました」
「ど、どういうことですか?」
花波和夫、可憐より十歳と少し年上の、五十代半ばの父。
まだ定年には数年あると、思い込んでいた。
「裕奈のために、高校を変えたよね?」
「は、はい」
「住居が変わって、環境が変わって、お父さんは仕事で大きなミスを犯しました」
「……はい」
自分の、責任だ。
「大きな商談に遅刻して、数億円の事業が飛んだそうです」
「数億円……」
規模の大きすぎる話に、ただの高校生の裕奈には、現実感が伴わない。
「ご、ごめんなさい……」
「裕奈が気にすることではありません。全て、お父さん自身の責任です」
「でも……」
「続きを聞いて」
「はい」
裕奈はしゅん、と肩を落としながら母の言葉を聞く。
「早期退職を、知ってるわよね?」
「早期退職……」
退職金を上乗せすることで、定年前に退職を促す制度。
近年になって、活用されることが増えている制度だった。
「早期退職の勧告に、お父さんが選ばれました」
「そんな……」
「部下に合わせる顔がない、とお父さんは早期退職を受け入れました」
「いつから……?」
「もうすでに、退職しています」
「……」
唖然とした。
つい先日まで、父は背広を着て毎日のように外に出かけていたはずだった。
「だ、だって数日前もスーツで会社に――」
「そういうパフォーマンスです。いつあなたに言おうか迷ってたの」
「そんな……」
今も父は、外に出かけている。
「い、今はどこに?」
「分かりません」
「分かりません……って」
「まだ話は終わってません」
「え……?」
裕奈は再び背筋を伸ばす。
「私にも黙って退職したお父さんは、投資に手を出しました」
「投資……」
早期退職と同時に、近年多く聞くようになっていた言葉だった。
「退職金を元手にして、投資で安定したお金を稼ごうとしたお父さんは、投資に失敗して多くのお金を失いました」
「…………」
言葉が、出なかった。
「そういうわけで、もう家にはお金はあまり残っていません」
「残っていませんって、じゃあどうするんですか!?」
「この家を売り払って、引っ越しをします。新年度前には引っ越しをするから、あなたも荷物を片付けておいてちょうだい」
「そ、そんな……突然すぎます……」
洗濯物は、とうの昔に畳み終わっていた。
裕奈は畳んだ洗濯物を前にして固まる。
「言っても仕方ないから、諦めて支度してちょうだい。来年からは、もっと小さな家で暮らします」
「…………」
そう言い、可憐はその場を後にした。
裕奈は何も言えず、その場にとどまることしか出来なかった。
全て、自分の責任だ。
そう思えて、仕方なかった。




