第355話 二人目の彼女はお好きですか?
「……」
ガチャ、と新井は家の扉を開けた。
「……っ」
家に染みているヤニの匂いに鼻をつまみながら、新井は薄目で家の中を漁る。
いつ脱いだのか分からない下着、カビたパン、何本も置いてある醤油、新井が家を留守にしているうちに、すっかり家は荒れ果てていた。
「お母さん」
「……」
母の名を呼ぶが、返事がない。
「お母さ~ん」
「……」
やはり、返事がない。
「はぁ……」
ため息を吐いた新井は、自らの所持品を取りに向かった。
「あ……」
「えっ?」
うめき声が、聞こえる。
「お母さん!」
ゴミの山と共に、香織が床に転がっていた。
「お母さん、お母さん!」
新井が香織を揺さぶると、香織は目をこすりながら起床した。
「なに、あんた帰ったの」
「……はぁ」
ただ寝ているだけだった。
「紛らわしいことしないでよ。ちゃんと布団で寝てよ」
「どこで寝てようと私の勝手でしょ」
香織は起き掛けに、近くにあった酒に口を付ける。
「もう、だから飲まないでよ!」
「これが飲まないでやってられないわよ!」
香織は失恋後、いつも家でやけ酒をしていた。
普段は新井が止めていたが、ストッパーがいなくなったことで、香織の酒癖は一層悪くなっていた。
「あんた、どこ行ってたのよ、最近」
「別に……」
夏休みを利用して、新井は山田と夜を渡り歩いていた。
「男でしょ」
「……」
かかか、と香織が笑う。
「やっぱり血は争えないねぇ。あんたも、男がいないと一人では生きていけないのよ」
「私はお母さんとは違う。お母さんとは違う」
一人ぶつぶつと、言い聞かせるようにして、新井は呟く。
「あんたも私と同じよ。どうせ今の男に捨てられて、私みたいになるのよ」
「私はお母さんとは違う、お母さんとは違う」
「あんたも、どうせ捨てられて私みたいになるのよ!」
「……あああああぁぁぁぁっ!!」
新井は持っていたハンドバッグで、母親を打った。
「私はお母さんとは違う! 私はお母さんとは違う!!」
「由紀いいいいぃぃぃぃ!」
立ち上がるが、酒が抜けきっていない香織は足元が覚束ない。
ふらふらと千鳥足で数歩あるいた後、壁に激突した。
「由紀いいいいいいいぃぃぃぃ!!」
「うわあああああああぁぁぁぁぁ!」
香織は床に倒れ伏し、新井は逃げるようにして家から出た。
「裕也君、裕也君……!」
山田の名を呟きながら、新井は走る。
走り、走る。
囚われている家から、縛られている家から逃れるようにして、新井は必死に走った。
「由紀!」
どれくらい走っただろうか。
走り疲れて公園のベンチで寝ている所に、声をかけられた。
「聡助……」
櫻井聡助その人が、新井に近づいていた。
「ど、どうしたの、こんなところで」
新井は髪を直しながら、櫻井に向き直る。
「実は、お前の家に行ったんだけど、お前が家から出てくるところを見て……な」
「もしかして追いかけて?」
「ああ、当たり前だろ?」
櫻井は、にか、と笑う。
「どうして、私にそんなに……」
「当たり前だろ、俺とお前の仲なんだから」
櫻井は新井の隣に腰を掛けた。
「なぁ、由紀」
「……う、うん」
久しぶりの櫻井との会話に、顔が熱くなる。
やはり自分はまだこの人が好きなんだ、と自覚させられる。
「何か俺に、言っておかないといけないことって、ないか?」
「……え?」
逡巡する。
言っておかなければ、いけないこと。
「ど、どうして?」
「……由紀」
櫻井は新井の目を見つめた。
「最近、困ってないか?」
「え?」
櫻井は新井の頬を両手で挟んだ。
「由紀、俺の目を見てくれ」
「う、うん」
「由紀、お前最近なんか変だぞ?」
「…………」
最近、変。
櫻井に言われたくない言葉に、胸が痛む。
「どうしたんだよ、由紀、これ」
櫻井は新井の耳を触った。穴が開いている、耳を。
ピアスでいくつもの穴が開いている耳を、触る。
「こ、これは穴開けたから」
「お前、どうしたんだよ!」
櫻井はたしなめるようにして、言う。
「由紀はこんな子じゃないだろ! 由紀はこんなことする子じゃないだろ! なんで……なんでこんなことする前に、一言でも俺に相談してくれなかったんだよ!」
櫻井は自身の額を新井の額にピタ、とつけた。
「由紀、もっと……もっと、頼ってくれていいんだよ! 辛いことがあるなら、俺を頼ってくれていいんだよ! 苦しいことがあるなら、俺と共有して半分にしてくれたって、いいんだよ! 助けを求めたっていい! 泣いたっていい! 何でも一人で解決なんてしようとしなくていい! 俺は、俺は、ずっとお前の味方なんだよ。なんでも、何かあったなら、何でも俺に言ってくれよ!」
櫻井は近距離で新井と見つめ合う。
「なぁ由紀、このピアス、どうしたんだ? この服も……」
服の面積が小さく、新井のすらりと長い肢体があらわになっている。
「じゃあ……」
新井はゆっくりと、顔を上げた。
「じゃあ聡助」
ああ。
「一つだけお願いしたいんだけど」
「何でも言ってくれよ」
ずっと思っていた。
ずっと言いたかった。
胸の内にしまって、なあなあにして、誤魔化して、なかったことにして、ずっとしまってきた、たった一つの思い。
どうしても叶えたかった、一つの思い。
「聡助……」
茶化して、笑って、自分自身も騙して、ずっとずっと、成就しなかった、思い。
「私と、付き合ってよ」
櫻井聡助の、彼女になりたい。
「…………え」
想定していない回答に、櫻井が言葉を詰まらせた。
「私のこと、大事なんだよね? 私のこと、大切なんだよね? だったら、私と、付き合ってよ」
「……」
「私のことを大切にしてよ私のことを大事にしてよ。宝物みたいに扱ってよ。お姫様みたいに扱ってよ。出来るよね、聡助、私のことが、大事なんだよね?」
「……」
櫻井は、答えない。
「ねぇ聡助、答えて。答えてよ……」
切望するように、熱望するように、羨望するように、瞳に、熱い思いを灯して、新井は櫻井を見つめる。
「……」
櫻井は唇を噛み、地面を向いている。
櫻井が何も答えないまま、一分が過ぎる。
「ねぇ聡助、答えて……」
新井が櫻井の手を握る。
櫻井は、まだ答えない。
「……」
はぁ、と新井は小さくため息を吐いた。
「無理だよね、だって聡助は志緒ちゃんと付き合ってるんだから……」
いつになっても答えない櫻井を差し置いて、新井がそう言った。
「ずるいよ、聡助……」
「……」
「なんで聡助だけ、ずっと……」
新井は目尻に溜まった涙を拭う。
「そんな……そんなの、もっと早く言ってくれてたら……」
「言ってたよ!!」
激昂するようにして、新井は叫んだ。
「言ってたよ! ずっとずっとずっとずっと、言ってたよ! 聡助が好きだって、言ってたよ! 聡助と付き合いたいって、ずっとずっとずっとずっとずっと言ってたよ! なのに、聡助が私に取り合ってくれないで、嘘だって茶化して、だから私もそうやってふざけたみたいにするしかなかったんだよ! 私は、私はずっと聡助のことが好きだったよ! ずっと聡助と付き合いたかったよ! 聡助が! 聡助が私のことを彼女にしてよ! 聡助が私と付き合ってよ!」
涙ながらに、新井が訴える。
櫻井の胸を叩きながら、そう、訴える。
「そんなこと……知らなかった」
「嘘、嘘だよ……」
新井は力なく櫻井の胸を叩きながら、涙をこぼす。
「そんなの嘘だよ……。ヒドいよ……聡助は本当に、ヒドいよ……」
嗚咽しながら、新井は小さくなる。
「聡助が! 聡助が私のことを選んでくれてたら、私こんなことにならなかった! 聡助が私のことを選んでくれてたら、ピアスなんてあけなかった! 裕也君となんてつるんでなかった! 皆とだって仲良くできた! 悪い遊びも、夜に出歩くこともなかった! 全部、全部聡助のせいだよ! 何年も……何年も何年も何年も何年も、私はずっと聡助のことを思い続けた! ずっと好きって言い続けた! なのに! 聡助は私のことを選んでくれなかった! 一回も好きって言ったこともない志緒ちゃんのことなんて選んで、ずるいよ! 私の……私の何が駄目だったの……」
「……ごめん」
泣き喚く新井の前で、櫻井はただただ謝罪する。
「ねぇ聡助、一体私の……何が駄目なの? 私じゃ駄目なの? 志緒ちゃんじゃないといけないの? 私じゃ……駄目なの?」
「……」
櫻井は下唇を噛んだまま、黙って地面を見ている。
「何が駄目なの? 私と志緒ちゃんじゃ何が違うの? 私の方が、志緒ちゃんなんかよりもずっと聡助のことを愛してる。ずっとずっとずっと、聡助に尽くせる。私の方が志緒ちゃんなんかよりも、ずっとずっとずっとずっとずっと聡助のことを考えて来たし、聡助の喜ぶことならなんだってできる。ねぇ、聡助、私じゃ、駄目なの? 私じゃ……駄目なの? 今からでも遅くないから、志緒ちゃんと別れて、私と付き合って欲しい。ねぇ、ねぇ、ねぇ……」
新井は櫻井の首に腕を回す。
櫻井に抱き着き、距離を詰める。
「ねぇ聡助、聡助が今からでも私と付き合ってくれたら、わたし裕也君とも会わない。もうずっと合わない。ピアスも付けない。聡助のために、聡助のためだけに生きるよ。聡助の喜ぶことをして、聡助が楽しくなるように頑張って、お弁当も毎日作るよ。聡助の好物もたくさん入れるよ。毎日毎日、聡助のことだけを思って生きる。これから先、私の人生はずっと聡助のもの。ねぇ聡助、私じゃ……私じゃ、駄目……かな?」
上目遣いで、媚びるように、誘うように、請うように、新井は、櫻井と視線を合わせた。
「でも、俺、今付き合ってて……」
櫻井は新井から目を逸らす。
「……やっぱり、駄目じゃん」
嗤ったように、諦めたかのように、乾いた笑みを、新井は、漏らした。
「やっぱり、全部駄目じゃん。何したって、駄目なんじゃん」
あはは、あはははははは、と新井は笑う。
「何を犠牲にしたって、どれだけ頑張ったって、どうせ私は聡助と結ばれないんじゃん。何年も好きって言い続けてきたの私だけだよね。私だけが聡助のことを思ってきたんだよね。それなのに、報われない。ブスだから? デブだから? 聡助の好みの顔じゃないから? それとも、このピアスのせい?」
あはは、と新井はピアスを叩く。
「そんなことない! 由紀はとびっきり可愛くて素敵な女の子だよ!」
「じゃあ、付き合ってよ……」
「…………」
「私の味方してよ。聡助のせいでこんなことになってるんだよ。全部、全部聡助のせいで……」
「ごめん、全部俺のせいで……」
新井は櫻井を前にして、何も出来なくなった。
「由紀……」
「聡助」
櫻井が顔を上げたところで、新井が櫻井に口付けをする。
「……っ!」
櫻井は目を丸くし、新井を見る。
泣きながら、目をつむり、新井は櫻井と口付けを交わしていた。
長い口付けの後に、新井はそっと唇を離した。
「聡助、お願い、私のものになって。私をお姫様にして……」
「…………」
櫻井は新井から顔を逸らす。
「もう……いいよ」
新井は立ち上がった。
荷物をまとめて、櫻井の下から立ち去る。
「由紀!」
立ち去る新井の手を、櫻井が掴んだ。
「由紀、行くな!」
後ろから新井を抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だから。全部俺が何とかするから。大丈夫、大丈夫。助けを求めたって良い。辛い時は、助けて、って言っていいんだ。由紀、大丈夫。俺が隣にいるから」
「聡助……」
櫻井は耳元で新井に囁く。
「私は聡助のことが、本当に、好きでした」
新井は涙をこぼしながら、櫻井の腕をほどき、去った。
「由紀、由紀!」
櫻井が新井を追いかける。
「来ないで!」
一喝する。
「私は、聡助のことをずっと愛していました」
そう言って新井はタクシーに乗る。
「由紀、由紀!!」
「私のことを、愛して、欲しかった」
そう残した後に、新井はその場を後にした。
「畜生……」
櫻井はその場にくずおれた。
「畜生おおおおおおおおぉぉぉぉぉ!」
櫻井はただ、慟哭した。




