第352話 葵志緒はお好きですか?
八月中盤――
夏休みも佳境に入った赤石たちは、今日も学校で夏期講習を受けていた。
「はい、以上で授業を終わります」
古文の授業が終わり、教室が空く。
「ねぇ、どっか行かない?」
「カラオケとか?」
「ありよりのあり」
昼からの夏期講義は詰まっておらず、勉学に疲れた生徒たちの遊びへの誘惑が高まる。
「志緒ちゃん?」
「ん~?」
古文の授業を受けていた水城に、声がかけられる。
「元気してた?」
「あ、志保ちゃん」
水城は、やっほ~、と志藤に手を振る。
「久しぶりだね、志保ちゃん」
「うん、ちょっと塾とかもあってあんまり学校来れなかった」
えへへ、と志藤は頭をかく。
おさげの髪に丸い眼鏡をした志藤は、高校の制服を着こなしていた。
委員長ともとれるようなピシ、とした着こなしに丸眼鏡とおさげの志藤は、誰からともなく、委員長のあだ名をほしいままにしていた。
スカートを一切いじることなくそのままにしている志藤は、珍しい部類に入っていた。
「……」
「……」
沈黙が続く。
生徒たちは教室から次々と出ていく。
「赤石、遊ぼ」
「受験終わったらな」
「卒業旅行?」
「良いんじゃないか、一般人っぽくて」
「北海道?」
「何故?」
生徒たちは教室から出払った。
「ねぇ」
「ん~?」
教室から人が出て行ったことを確認した志藤は、きょろきょろと周りを確認し、水城に近づいた。
椅子を引きずり、水城の耳元まで近寄る。
「志緒ちゃんって櫻井君と付き合ってるんだよね?」
秘密の話をするかのように、囁くように、志藤は嘯く。
「え、う、うん……」
水城は頬を赤く染め、そう返答する。
「付き合って長い?」
「修学旅行からだから、一年は経ってない……くらい?」
指を折りながら、水城が空を見る。
「そうなんだ……」
身を引いた志藤は、ごくりと生唾を飲んだ。
「ねぇ志緒ちゃん、悪いことは言わないから、櫻井君は止めときなよ」
「……え?」
水城は目を丸くする。
「えっと……」
言葉が、続かなかった。
「悪いこと言わないからさ、櫻井君は止めときなよ。ほら、志緒ちゃん可愛いんだし、櫻井君じゃなくても良い人なんていっぱいいるよ」
「あ、あはは……」
苦笑で志藤の言葉を受け流す。
「ね、止めない?」
志藤は椅子を引きずり、再び水城に近寄った。
「志保ちゃんは、なんでそう思うの?」
水城は志藤の目をしっかりと見据え、そう尋ねた。
「私、塾に行ってるって言ったじゃん?」
「うん」
「この前塾に行ってた時に、櫻井君を見かけちゃって」
「うん」
「そのとき櫻井君、知らない女の子と二人で歩いてたんだよね……」
「は、はぁ」
志藤は深刻そうに言う。
そして再びきょろきょろと辺りを見回し、
「これって浮気だよね! これって浮気だよね!?」
水城に言い寄った。
「え、えっと……」
水城が言いよどんでいるうちに、志藤はさらにまくしたてる。
「志緒ちゃん、櫻井君は止めときなよ、本当に。志緒ちゃん、きっと騙されてるんだよ! 私分かるもん。志緒ちゃんはきっと櫻井君に騙されてるんだよ! 志緒ちゃんがいるのに女の子と二人で遊んでるのおかしいもん! それに、今までだって――」
「なんで」
水城は視線を落として、一言。
「なんで、志保ちゃんにそんなこと言われないといけないのかな?」
「……え」
にっこりと笑いながら、そう答えた。
「だって、見たのも一回じゃないし……」
「櫻井君も塾に行ってるんだから、塾の女の子と一緒に帰ることだってあるし、女の子と一緒に歩いてるからって浮気ってことにはならないよね?」
「でも、一回だけじゃなくて何回も……」
「同じ塾の子なら一緒に帰ることだって全然あるよね」
「それは……そうだけど……」
水城はにっこりと、笑みを絶やさず志藤に尋ねる。
「なんで志保ちゃんは櫻井君が他の女の子と一緒に歩いてるだけで浮気だ、って思ったの? なんで志保ちゃんは櫻井君が浮気してると思うの? 教えて?」
水城はにこやかに、聞く。
「でも、櫻井君今までだっていっぱい事件起こしてるし、修了式の時だってあんなことしてたし、今までだって――」
「うん、分かった。もう喋らなくていいよ」
水城は志藤の言葉を止めた。
「志藤ちゃんは櫻井君のこと何も分かってないんだね、うん。何も分かってないってことが分かったよ。櫻井君のこと何も分かってないのに、分かったようなフリして私にそんなこと言って来るのって、ちょっとおかしいと思わない? ね?」
「……」
責め立てるように。
「それとも、志保ちゃんが本当は櫻井君のことが好きで、私と櫻井君のことを引き離そうとしてるのかな?」
「そ、そんなことないよ!」
ブンブンと志藤は手を交差させる。
「じゃあ、志保ちゃんが私と櫻井君のことに、ごちゃごちゃ言うのは違うくない?」
「……う、うん」
水城はにっこりと微笑む。
「そもそも、今付き合ってるカップルに向かって別れた方が良い、とか櫻井君はおかしいとか、そういうこと言うのって失礼だよね?」
「別にそこまでは……」
「当事者間だけで解決するんだから、志保ちゃんが私に櫻井君のことをとやかく言って来るのは違うよね? うん。分かる?」
「……うん、ごめん」
微笑みを、絶やさない。
「櫻井君が誰のためになんであんなことをしたのか知らないのに……いや、知ろうとしてないのかな。簡単に櫻井君がしたことをおかしいって私に告げ口してくるのって、すごい卑怯なことだと思わない?」
「……はい」
「櫻井君がなんであんなことをしたのか、ちゃんと分かってる?」
「ううん」
「じゃあ櫻井君が修了式の時にあんなこと、って言うのは違うよね? 分からないけど、自分の目から見たらあんなことに見えた、って言うべきだよね。うん。それをあんなこと、って私に押し付けてくるのは、ちょっと違うんじゃないかな?」
「……はい」
志藤はきゅっ、と拳を握る。
「志保ちゃんは櫻井君がどれだけ優しいか知らないからそんなこと言えるんだよ。櫻井君はね、困ってる人がいたら放っとけないだけなの。助けたいだけなの。結果的に、助けられる対象じゃない人が見たらおかしい行動に見えるかもしれないけど、櫻井君はただ、優しいだけなの」
「……」
「志保ちゃん、私の苗字が変わったのって、知ってるよね?」
「……うん」
離婚を経て、水城は苗字が変わっていた。
水城志緒。
あらため。
葵志緒。
だが、生徒たちにはこれからも水城と呼んで欲しい、と希望していた。
「櫻井君はね、私のお母さんとお父さんが離婚した後も私たちのことを積極的にサポートしてくれたんだよ。志保ちゃんはそんなこと知らないよね?」
「知らない……」
「志保ちゃんの、部外者目線で見た櫻井君のことを彼女の私に告げ口して、別れた方が良いって言うのは、ちょっと違うんじゃないかなぁ?」
「……ごめんなさい」
志藤は顔を伏せる。
「ううん、待って。別に怒ってるわけじゃないの。別に私は志保ちゃんに怒ってるわけじゃないの。ただ、ちょっと櫻井君のことを誤解してるよね、って思っただけだから。別に全然怒ってるわけじゃないからね。志保ちゃんが櫻井君のこと誤解してるよ、ってことを伝えたかっただけだから」
水城はポンポン、と志藤の肩を叩く。
「ご、ごめんね」
「ううん、全然怒ってないから。確かに他の人から見たら櫻井君はやってることも滅茶苦茶かもしれないよ。でも本当は芯があって、心が強くて優しくて、自分のことよりも他人のことを大事にしちゃうような人だから、ちょっとそこで誤解があるのかな、って思っただけだから。うん」
水城はにっこりと微笑む。
「だから、何も知らないのにそういう嫌なこと言って欲しくないなぁ、って思っただけだから。うん」
「うん、分かった」
志藤はぺこりと頭を下げた。
「ごめんね、志緒ちゃん」
「ううん、全然良いよ。でも、櫻井君のことを悪く言われるのは彼女として黙っちゃいないぞ~! みたいな」
小さな力こぶを作りながら、水城はあはは、と笑った。
「じゃ、じゃあ私帰るね」
「うん、ばいばい」
「ばいばい、志緒ちゃん」
志藤は教室を出て、小走りで廊下を走って行った。
「……」
水城はトントン、と教科書を整理し、カバンに入れ始めた。




