第344話 宣言はお好きですか?
「この角度がシータになった時に、物体エーが滑り出しました。ここで、静止摩擦係数のミューを答えよ、と。これは鉄板の問題だからお前ら間違えるなよ~。絶対にテスト出るからな~」
夏休みを数日後に控えた放課後、赤石は空き教室で共通テストのための授業を受けていた。
理系の赤石は物理を選択し、物理の特別授業を受けていた。
塾に行ったことがない赤石は学校内の特別授業に出ることが多く、夏休みを前にして、にわかにピリついた空気になっていた。
「はい、今日は以上」
教師の声とともに特別授業が終わる。
放課後の特別授業は、号令がない。
てんでんばらばらに、生徒たちが教室を後にした。
「……」
赤石は暫く教室に残り、全生徒が教室を出た後に、一人教室を出た。
空き教室を出て、一組に戻る。
「……」
「あ」
教室には、八谷が一人いた。
放課後も授業のために残る、という赤石を平田は置いて帰った。
赤石は机の上に置いておいた教科書類をカバンに詰め、肩にかけた。
「ア……かいし!」
八谷が赤石に声をかける。
唐突な発声に、声が裏返る。
「……」
赤石は八谷を見た。
「赤石は大学行くのよね?」
声が時々裏返る。
八谷の緊張が、赤石にも伝播する。
赤石は真面目な顔でカバンを置き、八谷と相対した。
「ああ」
「北秀院?」
「ああ」
「今も?」
「ああ」
八谷はカバンをごそごそと漁った。
「あ、こ、これ、良かったら!」
八谷は赤石にチョコを渡した。
「……何故?」
「受験生は糖分が大事よ!」
赤石は八谷からチョコを受け取った。
「あと!」
八谷は再びカバンの中をあさり、一枚の紙を取り出した。
「これ!」
八谷は赤石の眼前に紙を突き出した。
「……」
焦点が定まらない赤石は少し後退する。
「模試……?」
八谷は模試の結果を両手で持ち、ピン、と張った。
「私も北秀院、行くから!」
第一志望に、北秀院大学の名前が書いてあった。
「そうか」
そして、判定はE。厳しい結果だった。
「……」
八谷は紙を持ったまま、そわそわとする。
「良い!?」
「何が?」
八谷は上目遣いで尋ねる。
「E判定は良い結果じゃない」
「私が北秀院目指しても!」
「……? いいんじゃないか」
要領を得ない質問に赤石は淡白に答える。
「駄目だ、って言ったら止めるのか?」
「……止める」
八谷は伏し目がちに答える。
「意志薄弱なやつだな」
「そんなじゃないから」
赤石もソワソワとしながら、答える。
「私!」
八谷は立ち上がった。
「私、頑張ってるから!」
赤石の前で宣言する。
「今まではずっと遊んでばっかりで駄目な私だったけど、今は頑張ってるから! せっ、成績もすごい上がってるのよ! 前のテストは八十位だった!」
八谷は前回のテスト結果を赤石に見せる。
赤石は十五位だった。
「すごいな」
「……そうよ!」
八谷は落ち着きなく体を動かしながら、テスト結果をしまった。
「だから……だから!」
八谷は耳まで真っ赤にして、息を止める。
「……」
「……」
沈黙。
「だから、同じ大学に行ったら、仲直り、してほしいの」
大声で、そう、言った。
「……仲直り?」
赤石は胡乱な顔をする。
「なっ、仲直り!」
八谷は立ったまま答える。
「私、赤石に嫌われてるから……!」
「……別に」
赤石は八谷から視線を外す。
「でも、全部私が悪かったから」
「……別に」
答えられない。
息が詰まる。
重い沈黙が二人を包む。
「だから、この一年私頑張るから。頑張って勉強して、赤石の隣に立てるように努力するから。頑張るから。間違えないから。だから、私のことを認めて欲しい。その後、私と仲直りしてほしい。もう一度赤石とやり直したいの」
「…………」
八谷の顔が、見れない。
赤石はカバンの中を意味もなくごそごそと漁りながら、八谷の声を聞く。
「そうか」
そう言うと赤石はカバンを肩にかけ、教室を出た。
「良い!?」
八谷が慌ててカバンに荷物を詰め、赤石の後を追う。
「好きにしてくれ」
「仲直りするのね⁉」
「さあ」
赤石は口元に手を当てる。
「私、この一年頑張るから! 赤石が嫌そうなことしないから! だから! だから! もう一度だけ、私のことを信用してほしいの!」
「……」
赤石と八谷は二人、階段を降りる。
「待って赤石、速い」
赤石は小気味良く階段を降りる。
八谷は赤石のカバンを掴み、赤石を食い止める。
「今から帰るの?」
「ああ」
「私も一緒に帰って良い?」
赤石はその場に止まり、八谷が追い付くのを待つ。
「お前はいつから人に意見を求めるようになったんだ?」
「……あなたがヒドいからよ」
赤石と八谷は昇降口までたどり着いた。
「久しぶりに一緒に帰るわね」
「……そうだな」
赤石と八谷は二人、帰宅した。
後日――
「……」
夏休みを翌日に控えた放課後、八谷は昇降口で赤石を待っていた。
浮足立ちながら、うきうきとしながら、足をパタパタと動かし、八谷は赤石を待つ。
「大丈夫かな」
近くの全身鏡で、八谷は前髪を整えた。
前髪を整えたのち、昇降口全体が見渡せる場所に腰を据える。
「勉強しよ」
八谷は数学の公式集を読みながら、赤石を待った。
電気のついていない暗い昇降口で、八谷はペラペラと参考書をめくる。
「明日から夏休み超悲しい~」
「え~、私もだよ~」
「でも受験とか超バッド」
「分かる~」
「俺ら受験生だから夏休みでもゲームとか止めといた方が良いのかな~」
「やっぱそうだよな~」
授業を終えた生徒たちが、次々と帰って行く。
一人、また一人と、夏休みに向けて学校を出る。
「……」
そして、一時間が経った。
階段を降りてくる足音が、聞こえる。
「……」
八谷は期待を胸に、しかしあくまで興味がない風を装って、参考書に没頭しているように見せかける。
参考書の内容が、何一つ頭に入ってこない。
「……」
足音は八谷の隣で止まった。
足元に黒が見える。
八谷はニヤつく顔を押さえながら、顔を上げた。
「恭子?」
櫻井が、いた。
「そう……すけ?」
三年になってすっかり親交を失ってしまった櫻井との、邂逅。
三年になってから今までほとんど親交のなかった櫻井と、ばったりと、出会う。
「よ、よお」
「う、うん」
櫻井が八谷の隣に座った。
「元気か、最近?」
「う、うん」
胸が張り裂けそうになる。
緊張と不安で、櫻井の声が届かない。
「嫌なこととかなかったか?」
「うん」
「いじめられたりしてないか?」
「うん」
櫻井の顔が、見れない。
「俺も色々あってさ。三年になってから大変なこと続きだよ。でも恭子は変わってないみたいで安心したなぁ~」
櫻井は伸びをする。
「……」
櫻井は八谷に見とれる。
「綺麗……」
ぼそ、と櫻井が呟いた。
「え?」
「え、あ、お、俺声に出てたか!?」
櫻井が手で口をふさぐ。
「綺麗って……?」
「いや、別にそうじゃなくて! 恭子の髪が凄い綺麗だったから、ついというか、自分でも口に出してたと思わなくて……」
櫻井は頬を赤く染める。
「ま、まぁ……可愛くなったんじゃねぇの?」
櫻井はそっぽを向いたまま、八谷に言う。
「あ、あはは」
八谷は苦笑する。
櫻井に向けていた視線とは逆方向から、音がしていた。
「……」
振り向くと、赤石が既に昇降口に来ていた。
いつから昇降口に来ていたのか。いつから見ていたのか。いつから見られていたのか。
赤石と、目が合う。
「ま、まぁ別にそう思ったとかじゃなくて、髪が綺麗になったから相対的に恭子自身の――」
「え、あ、え」
櫻井への意識と赤石への意識でまぜこぜになり、話が入って来ない。
「でも……やっぱり、なんつ~か、大人の魅力? みたいなのが出て来たみたいなことが言いたかった、ってわけ!」
「え、あ、う、うん、ありがとう」
赤石は足早に靴を履き、そのまま昇降口から出た。
赤石の背中がどんどんと、遠くなっていく。
「ネイル? とかも止めてるみたいだし、恭子も色々考えてんだな~。やっぱ俺たちも受験生だからなぁ、止める所と止めないところとか色々出てくるよなぁ。でもそんな中でも自分を変えられる恭子ッて、やっぱ、すごいよ」
「う、うん……」
赤石が校門を、出た。
八谷は櫻井の隣で、話していた。




