第315話 水城茂はお好きですか?
――ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ、ピピ。
「……」
カチ、という音とともに男は目を覚ました。
スマホが普及した今でも大学生のころから使っている目覚まし時計を止め、男はむっくりと起き上がった。
午前五時三十分、平日も休日も分け隔てなく同じ時間に起きる男にとって、それは煩わしい物でも鬱陶しい物でもなく、ただただ一日を告げる朝の音程度でしかなかった。
「……」
もぞ、と男はベッドから出る。
顔を洗い、歯を磨き、眼鏡をかける。
「……」
男は運動用の服に着替え、家を出た。
「行ってきます」
もはや誰もいない家に言葉をつげながら、男は扉を開けた。
水城茂、四十六歳。今日も茂の一日が始まる。
「ふっ、ふっ」
茂にとって、朝のランニングは単なる日常に過ぎない。
運動は人を動かす活力である。運動を軽視しがちな者が多いが、どんな形であれ、運動する時間を取る、ということが大切だと茂は思っていた。
「おはようございます~」
「おはようございます」
妙齢の女に声をかけられる。
女は茂を抜き去り、そのまま走っていく。
「敵わないな」
毎朝同じ時間帯に走っていると、街中でも同じように走っている人がいることに気が付く。
紅藍と離婚調停をして以来、未だ茂の離婚は終わりを告げていなかった。
家を出て一人で暮らし始めた茂は、徐々に周囲の空気感に慣れつつあった。
「おはようございます」
「あら、おはようございます。こんな朝からお元気ですねえ」
老婆に声をかける。
自分よりも年上の人と話すのは良い。
若者と話が合わなくなりつつある茂にとって、同じ時代を生きた人との会話はよく弾んだ。
バブル経済、そして就職氷河期。
今の若者には何一つとして関係のない出来事も、茂は味わっている。酸いも甘いも、茂にとっての世界とはバブル経済であり、就職氷河期であった。
そして今も、茂は過去を生きている気がしてならなかった。
「ふう……」
一時間のランニングの後、家に帰った茂は汗を流すためシャワーを浴びる。
「……」
ざーーー、と体を滴り落ちる水を眺めながら、茂は無心で考え込んでいた。
浴室に入ると、どうしても紅藍のことが頭に過る。
言いすぎたんじゃないか、何か他の道があったんじゃないか、志緒はどうしているか。二人とも無事なんだろうか。
そして、自分はこれからどうやって生きていけばいいのだろうか。
「……」
きゅっきゅ、と茂は蛇口をひねった。
浴室から上がり、朝の準備を始める。
豆腐を切り、インスタントの味噌汁に入れ、冷凍していたご飯を取り出し、残り物を温める。
「いただきます」
朝のニュースを見ながら、茂の朝食が始まった。
『続いて、少子化問題についてです。デートをしたことがない二十代が増加傾向にある、との調査結果に注目が集まっています』
ニュースの原稿が読み上げられる。
「くだらん……」
茂は眉根を顰める。
味噌汁を口にし、ご飯に視線を落とす。
茂はおよそ、完璧な人間だった。完璧主義者であり、そしてその成果も実っていた。
大学時代から下宿を始め、茂にとっては家事も炊事も掃除も仕事も、勉学も講義も運動も音楽も部活も遊びも、何もかもが、退屈でくだらない児戯に等しかった。
茂にとっての大学時代は激動だった。抗議運動が活発化し、落命する者もいた。
学生運動の煽りを受けたこともあり、茂の時代は、若い者の力が強く、大人と頻繁に問題を起こしていた。茂の大学生時代は随分と劇的なものになった。
大学と学徒との衝突は日常のように起こり、学徒たちが集まって大学に抗議をするようなことも、数多くあった。
常に闘争と競争の世界で生きてきた茂にとって、生きることとは戦うことであり、勝つことであり、他者を蹴落とすことであった。
他者を蹴落とし、勝つことでしか生きる道が選べない時代を生きてきた茂にとって、逃げることは負けることであった。その時代の流れから、茂と同世代の人間には学生運動を基礎とした闘争の血が、競争する、という血気盛んな者が、多い。
時が流れ、お利口になった若者の気持ちを理解することは、出来なかった。
問題を起こさず、口を閉ざし、動かず、ただ現状が過ぎるのを待つ。そのような考え方をする若者の考えは、茂には分からなかった。
茂は他者に出来ないことを大した苦労もせず再現することが出来る。
他者が何に困っているのか分からなかった。ただその物事をそのまま言われた通りにやる。それだけで茂の人生は上手く回っていた。
紅藍と離婚の話をしてから、その歯車が狂いだしたように思えた。
「……」
茂は冷蔵庫の奥に、消費期限の過ぎ去ったベーコンを見つけた。
「あり得ない」
大学時代ですらしたことがないミス。完璧だった茂の人生の歯車が、少し狂っていた。
そして茂自身、その歯車の狂いに、気が付いていた。
茂は会社へと向かった。
「おはようございます」
「おはよう」
「専務、おはようございます」
「おはよう」
茂には、他人の心が分からない。何もかもが完璧に出来るが故に、出来ない者の気持ちが、全く理解できない。
「専務、よろしくお願いします」
「読んだら後で声をかけるからそこに置いておいてくれ」
「ありがとうございます」
水城は己が手腕一つで、のし上がった。
今や従業員一万名を超える大企業本社の専務。幹部役員となった。
「会議に行って来る」
「行ってらっしゃいませ」
茂は頻繁に開催される、実のない役員会議に頭を悩ませていた。
茂は席を立ち、会議へと向かった。
「ねぇ、専務って最近離婚したんでしょ?」
「え~、知ってる。ちょっと意外だよね」
「え~、そう? でもなんか離婚しそうな感じはあったくない?」
休憩所で茂の噂が流れる。
茂が離婚調停中との噂は、一部の人間の間でだけ周知の事実となっていた。
「じゃあ専務ともしかして結婚できるってわけ?」
「え~、ヤバくない?」
「あの若さで専務まで上り詰めたのって結構すごくない?」
「私、結構顔とかタイプかも」
茂に対しての噂が、あることないこと呟かれる。
茂は自分に対する評価も分からないまま、毎日を過ごしていた。
鐘の音が鳴る。
昼食の時間となった。
役員会議を終えた茂は食堂へと向かった。大企業の福利厚生の一環として社食が設けられ、一食二百円ぽっちで食事が出来た。
茂は栄養食を選び、席に座った。
「……」
「水城専務ここいッスか~?」
茂の前に、直属の部下がやって来た。
「好きなようにしてくれ」
「じゃあここ座らせていただきや~す」
桐野竜、二十七歳。
入社五年目の若手だった。
「いや~。専務また栄養重視の食事してますね~。駄目ッスよ~、食事は楽しまなくちゃ。美味しくなきゃ食事じゃないッスよ~」
桐野は頼んだラーメンに持ち前のラー油をかける。
「そういえば専務、離婚したらしいッスね」
桐野は唐突に切り込んだ。
「正しくは離婚調停中だ」
「か~~~、大変ッスね~、専務も」
いただきます、と桐野は食事を始めた。
「あぁ、そう言えば専務、女性社員から色んな噂立ってますよ」
桐野はラーメンを食べながら言う。
「なんか妻にDVして離婚調停中、だとか悪い噂から、好きな相手を見つけてその女の子のために離婚したとか、良い噂まで」
「それは良い噂なのか……?」
茂は桐野に言われ、初めて自分の立ち位置を理解した。
「でも専務、結構俺の同期の女の子からも評判良いッスよ。専務と結婚したい、とかいう女の子もまあまあ少なくないですよ」
「冗談が好きなやつだな」
茂は呆れた顔をする。
「いや、本当本当。でもやっぱあれッスね」
桐野は笑った。
「結婚が人生の墓場ってのは、本当だったんスね」
ははは、と桐野は笑った。
「専務みたいな人見てたら、本当どんどん結婚する気失せますわ、はは」
桐野はラーメンを口にする。
「墓場からリボーンおめでとうございます、専務」
よ、と桐野は拍手した。
茂は眉根を顰めた。




