第240話 八谷恭子が、好きだった
「聡助と、しおりんが、付き合って、いつから、え、なんで……どうして……」
八谷は一人、教室の中で呻く。
いつから二人は付き合ったのか。自分だけが知らないのか。何故そんなことになっているのか。
何も知らない八谷は心をざわつかせ、苦しむ。
「はぁ……はぁ……はぁ」
呼吸が浅くなる。
櫻井への気持ち。赤石への気持ち。水城との関係性。そしてハーレムを構成する取り巻き。その全てのモヤがない交ぜになったような感覚に、胸を押さえる。
「いつ……から……」
先ほどまで自分が櫻井にしていた行為を、水城はどう思っていたのか。交際相手に対して軽率に言葉を交わす自分のことを、水城はどう思っていたのか。
ずっと水城はそんなことを思っていたのだろうか。
様々な疑問が頭の中に浮かんでは消えていく。
自分は水城にとって途轍もなく邪魔な存在だったのではないか。自分は迷惑をかけていたのではないか。ほんの少し前の自分の行動が恥ずかしくなる。
ガラガラガラ、と教室の扉が開く。
「あかい……し」
「……ん」
教室に入ってきたのは、赤石だった。
「あんた、なんで、どうして」
「ちょっとな」
未市、岡田との動画編集を終え、赤石は教室へ帰ってきた。
「赤石……」
自分はどうするべきなのか。どうあるべきなのか。何も分からないまま、赤石を見る。
「赤石、ちょっと質問があるわ」
「……? ああ」
八谷は赤石の席の前まで行く。
「そ、聡助がしおりんと付き合った、みたいなこと聞いたんだけど、あんた知ってた?」
「…………」
出来るだけなんともないことのように。自分にとって些末な出来事であるかのように、茶化して、笑いながら、八谷は赤石に訊く。
「ああ」
「いつからか知ってるわけ?」
「修学旅行最終日」
思った以上に最近だったことを、八谷は知る。
「へ、へ~……」
なんでもないように、誤魔化しながら、赤石の前の席に座った。
「ど、どう思ったのよ、あんた」
「どうって、どうも……」
赤石は訝し気に八谷を見る。
「聡助が女の子と付き合ったのよ、どう思ったか言いなさいよ、ちょっと」
八谷が赤石の脚を軽く蹴る。
「別に……」
赤石は言葉少なに、言う。
「何よ」
八谷は口をとがらせる。
「…………」
「……」
静寂。八谷が切り出す。
「い、いや~、実は私ちょっと赤石に言いたいことあったのよ」
「……なんだよ」
八谷は席から立ち上がり、伸びをしながら、赤石の隣に来た。
「ま、まあ、こんな時だから、とか、こういう流れがあったから、とかじゃないわよ。でも私、実はあんたのこと、そこそこ気に入ってるのよね」
「…………は?」
八谷はまくしたてながら、言う。赤石の椅子を掴み、赤石の肩に肘を乗せて、言う。
唐突な八谷の告白に、赤石は目を白黒させる。
「私、実はあんたのこと好きだったのよね。黙ってて悪かったわね。そんなこと言う勇気が出なかったのよ」
あはは、私って本当勇気ないわよね、と八谷は言う。
「実は私、赤石のこと好きなのよ」
「…………」
「私と付き合って」
赤石は目を丸くして、八谷を見る。
信じられないものを見たような驚きを、その表情に湛えて。
「…………」
「ちょっと~、なんとか言いなさいよ赤石。こんな絶世の美少女があんたに告白してるんだから、なんとか反応しなさいよ~」
八谷は赤石の脇腹をつつきながら、言う。
「本当私って馬鹿よね? こんなことならないとあんたに告白できないんだから」
八谷は赤石から離れ、くる、と回る。
「でも逆に良かった~、こんな機会があって。こうでもないと私、一生赤石に告白できなかったかもしれないし。やっぱり赤石に告白できてよかった。怪我の功名……? いひ」
ね、と八谷は赤石に振り向く。
「あ、赤石っていうのもおかしいわよね。悠人……悠人? 悠人って呼んでもいいわよね? 私とあんた、付き合うんだからそれくらい普通よね」
八谷はにこにことしながら赤石の下までかける。
「実は聡助のことそんなに好きじゃなかったのよね、途中から。知らないうちに私あんたに惚れてたのよ。いつからだったかしら? やっぱり聡助と違って悠人の方が論理的な考え方してるし、私に対して誠実に付き合ってくれてる気がするのよ。それに話してて楽しいのも全然悠人の方だし、本当、私なんであんなに聡助ばっかり見てたんだろ。悠人の方がどう見たって格好良いし魅力的なのにね」
八谷は赤石の頬をつんつんとつつく。
「いつからだったかしら、私の料理見てくれだしてから? 変な人に絡まれた時に私のこと助けてくれた時から? あはは、いつからだったか忘れちゃったわ。でも私にとって聡助より悠人の方が何倍も魅力的だったし、今まで告白できなかった私がなんなのよ、って話よね!」
八谷、アウト―! と八谷はテンション高く笑う。
「ほら、それに悠人って案外勉強も出来るわよね? やっぱり付き合ってからは悠人に勉強とか見てもらえるし、二人で勉強とかも憧れるわよね。あ、悠人もしかして勉強しに職員室行ってたとか? 良いわよね、先生に訊くと分かりやすいし」
赤石の頭をぽんぽんと撫でながら、八谷は言う。
「良かった~、私に悠人がいて。聡助じゃなくて悠人のこと好きになって良かった~」
八谷は後ろから、赤石の首元に腕を回す。
抱擁し、頬を赤石につける。
「私悠人のことずっと抱きしめたかったのよね。いや、ほら、悠人って案外強そうに見えるのに、はかなげに見えたりもするっていうか、やっぱり私がついてないと、とか思ったりするのよね。あ、悠人には私が必要なんだ、って思ったことも何度もあったのよ。聡助は私だけを見てくれないけど、悠人は私だけを見てくれるな~、ってずっと思ってたのよ。悠人はいつも私のそばにいてくれたわよね」
ふふ、と八谷はうっとりした顔で赤石を見る。
「そもそも聡助と一緒にいても全然楽しくないのよね。聡助といても私落ち込むことが多くなってたけど、悠人といると私いっつも笑えるのよ。悠人って案外ユーモアセンス? みたいなものあるわよね。悠人と喋ってるときの私はいっつも素でいられるけど、聡助といるときの私はいつも、どこか聡助に好きになってもらわなきゃ、みたいな心のとげ? っていうか苦しさみたいなのがあったのよね。結局、自分を偽って付き合っていく聡助より、悠人と一緒にいる方が私にとっても良いに決まってるわよね」
あはは、私って本当馬鹿、と八谷は笑う。
早口で、独り言のように。
自分に言い聞かせるように。
「それに悠人、色んな人の悩みも解決してくれたじゃない? 高梨さんとか家出したときも悠人がどうにかしてくれたし、私が平田さんにいじめられてた時だって悠人が助けてくれたわよね。聡助は私のこと助けてくれなくて悲しかったけど、でも悠人がいたから私ここまで来れたんだよ」
ありがとう、と八谷は赤石の耳元で言う。
「今までも……ううん、これからも私を助けてくれるのは悠人だけよ。悠人がいなかったら私今頃不登校になってたかもしれないわよね。あの時悠人が私を救ってくれたから、今の私がいるのよ。本当にありがとう」
八谷は抱擁の力を強くする。
「あ、そうだ、これからのデートの約束とかするわよ、悠人! ほら、私も悠人と付き合ってからデート? みたいなのしたかったのよね」
八谷はノートとペンを持ってきて、赤石の対面に座る。
「あはは、悠人やっぱり可愛い顔してる~」
ぷにぷに、と八谷は赤石の頬をつつく。
「や~、やっぱり困るわね、悠人。二人で最初に行く場所ってどこがいいかしら? 水族館? 遊園地? 動物園? にゃ~、困るわよこんなに候補あっても~」
もう~、決められない~、と八谷は両手で頬を挟む。
「ほら、私悠人と恋人じゃないからさ、やっぱり悠人と何かするのってちょっと尻込み? っていうか、申し訳なさ、みたいなものもあったのよ。でも恋人なら何も気にする必要ないわよね」
どこにしようかな~、と鼻歌を歌いながら八谷はノートにペンを走らせていく。
「あ、今週末! 今週末どこか行きましょうよ悠人。どこがいい? やっぱり行ったことない遊園地とかどうかしら?」
週末に遊園地、とノートに書く。
「あ、悠人これ最初に言っときたいけど、お金は折半ね。悠人だけに払わせるのも正直忍びないところあるわよね」
駄目よ、め! と八谷は赤石に口をとがらせて言う。
「も~、悠人も私に対してなんとか言いなさいよ~。本当悠人ってそういうところあるわよね。ちょっとくらい何とか言いなさいよ~」
うりうり、と赤石を蹴る。
「あ、分かった~」
八谷は席を立ち、赤石の隣に行く。
「やっぱり悠人も男の子だから、私の体とか興味あるんだ~」
赤石の首に手を回し、八谷が言う。
「も~、あんた本当エッチよね。ま、まあちょっとくらいなら触ってもいいわよ!」
ん、と八谷は胸を突き出す。
「キ、キスはまだ駄目よ! ま、まあちょっとくらいなら触られても……」
八谷は目を閉じ、赤石に体を預ける。
「ほ、ほら、やるなら早くしなさいよ!」
「――よ」
「え? 聞こえないわよ」
「黙れよ」
「……………………え」
空気が、凍る。
赤石に体を預けていた八谷は、動きを止めた。
「ふざけんなよ、お前」
「え、な、なんで。悠人も私のこと好きなんじゃ……」
「何が悠人だよ、あぁ? 何が櫻井より俺のことが好きだっただよ、あぁ!?」
「え、な、なんで……」
八谷は顔を青白くして、赤石から離れていく。
「てめぇふざけんなよ! 何が櫻井より俺のことが好きだっただよ! 意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇよ!」
「え、だって、だって……」
八谷はぎこちない笑みを、赤石に向ける。
「私、本当に赤石のことが好きで……」
「嘘つけよ」
赤石はゴミでも見るような目で八谷を見る。
「お前が好きなのは櫻井だろうが」
「違くて、赤石のことが好きになっていって……」
分かっている。
そんなことは、とっくの昔から分かっていた。八谷が自分に対して好意を寄せてきていることには、ずっと前から気付いていた。
それでも八谷は、赤石ではなく櫻井のそばにいた。それが許せなかった。侮辱されているように感じた。自分に対して好意を抱いておきながら、それでも尚、櫻井の下から離れない八谷が、嫌いだった。それでも櫻井を慕う八谷が、嫌いだった。
八谷は自分ではなく櫻井に対して好意を持っているのだ、とすら思った。思おうとした。
だが、それは違った。八谷はただ、自分から何らかのアクションを起こす勇気がないだけだった。
分かっていながらも、赤石は、自分より櫻井の下にいる八谷が気に入らなかった。その事実だけが、赤石をずっと悩ませていた。
赤石は八谷を責め立てる。
「お前、あの時も俺より櫻井が好きだって言ってただろうが」
文化祭。八谷は櫻井が好きだと、赤石にそう公言した。
「でも赤石も好きって……」
「櫻井が好き、の後に続く言葉に何の価値があるんだよ」
赤石は八谷に距離を詰めていく。
「お前はいままでもずっと! 櫻井が好きだったんだろうが! ずっとずっとずっと櫻井が好きだったんだろうが! 突然俺が好きだとか意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇよ!」
「だって、それは、だって……」
八谷は泣きそうになりながら反論する。
「お前はずっと俺が好きだったのか?」
「途中から、ずっと赤石が好きで、聡助といるたびに落ち込んで、ずっと悠人のことしか考えられなかったわ……」
「ならなんでてめぇはずっと櫻井の近くにいたんだよ」
「それは……」
それは、八谷の心が弱かったから。
赤石の下へ行く勇気がなかったから。櫻井の下にいる限り、八谷は赤石との関係を保つことが出来る。赤石の下へ行くことで、赤石に嫌われてしまうかもしれない、と怖がった。
現状を変えることが怖かった。櫻井の下から赤石の下へ行くことで赤石に拒否されてしまうかもしれない、ということが怖かった。
櫻井の下でなら、八谷は現状を変えることなく赤石と付き合っていくことが出来る。
自分が櫻井に好意があると言い赤石を利用した手前、どうすることも出来なかった。櫻井という理由がなくなってしまえば、自分は赤石と係わる権利がないのではないか、と考えた。
そんな八谷の弱さを、心の弱さを、赤石は糾弾する。八谷の心が弱いことを知って、故意に、八谷の弱さを指摘するように、責め立てる。
櫻井が水城と付き合い、八谷は心のバランスを失った。そんな心の傷の反動を隠すために、無理に明るく振る舞う八谷の心の弱さを、踏みにじる。
弱っている八谷の心を、無理矢理抉り取る。
櫻井が付き合ったことを知ってようやく行動することが出来た八谷を、赤石は許さなかった。
赤石は八谷の心が弱いことを利用して、八谷の心に負担をかけるような言葉遣いを、する。
八谷は涙目で赤石を見る。
「こ、怖くて……」
「何が怖いんだよ」
「赤石に嫌われるかもしれなくて」
「自分勝手なこと言うなよ」
赤石は八谷を見下す。
「お前は今までもずっと俺のそばにいてくれなかっただろうが! 今までもお前はずっと櫻井といただろうが! 今までずっと櫻井に付きっ切りだったくせに櫻井が付き合うって聞いてから突然俺にすり寄って来てんじゃんねぇよ!」
「そんなつもりじゃない!」
八谷は大声を、出す。
「そんなつもりじゃ……ない」
そして尻すぼみに、言う。
「俺が困ってる時も、悲しんでる時も、辛い時も、泣きたいときも、楽しい時も、不安にさいなまれた時も、重圧に押しつぶされそうになった時も、死ぬ気で頑張ってる時も、不幸なときも、誰かと感動を分かち合いたいときも、お前はずっと俺のそばにいなかったじゃねぇか……」
「…………」
八谷は赤石のそばにはいなかった。それだけが事実であり、それだけが赤石をずっと苦しめていた。
赤石は愛が欲しかった。
変わることのない。変えることができないほどの。
強固で重い、絶対に切れない、人と人との間で結び交わされる、愛が欲しかった。
自分のことだけを見て欲しかった。
櫻井の所になんて行って欲しくなかった。
甘い言葉をささやいてほしかった。
慰めて欲しかった。
優しい抱擁をして欲しかった。
一緒に歩いてほしかった。
手を握って欲しかった。
褒めて欲しかった。
笑って欲しかった。
ただ愛さえあれば、赤石はそれで良かった。
ただ八谷がそばにいてくれさえいれば、赤石はそれで良かった。
だが、八谷は赤石のそばには、いなかった。
赤石はずっと一人で生きてきた。
一人で生きて、生きて、生きて、生きて、誰にも頼ることなく、全ての悪意を引き受け、卑屈になり、そしてそれを享受するようになった。
自分の身を守るため、赤石は自分から不幸を背負うことにした。
八谷を守るためでもなく、赤石はただ不幸を負いたかった。
誰にも愛されない。誰にも好かれない。今までずっと一人で生きてきた赤石は、自分が一人になる理由が欲しかった。
自分が一人であることに誇りを持てるような理由が欲しかった。八谷のためでも誰のためでもなく、誰にも愛を向けられない自分自身を肯定するために、赤石は常に、他人の悪意を買っていった。
自分から望んで一人になっている。誰も頼らない。誰にも頼れない。誰も自分を愛さない。
自分が望んでしていることであり、自分が愛を得られない原因ではないんだと、常に自分に言い聞かせてきた。
苦しかった。
でもそれでいて、赤石には心地よかった。
どうせ自分を愛する人間がいないならこれでいいとすら、思った。
そしてその愛は、遂に八谷からも与えられることはなかった。
水中でもがくように、溺れ、苦しみ、必死に抵抗しながら生きてきた。
赤石は愛が欲しかった。
赤石は誰にも、愛されない。
八谷の愛も、赤石には届かなかった。
赤石の求める愛は、もっと複雑で、強固で、苦しくて、汚れた澱のような、決して拭えない楔のようなものだった。
「俺が誰かに手を握って欲しい時も、誰かに慰めて欲しい時も、誰かの助けが欲しい時も、お前がずっとそばにいたのは、櫻井だろ」
「違う……違う!」
八谷は目に涙を溜めながら、言う。
「お前は俺が死にそうになった時も、櫻井のそばにいるんだよ。俺が不幸になった時も、そんな俺を嗤って、櫻井に寄りかかってるんだろ。櫻井が恋人を作った途端、好きだったなんて言葉が信じられるか?」
「違う……違う……」
八谷は手で顔を覆う。
「なんで俺が辛い時に俺についてくれなかった奴の告白を受けねぇといけねぇんだよ。なんでずっと櫻井の下で楽しんでた奴の告白を受けねぇといけねぇんだよ。俺が辛くて悲しくて、苦しんでる時に櫻井と一緒にいちゃいちゃ遊んでたような奴が俺に告白する資格があると思うか?」
「……ないです」
八谷は下を向きながら、言う。
「なんでお前は俺の手を握っててくれなかったんだよ。なんでお前は俺が好きなのに俺のことを無下にしてたんだよ。おかしいだろうが。俺が好きなら俺の手を握って、ずっと離れないようにそばにいてくれよ……」
「……ごめんなさい」
赤石は拳を握り、震わせる。
「なんでお前は俺のことを見てくれてなかったんだよ」
「現状を変えるのが……怖かったのよ」
八谷は精一杯力を振り絞り、そう言った。
そしてそれは、赤石も同じだった。
八谷に対して、他人の愛を受け取ろうとしない赤石も、同じだった。
「なんで俺のそばにいてくれなかったんだよ、なんで俺と一緒にいてくれなかったんだよ、なんで俺のことを思ってくれなかったんだよ、なんで、なんで、なんで…………」
その自分の愚かしさを、誰の責任でもない自分の弱さを、怒りを、八谷の心の弱さを利用して、ぶつける。
お前が悪い。
お前のせいだ、と。
これならいっそ、誰にも愛されない方がよかった、と。
誰にも愛されない方が、苦しまなくてよかった、と。
赤石は拳を強く握る。
「お前が好きなのは櫻井だろ、なあ」
「…………」
「行けよ」
「…………え」
八谷は恐怖に満ちた目で赤石を見上げる。
「何……に」
「櫻井に告白しに行けよ」
「でも聡助はもう学校には……」
「職員室にいたよ。今から行けば間に合うだろ」
「でも、聡助はしおりんと付き合って……」
「お前が好きなのは櫻井だろ? な?」
赤石は泣きそうな目で、八谷に言う。
「違うか? あ?」
赤石は自身のスマホを開き、櫻井とのカオフを八谷に見せた。
「こ、これ……」
八谷は大切なものを扱うように、丁重に、赤石のスマホを手に取る。
『赤石、お前のことで話がある。
お前今日恭子と一緒に来て一人で帰ったらしいな。用件だけ伝える。お前は速攻恭子から手を引け』
櫻井が赤石に送ったメッセージ。赤石から八谷を守り、八谷を赤石から救い出そうとする長文の、メッセージ。
「何これ……」
八谷は赤石に送られた、櫻井からの長文の呪詛を見る。
「…………」
八谷は言葉を失った。
「お前が好きなのはそういう男だろ。お前が好きな櫻井さんはさぞかし良い男なんだろうなぁ!」
その場にくずおれた八谷を、赤石は詰める。
「こんなに愛されて幸せだなぁ、お前は」
「違う……私……違う……」
赤石に送られたメッセージを見た八谷は、口元を抑える。
「さっさと櫻井に告白しに行けよ、櫻井から愛されてる八谷さんよ」
「……」
「告白して櫻井になあなあな返事を返されてもお前は喜ぶんだろうなぁ! 聡助は私のことを思ってくれてるからこんな返事をしたんだ、聡助は私のことを好きなんだ、だとか道理を捻じ曲げて解釈するんだろうなぁ、お前は! 何を言われても自分に何の罪もないと思うんだろうなぁ、お前は!」
「…………」
「行けよ」
「で、でも……」
「行けよ!」
赤石が叫ぶ。
八谷はびく、と体を震わし、足を震わせながら、立ち上がった。
「そ、そうよね、私聡助が好きだったんだから聡助に告白するのが当然よね。ごめんね、赤石……ごめんね」
そうしてずるずると重い足取りで教室の扉を開け、八谷は職員室へと向かった。
数分が経ち、八谷が帰って来る。
重い足取りで、帰って来る。
「あ、あはは、私フラれちゃったわ」
赤石に笑いかける。
「私って本当に……馬鹿よね」
教室の扉を閉め、赤石の下へ歩く。
重い足を引きずりながら、行く。
「ずっとずっと聡助の所にいたのに聡助が付き合った瞬間、赤石に告白なんかして……」
そして赤石の足元でずるずるとくずおれる。
「聡助が赤石にひどいことしてるのに私何も気づかないでずっと聡助と一緒になんかいて……」
「…………」
「赤石、辛かったよね……赤石ずっと我慢してたんだよね……」
八谷の目頭が熱くなる。抑えきれない涙が、こぼれていく。
「ごめんね、赤石、ごめんね、私のせいで……」
八谷は嗚咽する。
その場にくずおれ、小さく丸まる。
「わた、私、赤石の気持ち全然気づかなくて……私、ずっと赤石に迷惑かけてた……」
「……」
赤石の足下で、泣きじゃくる。
「良かったじゃねぇか、櫻井様もお前のことが大事で大好きでよ」
「違う!」
金切り声を上げる。
「お前の大好きな櫻井様が俺にあんなもの送って来てる時、お前は櫻井のことが大好きで俺のことなんてなんとも思ってなかったわけだ」
「違う!」
思ってもいないことを、言う。
自分が傷つくために。
自分に言葉が刺さるように。
所詮自分は、いつだって、一人なのだ、と。
お前もその一人だ、と。
お前もどうせ俺のことを道具のように扱う人間の一人だろう、と。
八谷の行動を、指弾する。
ただ八谷を傷つけるためだけの、言葉。
「俺があいつに何をされても、お前は俺を悪者にして櫻井を正当化するわけだ」
「違うって!」
泣きながら八谷は言う。
「何が違うんだ? ずっと櫻井といちゃいちゃ楽しんでた癖によ」
「怖かったから……」
「おまけにあいつが付き合いだしてから突然俺に告白すると来た」
「ごめ、んなさい」
「俺は手前の自尊心を保つための道具じゃねぇぞ」
何度も何度も、八谷を責める。
何度も何度も何度も何度も、責める。
八谷の心をすり減らすために。
八谷の心が壊れるまで。
ただ自分の怒りをぶつけるためだけに。
ひどく。むなしく。弱く。自分の、怒りを。自分の、悲しさを。
「ごめ、ごめんなさい」
八谷は嗚咽しながら、謝る。そうすることしか、出来なかった。
「俺はお前が自分の欲望を満たすために使う便利な人間じゃねぇぞ」
「ごめんなさい……」
何度も八谷は嗚咽する。
「私……最低だ……」
その場にうずくまる。
「ごめんなさい……」
「…………」
八谷は地面に、額をこすりつける。
浅い呼吸を、繰り返しながら。
嗚咽する。
肩が震える。
大粒の涙を、流す。
「赤石、ごめ、ごめんなさい」
赤石の足にすがりながら、言う。
「ず、ずっと、あか、赤石に、めい、迷惑かけてきて、ごめんなさい」
深い呼吸を。
「赤石が、辛い、時も、ずっと、聡助の、所にいて、ごめ、んなさい」
「……」
「赤石は、ずっと、私に、よく、してくれたのに、私、赤石のこと、裏切って、ずっと聡助の所、いた」
ゲホ、と八谷が大きく咳をする。
はぁはぁと、浅い呼吸を繰り返しながら。
咳を繰り返しながら。
嗚咽し、絞り出すように。
「わた、私、そう、聡助が、あか、赤石に、そんな、こと、言ってるなんて、知らなく、て」
「知らなくても見てれば分かるだろ」
「そう、聡助が、そん、そんなに、赤石に、辛い、思いさせてるなんて、知らなくて」
「…………」
「あか、赤石、ずっと、ずっと、私の、ために、頑張って、くれた、のに、私、ずっと、赤石に、悲しい、思い、させて、た」
「……」
「ごめんな、さい、ごめ、んな、さい、わた、私、あか、いしに、こんな、思い、させて、ごめ、ん、なさい」
赤石はスマホを見る。
櫻井からのメッセージが送られた時、赤石は苦しかった。八谷を理由に指弾されているという状況が、辛かった。
「お前はどうせ櫻井の味方するんだろうな、と思ってたよ」
「しない…………しない……よ。もっと、早く、教えて……ほし、かった……」
うぅ……と八谷がうずくまる。
「どうせ教えたら俺に怒るんだろ」
「そんなこと……ない」
「お前、櫻井は優しい、俺と大違いだって、言ったよな」
「…………」
「俺に見習えって、言ったよな」
「…………ごめ、んな、さい」
覚えているのかいないのか。八谷はただ謝罪だけを繰り返す。
「あぁ、どうせ八谷は櫻井の味方をするんだろうな、と思ったよ」
「しな、い……」
「俺が櫻井にこんなことを言われても八谷は櫻井を正当化するんだろうな、と思ったよ」
「わたし、馬鹿、だ……」
「櫻井になじられて、お前も櫻井の味方をして、そう思うだけで、俺は辛かったよ。そう考えるだけで、俺は辛かったよ。なんで俺が櫻井から責められてもお前は櫻井の味方をするんだって、ずっと思ってたよ」
「ごめん、なさい……」
うぅ、と八谷が声を漏らす。
「なんで櫻井の味方ばっかするんだよ……」
「もう…………絶対……しません……」
小さく丸くなる。
ぷるぷると震えながら、小さく、小さく。
「本当に、ごめ、ごめんなさい」
八谷は赤石の足にしがみつきながら、言う。
「ごめ、んね、辛かった、よね。ずっと、我慢、してた、よね。私、なんかと、ずっと、一緒に、いて、くれてたのに、私、ずっと、赤石の気持ち、傷つけて、た。私、なんか、の、せいで、赤石、泣いて、た」
ゲホゲホと、大きな咳をする。咳をするたびに、八谷の小さな体が苦しそうに揺れる。
何度も言葉に詰まりながら、何度も苦しみながら、嗚咽して、言う。
「あか、赤石、ごめ、ごめん、なさい。だ、だから、私、私のこと、見捨て、見捨てないで、ください」
「……」
八谷が赤石の足にしがみつく。
「…………」
八谷の手が、赤石の足を、ぎゅっと掴む。
「……」
赤石は八谷の指をはがし、八谷から距離を取る。
「ああああああぁぁぁぁぁ!」
八谷は金切り声を上げる。
「ごめ、ごめんな、さい! ごめんな、さい!」
額を床に付けながら、何度も謝る。
「お前が櫻井と一緒にいる所を見た時、俺がどう思ってたか分かるか?」
「あ、あ、あっ……」
「お前は俺が好きなんだろ? 俺がどういう目でお前を見てたのか分からなかったのか?」
「ごめ、ごめ……ひっ……」
八谷は床を叩く。
「悲しかったなあ。ただただ、悲しかったよ」
「ごめんな、ごめんな、さい」
「櫻井の告白を聞いた途端俺に告白するって、俺がどう思っても仕方ないよな」
「だ、だって、わた、私……」
ゲホゲホと大きな咳をする。咳き込み、何度も体が震える。
過呼吸に近い呼吸法を繰り返しながら。
「侮辱してるのか、お前? 櫻井が駄目なら俺で良いや、とでも思ったのか?」
そんなことは、決して思っていない。
ただ八谷を傷つけるためだけの言葉。
ただ八谷に嫌われるためだけの言葉。
いわば、愛を自分から遠ざける、最低な、言葉。
決して許されるべきでない、言葉。
「私……ずっと、ずっと、何か、タイミングが来るの、待ってた、だけで、赤石の、こと、道具、なんて、なんて、絶対、絶対、思って、ない……から……」
「…………」
「うっ……うぁ……」
八谷が嗚咽する。
「お前が欲しいのは何なんだ? 自分の自尊心か? 簡単に恋人をゲットできる良い女の立場か? 道具の俺を利用してそんなに嬉しいか?」
「違う……違う!」
「お前が俺の立場だったらどう思ってたんだよ。自分の好きな相手がずっと違う男の所いてよ……」
「ごめんなさい……」
「文化祭で俺が困ってる時も」
「ごめんな、さい……」
「夏休みのプールでも」
「……」
「夏祭りでも、お前はずっと櫻井と一緒にいたよな」
「あ、ぅ…………」
事実。八谷は何も言うことが出来ない。
「俺が知ってるだけでそれだけだから、お前らはさぞかし一緒にいたんだろうな」
「いない……信じてよ……いない、ずっと一緒になんて……いなかったのに…………」
「楽しかっただろうなぁ、どうでもいい俺なんて放っておいて愛しの櫻井さんと遊べたんだからなぁ」
「信じて、よ! なんで、聞いて、くれない、の!」
八谷は腕をがりがりとかく。
がりがりと、強い力で、自身の腕を、かきむしる。
「俺が好きだっていうなら、ちょっとは俺のこと考えろよ」
「うっ……うぅ…………」
八谷は泣く。嗚咽しながら、泣く。
「じゃあな」
赤石は立ち上がり、教室の扉へと向かった。
「やだ……やだ!」
八谷は涙目で赤石を見上げる。
「赤石! 置いて、置いて、いかないで!」
「……」
赤石は無言で去る。
「赤石、おね、お願い! します!」
「…………」
「ごめ、ごめんなさい! 私、ずっと、赤石に、辛い思いさせて、ごめんなさい! 赤石のこと、傷つけて、ごめんなさい! 赤石を、裏切って、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
赤石は立ち止まる。遠くから、八谷を、見る。
「わた、しが、全部、悪かった、から! お願い、しま、す! 置いて、置いて、いかない、で! ごめんな、さい! ごめんな、さい! ごめ、んな、さい! 」
泣きじゃくりながら、赤石に手を伸ばす。
「辛い……」
八谷は体を抱きすくめる。
「私辛いよ…………」
ぎゅっと、抱きしめる。
「……俺の方が辛いよ」
「ごめ…………んな……さい」
赤石は遠くから、八谷を見ていた。
「わた、私が、ずっと、赤石のこと、傷つけて、ごめんなさい」
「………………」
「馬鹿な、女で、ごめんな、さい」
「…………」
「聡助が、赤石のこと、ずっと、傷つけてたのに、私、ずっと聡助の、所いて……」
「…………」
「ごめんな、さい」
「…………」
果たして自分がしたかったことは、こんなことだったのか。
八谷を焚きつけて、成算のない告白をさせて、八谷の心に傷をつける。
八谷の弱い心を知った上で、故意に、傷跡を抉る。
果たして自分がしたかった復讐は、こんなことだったのか。
八谷を守りたいんじゃなかったのか。
八谷を櫻井から引きはがしたかったんじゃないのか。
八谷が好きだったんじゃないのか。
八谷に幸せになってもらいたかったんじゃないのか。
赤石はどうすることも、出来なかった。
「ごめんなない、ごめんなさい、ごめんなさい…………」
赤石はただその場で立ちすくむ。
「辛い……辛いよ…………」
赤石はただ遠くから、八谷を見ていることしか、出来なかった。
ただその場で立ちすくむことしかできなかった。
赤石は八谷の心を、完全に、壊した。




