第228話 夜の海辺はお好きですか?
「ぷはぁっ!」
女湯からの脱出に成功した櫻井は、男湯の中から顔を出した。
「兄ちゃん、何やってんだい、こんなところで」
掃除に来ていた男が、櫻井に声をかける。
「男湯の時間はとっくに終わったはずなのに、おかしいなあ」
男は首をかしげていた。
夜。
就寝時間も近づく中、赤石は一人、海辺に散歩をしに来ていた。
ホテルのベランダから聞こえる波打ち際の音に関心を持った勢いで、外に出ていた。
「……」
ざくざくと、砂浜を歩く音だけが聞こえる。夜は好きだった。何者にも干渉されない、街が寝静まった閑静な夜。人がいることを自覚しながらも一人になれる気分がして、赤石はほのかに微笑んだ。ほんの少しの背徳感と特別感を胸に、自分が少しだけ大人になったような感慨にふける。
大人になるって、なんだろう。
砂浜を一歩ずつ歩く。
ざくざくと耳に心地よい。
途中、小さな丘に建つ四阿を見つけた。
ほんの気晴らしに、と赤石は中に入り、座る。
「……」
波打ち際の音は、ホテルで聞いていたよりもずっと大きい。それでいて耳に残るような不快感はなく、うとうとと眠気に襲われる。
壁にもたれ、弛緩している最中、
「がおーーー!」
「……」
机の下から、一人の女子学生が顔をのぞかせた。
上麦白波その人だった。
「夜に一人で出歩くなよ」
「食べちゃうぞ」
「よしてくれ。俺は無抵抗だ。頼む、見逃してくれ」
赤石は両手を上げる。
「本当、食べられる、みたい」
上麦はぷく、と頬を膨らませ、むくれる。後方に目をやると、草むらから高梨が出てきた。
「高梨一緒」
「二人でも危ないだろ」
「奇遇ね、赤石君」
高梨はふふ、と微笑むと赤石の対面に座った。
「夜風、気持ちいい」
「白波が一人で外に出ようとしてたから私がついてきたのよ」
見れば、他にも数人、帯同して夜の海辺を散歩している人影があった。
「なるほどな」
学生の修学旅行。夜の海の特別感は何も、赤石だけを魅了したわけではなかった。
上麦は赤石の斜向かいにちょこんと座り、持ってきた乳酸飲料を飲んだ。
「食べちゃうぞ」
そして乳酸飲料をぷは、と飲み干した後、改めて言う。
「高梨、助けてくれ」
「本当に食べるわけ、ない」
「白波ならやりかねないわね」
「しょっく」
上麦は目を細める。
「夜の外は綺麗ね」
「そうだな」
「肌に当たる風も、目に入るホテルのきらめきも、押し寄せる波の音も、全部気持ち良いわ」
「そうだな」
赤石もまた、自然に体を任せる。
「五感がフルで使われてる感じがするな」
高梨は腕をさすった。
半袖。少し寒そうだな、と赤石は高梨の格好を見る。
「何を見てるのよ赤石君、あなた」
「別に」
「相も変わらず気持ちが悪いわね。私の体がそんなに魅力的かしら」
「魅力的なのはそうだろうな」
「止めて頂戴。そんな気持ちの悪い下卑た視線で見られたら私も震えが止まらないわ」
高梨はさらに腕をさする。
「どうせ銭湯であなたも私たちの声を聴いてにやにや笑ってたんでしょう。下衆だわ。今すぐ止めなさい」
「笑ってねぇよ」
上麦は、はっ、と大きく口を開けて赤石を見た。
「赤石白波の声聴いた!?」
「水とジュースの値段が同じなのはどう考えてもおかしい、みたいなこと言ってたな」
「言ってない、でも、言ってそう」
白波は胸を撫で下ろす。
「大方高梨は冷たい目で周りを見てたんだろう。全部見えてたな」
「当たってる……」
上麦は目を見開き、高梨と赤石を交互に見た。
「赤石こっち見えてた?」
「つながる所あったぞ」
「白波、先生を呼んできてちょうだい。まさかこんなところで犯人に会うとは思ってなかったわ」
「急ぐ!」
「冗談が通じないやつだな」
赤石は小さく笑う。
「赤石も声聞こえてた?」
「まあ聞こえてはいた」
「あなたたち、お風呂場で大声を出しすぎなのよ」
高梨はため息を吐く。
「えっち」
「声ごときで」
「あなたは人間の思考を軽視しすぎよ」
世の中には恐ろしい人がたくさんいるのよ、と高梨は付け加える。
「そういえば上麦はなんで外に出たんだ?」
「ヤドカリ探してた」
「食う気か」
「愛でるの!」
上麦はどん、と机を叩く。
「怒るなよ。腹が減るぞ」
「減ってるの!」
そして再び机を叩く。
「減ってるのかよ」
赤石は懐から携行保存食を取り出した。
「これでいいならやる」
「なんで持ってる?」
「お前がお腹空くと思って常に忍ばせてんだよ」
「赤石良い奴! な!」
上麦は赤石の手から保存食をもぎ取った。
「気持ちが悪いわね」
「そんなわけないだろ。たまたまだよ」
上麦は美味しそうに頬張る。
「なんでよく食べるのに育たないんだろうな」
「どこ見た赤石!」
上麦はびし、と指をさす。
「強いて言うなら、未来かな」
「何を呆けたことをいってるのよ」
三人は小さく笑った。
「お風呂上がりだから中々気持ちが良いわね」
高梨は髪を手で梳く。
「そういえば高梨の体すご――」
高梨はすぐさま上麦の口を押えた。
「白波、女湯で知ったことは女の間でしか共有されない。そんな女の掟を忘れたのかしら」
「厳しい」
上麦は口をとがらせる。
「体鍛えてるんだろうな」
「ワードチョイスに悪意があるわよ、あなた」
高梨は服をパタパタと動かす。上麦は自身のお腹をさすった。
「白波、白波の体好き」
「そうか」
上麦はその場で一回転する。
くるくると回る上麦を、赤石は見る。
そしてしばらくして席に着いた。
「赤石、笑って」
上麦が赤石を見上げ、言う。
「お前はきらきら少女漫画のヒロインか」
「いいから、こうやって」
にぃ、と上麦は口角を上げる。
赤石はため息をつき、口角を上げた。
「嘲笑ね、それは」
「重畳」
「白波、赤石がすごい笑ってるところ見たことない、気する」
「お前は案外よく人のことを見てるな」
何も考えてないと思っていた上麦の言葉に、少し驚く。
「いっぱい笑わないと人生、楽しくない。に」
上麦は赤石の口角を上げた。
「止めろ」
赤石は口元を拭う。
「怒られた……」
上麦はしゅんとする。
「べたついてんだよ」
保存食を食べたそのままの手で、赤石は触られる。
「じゃあ拭く」
上麦は服で指を拭こうとした。
「いやいや、止めろよ。服は汚れが落ちにくいし目立つだろ」
「じゃあティッシュ」
「はい」
赤石は上麦にティッシュを差し出す。
「あなた何でも持ってるのね」
「日常生活に必要なものだけだ」
「絆創膏出しなさいよ、あかえもん」
「はい」
赤石は絆創膏を出した。
「何次元ポケットなのよ」
「三次元だよ」
「赤石、ふいた!」
上麦はティッシュを丸める。
「赤石、笑って。に」
上麦は自身の口角を両手で引っ張り上げる。
「に」
赤石は嘲笑する。
「笑顔」
上麦は赤石の口角を引っ張った。不器用な笑顔が、出来る。
「赤石顔面白い」
「滅茶苦茶な失礼だぞ」
「白波、赤石の笑った顔、見たい」
「可愛いやつだな、お前は」
赤石は目を細めた。自然口角も緩む。
「これがパパ活の現場ね」
「誰がだ」
「パパ負けると言った方が正しいかしら」
「パパでも負けてもない。いや、負けてはいるのか」
赤石は少し考えこむ。
「笑えないなら白波、笑わせる」
「どうぞ笑ってください、ってか」
「赤石悪意ある! 駄目!」
上麦は赤石を指さした。
「ら~らら~ら~らら~お前さん~、それがタヌキのやり方~か~い」
その後上麦は小学校の学芸会で演じたという歌を歌い始めた。
三人はしばらく、雑談に興じていた。




