第217話 花波裕奈はお好きですか? 8
「聡助様」
「裕奈」
入室した二人は、顔を見合わせた。
「私、聡助様のことが――」
「ふ、風呂入るか!」
花波の言葉が終わるより前に、櫻井はそう言った。
「え、お、お風呂?」
花波は素っ頓狂な顔をして小首をかしげた。
「そう、お風呂。裕奈も長旅で疲れてるだろ? 先に入ってもいいぞ?」
「お、お風呂……」
花波は顔を真っ赤に染め、両頬に手を当てる。
「そ、その前に荷物を下ろしませんこと? すこし重くありませんか?」
「あ、そうだ、あ、あはははは」
頭をかいた櫻井は手荷物を床に下した。
花波もまた、手荷物を置く。
「ダ、ダブルってベッドが一つしかないのです……か?」
花波は一つしか備え付けられていないベッドを横目に、恥ずかし気に訊いた。
「あ、ああ。一部屋にベッドが二つあるコースもあるみたいだけど……」
「そ、そうなのですね……」
「……」
「……」
気まずい沈黙が二人の間に流れる。
「や、やっぱり俺いいよ! 裕奈も男と二人で同じベッド入るなんて嫌だろ? 俺は床で寝るからさ、お前はベッドで寝てくれよ」
あはは、と笑うと櫻井はベッドからどいた。
「いやぁ、本当疲れたよな、今日の旅。まさか京都にも行けずにこんなところで立ち往生するなんて思ってもなかったよなぁ」
スーツケースから櫻井は飲み物を取り出した。
「あ、そうだ裕奈、ご飯どうする? 確か朝ご飯は出るけど夕ご飯は出ないんだったよな? 何だったらこれから外に――」
「聡助様も一緒のベッドで寝てもらっても構わないですわ!」
花波は櫻井の背中に胸を押し当てた。
「聡助様のおかげでここまでこれたのに、聡助様をベッドに入れないなんて選択肢、ありませんわ!」
「ゆ、裕奈」
櫻井はそっと振り向いた。
「晩飯、食いに行くか?」
「はい!」
櫻井と花波は外に食事に出かけた。
「……」
「……」
食事を終え、二人は部屋に戻った。
おかしな沈黙に、二人はベッドの端と端で遠慮気味に座っていた。
ぎしぎしと小さな音を出すベッドに、花波はすこし楽し気に微笑んだ。
「お、おかしいですよね、こんな、毎日お会いしてますのに」
「お、おう」
櫻井は花波に背を向けたまま、話す。
「お、お食事はご満足いただけましたか?」
「あ、当たり前だろ。美味かったよな?」
「はい!」
「……」
「……」
何の気もなく、その場を和ませるだけの、意味のない雑談が繰り返される。
「お……」
最初に口を開いたのは、花波だった。
「お風呂、入られますか?」
おずおずと、花波は櫻井に尋ねた。
「い、いや――」
「聡助様、入られますか?」
それは、自分と一緒に入るかという、提案だった。
そういう風にも聞こえるような言葉の伝え方を、花波は行った。
「い、いや、裕奈が先に入れよ。女の子だろ? 俺は全然後でも大丈夫だからさ」
「そ、そうですか……」
だが、櫻井からの返答は、期待していたものとは違った。
「で、では先に入らせていただきますね」
「お、おうよ」
花波は着替えを持ち、浴室へと足を入れた。
「すーーーー」
深く息を吸い込む音が、櫻井の耳にも届く。
「はぁ……」
そして息を吐いた。
「……」
ザーーーー、と水を流す音が櫻井の耳朶を打つ。
一挙手一投足、一つ一つの音の響きが、櫻井に緊張をもたらす。
「お、俺こんなに耳良かったか?」
まるで音の粒を一つ一つ拾い上げているかのような高性能な自分の耳に、櫻井は不意に呟いた。
「いかんいかん……」
パンパン、と櫻井は自身の頬を二度叩いた。
「きゃーーーーーーーーっ!」
「!?」
浴室から花波の叫び声がした。
「ゆ、裕奈!? 裕奈!?」
「…………」
花波からの返事は、返ってこない。
「裕奈!? 大丈夫か!? 返事してくれ! 裕奈!」
櫻井はおろおろとするが、先ほどまでの音がまるで嘘かのように、部屋中が森閑とする。
「ああああぁぁ、くそ!」
櫻井は自身のスーツケースからアイマスクを取り出し、かけた。
「ゆ、裕奈! 今行くから待ってろ!」
櫻井は自身で視界をふさいだまま、浴室を開けた。
「ゆ、裕奈、大丈夫か? 裕奈~」
中腰になり、何かを探すように櫻井はさまよい歩く。
手をふらふらと動かしながら、どこにいるかもわからない花波を探す。
「裕奈?」
櫻井は人の気配を掴んだ。
「うぉっ!?」
そして同時に、水で濡れた床に足を取られ、櫻井は前向きに転んだ。
「…………」
「…………」
そして転んだ拍子に、櫻井の唇は花波の唇へと重ねられていた。
「うぉっ!」
「…………え」
櫻井は咄嗟に花波から離れる。
そしてその衝撃に目が覚めたのか、花波は小さく声を出した。
「す、すまん裕奈! 大丈夫か!?」
櫻井が前に出した手は、何か柔らかいものを掴んだ。
「な、なんだこの感触、何か触ったことのない感触が――」
「あっ――」
何度か指を動かし、その五指で何を触ったのかを確かめる。
櫻井がアイマスクをずらすと、そこには一糸まとわぬ花波の姿があった。
そして櫻井は花波の胸を、掴んでいた。
「あ、ゆ、裕奈、大丈夫……か?」
ははは、とひきつった笑みを浮かべながら、櫻井は花波の身を案じた。
「きゃーーーーーーーーーーーーーっ!」
「す、すまんーーーーーー!」
そして再び花波の叫び声が部屋中に響き、驚いた櫻井はすぐさま浴室から出た。
「そ、聡助様!」
「す、すまん裕奈……」
湯浴みを終え、浴室から上がってきた花波はぷんぷんと怒りながら櫻井の前に立っていた。
「聡助様! どうして浴室に入ってこられたのですか!?」
「い、いや、裕奈の叫び声がしたからつい咄嗟に……」
ははは、と櫻井は笑う。
「あ、あれは壁にその……茶色い虫が張り付いてるように見えて、少し驚いて気を失っただけです!」
「す、すまん裕奈」
そんなこととは知らなかった、と櫻井は平謝りする。
「み、見たのですか……?」
「へ?」
「見たのですか! 私の! 体を!」
「み、見てない見てない見てない!」
櫻井は両手をぶんぶんと振り、否定する。
「で、でも裕奈が突然悲鳴あげて全然返事もしなくなるんだから、心配したんだよ……」
しょぼん、と櫻井は床に視線を落とした。
「そ、聡助様……」
「俺、裕奈に何かあったら耐えられないからさ……」
「……」
花波はバツの悪い顔をする。
「そ、そうですわよね。聡助様は私のために来て下さったのに、何を私は失礼なことを……」
「い、いや、俺もちょっと行動が軽率だった、すまん」
「…………」
二人は妙な沈黙を残す。
「唇……」
花波は自身の唇を触った。
「聡助様、キス……しましたよね?」
「……」
櫻井の額に玉のような汗が浮き出る。
「あれ……私のファーストキスだったのですよ……」
「……」
櫻井は何も言わない。
「お、俺も初めてだったよ」
「…………」
花波は唇を触ったまま、頬を赤らめた。
二人は頬を赤らめたまま、沈黙を貫いていた。




