第210話 花波裕奈はお好きですか? 1
出発時間になった。
「えーっと……お前ら」
櫻井と花波は、ついに来なかった。
神奈の焦りは赤石たちにも伝播し、バスの中はざわざわと、不安と心配の声でいっぱいになった。
「先生、俺ら出発できるんですか?」
「先生、櫻井君と花波さんはどこにいるんですか?」
「ヤバくないですか?」
ざわざわとバスの中がざわつきだす。
「静かにしてくれ。聡助は来ない。どうやら花波と乗っていた車が故障したらしい。あいつらは二人でこっちに来るらしい。とりあえず今後のスケジュールに遅れが出ないよう、私たちはもう出発するぞ」
「えーーー!」
「そうなんですか……」
「櫻井君どうしたんだろう?」
「またあいつ美少女と二人で……!」
「どうしよう……」
そんな学徒の不安とは裏腹に、バスは出発した。
「高梨、そこは先生の席だから赤石の方に移動してくれ」
「嫌よ。吐瀉物まみれになるじゃないですか」
「赤石……」
神奈が半眼で赤石を見る。
高梨はため息をつき、赤石の席の隣に移動した。
「仕方ないわね、今回は私が譲ってあげるわ。感謝なさい」
「言われてますよ、先生」
「私じゃねぇだろ」
神奈は席に着くと、スマホを手に取り、話し出した。
「良かったわね、赤石君。こんな美少女が隣に来てくれて」
「一番後ろの席行けよ」
「嫌よ、あんなところ」
一番後ろの席には、霧島が座っていた。
「あなたの隣で我慢してあげるわ」
「そうですか」
赤石は外に目をやった。
「それにしても、大変なことになってるみたいね」
忙しくスマホをいじる神奈を横目に、高梨は言う。
「そうだな」
「どうして櫻井君は来れなくなったのかしら」
「まあ大体の見当はつくけどな……」
早起きで眠たげな眼をこすりながら、赤石はあくびをした。
バスの出発まであと一時間。
「聡助様!」
公道を歩いていた櫻井に、声がかけられた。
「……ん、花波か」
櫻井は声のした方へと振り向く。花波はリムジンともつかない、黒塗りの高級車に乗っていた。
「嫌ですわ聡助様、そんな他人行儀な呼び方。裕奈とお呼びくださいませ」
「あ、そうだったな。悪ぃ悪ぃ、裕奈、どうしたんだ?」
「うふふふふ」
花波は頬を両手で挟み、くねくねと上体をよじらせる。
「聡助様、まだ駅は遠いですわ。よろしければ、私の車に乗っていただきたいのですが……」
「え、マジかよ。ありがとう裕奈、じゃあ乗るよ」
「ええ」
櫻井は乗車し、花波の隣に座った。
「もっと近づいてもらってもかまいませんくてよ?」
「あはははは、裕奈は面白いことを言うなぁ」
櫻井は大笑する。
「じい、車を走らせてちょうだい」
「御意に」
そういうと燕尾服を着た老執事は車を走らせた。
「聡助様とこんな場所で出会えるなんて、感激ですわ……!」
「いやぁ、ビックリしたよなあ」
「ところで聡助様」
花波が座席に両手をつき、艶美なポーズを取り、櫻井に上目遣いを仕掛ける。
「私のこと、思い出してくれましたか?」
小さく舌なめずりをしながら、花波は言った。
「いやぁ、全然思い出せねぇんだよなぁ、お前のこと」
「そうですか……」
花波はしゅんとする。
「ごめんな、裕奈。俺たち、もしかしてどっかで会ったのか……?」
「聡助様、幼少期にドーベルマンを連れていた女の子と遊んだことはありませんか?」
「ドーベルマン……」
櫻井は目をつむり、悩みだした。
「ドーベルマン、ドーベルマン……ドーベルマン……?」
頭をひねる。
「あ」
そして櫻井は、思い出した。
「ゆっちゃん! もしかしてゆっちゃんか!?」
「そ、そうでございますわ!」
感動した花波は櫻井の両手を握りしめた。
「よくぞ思い出してくださいましたわ、聡助様! ゆっちゃん……いえ、私、花波裕奈です!」
「え、ええええええええぇぇぇぇぇ!? マジか!?」
櫻井は大声で驚いた。
「いや、でも、ゆっちゃんあのころとは全然違って……」
「うふふふふふ」
花波は人差し指を唇につける。
「私もあのころから随分と努力したのですわ……」
花波は遠い目で外を見た。
「あの頃の私はとても太っていましたわ。肥満と言ってしまっても過言ではなかったのかもしれません」
「いやいや、あの頃も裕奈は可愛かったよ」
「……!」
花波は唇の端が緩くなる。
「昔からお金に恵まれて苦労することがなかった私は、男の子たちに邪険にされましたわ」
「……」
櫻井は花波の話を聞く。
「男の子は本当に粗暴で、己の汚い欲望から私に対して本当に失礼で、無礼で、最低なことをしてきましたわ。自分たちにお金がないからと、私に暴力をふるい、私のお人形まで持っていかれましたわ」
「あったなぁ……」
櫻井もまた、遠い目をする。
「それに、容姿のことでもひどく馬鹿にされましたわ。豚に真珠、豚に小判、だなんて、男の子たちにさんざ馬鹿にされましたわ。デブ、子豚、ブス、と本当にひどい言葉をかけられましたわ。でも、そこで現れたのが聡助様です!」
「……はは」
櫻井は頭をかく。
「聡助様は他の男どもとは違っていましたわ! 当時太っていた私に対しても平等で、他の乱暴な男の子たちからも私を守ってくれましたわ! 聡助様……聡助様だけですわ! 私のことをちゃんと、一人の女として見てくれたのは……!」
「よせよ……」
櫻井はぷい、と外を向いた。
「あの後、私は必死の努力しましたわ。トレーナーをつけて必死にスポーツをして、美しいプロポーションを保つため、今でもジムはかかしていませんわ。ですが暫くして、私は家の都合で引っ越しをすることになりましたわ……」
「裕奈……あの時は悲しかったな……」
「はい……」
花波は目に涙を浮かべる。
「引っ越し先で学校に行くまでの時間で、私は必死にダイエットしましたわ。私自身が美しくあれるよう、私自身が聡助様に釣り合える女になるよう、必死に必死に必死に努力しましたわ。すると、引っ越し先での男たちの対応が違っていましたわ」
「どうなってたんだ?」
花波は吐き気を催したかのような醜悪な表情をした。
「あいつらは……男どもは、私をほめちぎりましたの」
はぁ、と花波はため息を吐いた。
「引っ越し前では豚だとかブスだとかさんざ悪口を言われていたのに、私が痩せてから男どもは私に惚れるようになりましたわ。本当に、気持ちが悪い……」
「そうか……」
櫻井は俯いた。
「結局あの男どもは私のことを顔でしか見てないんですわ。聡助様のような長大で大きな心も、人の真意を察する目も持っていないんですわ。クズ、社会のゴミ。生きている価値すらないですわ、あいつらは」
「なんで誰も裕奈のことを見てやれなかったんだよ!」
櫻井は自罰的に、自分の足を叩いた。
「聡助様が気にすることではありません……」
花波はそっと櫻井の手を握る。
「私はそんな気持ちの悪い、人の容姿ばかりで判断するゴミどもに嫌気がさし、ようやく聡助様の下へと舞い戻ってくることが出来ました!」
「裕奈……」
櫻井はうるんだ瞳で花波を見る。
「裕奈、いっぱい頑張ったんだな……」
櫻井は花波の頭を撫でた。
「と、とんでもないですわ、聡助様……!」
花波は頭を撫でられながら、真っ赤な顔で喜んだ。




