第169話 高梨の別荘はお好きですか? 5
「ってか、赤石突き飛ばすとか本当ヒドいし……」
新井は目尻を拭い、赤石の手首を掴み、立ち上がった。
「お前は体幹が優れてるからこんなことで尻もちをつくとは思わなかった。悪かった。ムキになった」
「……別に。私もムキになったし。ごめんなさい」
赤石はと新井は互いに頭を下げた。
「それに、私別に体幹なんて優れてないし……。運動が出来るのだって、生まれてからずっとそうだったし、とりわけそういう一面がある訳でもないし」
新井はスマホを取り出し、軽く操作して赤石に見せた。
「これ……」
「……?」
赤石は新井のスマホをのぞき込んだ。
そこには何度か目にしたことがある新井のアカウントがあった。
「なんだよ」
「お前ツウィークとか知らなそう」
「やってるよ」
「ならこれも知ってるんじゃないの?」
新井は画面をスワイプし、あるアカウントを表示した。
「……なんだこれ」
そこには、妙な名前のアカウントがあった。
「お前学校の裏サイトとかって知ってる?」
「そのお前っていうの止めてもらっていいかな」
「赤石、学校の裏サイトって知ってる?」
「昔そういうのがあったってことは聞いたことがある」
学校裏サイト。その学校に属する生徒の陰口や、罵詈雑言その他様々な不適切な発言が書かれたサイト。
「このアカウント文字並び替えてみろし」
「工神祭……上開石高校裏サイト? アナグラムか」
赤石は目につくアカウントの文字を並び替えた。上開石高校、赤石が属する高校名だった。
「アナグラムは知らないけど。これ、うちらの高校の裏サイト」
「ツウィークでそんなことしてるのか?」
「私もつい最近知ったし。ここにあることないこと……書かれてるし」
新井は「ごめん、ちょっと」と言うと、赤石にスマホを渡し目を逸らした。
そこには、新井を含む様々な生徒の罵詈雑言が、書かれていた。
『ariは嫌われ者。男に依存するビッチ。周りの人間から嫌われていることを気付けていない』
『akisはクズ。底辺の人間が粋がって噛みついている』
『mzkは他人に良い顔をして陰で悪口を言いまくっている』
赤石の周りに関する罵詈雑言は、他知らない生徒や同級生、平田など多種様々にわたっていた。
「なんだ、これ……」
とりわけ、最近になって新井への悪罵が増えているように感じた。名前こそ書いていないものの、AKISが指し示すものは赤石以外いなかった。
『akisはariを見下している。陰でariの悪口を言って評判を下げていた。ariが嫌われるのはakisのせい。底辺の醜い争い』
昔の投稿の中に、こんなものがあった。
「よく見つけたな、こんなもの」
赤石は新井にスマホを返した。
「それ見て、私嫌われてたんだって思って、それもお前……赤石のせいだって思って……だから許せなくて……」
「勘弁してくれ」
崩壊が、始まっている。
数多ある罵詈雑言の中で、櫻井への悪罵だけは見つけることが出来なかった。まさか櫻井自身が投稿しているとは考えづらい。
「言っておくが俺はお前を悪罵するようなことを人前で言ったことはない。多分。他人の悪口を喧伝する趣味は俺にはない」
「そんなの……そんなの分かってるもん……」
新井はまた、瞳を潤ませる。
「でも、でも、もうぶつけるはけ口がなかったんだもん……」
新井はぽんぽんと赤石の肩を殴った。
悪意をぶつける先が分からなかった。
自分が嫌われていると言われて。そんな投稿を見て。そして理解した。
だが、その自分のイライラを、怒りを、不安を、ぶつける先がなかった。誰のせいでもない、自分の責任であることは、新井自身がよく分かっていた。
その投稿を見ることで、新井は自分の不始末を、怒りをぶつける先を得た。赤石に責任を負わせ自分の気持ちを吐き出すことで、新井は気持ちよくなろうとした。
全部お前のせいだ。
全部お前が悪い。
お前のせいで私は嫌われた。
お前のせいで私はこんな目に遭った。
お前さえいなければ。
お前さえいなければ。
そう、思わざるを得なかった。
そう思わないと自分の責任と向き合うことが出来なかった。暴力を振るい、必死に自分自身から目を逸らし、赤石に怒りをぶつけた結果が、これだった。
「俺はお前の怒りの落としどころにされたってわけか」
「……」
新井はこくり、と頷く。
「だって、だって……!」
弁明しようとするが、二の句が出て来ない。
「だって……」
小声で、呟いた。
「誰かに責任を押し付けることでしか自分を保てなかったんだな。誰かの責任にしないと、自分が嫌われている事実と向き合えなかったんだな」
「……」
「そうか」
「……」
新井は泣きたくなかった。
自分の責任で自分が嫌われていることを認めてしまえば、泣いてしまう。悲しみに暮れなければいけない。その悲しみを自分一人で受け止めなければいけない。
自分はなんて愚かなんだろう、と認めてしまえば、泣かざるを得なくなってしまう。
「うっ……」
涙か、こらえられなくなっていた。
「うわあああぁぁぁぁ!」
新井は、大声で泣いた。泣き、崩れた。
「ごめん、ごめんなさい。ごめんなさい、赤石。私……本当にバカだった。あああぁぁ……っ…………赤石のせいじゃないのに……ごめん、ごめんなさい……」
「そうか……」
赤石は相槌を打つことしか、出来なかった。
ガサガサと、草葉をかきわける音がした。
「お~い……」
現れたのは、櫻井だった。
「お……お前!」
櫻井はこの状況を見るやいなや、すぐさま新井に駆け寄った。地面に座り込み、上を向いて泣きじゃくる新井に、駆け寄った。
何故櫻井が。そんなことを訊く気にもならなかった。そしてその理由は霧島にあるのだろう、と予測できた。
「てめぇ何してやがる! 女の子泣かして何してんだよ! 何ボーッと突っ立ってんだよ! ふざけんなよ! 最低だなお前! 人間の屑が!」
櫻井は新井を抱きしめ、赤石を睨み、罵った。
「……ああ」
否定できなかった。
赤石は新井を抱きすくめることも、肩を貸すことも出来なかった。そうするだけの権利が自分にあるのかどうか、分からなかった。
「ち、違うの聡助……ごめんね。違うの」
「由紀、俺が来たからもう大丈夫だ。このクズが!」
櫻井は新井を抱きしめ、赤石から距離を取る。
ああ。
こういう行動が正解だったんだろうか。
こいつのように、新井を抱きしめ、涙を受け止め、新井の自己責任を肯定してやることが正解だったんだろうか。新井の悲しみを共に背負ってやるのが、正解だったんだろうか。
「女の子泣かして見下げてるようなクズに由紀と係わる資格なんてねぇ! 二度と由紀に近寄んなこの外道! さっさと消えろ、このクズが!」
「……ならお前が一生新井を幸せにしてやれよ」
「何こんな時に冗談言ってんだ! 由紀に謝れ! 謝るつもりがないなら消えろって言ってるだろ!」
「……」
その言葉を冗談と言って切り捨てるか。
赤石は無言で踵を返した。
自分は一体何をするべきだったのか。
自分は新井に言った何を与えることが出来たんだろうか。
新井の怒りを跳ね返し、傷つけ、傷つけた。
一体自分に何が出来たというのか。
赤石は新井の悲しみを共に背負うだけの覚悟がない。他人の過ちと不安と不幸とを共に背負って生きていく自信がない。
いつか自分は相手を不幸にしてまうんじゃないか。
いつか他人は自分に愛想をつかしてしまうんじゃないか。
そんな。
どうしようもない。
どうすることもできない昏い感情に襲われる。
仮初の愛情を注ぐだけの、そんな無責任な行為は、赤石には出来なかった。
「……どうしたらよかったんだよ」
赤石はどうすることもできない無力感に打ちひしがれながら、高梨の別荘へと戻った。




