第111話 文化祭はお好きですか? 5
赤石は八谷のいた階下まで戻り、見下ろした。
「……」
八谷は一歩も動かないまま、同じ姿勢のまま、手を差し出していた。
「八谷……」
どうして櫻井の下へと帰らないのか。
もう、止めてくれ。
赤石はゆっくりと、階段を下りる。一歩ずつ、ゆっくりと。
「……」
赤石は八谷の眼前まで、たどり着いた。
「八谷……」
「……」
八谷は、話さない。声を発することなく、ただただその場で同じ姿勢を保っている。
これは、逃げてしまった自分に対する嫌がらせなのか。結論を先延ばしにして、拒絶も融和も選ばなかった自分に対する抗議なのか。
「……」
赤石は八谷を前に、頭を下げた。深く、深く、頭を下げた。
「八谷、ごめん」
そう、言った。
「ごめん、俺が、悪かった」
頭を下げたまま、謝る。
『誰がお前を助けてやったと思ってんだよ』
赤石が八谷に発した、下劣な言葉。
誰がお前を助けてやったのか。助けてやったんだからお前はそれなりの恩を俺に返せ、と、そういう意味合いを含んでいた。
助けてやったから。
誰のおかげで。
それは、赤石が最も嫌悪する種類の感情。
そこに友情も人心もない、卑しく、愚かな言葉。およそ口にしてはいけないと思っていたはずの言葉。
自らが蔑む種類の言葉を、軽はずみに、赤石は言った。叫び、恫喝した。
最低だった。
どうしようもないクズは、自分だった。
愚かで醜く、下賤で矮小で、どうしようもない人間は八谷ではなく、自分のことだった。
融和をまず初めに拒んだのは、赤石の方だった。
「八谷、ごめん」
赤石は、謝り続けた。そうする以外に自分の愚かしさを証明し、認め、向き合う方法を知らなかった。
自らの愚かしさと戦う方法を、知らなかった。
「ごめん」
何度も。
「ごめん、八谷」
何度も謝り続け、
「八谷、ごめん……」
赤石は痛苦に歪んだ表情をした。
逃げるな。向き合え。
櫻井を免罪符に八谷と相対することを忘れるな。
櫻井を愛しているからと、八谷を避けるな。非難も忌避も、八谷にぶつけるものじゃないだろ。自身の無力がぶつけられないからと、避けるな。避け続けるな。
櫻井に対する嫌悪感を八谷にも持ち出すな。
向き合え。
お前は。
お前は、最低だよ。
「ごめん」
自問自答。自責の念。
自分で自分を責める。
悲しい人間だよ、お前は。
「ごめん」
「……」
澱が、深く、淀み、変色し、自分の手に負えないそれを処理するように――
「ごめん」
きっとそれは自分が見て来なかった一種の感情。逃げ続けたが故に溜まりこんでしまった心のしこり。
きっと、きっとそれでも――
「赤石!」
八谷が、顔を上げた。
赤石の手を取り、強く握った。
「これで、仲直りよ」
「……」
赤石もまた、顔を上げた。
正面には、晴れやかな顔をした八谷が、いた。
「八谷、ごめん……」
顔をそむける。視線を惑わせたまま、横を向く。
「赤石……」
八谷は赤石を見て、見据えて、
「私は、赤石と関係なくなんてないわよ」
「……」
関係……。
「お前に関係ないって言ったわよね、赤石。関係は、あるわよ。平田さんと赤石は関係ないかもしれないけど、私と赤石は関係あるわよ」
「……」
「これで、お互い様よ?」
「……」
にかっ、と八谷は笑った。
「……」
赤石は追想する。
『お前に何の関係があんだよ!』
赤石が発した八谷への暴言。
その一節を、思い出した。
そうだ、言った。そう、言った。
忘れていた。自分で八谷のことを扱き下ろしておきながら、忘れていた。
それを八谷は、今の今まで覚えていた。今の今まで八谷に深い傷を負わせていた。
「……」
ああ。
「……」
本当に自分は、愚かだったんだな。
「赤石、これからは私もあんたも関係あるわよ。損得勘定なんかで動かない、ちゃんとした友達よ。もう関係ないなんて言わないでよね。もう私を不必要に避けたりなんてしないでよね」
「…………そうだな」
八谷はぶんぶんと握った手を振る。
「じゃあ、絶対よ! 絶対だからね! これから次に会って避けたりしたら絶対許さないわよ!?」
「ああ」
「もう関係ないとか言うのは無しよ!?」
「ああ」
「もう損得勘定以外でもちゃんと動くのよ!?」
「ああ」
「ちゃんと私のこと見とくのよ!?」
「ああ」
「それと……」
八谷が言葉に詰まる。
「私の恋路は、自分で何とかするわ」
「…………」
私は、櫻井が好き。
何度も赤石の頭で反芻される。
「……そうだな」
そう、言った。
「おーーーーーい、恭子――、どこだーー!」
櫻井の声が、聞こえた。
「早く行けよ、もう時間ないぞ」
「……」
迷う。
八谷は逡巡し、何度も右往左往した後、
「じゃあ私早く行かないといけないから行くわよ!?」
「行って来いよ」
赤石に声をかけ、物陰から出ると、櫻井の声の聞こえる方へと向かった。階段を、上る。
「絶対よ!? 絶対これからちゃんと私の言葉忘れないでよ! 忘れたら承知しないわよ!?」
「分かったよ」
赤石は背を向けて小走りする八谷の背を、見送った。
「そうか……」
小声で、呟いた。
八谷の姿がどんどん小さくなる。
「……」
見送る。八谷を、見送る。揺らめく光に姿を映ろわせながら小走りをする八谷が、どんどんと遠ざかる。
「……」
赤石はその場で立ち止まり、長く、長く熟考していた。
何かと重なる所があるような陰った気持ちで、八谷を見送っていた。




