第106話 花送りはお好きですか? 8
「…………」
廊下を歩く。
カツカツと、誰もいない廊下に靴音が鳴り響く。
「……」
考える。
『花送り』にこめられた意味を。あの映画の話を、思い出す。
「……」
窓の外を見る。
何かが分かることは、ない。
「……」
『花送り』。
二人の男と常に一緒に遊んできた女が、実は一人の男を自分の都合のいいように利用していたという、胸が締め付けられるような、心臓を抉られるような、誰も幸せにならない悲劇譚。
「……」
八谷恭子は、考えていた。
八谷が出演する演劇は、ロミオとジュリエット。ロミオとジュリエットは多くの劇で公演され、一見してハッピーエンドかと思われがちではあるが、その本質は、根底にあるのは、やはり悲劇譚。
愛し合う二人の男女が命を落とすという、およそ救われない物語。
今回八谷が演じるロミオとジュリエットはコメディ仕立てとなっており、ネットで繋がったロミオとジュリエットが面白おかしくすれ違う物語で、悲劇の結末は辿らない。
ロミオとジュリエット、花送り、どちらも脚本としての白羽の矢が立ったのは赤石である。
演劇においても、映画においても、どちらも悲劇の結末を辿る。
もしかすると。
八谷は、思った。
もしかすると、赤石は悲劇の結末を望んでいるんじゃないのか。或いは、自身の悲劇を象徴するような脚本に、自然となってしまったんじゃないのか。
「……」
脚本から赤石の気持ちを推測することは出来ない。
赤石が何を考えているかは、分からない。本人にも分からない深層心理のような何かが働いているのかも、分からない。
ただ。
窓に吐息を漏らす。一瞬曇り、また元に戻る。
窓に額をつけ、自分を見てみる。視線を外すことがない自分が、自分を見ている。曇った自分が、見える。
あれは。
あれは、私だ。
こつ、と窓に頭をぶつけた。
あれは、私だ。
まごうことなき、私だ。
自分の恋路を手伝って欲しいからと赤石を巻き込み、その結果平田に嫌がらせを受けるようになった。そしてその結末すらも、全ての悪意すらも赤石に背負わせ、自分は平気な顔をしてのうのうと生きている。
そう、言われた。
あれは、私だ。
醜くて、汚くて、卑賎で、矮小で、人のことを利用して自分のことしか考えていない、どうしようもない、女。自分のことしか考えない、どうしようもない女。
もしかすると、赤石は自分にそのことを教えようとしたのかもしれない。
赤石にその気があるのかないのか、その当否は分からない。
でも。
でも、もし私の醜さを映画にして教えようとしたのなら。
それは。それは、赤石の復讐。シロツメクサの花言葉は、復讐。でも。でも、すると、赤石の心中にあるもう一つの感情は。
私のことを想って。
「…………………………」
何が正解なのか。復讐のための映画なのか、全く無関係なのか。
「……」
赤石のことを心配して迎えに行ったことがあった。
その時、赤石は八谷を貶し、扱き下ろし、軽蔑し、怒り狂った。
赤石のことを心配して行ったのにどうしてあそこまで言われなければいけなかったのか。赤石が間違っている。
次。
次に謝って来たのなら、赤石を許してあげよう。
八谷は、そう思った。
でも、本当にそうなのか。
本当に悪いのは赤石で、心配をしに行った自分は全く悪くないのか。非がないのか。
違う。
そうじゃない。
もしも利用することの結末があんな悲劇なら。利用する人間の愚かしさを、赤石が『花送り』のように捉えていたのなら。
赤石があそこまで怒るのは当然じゃないのか。
何をいい気になって赤石が次に謝るって来たら許してあげようなんて言っているのか。
自分は一体何様なのか。赤石を利用した分際で、どうしてそんなことが言えるのか。
腹が立つ。
己の愚かしさに、腹が立つ。
確かに、赤石との交渉では八谷も同等のものを差し出すことを誓った。
だが、赤石が是とするまでは何度も執拗に近づき、迫った。
あれは諦めの上でのことだったんじゃないか。何度も迫って来る自分のために、仕方なく受けてくれたんじゃないか。
赤石は本当はあんなことはしたくなかったんじゃないか。
「……いち」
一つ。
「……に」
二つ。
「……さん、し、ご、ろく……」
自分の罪を数える。
赤石を利用した。赤石は仕方なく諾とした。
「……」
赤石が次に謝って来たら許してやろう。
違う。
私が。
私が謝って、私が赤石に謝って、許してもらおう。
赤石と本当の意味で対等な、本当の意味で損得もない、そういう関係になりたい。
利用し、利用され合うような関係は、嫌だ。
愚かしい女には、なりたくない。
そう、思った。
誓った。
決めた。
想った。
明日、謝ろう。
八谷は心に、そう決めた。




