人魚の死体を引き上げろ
屋上に備え付けられたプールを先日掃除したばかりだった。
水泳部でも何でもないのに、たまたま生徒会の手が空いているからという理由で押し付けられた仕事を、生徒会でも何でもない幼馴染みを巻き込んで終わらせた記憶がある。
そんなプールには、真新しい水が張られ、その中にはその幼馴染みがいた。
いた、と言うよりは沈んでいる。
「おい、起きろ」
飛び込み台近くで沈んでいたので、わざわざ水の中に入ることなく、腕だけを突っ込んでその体を引っ張り出す。
ブレザーは丁寧に折り畳み、出入口のところに置いてあったが、それでも着ているのは制服だ。
ワイシャツにスカート、頭の天辺から爪先までベチャベチャに濡れている。
水から上がった途端、パチリと音を立てて目が開かれた。
長い睫毛に付いた水滴が弾けて消える。
「……お早う?」
「放課後だけどな」
ポタリ、濡れた黒髪から雫が落ちる。
コンクリートの床に小さな染みが出来るが、時期が時期なだけあって直ぐになくなるだろう。
水から引き上げられた幼馴染みは、はて、と首を傾けて、長い前髪を掻き上げた。
「お前、良く長い間沈んでられるな」
普通少しは浮くだろ、という意味も込めて言うが、右に傾いていた首が左に傾く。
筋金入りの金槌は「浮けないから沈むし、ボク、水の中で呼吸出来るから」と、真顔で吐いた。
逆に此処じゃ干乾びて死んじゃう、と。
冗談とも本気とも取れない態度に溜息が漏れる。
その癖、自分で言った癖に我関せず、と言いたげに、スカートの裾から水を絞った。
マイペースにも程がある、マイペースだ。
「取り敢えず、コレ」
持って来ていたペットボトルを突き出せば、スカートから手を離し、素直に受け取る。
手はベチャベチャに濡れているが。
「お水。いつ買ったの?微温い?」
剥き出しの素足をタオルで拭う、などもせずに、ぺしょりと音を立ててコンクリートの上に座る。
熱を持ったコンクリートも、ソイツの水気で生温くなっていることだろう。
お礼も言わずに、ペットボトルの蓋が開けられた。
白く細い喉が上下して、ゴクゴクと液体を流し込んでいく。
動いてる、生きてる、生き物だ。
地に足の着いていないような雰囲気――実際沈んでいた――を持つソイツが、確かに生を得ていると感じる瞬間だった。
「冷たい」
濡れた唇を舌で舐め、濡れた腕で拭う。
満足そうな吐息が響く。
「ところで、何で、オミくんがいるの?」
「……放課後で部活も委員会もない日に、靴が残ってたら来るだろ」
今更な質問に答えれば、気のない、あぁ、という返事が返ってくる。
縦に振られる首で、前髪が落ちた。
太陽の光は未だ強く、濡れた制服や髪を自然乾燥させるには十分なのだろう。
もう、水滴は落ちて来ない。
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
半分ほどに減った、ペットボトルが突き出された。
受け取れば、次には手が差し出される。
本人は座ったまま、俺を見上げた。
長い睫毛にはまだ、水滴が残って、光を浴びてキラキラと光っている。
溜息と共に、差し出された手を取った。
冷たい手だと思う。
水の中に沈んでいたので、当然と言えば当然だが、時期を考えてもう少し熱を持っても良い。
濡れた、手の平に収まる手を引けば「よっ、と」間の抜けた声と共に、フラつきながら立ち上がる。
コンクリートの上に、足跡が、一つ、二つ。
「お前、着替えて帰れよ」
「乾くのに?」
「……透けてる」
手を離す。
自分の服を見下ろしたソイツは、あらまあ、とやはり気のない相槌を打つ。
女、としての自覚がないのか。
それとも、幼馴染み、だから意識しないのか。
どちらも正解で、どちらも不正解だろう。
ペタペタと順調に足跡を増やし、置いてあったブレザーを持ち上げたソイツ。
そのポケットからタオルハンカチが出て来て、足の裏を拭ってから踵を踏むように靴を履く。
スリッパの要領だ。
水から上がった時、限定の履き方。
「ジャージで帰るとかダサいよね」
「だったら制服で沈むな」
屋上と更衣室を繋ぐ扉を開ける。
更衣室を横切って、更に扉を開ければ踊り場だ。
危うい足取りで階段を降りて行くソイツは、しっかりと手摺りを握る。
「でも、ジャージで水中睡眠はダサい」
何だ、水中睡眠って。
考え込むように唸るソイツが、自分の教室がある階を通り過ぎようとするので首根っこを引っ掴み、止めてやる。
くん、と後方に体を傾けたソイツ。
瞬きで、睫毛に絡まった最後の水滴が、光と共に弾けて消えた。
「制服のスカート、濃紺だし人魚みたいじゃない?」
首根っこを引っ掴まれたまま言う台詞ではない。
ねぇ?と問われても眉を寄せ、答えずにいた。
実際、そう思ったのかと問われればイエスと言いたいが、どうしたってソイツは人間で、声は出るし、二本足で立って、歩く。
日焼けをしたことがありません、と主張するような足を見下ろす。
傷も、ホクロもない。
「まぁ、泡になって消えないしな。人間だろ」
首を俺の方に傾けて瞬きをするソイツ。
どれだけ瞬きをしても、水や光が弾けて消えることはなかった。