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愛玩猫

作者: まったりorz

夏ホラー2008百物語編、参加作です。

「夏ホラー2008」「百物語編」で検索すると他の作家さんの作品を読むことが出来ます。

――あんたのナカって、太郎の肉球みだいだよな。……何それ、褒めてんの? 貶してんの?

 そんな色気なんて微塵もない睦言を交わしたのは、叔父と体の関係を持つようになって一年が経った頃だった。その関係に至るきっかけになった一匹の捨て猫、それは一年の間にまるまる太って、いつの間にか「太郎」なんて呼び名を与えられて、立派な叔父の飼い猫になっていた。



【愛玩猫】



 もともと私は、恋愛に対して、というよりもセックスに関しては本当にだらしの無い方だという自覚はあった。それは大学に入って実家を出ると、抑制するものが無くなった分酷くなった。アルコールで正体を失くし、たいして好みでもない男の腕に収まっている。そんなベタな荒れ方に何の疑問も抱かない程。多分、私にとって、セックスは恋愛の延長にあるものじゃなくて、その場しのぎの何かの手段だったのだ。それが一体何のための手段だったのか、数だけこなしてきたセックスを思い返してみたって見当もつかない。ほとんどそれは、泥酔して記憶は曖昧だから、理由やきっかけは私の中からすっかり抜け落ちてしまっているのだ。案外、その時のノリだけでこなしてきただけなのかもしれないけど。

 でも、叔父とそうなった時の事だけは、はっきり覚えている。私は酔っていなかったし、だからセックスを手段として使った理由だって、ちゃんと解っている。

 二十歳の時だ。夢なんて甘ったるいものは性に合わなくなっていて、叔父と夢を共有することに嫌気がさしていた。だから、共有するものは「罪」の方がいいと思った。その身勝手な私の提案に、呆れるほどあっさりと叔父が乗ってきて、ずるずると今もその関係が続いている。



 叔父が親族中の厄介者なのは、私の両親の愚痴と態度で薄々感づいてはいた。三十歳で突然小説家になると言い出して仕事を辞めた叔父は、密かに良い女性を紹介して身を固めさせようと画策していた私の両親を一番に敵にまわした。私の母は実の弟の無謀な思いつきにたじろいで「小説なんて、働きながらでも書けるじゃないの」と窘め、父は「馬鹿な夢は捨てて新しい仕事を探せ」と激昂した。二人の意見を叔父は聞かなかった。私の家に寄り付かなくなって、仕事もせずに祖母の家に篭って小説を書き続けた。盆や正月に祖母の家に行くと、私の両親は叔父を酷く責め立てるか、まるで居ないものみたい無視するかのどちらかだった。何かの用事で祖母の家に泊まる時以外、叔父と私の両親が交流する事はなくなっていた。以前まで何かと遊んでもらっていた私も、気軽に叔父に甘えられなくなっていた。

 それでも、私の家と疎遠になっても、私には毎月一度、大きな封筒に入った叔父からの便りが届いた。中身は叔父の書いた小説だ。当時、まだ十歳になったばかりだった私は夢もやりたい事も漠然としたままで、やりたい事を見つけ、その望みのために安定した生活を(なげう)つ覚悟を決めた叔父を純粋にすごい人だと思っていたし、叔父も多分、自分に味方する人間が居て嬉しかったのだと思う。

「まだ途中だけど」。その言葉と共に同封された彼の小説は、子供だった私にはよく分からないものだったけれど、私は彼の夢を共有しているような昂揚した気分で、原稿用紙のコピーを綺麗な宝石を見る時みたいにぼうっと眺める日が続いた。


 それも私の両親は気に入らなかったらしい。

「そんなにだらだらしてると、直人みたいになるわよ」

 これは私を叱る時の母親の口癖。(直人)は叔父の名前だ。母にとって叔父は駄目な人間の典型的な例えらしかった。

「あいつは自分の事しか考えてない。どうせ行き詰ったらこの家に頼ってくるつもりなんだ」

 これは父の口癖。だから両親は、私が叔父と手紙を交わすのが嫌なのだ。どうせ助ける気なんてこれっぽっちもない癖に。それなのに当然のように叔父の生き方を否定して口を挟む。叱られるついでにいつもの口癖を聞かされる私は、その度に苦々しい思いに襲われた。自分自身に向けられる不満なら、対処の仕様もあるけれど、叔父に対する不満まで一緒に向けられても私にはどうしようもない。

 ……多分、それも一つの原因なのかもしれない。

 私を叱る度に出てくるその名前に、嫌悪というよりも、もっと別の感情が私の中に根付いたのだ。自分ではどうする事も出来ないような、はっきりと自己主張出来ない気弱さや優等生を演じきれない卑屈な部分、粘り強さと無縁な優柔不断な性格、そういう私の中にある負の性質を親に注意される度に、親がその私の欠点を叔父の人格と重ね合わせて見るように、私自身も自分と叔父を近いもののように感じていたのだ。それは不器用ながらに自分を守ろうとして見つけた解決方法だった。


 子供だった私が少しずつ大人に近付いていく過程の中で、両親の存在は苦痛に近いものになった。傍から見れば、反抗期の一言で済む程度にしか表面には出なかったけれど、その反抗期を抜け出すためにぐちゃぐちゃになった心の中を片付けなければいけなかったのだ。両親が自分に対して過干渉だとか、口煩いとかよりも、二人の性格自体が我慢ならなくなっていた。

 父は表向きは勤労で子煩悩、何の問題も無いようで、それが一番問題だった。自分の定めた範囲でしか物事が見られない典型的な頑固者だ。自分が正しいと思う事が絶対で、融通は聞かない。だから少しでも私が気に入らない事をすると、注意するというよりも人格否定に走るのだ。母は、父の癇癪の一番の被害者だ。でも、私は母親の性格も嫌だった。掃除のやり方や食事の味付け、気に入らない所を目敏く見つけて父が理不尽な怒りを爆発させても、母はそれに何の疑問も抱かずに受け入れる。罵られても反論せず、自分が悪いのだと無批判に信じ込んでしまう母の性格が、父の何でも思い通りにならないと気が済まない性格を作り上げてしまったんじゃないかと思う。

 私は、そのどちらにもなりたくなかった。高校に入った頃から、両親を密かに軽蔑する気持ちがゆっくりと芽生えていた。

 

 それがはっきりとした形になったのは、二十歳になったばかりの頃。母方の祖母が病気で亡くなった時だ。祖母は叔父の数少ない味方の一人だった。その祖母の死を本当に悲しんでいたのは、叔父だけだと思う。祖母の亡骸の傍に叔父は一晩中付き添っていた。私は別室で両親と集まった親族が祖母の事ではなく、叔父の事を話し合っているのを聞いた。遺産相続の話が主だった。祖母は遺言で、遺産は全て叔父に譲ると言っていたらしい。しかしそれは果たされなかった。叔父に下手にお金を与えると、いよいよ働かなくなる。今まで祖母が甘やかしていたから、叔父は仕事も見つけずにだらだらと過ごしていたのだ。祖母の死は良い機会だ。これを機に、心を入れ替えさせて、職を見つけさせよう。甘やかしても仕方がない。厳しくする事が大事だ。皆は口々にそう言い合って、結局遺された遺産は散り散りに配当されて、叔父には今まで彼が暮らしていた古い家と土地だけが与えられる事になった。年金暮らしだった祖母が、老後の贅沢を捨てて叔父のために遺したであろう貯金が、一体何処へ流れていったのかは分からない。でも、叔父は何の反論もしなかった。ただ、仕事は探さずに小説を書き続ける事を辞めなかった。

 私は、両親にたいする「軽蔑」の感じが霧のような曖昧なものから、硬い小さな石のようなものになって、胸の奥に沈みこんでゆく重さを感じたと同時に、叔父に対する気持ちも変わってしまっている事に気付いた。幼い頃に抱いていたはずの「憧れ」や「尊敬」の気持ちは、いつの間にか消えてしまっていた。代わりに、いじらしいような柔らかい同情の気持ちが湧き上がっていたのだ。

 

 私は判官びいきの傾向があった。自分の貞操観念の無さを棚に上げて考えると、やっぱり、一晩だけ何かのはずみで共に過ごす羽目になった男達は、どこか情けないのだ。合コンでも何でも、物怖じして上手く喋れない男や、空回りに気付かずに虚しい道化を演じて続ける男を、無意識のうちに選んでいた気がする。でもそれは私に女らしい優しさや母性的なものが備わっていたからじゃない。一晩だけ過ごした男が、殆ど酒で記憶もない状態の時の私に見た何かを、酔いの醒めた私に当然のように求めてくると、私は妙に冷酷な気持ちになった。縋られれば縋られる程、相手を傷つけるような言葉を吐き出すのも平気になる。

「俺、何かした? 気にいらない事あった?」

 みんな決まって同じ事を言った。私がそういう種類の男としか寝なかったのかもしれない。お決まりの台詞を聞くたびに、私の心変わりを私のせいじゃなく自分の過失だと思いこむ気弱な男の言葉に、冷酷な私の性格に気付かされた。でも、本当に自分の「冷酷」な部分をはっきりと自覚したのは、叔父と再会した時だ。


 祖母が亡くなってから半年経った頃にも、相変わらず叔父から定期的に小説が届いていた。でも大学に入学してから私は、一度も叔父の小説に目を通していなかった。原稿用紙のコピーの束に添えられた「まだ続きだけど」。その言葉を見ると読む気が失せてしまう。完結したら纏めて読もう、大学の国文科に入って日々の課題に追われるうちに、課題以外の小説を読む余裕は無くなっていた。それ以外を実りのないセックスに費やしていたのだから尚更だ。でも、叔父に対して他の男に対してしたような冷酷な気分には、なりきれていなかった。

 ……だから私は太郎を拾ったのだ。


 大学帰りに、夕立に出鼻をくじかれた私は、とりあえず雨宿り出来る場所を探した。その途中、濡れてしぼんだ薄汚れた子猫を見つけた。私はふと叔父にこの猫を飼ってもらおうと思いついた。猫でも飼えば、あの毎月送られてくる大量の原稿、それを読まなきゃいけないという私のノルマも減るかもしれない。


「飼えないよ」

「じゃあ餌をあげるだけでいいよ。野良でも猫はやっていけるんだから」

 電車を乗り継いで叔父の家に着いた時には、私も猫も濡れ鼠になってしまっていた。突然やってきた私と猫に、叔父は困った顔で笑ったけれど、私にバスタオルを渡して、自分は壊れ物でも扱うように子猫を拭いてやっていた。数ヶ月ぶりに入った叔父の家の中は薄暗い。祖母が他界してから、叔父はこの家に一人で住んでいる。傷んだ部屋、痩せて青白い薄暗く沈んだ叔父の姿、そして黄ばんだ原稿用紙。私は何だか夢の果てを目の当たりにした気持ちになる。いつの間にか、叔父が小説家として認められる日が来るとは信じなくなっていた。でも今、それを絶対的な現実として、私は確信してしまった気がする。

 いつ完成するのか分からない。少しずつ、少しずつ、几帳面に重ねられた原稿は厚みを増してゆく。叔父が本当に「小説家」というものになりたいのかさえ分からない。

 雨粒が窓をしきりに叩く。窓の外は薄暗い。帰ろうか、それとも泊まろうか、薄暗い窓の外、薄暗い部屋の中、どうしようか考えていたのに何故か頭に浮かんだ別の事。……叔父が毎日積み重ねている言葉の羅列の並ぶ紙。これは彼の遺書なんじゃないだろうか。その時、私の中に雨樋を落ちる雫のようにぽとりと何かが滲んだ。滲んでふやけたそこから何か、今までの私じゃない何かがゆっくりと顔を出す。

「直人兄の小説ってさ、駄目だと思う」

 これは本当。私はあえて、久しぶりに言葉を交わす叔父を子供の頃のように親しみを込めて(直人兄)と呼んだ。叔父は子猫を拭いていた手を止めてゆっくり私の方へ顔を上げる。

「私は直人兄の事、知ってるから直人兄の小説が何を言ってるのか解るし、読んでて面白いと思えるけどね」

 これは嘘。

「でも、他人が読んでも駄目。絶対つまんないよ。だって他人は、何の知名度もない四十過ぎの男になんて興味持たないよ。興味がないものを知ろうなんて思わないでしょ? 直人兄の小説は知ろうと思わないと分からない。分からないものなんて退屈で誰も読まないよ。だから、そんな小説ばかり書いてても、小説家になるなんて無理だよ」

 私は今まで一度も叔父の小説を面白いなんて思った事はない。だからといって叔父の書くものが堅苦しくて難解で高尚な小説っていうわけじゃない。叔父の紡ぐ言葉は簡単すぎるくらい、単純で凡庸、でも何故か何も伝わってこないのだ。単なる小説としても。叔父の書いた小説としても。話の筋を目で追うのも億劫なくらいに。目で追う言葉どれをとっても、惹かれるものはなくて、知っている言葉で書かれているはずなのに、知らない国の言語を漠然と眺めているような気分にさせられる。……本当は薄々感づいていたのだ。叔父の小説に目を向けなくなったのは、国文科で色んな小説を読んで勉強していくうちに、彼の書く小説がどうしようもないものだって、小説家として世に立つレベルじゃないって思ってしまったから。だからもう夢は共有出来ない。

 叔父は何も言わなかった。ただ、私の両親に叱られて詰られた時みたいに決まり悪そうに微笑んだ。 

 私は何だかとてつもない事をしでかした気になった。これじゃあ、まるで叔父を否定するためだけに、わざわざ此処に来たみたいだ。違う、本当はそんな事のために此処に来たんじゃない。

 でも本当は、嘘と真実をない交ぜにした身勝手な言葉を吐き出しながら、私の心は楽になっていた。今まで自分自身を雁字搦めにしていたよく分からない何かを適当な言葉で吐き出して、肩の荷がおりていくような気持ちを感じていた。

「……もう、小説を書くのは止めた方がいいって事かな」

 しばらくしてぽつりと叔父は呟いた。子猫の喉を撫でながら、私の顔を見る事もなく静かにそう言った。今さら夢を諦めたところで一体何が出来るんだろう、そんな自問自答が声色に滲んでいた。夢を諦めるのにもきっと、タイミングがあるのだ。現実と上手く折り合いをつけて、現実へと馴染んでいくタイミング、叔父は既にそのタイミングを逃してしまっていた。その事実だけを叔父に改めて分からせたからといって、それが何になるんだろう。叔父に小説を書く事を止めさせれば、叔父が周りに厄介者扱いされなくなるのかといったら、決してそうじゃない。私の言った事は結局、父や母のした事と変わらない。叔父を本当に助ける気もない癖に、いかにも叔父のために言っている風な偽善を気取って、叔父の小説を読まされる面倒を退けただけだ。


「じゃあ、私が卒業するまででいいから、その子の面倒見て。大学卒業したらペット可のマンションに引っ越すから」

 私は叔父の問いかけには答えなかった。それだけ言って、帰るつもりだった。

 叔父が猫を飼おうが飼うまいが、もう私に小説を送ってくる事はないだろう。それでもあえて猫を押し付けたのは、叔父との繋がりがこれっきりになってしまいそうで嫌だったからだ。

「……それなら、うん、世話するよ」

 叔父はしばらく考えた後、ゆっくりと顔を上げて渋々といった風に了解した。喉を撫でていた叔父の手を猫が小さな舌で舐める。叔父は私から視線を猫に戻して嬉しそうに目を細めた。

 急に私は苛立ちに似た不思議な感情に襲われた。今まで叔父に対して感じていたものとも、遊んだ男達に対して感じた冷酷さとも違う、もっと突発的な激しい感情。一匹の猫を共有したところで、何の解決にもならないと気付いてしまった焦りなのかもしれない。叔父が私に向けた視線は、散々叱られた後に私の父や母に向けていたものと同じだった。もう今まで私と叔父の間にあった「繋がり」は全く無かった。


「……ついでに、もう一つ面倒みてもらいたいものがあるんだけど」

「え?」

 猫を撫でる叔父の手を掴んでその指を口に含みながら、私は縋るというよりは、報復の気持ちに駆り立てられたような、挑むような目で、驚いた顔をした叔父を見ていたと思う。叔父は拒まなかった。微かな抵抗くらいはあったのかもしれない。けれど呆気なく私の勢いに押し流されて、共犯者になった。

「これをネタに小説書いてみたら?」

 シャワーを浴びた後、私は煙草に火を吐けながら自虐的に言ってみた。

「小説、書き続けた方が良いって事?」

 叔父は畳に体を投げ出したまま、問い返してきた。私は可笑しくなって笑った。叔父にはやっぱり小説は無理だ。血の繋がった姪との密通を苦悩煩悶し、いかにも高尚たらしめようとした昔の文豪の小説を思い出して、そう思ったのだ。少なくとも目の前の叔父は、深刻ぶって悩んでいる風ではない。世間というものから長く遠ざかっているからか、世間体とか人道とかの観念はとっくに失くしてしまっているのかもしれない。でも、その方が私にとっても都合がいい。



 その日以来、叔父から小説が送られてくる事はない。その代わりに、私は月に一度か二度、叔父の家へ行く。はじめのうちは猫と遊ぶためなんて口実をつけていたけど、結局私が遊ぶのは猫ではなくて叔父の方だった。三回目の訪問で、叔父が猫の事を「太郎」と呼ぶのを聞くまで、私は自分が拾ってきた猫の名前すら知らないでいたのだから。太郎はいつも原稿用紙に向かう叔父の膝の上で眠っている。私は太郎の背中を撫でて、それから叔父の体に触る。大抵そんな事の繰り返しだ。

 何度体を重ねても、恋愛という重荷を背負わなくていいのが楽だった。嫌気がさせば、すぐに解消出来る関係、そこに真っ当な前提があるからこそ、私は気楽に叔父の家を訪ねる事が出来たのだ。薄暗い湿っぽい部屋の中で、痩せて浮き出た叔父の肋骨に指を這わせる時ほど、いじらしいような優しいような気持ちになった。そういう時は、叔父の体は、叔父ではなくて、私自身のように感じられた。子供の頃から両親に口煩く痛めつけられた部分、欠点とされた私の弱い部分、今では隠すのも誤魔化すのも上手くなったけど、だからといって私の中から無くなったわけではない。それと同じものを叔父が持っている事も、叔父が私と同じように私の両親に罵られてきた事も知っている。だから私にとって、セックスの時の叔父の存在は自分自身になった。手探りで自分の傷と心をかばい慰めているような、いたわっているような柔らかい気持ちになれた。


「あんたのナカって、太郎の肉球みたいだよな」

「……何それ、褒めてんの? 貶してんの?」

「なんか、ざらざらしてやわらかい、太郎の肉球もこんなかんじ」

「直人兄、デリカシーなさすぎ。ていうか肉球で抜いたことあんの?」

「まさか、肉球は濡れないから、こんな事出来ないよ」

 私が叔父の家に通い出して、一年経った頃だ。特にお互いに新しい感情が芽生えるわけでもなく、最中でも色気のない話ばかりしている。大抵叔父が口にするのは、太郎の事ばかりだ。ずっと家に引き篭もって小説ばかり書いていて、話し相手も飼い猫一匹だけ、話題が太郎の事ばかりになるのも当然といえば当然だ。そもそも私と叔父の間に、共通の話題なんて、猫の事くらいしかないのだ。


「忙しいの?」

 二ヶ月ぶりに訪ねてきた私に、叔父は言った。

「まぁね、卒論とか色々」

 叔父とは一年過ぎても相変わらずのまま、私は大学四年になっていた。夏休みはあってないようなもので、卒論と乗り遅れた就職活動に追われる日々だ。

「そっか、もうすぐ卒業か」

 叔父は遠い目をして、膝の上で眠る太郎の頭を撫でている。私は叔父の隣に座って、いつものように太郎の背中を撫でた。

「暑くないの? その服」

「暑いよ」

「じゃあ脱げば」

「脱ぐ、皺になるし」

 叔父の家に寄ったのは、就職活動の帰りで、私は真夏に暑苦しいリクルートスーツを着込んでいたのだ。面接で愛想笑いを浮かべながら、自分とはかけ離れた良い学生を演じる事に辟易して、いい加減疲れ切っていた。めまぐるしい現実の波に、飲み込まれて、殆ど我を失いかけているのだ。汗で纏わりついてくるストッキングを脱いでいると、叔父が麦茶を淹れたグラスに氷を落としながら笑った。

「そういう格好を見ると、あんたも大人になったんだなって感じがする」

 太郎が足に顔を擦り付けてきて、脱ぐのを邪魔した。

 叔父の家の中は、現実だとか社会だとか、そういうものから全く無関係の空気に満ちていた。薄暗くて、陰鬱な古臭い畳の部屋に、裸で体を投げ出している時が、一番落ち着く。社会から見捨てられた叔父の暮らす場所だから、社会から外れた行為をするのも案外平気なものだ。

「太郎、どうする?」

 情事の後、叔父に擦り寄ってきた太郎を見て、私は意地悪く言ってみた。

「え? どうするって?」

「だって最初の約束じゃ、卒業したら私が飼うんでしょ、その猫」

 叔父は困った顔をして笑った。彼の猫への傾倒ぶりは、一年以上見ていればわかることだ。愛着がわいたというよりは、偏愛している感じ。今更、叔父が太郎を手放せるはずがない事を私は分かっていた。

「でも、俺に懐いてくれてるし」

「じゃあ飼ってあげようか?」

「じゃあ、って」

「太郎じゃなくて、直人兄を」

 叔父は呆れた顔をして私を見上げた。私は声を立てて笑った。くだらない新しい遊びだ。

 叔父を猫だと思ってみると、叔父が太郎を溺愛する理由も何となく分かった。自分を傷つける事はない上に自分を必要としてくれる、私とは正反対の猫。猫には人の感じる現実や人間社会の細々したルールも道徳も必要ない。社会に飲み込まれてゆく私とそれを持たない太郎とでは、叔父は太郎の方に近い存在だった。少なくとも私は、叔父の愛玩猫にはなれないのだ。

 私はふざけて、太郎にするみたいに叔父の頭を撫でたり、キャットフードを食べさせたりして遊んだ。叔父は半分呆れながら笑うだけで、怒る事はない。

「俺、本当に、猫だったらいいのにな」

 そんな事を真顔で呟いたりもした。


 夏休みも終わる頃、何とかいくつかの内定を貰えた。安堵や喜びよりも、いよいよ社会へと投げ出される日も近くなったのだという感じが私の肩に重苦しくのしかかってきた。それから奨学金返還の書類を作るために、久々に実家へと帰った。両親が口煩いのは相変わらずだった。

「あいつの小説は、まだ読んでんのか?」

 父は不意に思い出したようにそんな事を言った。

「最近は、読んでないけど。まだ送ってくるよ」

 私は嘘を吐いた。

「あれが小説家になれると思うか?」

「あのレベルじゃ無理だと思う」

 私は正直に言った。父はやっぱり自分の言う事は正しいのだとでもいいたいような得意顔になった。もし私が一言でも叔父の小説を褒めたのなら、きっと機嫌を悪くして「大学で国文を勉強した意味がない」とか「そんな甘い考えだからこんな時期まで内定もろくに取れなかったのだ」とか矛先が私に向かってくる事は簡単に予測できた。

「直人もねぇ、むきになって小説なんて書かなくてもいいのに」

 母が溜め息まじりに口を挟む。

「あんたはちゃんとした会社に就職決まって良かったわよね。特に、女の子なんだからね」

「どういう意味?」

「あぁ、子供だったから知らないのね。直人が仕事辞めた理由」

「小説書くためじゃないの?」

「そんなの後付けよ。働きたくないからそう言ってるんでしょ。だって、働いてた所でセクハラされまくってたから、辞めたのよ」

「セクハラって?」

「会社の女社長に気にいられちゃっててね。あの子気が弱いから言いなりになるしかないでしょ、ほら、あんたが子供の頃、直人がこの家に入り浸ってたのだって、一人暮らしだとその女が押しかけてくるからだったのよ。だから直人が他の人と結婚でもすれば、諦めてもらえると思って、こっちも色々努力したんだけどね。そうなる前に辞めちゃったから」

「あぁいう性格なのがいけないんだ。あいつが小説書くとか言い出したのも、仕事をしたくないからに決まってる。甘いんだよ考えが」

 父が苦々しくいつもの愚痴を言い始める。私は思わず笑ってしまった。

「笑い事じゃないわよ、ほんとに」

 呆れたように母が言う。矛先が私に移らないうちに私は家を出た。

 考えてみれば、何だかやっぱり可笑しかった。あの時、叔父は私を拒まなかったんじゃない。拒めなかったのだ。そういう性格なのだ。もしかしたら、叔父は小説を書く事を辞めようと何度となく考えていたのかもしれない。臆病ながらも、現実に戻るタイミングを探していたのかもしれない。そう思い返してみると、何故か本当に笑えてしまった。

 

 ……猫、はもう要らない。私の現実逃避はこれでおしまい。

 私は妙に浮き立った愉快な気分で、叔父の家に向かった。「ネコイラズ」は簡単にネットで手に入った。猫は要らない。でも私が消そうとしているのは、鼠なんかじゃない。自分が今まで引きずってきた自分の中の弱い部分、大人になって生きて行くには、自分の欠点を可愛がってる暇なんかない。

 夏の終る匂いが、沈む陽を浴びた垣根から漂って軽い足取りを撫でている。私は久々に手料理なんてものを拵えてみた。色褪せた重箱は、実家からこっそり拝借してきたものだ。料理の苦手な私の作れるものなんて、はじめから失敗作のようなもの。中身の心配なんて少しもせずに、歩いているからきっとぐちゃぐちゃになってしまっているだろう。だから、あえて、あの猫の餌用の容器に移しなおそう。叔父はいつものようにちゃんと食べるだろうか。私は二匹の猫のために結構奮発したんだから。





  



 




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― 新着の感想 ―
[一言] どうも、まったりさん作品拝読いたしました。文章いいですね! 叔父との近親ソウカンが下品じゃないエロスを感じました。感触を肉球に例える叔父、叔父の小説家らしい風変わりな様子が巧く表現されてい…
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