薬屋と汚れ役(上)
階段を上る。自分の部屋に行き、手ぬぐい、下着、それと巾着を出した。
ミズキの下着も私ので良いわよね? それと手ぬぐいは…… そうだ、この前買ったのがあるわ。
1階に降りて、作業場に置いてある新品の手ぬぐいを1本取った。
あの子に出会ったの、これを買った帰りだったわね。もう1週間前経つのね…… あっという間だわ。
擦り傷だけだから良かったものを。
今は服に隠れている膝の傷を思った。
作業場を突っ切って、店の表に出る。二人分の下着を巾着に入れた。
「ん、荷物よ。」
ミズキにか巾着と新品の手ぬぐいを、ぐいと突き出す。
「はい、はい。」
彼女はそれをかったるそうに受け取った。
机には私が書いた漢文の解説書があった。
読んでくれているようで、書いた身としては何よりね。小さく笑った。ミズキに見られたら恥ずかしいから、すぐに表情を戻したが。
ミズキに「行きましょう。」と言って、玄関へ向かう。
先に靴を履いて、戸を開ける。振り返えったら、ミズキは靴を履いている最中だった。どことなく、それが”昔の記憶”と重なった。
「靴べら、あるわよ。」
私は、できるだけ冷たく言った。
「あら、そうなの。」
「いるの? いらないの? 」
「履けたから大丈夫よ。」
ミズキは不機嫌そうに返した。
銭湯へは徒歩5分程度。ミズキはずっと私の半歩後ろを付いてきた。
「ここよ。」
私が止まる。
ミズキはその建物を、物も言わず、暫く見上げていた。
「ミズキ? 」
何かあったのかしら。ミズキに続いて、また人が落ちてくるの? 溜まったもんじゃないわね。今度はあなたが当たりなさいよ。
「ああ、ごめんなさい。思ってたより大きいわね。」
何だそんなこと。確かに、そこらの村とか街とかの銭湯よりは大きいだろう。
「そう。銭湯は使ったことあるのよね? 」
彼女にはここの常識が通用しないことが多すぎる。一応、確認しておかないと。
「無いわ。」
ああ……
「分かったわ。使い方も一緒に教えるわ。」
私は半ば呆れていた。
銭湯に行かないなんて…… この子、それなりの金持ちか、それとも相当貧乏だったのかしら?
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銭湯は俺が思っていた物より遥かに大きかった。旅館か何かかと思ったぐらいだ。図書館と言い、ここのスケールは大きすぎる。
それ以上に驚きなのは、入り口から見る限り、その銭湯の人口密度は俺が知る銭湯のそれとほぼ同等なのだ。もの凄い人数が利用してるってことになる。
建物に入ったら、まず受付を済ませた。一人5ケント(0.05ロッド)だそうだ。それから靴を下駄箱に入れる。木の札を抜くタイプの鍵だった。俺は女の子と同じ下駄箱に入れた。札の番号は”肆佰陸”だった。
女の子と一緒に……女子更衣室に行った。
さっきから心臓がバクバク鳴っている。
大丈夫……だよね? 捕まったりしないよね?
不安になって、スカートに手を突っ込んだ。大丈夫だった。とりあえず、俺は女ということで間違えないようだ。
「よし。」
意を決して服を脱いだ。
「早くしなさいよ。」
既に裸になっている女の子が、隣から冷たく言い放つ。
そういえば、裸を見るのは初めてだな。……当たり前か。
つい、隣にいた裸の彼女をまじまじと見てしまった。病的なまでに、というのが似つかわしい、真っ白な肌だった。どこまでが衣服の下だったのか分からないくらい、全体的に白い。
「な、なによ。ジロジロ見てないで、さっさと脱ぎなさいよ。」
女の子が赤面する。そんな表情もするんだな。思わず微笑みそうになった。
「ああ、ごめんなさい。」
軽く謝って、さっさと服を脱いだ。
服は彼女とロッカーのような物に入れた。彼女と同じ所である。その方が鍵を管理しやすいのだと。
鍵は女の子が預かってくれた。「あなたに預けたら不安で仕様が無いわ。」とのことらしい。案の定っちゃ案の定である。
さて、健全な男子諸君だったら、美少女と一緒に裸で風呂なんて最高だと思うだろ? でも、俺はこの体になってから、そういう物に興奮しなくなっているんだ。
見た目が幼くなったら、性欲に当たるものも幼くなったみたいだ。まだ男の裸をまじまじと見てはいないが、おそらく――性的な意味では――何も思わないだろう。
ま、あの女の子の妹として振る舞う文にはその方が都合は良い。
そんな風に思って、俺は気にしていない。
――女湯は人でごった返していた。当然だが、皆が皆、あの女の子がみたいな美少女ってわけではない。皆が美少女なら、美少女って言葉は生まれない。
そりゃまあ、赤ちゃんからヨボヨボの婆さんまで各種女性がいた。これだけの人が集まればそうなるだろう。
もしかしたら、婆さんは昔は美少女だったのかもしれない。赤ちゃんは美少女になるのかもしれない。しかし今はそんな面影はないし、美少女しかいない世界なんてありえないから……ね?
ま、男湯も同じだろうな。美少年だらけの男湯なんて、それはそれで気持ち悪い。
風呂から上がって、デカい畳敷きの部屋に行く。
「ミズキ、飲みたい物、ある? 」
その部屋には売店のようなところがあり、飲み物を販売していた。
「いや、特に。同じので良いよ。」
考えるのが面倒臭かった。
「そう、じゃあ、テキトウに選んじゃうわね。」
その時、女の子の後ろに一人の男が現れた。
年齢は60か70くらいだろうか。白人っぽいという前提を付ければ、どこにでもいそうなお爺さんである。シワの目立つ顔にはほうれい線がはっきりと出ている。人懐っこそうな顔をした、白髪の、やや小柄な男性だ。そんなによぼよぼでもない。
彼は女の子の方をポンポンと叩いた。
「あら…… そうだったわね。船が着いたってことは帰って来てるのよね。」
女の子は振り返り、その男を認めたようだった。
「”帰って”というよりは”寄って”のほうが正しいかな。部下がね、君がここに入って行くのを見た、と言うものでね。来てみたんだよ。」
「それはまた。」
「なーに、長く話すつもりはない。明日、あたりに行こうと思っていたのだがね…… また来てくれないかな? 」
「そうね…… ミズキ。」
え、突然、俺に話を振るの!?
「はい? 」
「後で、鍵、渡しちゃうから、先に帰っててちょうだい。道は分かるわよね? 」
「え…… ああ、うん、分かった。」
突然の展開すぎて、それしか言えなかった。
「という訳で、今晩行くわ。」
「うむ、了解した。いつも、迷惑をかけるな。」
お爺さんは人混みに巻かれて消えた。
女の子が小さくため息を吐いた。
「あの爺さんはいつもいつも唐突なのよ。」
独り言だろう。
「――ああ、ごめんなさい。じゃあ、テキトウに買ってくるわね。」
女の子は売店の方に行った。
家に帰る途中、女の子と別れる。口の中には、まだ、さっき飲んだ苺ミルクみたいな物の味が残っていた。
「じゃ、今晩は帰れないと思うから、鍵は閉めといて良いわよ。そうね…… 明日の辰の正刻(午前8時)ごろに帰るわ。」
女の子に鍵を渡された。
家に帰る。
当然、俺しかいない家は静かだ。
玄関に置いてあったランプに火を点ける。光が廊下の奥まで届かない所為で、廊下の奥だけが不気味な闇を漂わせた。
腹が鳴った。ああ、晩ご飯……食べてない。いまさら思ったって、後の祭りである。
女の子に何を食べて良いか、聞いておくべきだったなぁ。なんて後悔をしながら2階へ上がろうとする。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
一瞬ビクリとして、ドアの方を見る。ドンドンドンドンという差し迫るような音ではない。トントントン、トントントン、という感じの普通のノックである。
「あれー、いないかな―?」
聞き覚えのある男の声だった。
えーっと…… そう、イヴァンだ!
慌てて玄関に行き、ドアの除き穴から外を見る。俺の記憶にあるイヴァンと同一人物だった。
「どうかしました? 」
念の為、チェーンは掛けたまま、ドアを開けて聞いた。
「ああ、えーっと。」
「ミズキです。」
「ああ、そうそう、ミズキだ、ミズキだ。あいつはいないのか? 」
「明日には帰ってくるらしいですけど……」
「そうか…… じゃあ、また明日だな。」
イヴァンが言ったとき、また、腹が鳴った。
「夕飯、食ってないのか? 」
「……はい。」
「あの野郎…… 来い、俺もこれから食う所だった。」
チェーンを外し、ドアを開けて、外に出る。
「あんまり遅くなるのは困りますよ。」
「ああ、分かってる。」
ドアの鍵を閉めて、鍵を袖の中に入れる。
「――よし、じゃあ行くか。」
イヴァンが言った。