紅紫の図書館(壱)
またブックマークが増えてる! がんばりますよ!
女の子の家に帰って来た。始終腕を掴まれていた。ここまではただの仲のいい二人組みだ。傍から見れば実際そうなのだろう。
可愛らしい声で「逃さないからね♪」などと言われた。百合だろうか? GLだろうか? 断じてない。だって”(あなたのことは徹底的に働かせるから)逃さないからね。”という意味なのだろうから。
ホラーである。
ああ、そういえば、と玄関で彼女に聞く。
「おr——じゃなくて、私の名前は何てしたの? 確か名乗ってなかったはずだけど。」
「ああ”なつなしみずき”にしといたわ。言っとくけど、深い意味は無いわよ。名字は私のに合わせただけだし、名前はテキトウよ。」
そんな理由までは聞いてないんだけどな…… 態々《わざわざ》言われると、裏があるんじゃないかって思えちゃうんだけど。
「分かった。みずき、ね。で、漢字の方は? 」
なつなし…… 夏梨とでも書くのか? みずきは、水木、かな。
「へえ? 漢字は分かるんだ。スゴイスゴイ。」
おい、何で感心してるんだよ。分かるに決まってるだろ。そりゃ、常用漢字すべて書けるかわけじゃねえけど。というか、その棒読みはなんなんだよ。
「——”なつ”は季節の夏で、”なし”は無いっていう字よ。みずきは考えるのが面倒臭かったから仮名ね。」
「仮名………… ああ、平仮名。」
「はあ? 片仮名に決まってるでしょ! 平仮名にして欲しかったの? その辺は女の子なのね。」
「え、あ、いや…… そういうわけじゃないけど。」
責めるみたいに言わなくても良いじゃないかよ。その辺は女の子、つてどいうことだよ。
「そう。なら良いわよね。」
女の子は無関心に、半ば呟きのように、言った。
夏無ミズキ、ミズキ、ミズキ……ね。新たな名前を反芻した。
夏無ね…… 名字だけで個人を特定されそうな、聞いたことも無い名字だな。この辺だと一般的なのか?
にしても、”水木”じゃなくて”ミズキ”と来たか。せめて”みずき”の方が人名っぽいだろうに。
女の子に連れられて、1階にある”作業場”というところに来た。理科室に置いてありそうなデカい机が1基、それと薬品棚と思われる物がところ狭しと並んでいた。その数は理科準備室の倍以上はある。
「うわぁ……」
「何驚いてるのよ。とっとと説明しちゃうわよ。」
女の子は「これが1番から100番の棚で——」とか「あそこが通用口で——」とか言って、部屋のあちこちを指差した。
そして「そうそう、これ、一応、作業着ってことで。」と言って、俺に割烹着を渡してきた。「私のお下がりよ。ありがたく使いなさい。運が良かったわね、私が取って置いてて。」などという余計な言葉も付け添えて。
次の日、早速、俺は仕事場に出されてた。女の子曰く「今日は客が多いわよ。本当はあなたみたいなド素人、使いたくはないんだけど…… まあ、いないよりはましね。昨日の分は取り返してもらうから。」とのことである。
任された仕事は接客。「え、あなたにこっちの作業なんか任せられるわけないじゃない。」だそうで、調合の方はやらせてもらえなかった。
所謂コミュ障ってほどじゃないが、人と接するのはあまり好きじゃない。できれば内側の作業にして欲しかったと思う。とは言え技術・知識共に無いのだから致し方無い。
今は店の前を竹箒で掃いているところだ。なにせ店の目の前は砂が敷いてあるだけの道路だ。そこを大量に人間やら馬やら——何故か車は一台もいない——が行き交うのだから、砂埃が舞うこと舞うこと。お陰様で、ものの30分で店の前は砂まみれになってしまう。
ラッシュアワーなのかな? これが1日中じゃたまったもんじゃないぞ。
因みに、実は、まだ始業していない。営業前のお掃除を1時間以上やらされている。「掃除したってすぐ汚れるんだから、直前に一回やれば良いでしょ。」と言っても「この時間帯は特には人通りが多いから、掃除が大変なのよ。いくら開業前とは言っても、突然雨でも振られて店先がどろどろになってても問題でしょ。」と言って話を聞かない。
一見、客のことを考えてるみたいだけど、俺をこき使いたいだけじゃないのか?
そんな疑問が浮かんだ。
そもそも、彼女は何もしていない。ただ俺に指示を出しているだ。やはり嫌がらせにしか思えない。
そうそう、この薬屋は中世ヨーロッパをイメージしたファンタジーなんかで出てくるようなやつとはかなり違う。薄暗い店内に所狭しと怪しげな薬が並べられていて、店の奥にあるカウンターに店主が座っている、という光景とはかけ離れている。
調剤薬局というのが第一印象だった。家全体の構造としては、京町家という表現が一番語弊がないだろう。昭和初期の薬局ならこんな感じなのかな、という感じだ。
店に入ってすぐ、目の前にカウンターがある。代表的な物に関しては冊子になっているが、基本的にはカウンターで要件を伝えて調合してもらう、というシステムだ。西洋薬というより漢方薬のような物が多い気がする。薬品棚にも、いかにもな薬品より草とかキノコとかが多かった。
振り返れば、女の子がカウンターで頬杖を付いて暇そうに、俺の方を見ていた。最高に冷めた目線を送ってくる。
壁にかけられた時計は辰の正刻を指していた。8時だ。この女の子の趣味なのか何なのか、店の時計は”和時計”というやつである。文字盤には子丑寅……酉戌亥という十二支とそれぞれに干支に1〜4までの数字が振られている。1日を12等分して、更にそれを4等分しているのだ。30分刻みの時計ということになる。
時計の中には大量の歯車がひしめき合って、ゆっくりと規則的なリズムをチク……チク……と取っていた。
店は9時——巳の刻——になったら始業である。それまでは町の雑踏を眺めながら、ひたすら店の掃除をすることになるだろう。実に非生産的だ。
「ねえ、普段は、この時間はどうしてるの? 」
暇そうにしてるから訪ねてみた。
「掃除してるわよ。今日はあなたがやってくれてるから私は暇ね。」
へえ、普段もしてるんだ。本当か?
「手伝わないの? 」
すると彼女は即答した。
「何で手伝わないといけないのよ。」
こいつ……
「——あ、そうだ。」
突然、パンと手を鳴らすと、女の子は店の奥——作業場へと行った。
逃げたな……
——時計の鐘が鳴った。見れば、針が”巳”を指すところだった。
「さて、始めましょうか。」
女言葉に慣らすことも兼ねて呟いた。
まず、店の入り口である引き戸に”開業中”の札を掛ける。それから店に戻り、カウンターに座った。レジの代わりなのか算盤が置いてある。それとメモ用と思われる、紙と鉛筆があった。
客はすぐに来た。カウンターに付いてからまだ5分も経っていないと思う。
長身の、ひょろりとした男であった。年齢はいまいち分からない。麻のような材質の、黄褐色のマントを羽織っている。放浪者という言葉が似合いそうな雰囲気で、金はあるようには思えない。ポニーテールにした後ろ髪が印象的である。
「ん? 」
男は小さく声を漏らす。
一旦、その男は表に出て店の看板を見上げてから、また入ってきた。
「まあ良いか。」
また独り言? 俺に話しかけてるんじゃないよね? ちょっと怖いんだけど…… 何もされないことを願おう。
「おい、そこの。」
今度は人を招くように手を一振りした。
「私ですか? 」
ついに俺に話しかけてきたか。そう思いつつもできるだけ愛想良く言った。
その男は表情一つ変えずに「ああ、そうだ。」と言って、マントの中に手を入れる。
1枚の紙切れを出してきた。
「これを頼む。」
その紙切れをカウンターに置く。
「あ…… はい、かしこまりました。少々お待ち下さい。」
その紙を受け取ってカウンター裏のスペースに置いた。
それには、音は日本語であるが、意味が分からない文字列が並んでいた。例えば”オテズマデブブム”という文字列は発音できるだろうが意味が分からないだろう。そんな感じである。
とりあえず、あの女の子に渡せば良いかな。
「おーい。」
店の奥に向かって叫ぶ。
「どうしたのー? 」
奥から彼女の声がした。
「お客さん。」
「何がいるのー? 」
足音が近づいてくる。
「紙に書いてあるからそのまま渡したいんだけど。」
「分かった。今行く。」
そんな会話をする。
ガラ、と戸が開く音がする。女の子がカウンターの奥から顔を出した。その時、男の表情が少し変わった気がした。
「あら。」
女の子が驚いたような顔で驚いたような声を発した。
「知り合い? 」
まあ、そうなんだろうな。答えは予想できるけど聞いてみた。興味本位だ。
「ええ、そうよ。久しぶりね。いつぶりかしら? 」
「1ヶ月ぶり……になるな。こいつはどうしたんだ? お前、店を辞めたのかと思ったぞ。」
「昨日雇ったの。拾い物よ。」
女の子はぶっきらぼうに言う。おいおい、拾い物ってなんだよ。
「へえ、お前が? 珍しいこともあるんだな。それもまた随分と大きなものを。」
ああ、この男も…… だから、人を拾い物扱いするなって。
「ええそうね。気まぐれってやつかしら。名前が無いと不便でしょうから、ミズキ、としておいたわ。」
「ミズキ……ね。そういうことか。」
男が俺の方を見て、納得したように頷く。ん? その名前って訳有りなのか?
「ええ……まあ、そういうことね。」
女の子はその男にちらりと目配せをした。まるでこれ以上その話はするな、と言うように。