穏やかな日々(下)
今回は、若干、いつもより短いです。
爺さんに会った後、家に帰る途中、ふと視界に何かが写った。視界の隅の方、鳥や何かではない。なぜだかそれが凄く気になって、そちらに顔を向ける。
帽子の付いた外套を羽織った人間がいた。もうすぐ夏だというのに、とんでもない服装である。身長は私と同じくらい。いや、私より若干高いだろうか。やや俯いていて表情は見えにくい。帽子を被ってしまっているから、髪型も良く分からない。
そいつの格好は色々とおかしいのに、どういう訳かだれも気に留めない。私だけがそいつの存在を認知しているかのような錯覚を覚える。
そいつが私の方を向いた。
咄嗟に、体に力を入れる。何をされるか分からない。もしかしたら、突然、襲われるかもしれない。白昼堂々とそんなことをする奴なんていないだろうに、どうしてかその恐怖が拭えないのである。なぜそんなことを思わされるのか。その理由が何にせよ、今の私には重要ではない。
そいつが私の方に向かって歩いてくる。やはり顔は見えにくい。近づくと、そいつは透き通るような白い肌をしていることは分かる。まさか、とは思いつつも、私はそいつの一挙手一投足を慎重に観測する。何か起きてからじゃ遅いのだ。
……けれど、その警戒は尽く裏切られた。
そいつは私に何をするまでもなく、ただ私の脇をと通り抜け、そのまま人混みへと紛れ込んでいった。不思議なことに、なぜあんなにも目を惹きつけられたのか分からないくらい、そいつは人混みに溶け込んでいた。
私は首を傾げた後、こういうことは深く考えても意味が無い、と割り切って家に帰る。深入りしてもろくなことになる訳が無い。
「ただいまー、ミズキ、いるかしら?」と靴を脱ぎながら言う。反応は無かった。
イヴァンと一緒にどこかに行ったのかしら。まあ、あいつなら変なことはしないでしょうし。
ミズキが帰ってくるまでの間に荷物を纏めてしまうことにした。出発の前日でも良かったのだけれど、早い分には問題無い。
日が沈みそうな時間になる。ミズキ、遅いわね、と思い始めたくらいになって、ミズキは帰ってきた。
「あら、お帰りなさい。」
「ええ、ただいま。」
ミズキは靴を脱いだ後、しゃがんで靴を揃える。それ自体に何らおかしな点は無い。ただ、いつもなら私の方に背を向けて上がり框に踵を引っかけて靴を脱いで、つま先で適当に位置を調整しているのだ。なんだかミズキの様子がおかしい。妙におとなしい、というか、いつも以上によそよそしい。
「何かあったのかしら? 」
「何でもないわ。」
平坦に言葉を放ったミズキは、私の脇をぬるりと滑り抜け、階段を上がっていった。「分からねーよ……」、ミズキがそう呟いていた気がした。
翌朝、薄暗い寝室で目を覚ました。鳥の鳴き声はしない。代わりに空から落ちてきた雫が数里に渡る旅を終えて大地へと帰ってく音がそこら中でしていた。
昨日、あの後、ミズキはいつもの調子に戻っていた。彼女なりに何か考えることがあって、それにけじめが付いたのだろうか。そのけじめが良からぬ物で無いことを願いつつ、彼女の意志を尊重しようと決める。
水を汲んだり朝ご飯を作ったりしながら、ミズキを起こす。いつの間にか雨は土砂降りになっていて、庭の土に、絶え間なく、小さな穴を穿つ。軒先から地面まで、水の壁が出来上がっている。こんなにも雨が降る日も珍しい。
店から外を眺めていると、荷馬車が後方に水飛沫を上げながら走っていく。道を行く人の足取りは速く、しかし水が跳ねないようにゆっくりと歩く。
今日は、売上は望めなさそうね。
そんなことを思いつつ、ミズキに店番を任せて中に入る。例え隠れ蓑だったとしても、薬屋をする以上、薬屋としての使命は全うするというのが彼女の遺志であろうから。
……いや、本当にそうだろうか。これは私の、利己的な、独り善がりの、妄想にも等しい、思い込みともいえる、自らへの言い訳に過ぎないのではないのだろうか。
その問いに答えなど出るはずも無く、ただ時間だけが過ぎていく。
襖の向こうからはガタガタと、雨粒が屋根に当たる音が聞こえていた。
■■■
雨の道を淡々と歩く人影があった。ゴムを引き伸ばした黒い雨合羽を着て、黒い傘を差している。それは分厚い雲が日光を遮り薄暗くなった道に溶け込むようである。
その足取りは正確にリズムを刻み、迷うことなく道を進む。道行く人々の間をするするとすり抜ける。
――果たして、黒い人影たどり着いたのは図書館であった。
「なんの用だ?」
図書館の入り口、突き出た庇の下にイヴァンが立っていた。柱に寄り掛かるようにしている彼は、帯刀していた。
「ミコを確認しに来た。」
黒い雨合羽から、やや掠れた少女の声がする。アクセント以外に抑揚は無く、その子っと場に一切の感情は乗っていない。
「ここにはいない。確認したいなら直接行ったらどうだ?」
イヴァンが試すように言う。
「できるだけ本人達には干渉したくない。」
「俺に接触したら勘付かれるとは思わなかったのか? 結果として、それは、干渉することになんるじゃないのか?」
「あなたは北の国の諜報員。多少は、怪しい人間も接触しても、彼女達には怪しまれない。」
「なるほど。そこまで知られているのか。」
「要件はそれだけ。彼女達がミコだって分かれば良い。」
黒い雨合羽は、それだけ言うと、すぐさまイヴァンに踵を返し、雨が作り出した灰色にも近い霞の中に消えていった。
イヴァンはそれが消えた方向を見つめていた。
司書室に戻ったイヴァンは、部下の一人を呼びつけた。
「始まりの島から接触があった。本国へ伝えてくれ。」
「承知致しました。」
そう言って、部下は下がる。
「彼女『達』ね……。」
イヴァンはぽつりとつぶやいて、積みあがった書類の処理へと取り掛かった。